第十九話
今回はレルフィムの過去編です。
第十九話
私は望まれない存在としてこの世に生を受けた。
高いだけで手が届かない空。いつも這うようにして生活する大地。空気は汚れていて、まともに吸うと頭がくらくらした。
そんな中をぼろ布をまとって私達は生きていた。
生きていくための糧には困らない。ただ、毎日に生き甲斐もなく、生と死の狭間をさまよっているような毎日だった。
私はどんな目をしていたのだろう。濁った泥水のような目、という喩えで済めばいいものだろう。
生きるのが苦しかった。死ねるものなら死んでしまいたいとすら思った。
けれども、私は死ぬのが怖かった。だからいつまでも生きる目的もなく、ただひたすらに生き続けていた。
そんなときだった。彼女に出会ったのは……。
雨が降っていた。冷たい雨だった。
薄いボロ布には厳しすぎる水滴。私は体を縮こませながらガレキの廃墟の下で、体を抱きしめて震えていた。
周りには似たような境遇の仲間達が黙って火を焚いている。だが、私はそこに行くこともせず、何かをぼんやりと見つめながら座っていた。
声をかけようとする者はいない。ここでは誰が死んで、誰が仲間に加わろうと関心はないのだ。
そのときだった。私の前に彼女が立ったのは。
同じようなボロ布を身にまとい、その端からぽつぽつと水滴を滴らせている。
腰まで届く、綺麗な銀色の髪が水の滴に濡れてキラキラと光っている。
目の前に立つ少女は私に尋ねた。
「と、隣、座ってもいい?」
私には断る理由もなかった。こくりと首を縦に振る。
彼女は遠慮もなく私の隣に座ると、ほっと一息吐いた。
「あ、雨の中走ってよかった……あ、あなたの名前は?」
「……名前なんてないわ。名付けられる前に捨てられた」
私はぶっきらぼうに答える。それは事実だった。
捨てるくらいなら、名前など最初から付けはしない。それを聞いて少女はすまなそうな表情を浮かべる。
「ご、ごめんなさい……」
そのままくしゃりと顔を歪めて、顔に両手を当てて肩を震わせる。
「ちょ、ちょっと泣かないでよ……私が気分悪いじゃない……」
「だって……だって……ごめんなさい、ごめんなさい……」
少女はひたすら謝り続ける。私は少し居心地が悪くなったが、立ち上がりもせずにそのまま彼女が泣き止むのを待った。
「……ぐすっ」
「ようやく泣き止んだかしら?」
「ごめんなさい……」
水を吸ってすっかり固くなった服の袖で彼女は涙を拭う。
「もういいわよ。そういうあなたの名前は?」
「私は……クラウディア」
少女は自分の名前をクラウディアと名乗った。
「そう、いい名前ね」
私はぶっきらぼうにそう答えた。尋ねはしたが、彼女の名前なんて興味はなかった。
「えへへ、ありがとう」
けれども、少女は私の方を向いて笑って礼を言う。その表情に嘘はないように思えた。
「へくしゅん!」
少女は大きなくしゃみをする。服がぐしょ濡れなのだ。寒くて当然である。
私はため息をつくと、立ち上がって火を焚いている彼らの元へ向かい、燃え盛る焚火の中から一本薪を失敬し、代わりに汚れたコインを投げる。彼らは黙ってコインを受け取ると、そのまま再び焚火を見つめる。
私は穴の空いたバケツを持ってくると中に乾いた木材を放り込み、燃え盛る薪を突っ込む。炎の勢いが少し強くなり、少しだけ温かくなる。
「わぁ……」
クラウディアという少女は表情を輝かせながら火を見つめる。私は黙って彼女の隣に座り直すと、彼女と同じように焚火を見つめる。
「あったかい……」
「……」
なぜ、私はこんな面倒事を抱え込んでしまったのだろうか。貴重なお金を支払ってまで、彼女のために火を用意してやったのだろうか。自分でも自分の行動を理解できなかったが、不思議と悪い気分はしなかった。
「あ、そうだ!」
少女はごそごそとポケットを探ると、中から何かを取り出した。
「食べる?」
彼女が取り出したそれは、こちらの世界では嗜好品として扱われている食べ物だった。
食べなくとも、人間が出す感情を吸っていれば生きていることができる私達にとって、食べるものとは贅沢品だったのだ。
彼女の手にあるのは紙に包まれた飴玉。お菓子なんて生まれてこの方一度も食べたことなかった。
けれども、私は首を横に振る。
「あなたのものよ。あなたが食べなさい」
「ううん。火のお礼だよ」
「別に礼が欲しくてしたんじゃないわ」
本当のことを言えば、喉から手が出るほどそれが欲しかった。食べるなんて行為、一体何カ月していなかっただろうか。未だにきちんと味覚が機能しているか確証はなかったし、そもそも味覚というものはどんな感覚か思い出すことすらできなかった。
けれども、それを受け取ってしまったら最後、とことん彼女の面倒を見なくてはならないような気がした。
クラウディアは残念そうにうつむくと、それを再びポケットにしまった。
「あなたがいらないなら、私も食べない」
私はそんな彼女の行動が理解できなかった。そして呆れもした。
「……あなたバカ? 自分のものを何の代償もなしに人にあげるなんて、どうかしてるわ」
彼女は不思議そうな表情を浮かべて私を見つめる。
「そう……? だって、嬉しいことは分かち合いたいもん」
無垢な笑顔で彼女はそう言った。私にはその言葉の意味が理解できなかった。
「はぁ……? 分かち合ったら半分になるじゃない。一人で楽しめば二倍なのよ?」
「二人が嬉しかったらやっぱり二倍嬉しいよ。それに、嬉しそうな人の顔を見て三倍嬉しいでしょ?」
人のことなど考えたこともなかった私にはまったくわけがわからなかった。けれども、それを彼女は当然のことでも言うように言っている。それを聞いていると、まるで自分がおかしいのではないかというような印象さえ受けた。
私は頭を抱え込む。おかしいのは彼女なのか、それとも私なのか。
クラウディアは鼻歌を歌いながら焚火を木の棒でつっ突き回す。
「あ、そうだ!」
少女は何かを思いついたのか、私の方に向き直る。
「あなたの名前、私が決めてあげる!」
「はぁ……?」
「うーんと……えーと……」
彼女は困惑する私にも構わず、一人でうんうんと悩み始める。
「そうだ! レルフィム! レルフィムにしよう!」
「……念のため尋ねておくけど、なんで?」
彼女は少しの間悩んでいたが、やがてにっこりと笑って答える。
「なんとなく!」
それからの毎日は、今までよりも賑やかなものになった。
彼女に誘われるままに様々な場所に引っ張り回され、下らないことをして遊び、時には失敗して、あるときは成功して思いがけないものを手に入れたり、少しだけ張りのある生活を送るようになった。
天気がいい日はスラムから遠く離れた郊外まで出かけて川で遊んだり、雨の日はガレキの下で焚火を見つめながら語り合う。曇り空の日はあまり遠くまで出ないでスラムの中を掘り出し物を求めてさまよったり、霧が出た日にはこれ好都合と市民街まで出て盗みを働いたりもした。
少しずつ毎日が楽しくなって、少しずつ毎日が豊かになって、相変わらず服はボロ布のままだけれども、私は以前と比べ物にならないほど充実した毎日を送るようになっていた。
けれども、そんな日々は続かなかった。
終わりは唐突に訪れる。
その日はしとしとと雨が降っていた。空は暗く曇り、時折稲光で明るく輝く。
偉大なる太陽も、小さな星々も、すべてを映し出す月も顔を見せはしない。
ただ、天から降り落ちるものは神々の涙のみで、私は体を濡らしながらそれを仰ぎ見る。
私は転がったバケツにたまった水をすくい上げ、それを一気に飲み干す。このスラム街に水道なんてものはない。久しぶりに喉の乾きを癒す水を流し込んで、私は命を吹き返したよう感じる。
「ふぅ……」
口の中に泥の苦みが残る。だが慣れたもので、しばらくすればそれも消え失せる。
「レルフィム、出てきちゃダメだよ!」
私の姿を見つけたクラウディアはすぐさま走り寄る。
「少し、喉が乾いたの……」
「言ってくれれば持っていったのに……」
軽いめまいが私を襲う。彼女に肩を抱かれて、私はしぶしぶガレキの廃墟の奥へと戻される。
そこには少しでも寝やすいようにとこしらえられた、ボロ布を積み上げたベッドと、穴だらけの毛布があった。
「病人は寝てなきゃダメ!」
「悪かったわ……」
私は彼女に言われた通り、寝床に戻る。体を横たえた瞬間、吐き気がするほどの倦怠感が体を包み込む。
私はガラにもなく、風邪をひいていた。
クラウディアが水を浸した布を額に当ててくれる。ひんやりとした感触がとても気持ちいい。
「ねえクラウディ。あなたは神様って信じる?」
「神様……?」
「苦しい生活の中にあっても、どんなに酷い暮らしをしていても、万人を隔てることなく助けてくれる存在。そんな存在があったらいいなって、たまに思うのよね」
私は腕を伸ばす。まるで見えない神の手を掴もうとしているかのように。だが、それは虚しく空を切り、やがて力なく落ちる。
「こうやって苦しいとき、ふとそんなことを考えてしまうのよね。そんなものはいない、なんてことはわかりきってるのにね」
私は嘲う。こんな人間以下の暮らしをしているような家畜に神などいない。いや、彼らを守り育てる主もいない時点で、家畜以下の存在ではないだろうか。
「私、神様を探しに行く! レルフィムのことを助けてくれるようにお願いしてくる!」
そういうと彼女は立ち上がり、雨の中どこかへと駆けていく。
私はそれを止めようと体を起こすが、襲い来る倦怠感に勝てずにそのままベッドの中へと沈み込む。
「ふぅ……」
しばらく放っておけば帰ってくるだろう。私はそう思ってそのまま睡魔に身を任せる。
一体、どれだけの間そうしていただろうか。
私はうっすらと目を開く。大地を打つ雨の音は聞こえない。
いくらか体の調子もよくなったようで、私はベッドから起き上がると外へ出る。
空は綺麗に晴れ渡っていた。東の方から日が姿を覗かせている。
結局一日眠ってしまったのだろう。それほどまでに体が休むことを必要としていたことに私は驚く。
再び私はベッドの方へと戻る。そういえばクラウディアはどこに行ったのだろうかと、私は辺りを見回す。
すると、枕元に何か小袋が置いてあるのに気が付いた。
私はそれを手に取ってみる。中には小さな瓶が入っていて、風邪薬と書いてあった。
自然と微笑みが浮かぶ。私は世話を焼いてくれる少女のことを思いながら瓶の中の錠剤を口に含んで嚥下する。
きっと、これを手に入れるのに彼女は相当苦労しただろう。薬なんてものはこんな乞食が手に入れられるものではない。
今に笑いながら彼女が訪れるだろう。そう思いながら辺りを見回す。
しかし、それはいつまで経っても訪れることはなかった。
「クラウディ?」
私は彼女の名を呼びながら部屋を出る。
水たまりに足を突っ込んで、泥水が服に跳ねる。けれども私はそんなことを気にも留めず、スラム街の中を駆ける。
「どこ? クラウディ、どこなの!?」
いつでもどこでも後についてきて、にっこり笑ってなんでもしてくれた可愛い女の子。気付かない間に私の胸を占め、大事な存在となっていた可憐な少女。
「げほ、げほっ!」
これ以上走るなと体が悲鳴を上げる。だが、それにも構わず私は走り、そして叫び続ける。
「クラウディア! 返事をしなさい! クラウディアーッ!」
そのとき、靴音が響く。
こつり、という堅い地面を踏み占める音。
目の前にはローブをまとった少年と、もう一人ローブをまとった少女がいた。
「……」
彼女は何も言わない。だが、口だけは動く。
ごめんね――。
四度だけ、唇が動いて……少年は踵を返す。それに付き従うように少女は歩いていく。
「待って……!」
私は手を伸ばす。だがそれは彼女へ届くことなく……。
「クラウディアああああぁぁぁー!」
少年と少女は雑踏に消えていく。そこはスラム街から市民街へと出る通り。すぐに二人の姿は見えなくなった。
「どうして……なんで……」
レンガ敷きの道路に涙が染み込む。
「うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
乾いた絶叫が裏通りに木霊した。
雨が降っていた。
晴れたと思っていた空はすぐに暗く曇り、そして空気はどんよりと湿り、重くなって雨粒となり、降り注いだ。
絶望に打ちひしがれた私の体を冷やすには十分なものだった。
「げほっこほっ!」
風邪はますます酷くなり、全身を酷い倦怠感が襲った。
やがて、私はその場に横たわる。堅い地面が冷たかった。
このまま放っておけば、私は死んでしまうだろう。だが、彼女がいないのならば、それもいいだろうと思った。
私はそのまま目を瞑る。
徐々に手足の感覚が痺れていくのを感じる。これが『死』というものだろうか。
思ったよりも、恐ろしいものではないな、と私は思う。
そのまま死に全てを委ねるように、私は目を瞑った。
暖かい。
死んだ後の世界というものはなんて死者に対して優しいものなのだろうか。
こんなにも気持ちのいいものなら、死ぬのも悪くない。
ほのかなスープの匂いが漂ってくる。死後の世界では死者に暖かいスープを振る舞うのが習慣なのだろうか。
そこでようやく頭がはっきりしてくる。死者をスープでもてなす死神がどこにいるだろうか。
私はゆっくりと目蓋を開く。
柔らかい光を放つ焚火。コトコトと音を鳴らしながらいい香りのスープを温める鍋。怪しげな道具。本棚に並ぶ無数の本。
天井があるということはどこかの家か、あるいは小屋だろうか。
視界の端にようやく人の姿を見つける。いかつい顔をした老人だった。
「起きたか」
老人は私が目覚めたことに気付くと、鍋を火から下す。
それを木のお碗によそうと、木のスプーンと一緒に私へ差し出してきた。
「飲め」
私はそれを受け取って、一匙すくうと口に運んだ。
ほと、涙がこぼれ落ちた。これほどまでに美味しいものは今まで一度も食べたことがなかった。
私は無我夢中になってそれを飲む。泣きながら飲んだスープは優しい味がした。
何度もお代わりをして、ようやくお腹が膨れる。
「風邪を治したらとっとと出ていけ。ベッドが占領されてかなわん」
老人はそう言うと、不思議な道具を弄り始める。
「あなたは……?」
「……シグマ研究者の端くれだ」
短くそう言うと、老人は相変わらず薬を混ぜ合わせたり、何かを計測したりと忙しい。
「何してるの?」
「……お前のために風邪薬を調合してやってるんだ。いちいち口出しするな」
私は老人にキッと睨まれて口をつぐむ。
仕方がないので、私は周りにある道具などを眺める。
天井からは何に使うのかよくわからない道具がぶら下がり、壁には無数の文字が刻まれた紙が貼られている。文字の読めない私にはなんと書いてあるのかわからない。
すぐにすることがなくなる。黙っていろと言われたが、私は老人に尋ねた。
「どうして私を助けてくれたの?」
「……さあな。俺にもわからん」
老人は短く言うと、やがて小さな瓶を差し出してくる。
「こいつを飲んで寝ていろ。二、三日でよくなるはずだ」
私はそれを受け取り、一気に飲み干した。とても苦くて、吐き出しそうだった。
老人は薬の調合を終えると、今度は書棚にある本を取り出し、読み始めた。
「何を読んでいるの?」
「……病気の治療法に関する本だ。さっさとお前を追い出さなければ俺が迷惑するからな」
ぱらぱらとめくりながら、それをしかめ面して読む老人は何かとても恐ろしいもののように感じた。私は毛布を頭まで被って目を瞑る。
すると、すぐに眠気がやってくる。私はそれに任せて眠りに落ちていった。
目を覚ますと老人はいなかった。
私はベッドから起き上がると、不思議な道具に手を出してみる。
「触れるな」
すると、すぐに厳しい声が飛んでくる。
老人は屋根裏から降りてきて、私のそばの椅子に腰かけた。
そして大きな紙を広げると、それとにらめっこを始める。
「どうしたの?」
「……お前に話してもわかるまい」
老人はしばらくの間紙を睨み付けていたが、やがてため息をつくと、グラスに発泡酒を注いであおった。
私は横に並んでそれを眺める。
その紙には月と太陽、木、火、土、金、水が描かれていた。ほかにも細かい文字がびっしりと刻まれている。
「これ何?」
「……発動式だ。不完全だがな」
「はつどうしき……?」
「シグマを発動する際に、エネルギーを通す式だ。この式に感情の力を流し込み、変化させて現象を引き起こすのがシグマだ。この式はいわば、エネルギーを変換する方程式だな」
彼の言葉の意味がまったくわからなかったが、それはシグマを扱うのに必要なものだということはわかった。
「だが、まだ足りない。俺の理論では完全なる結晶を生み出すシグマを作れるはずなのだ。クソッ!」
老人は机を思い切り蹴った。ガラスの小瓶が音を立てて倒れる。
私はその紙を眺めた。老人の言葉の意味は理解できなかったが、この図はなんとなく意味がわかる。
「……月と太陽が大事なんだよね?」
「お前に何がわかる……?」
私はその図にいくつかの記号を書き込む。
足りないものはわかる。これは不完全なものを完全なものにするための式だ。木や火、土などは不完全な要素、月と太陽は完全なものを表すシンボルだ。
記憶の奥底に何かがあった。それを元に、この図に足りないものを書き足す。
全てを巻き込み、一なる全を意味する存在。あれはなんと言ったか。黒くて丸い、竜のようなものである。
「な、まさか……」
老人は私から筆ペンを奪うと、続きを書き始める。
「お、おお……これは……」
いろいろな文字を書き込み、線や図形を書き足せばそれは完成である。
「マピルタメリア……あとはこれさえ手に入れれば……!」
そう言うと、老人はその紙を掴んで部屋の外へと駆け出していった。
「マピル……タメリア……」
私は彼の言葉を繰り返す。私はそれが何か知っている。第一の物質と呼ばれる、その道のシグマには必須で、なおかつ入手困難な物体。
世界のこぼした涙を集めたものと言われていて、私も一度だけ目にしたことがある。
かつてシグマの研究家であった父がそれを手に入れたと騒いでいたのを目にしたことがある。最も、それが家族の離散する原因となった忌むべき存在でもある。あまりにも高価なそれを手に入れるために、父は全てをなくしたのだ。
あの老人はそれを手に入れることができるだろうか。いや、きっと無理だろう。それは私の父が全てを売り払っても手に余るものだった。金を借りた相手が最悪で、父は恐らく死ぬまでこき扱われるだろう。
「クソ……」
老人はすぐに戻ってきた。マピルタメリアの高価さを思い出して冷静になったのだろう。それは一介のシグマ研究家に手に入れられるようなものではない。
「これさえ手に入れれば……。だが、この発動式を売れば……」
老人は自らが手掛け、そして私が少しだけ付け足した発動式を眺める。
「いや、これは俺が……俺が作るんだ……」
老人は紙をぎゅっと抱きしめる。そして、私の方に向き直る。
「お前、名前は……?」
「私はレルフィム」
「そうか。帰る家は?」
私は首を横に振った。
「……ならば、ここに住む気はないか? あの発動式の意味を読み取り、そして俺すら気付かなかった発想をしたお前ならば、きっと素晴らしいシグマ研究家になれる」
……私はその質問に対し、首を縦に振った。
「ふう……」
レルフィムは自分の上に降り積もったガレキを崩す。
相変わらず、世界は彼女の黒い薔薇とノエルの半月が全てを支配していた。
黒薔薇は崩れたビルを覆い始め、それもまた庭園の一部へと変えようとしていた。
「それは困るのよねぇ」
彼女は指を鳴らす。ガレキの山を覆い尽くそうとしていた茨が青く燃え上がる。
「さて……と……」
レルフィムを黒い魔法陣が取り囲む。それは辺りに降り積もっていたガレキの山を一瞬で吹き飛ばす。
「まったく、昔から無茶するのは変わっていないんだから……」
レルフィムはガレキの山の中から少女を見つけ出す。彼女はまだ気を失ったままだった。
彼女はクラウディアの傍に腰を下すと、思い出を一つずつ、言葉にして綴る。
「あなたと食べた飴玉、とても美味しかったわ。今まで食べた何よりも、とは言わないけれど、けれども甘くて、飢えてた私の渇きを癒すには十分なものだったわ。それに、一緒に駆けずり回った雨の下。あれもとても楽しかったわ」
レルフィムの透明な瞳から涙がこぼれ落ちる。
「あなたを探すために強くなった。そのためには血反吐も吐いたし、死ぬような怪我だって何度もしたわ。同族を何度も殺したし、人間だって手にかけた。それも、あなたを探すためだった。いつになったら見つかるのかわからなかったけど、それでも私は探し続けた。そして今日、ようやくあなたを見つけた。私はもう、あなたを離しはしないわ」
レルフィムはクラウディアの体を抱き寄せる。その体は冷たかったが、彼女はそれをとても心地よいと思った。
一体彼女はどれだけの時間をそうして過ごしていただろうか。
レルフィムはクラウディアの頭を膝の上に乗せ、彼女の頭を撫でていた。
「ん……」
やがてクラウディアは目を覚ます。ゆっくりと青い瞳を開いていく。
「目は覚めたかしら?」
レルフィムはクラウディアの額に手を当てる。
「な……!」
「あなたが体調を壊したとき、よくこうしていたわよね」
「知らな……ああッ!」
少女は体を折り曲げる。
「あなたが苦しんでいるのは知っている。けれども、あなたはこのままではいけない」
「あ、やめ……ッ!」
「思い出して。私と過ごした日々を……」
レルフィムはクラウディアの額に小さな魔法陣を刻み込む。それは失われた人格を取り戻すルーン。彼女を育てた親とも言える者から教わった、人を助けるためのシグマ。
「ロメミィ」
魔法陣が白い光を放つ。やがてそれは少女の全身をも包み込むほどのまばゆい光となる。
「あ、あああ……あああああッ!」
「さあ、思い出して。優しかった本当のあなたを……」
それは一際強い光を放ち、やがて少しずつ弱くなっていく。
「……はぁ……はぁ……」
少女の息は絶え絶えで、とても苦しそうである。レルフィムは彼女の額に浮かぶ汗を拭ってやる。
「……れ、レルフィム……?」
「おはよう、私のクラウディ。目覚めはよくって?」
いよいよお話も終わりに近づいています。続く!