第十四話
今回は割とシリアスな展開です。
第十四話
今日は土曜日。学校は半日の授業で終わりだ。
僕はうつらうつらとしながら教室の窓から校庭を眺める。授業中の校庭には誰もいない。
昨日はアリシアと契約を交わした。僕はまたアリシアのリトマスとなったのだ。それをとても嬉しく思う。
その後、久しぶりに長いこと話をした。あまりに話しこんでいたため、気付くと午前3時となっていた。
僕達はその後、どういうわけか一緒の布団で眠ることにした。彼女が僕の布団で寝たいと言い張ったのだ。
だが、そんな状況で落ち着いて眠れるわけがなく、結果として一睡もできぬまま朝を迎えてしまったわけだ。
そういうわけで、僕は今たまらなく眠い。まぶたがくっついた瞬間に眠りに落ちそうなほど眠い。できることなら、まぶたの上と下が結婚するのを妨げたくないが、数学の先生は生徒に居眠りを許すほど甘くない。
「そこの眠そうにしてる坂下。この問題を前に出て解いてみろ」
案の定、指名される。僕はあくびを噛み殺しながら教壇の前に立つ。
チョークを手に取り、答えを記述する。
「チッ」
数学の先生はここまで聞こえてくる舌打ちをする。この程度の問題を解けない僕ではない。
「次、アリシア。これを解いてみせろ」
今度はフェルマーの小定理を黒板に書きはじめる先生。アリシアは面倒くさそうにため息をつきながら黒板の前に立つ。
こうなると少し長そうだな、と思い僕は再び校庭の方を眺める。
僕は今こんなにも幸せだ。アリシアと一緒の生活がとても楽しいし、今ではあんなふうに肌が接触するほどの距離でともに過ごしたり……こんなにも幸せでよいのだろうかと思えてしまう。
たしかにレルフィムと同居していたり、トモミの背中に感じる哀愁がなんとも言えなかったりと、いろいろと大変なことはある。それでも僕は今の生活を続けていきたいし、このままの毎日が続けばいいなと思っている。
視界の端で先生の顔が歪んでいるのが見える。アリシアが凄いスピードでチョークを動かしている。やはりアリシアにはその程度の問題は簡単なのだろうか。
僕は再び視線を外に向けた。
アリシアとレルフィムは出かけると言って校門のところで別れた。
僕はトモミとリオナ、コウの三人と一緒に帰る。
「今日もアリシアちゃん凄かったよね」
「あんな数式よく解けんな……」
「アリシアは勉強バカね。逆に言うとあんなことしか取り柄がないね」
リオナは手厳しい様子でそう説明する。僕達はそれを聞いて笑った。
こうして雑談しながら歩いているうちに別れ道までやってきてしまった。僕達は手を振り合って別れる。
一人だけの帰り道になるとなんだか少し寂しい気分になった。さっさと家に帰ってテレビでも見ようと思い、足を速めた。
最近アリシアの気分がわかったような気がする。確かにあの美食ツアーは面白い。最近はよく一緒になってアリシアと見ている。
昨日の回は料理中で見られなかったので、アリシアが帰ってくる前に見てしまいたい。
近道の公園の中を通り抜けて僕の家へと向かう。
と、そこで僕の家の異変に気付いた。
家の前に何か大きなゴミが転がっている。一体誰が捨てたのだろうか。
僕は憤慨しながらそのゴミに近づいていく。だが、近くで見るとただのゴミではないようだ。
なんと、手と足と頭が生えているではないか。マネキンか何かだろうか。
僕はうつ伏せになって倒れているそれの向きを変えた。
「……」
思わず見惚れてしまった。白い肌は陶磁器のように薄く透き通っている。整った顔は西洋人形のように美しい。長い亜麻色の髪はさらさらで、作り物とは思えなかった。
「って、これは人形じゃなくて人だ!」
僕は軽く肩を叩いてみる。ゆっくりとその女性は目を開いた。
「あ、あの……」
「ど、どうしたんですか?」
その倒れていた女性はゆっくりと手を伸ばす。そして、きゅう~という可愛らしい音が鳴った。
「な、何か食べ物を……」
そしてそのままがくりと意識を失った。
「あのあのあの、その、何とお礼を言っていいか……」
五杯目になるご飯を食べながらその女性はお礼を言う。それにしてもよく食べるものである。
「大したものじゃないけど、どうぞ」
彼女が差し出した茶碗に六杯目になるご飯をよそう。
「いえ、これはとても素晴らしいです。こんなに美味しいご飯を食べたのは何日ぶりでしょうか!」
長いその亜麻色の髪は外国人のものだろうか。それとも、またユジューだろうか。
ようやく気が済んだのか、彼女は箸を置くと頭を下げる。
「ありがとうございました、ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
僕は彼女が使った食器の類を片付ける。
「私の名前はベアトリクスです。以後お見知りおきを」
「あ、僕は坂下ユウタロウ。よろしく」
その頃、ちょうどレルフィムが帰ってきた。
「ただいま。誰かいるのかしら?」
「おかえり。あれ、アリシアは?」
「アリシアはスーパーに行ったわ。で、その女は誰?」
「この人はベアトリクス。僕の家の前で……」
「ああーッ! あなたはッ!」
突然、ベアトリクスが大きな声を上げてレルフィムを指さす。
「指名手配のカードのレルフィム! 今すぐ討伐させてもらいます!」
「え、ちょっと……!」
その女性を中心に光の陣が広がる。それは僕達を包み込み、異なる世界へと連れていく。
輝きが収まり、うっすらと目を開く。目の前には荘厳な神殿があった。
「え、やっぱりユジュー……?」
僕は剣を構えるベアトリクスを見てぼそりと呟く。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
「問答無用です! 神器エクスリブルカ!」
黄金に輝く剣が抜き放たれる。それはまさにその名の通りの神々しい光を放つ。
「チッ、面倒ね!」
レルフィムも剣を手に取る。
「聖なる裁きを受けなさい!」
ベアトリクスは大きく剣を振り抜く。その瞬間、剣の切っ先に光の柱が現れた。それはまっすぐにレルフィムへと伸びていく。
「え、ちょっと!」
レルフィムは大きく横に飛んでなんとか回避する。彼女の後ろにあった天使の石像が粉々に砕け散る。
「な、なんなのよ、一体!」
レルフィムはムーティエンを取り出すと、大きく振った。
ベアトリクスも剣を身構える。
「これは神器エクスリブルカ。異界の聖地アヴァロンより持ち帰った技術を用いて作られた聖なる剣です。振れば光が轟き、かざせばあらゆる攻撃を弾く。鞘は持ち主をあらゆる災厄から守り、柄は握る者に無限の勇気と力を与える。確かにムーティエンも優れた武器ですが、妖精の加護を得た聖剣には到底かないませんよ」
「それはやってみなきゃわからないじゃないッ!」
レルフィムの動きが加速する。一瞬で距離を詰めるとソルバブ・ドルヲスを叩きつけた。
「無駄です」
彼女の言葉通り、かざすだけで見えない壁が出現する。レルフィムの攻撃は見えない壁に遮られて受け止められる。
「く、なんなのコレはッ!」
レルフィムは大きく後ろに下がると、空いている左手を前に突き出した。
「センラ!」
彼女の手を覆うように丸く黒い陣が現れる。それはしばらくの間くるくると回っていたが、一瞬小さくなると黒い槍を撃ち出した。
だが、やはり見えない壁に突き刺さって止まる。
「その程度ですか?」
ベアトリクスはエクスリブルカを大きく振った。閃光が伸び、周りの神像を根ごそぎ破壊する。
「危ない危ない危ない!」
僕は地面に伏せて頭を抱える。その上を光の剣が通り過ぎていく。
レルフィムは空を飛んでかわしたようだ。羽を大きく動かし、剣を飛ばす。
「その程度の攻撃!」
またしても神器をかざして攻撃を弾く。剣が次々と撃ち落とされていく。
「いつまでそうしていられるかしら?」
レルフィムは剣を飛ばすことを止めない。そのとき、ベアトリクスの表情に曇りが浮かぶ。
「まさか……気付いたというのですか!?」
今まで不動の体制で剣を掲げていたベアトリクスはいきなり剣を振った。それを少し体を反らしてレルフィムは回避する。
「やっぱりね……その防御、無限ってわけじゃないみたいね」
彼女はそのまま一気にベアトリクスとの距離を詰める。そしてムーティエンで薙ぎ払った。
「ッ!」
ついに剣がベアトリクスの元へと届く。彼女はエクスリブルカで受け止める。
「私の攻撃はこれだけじゃないわ!」
エクスリブルカに弾かれて転がっていた剣がカタカタと音を立てて震える。
「さあ! これでどう!」
それは自然に起き上がり、ベアトリクスの方へと向いて飛び出し、空中で止まる。
「あなたが降参すれば命までは奪わないわ」
ベアトリクスの顔から表情が消える。
「あなたは勘違いしています」
「え?」
「ユジュー界最高機関のメセブリィ議長の力はこの神器が全てだと思っているのですか?」
「ッ!?」
レルフィムは翼を大きく動かして後ろに飛んだ。そこにいた彼女を空間ごとえぐるように光が集まる。
「神器だけで議長になれるならば、誰でも議長になれます。確かに人脈や人望は必要でしょう。けれども、それだけでは議長にはなれません」
七つの光の珠が彼女の周りを漂う。
「力なき者に誰が付いていくというのですか? たとえ口がどんなに達者でも力なき者には何もできません」
光の珠はくるくるとベアトリクスの周りを回る。それは少しずつ減速していき、やがてその動きを止める。
「悪しき存在に引導を渡す聖なる断罪者、それが私ベアトリクスです」
ベアトリクスは片手をまっすぐにレルフィムの方へと向ける。光の珠はその手の掲げるままに飛んでいき、レルフィムへと襲いかかる。
「まだこっちにはこれがあるのよ!」
一度は起き上がり、そして再び地に落ちた剣をもう一度浮かび上がらせる。
今度は途中で止めるなどということはしない。その体を貫く勢いで飛翔させる。
「戻りなさい!」
光の珠は一瞬で戻ると、それぞれが頂点となって正八面体を形成する。
剣は光の壁に阻まれて止まり、力なく落ちる。
「まだ珠は一つ残っています」
正八面体を作り出してもなお一つの珠は余る。つまり、それを攻撃に使うことができるのだ。
「七分の一でどれだけ攻撃できるっていうの?」
「あなたを倒すのに、七分の一の力ではもったいないくらいですよ」
一つだけ中空に浮かぶ光の珠がより一層強く輝く。
「ロイフ!」
光の珠は大きく強く輝いた。それは速度も何倍に増して飛び交う。
「その程度が一体なんだと言うの!」
レルフィムは大量の剣を飛ばす。だが、その剣のすき間を縫うように光の珠は飛翔する。
「く……!?」
それはすぐにレルフィムとの距離を詰め、レルフィムの体を撃ち貫こうと迫り行く。
レルフィムは光の珠にムーティエンを叩きつける。その瞬間、閃光が弾ける。
「きゃああっ!」
レルフィムは大きく吹き飛ばされて地面を転がっていく。
「レルフィム!」
僕はレルフィムに駆け寄る。抱き起こしてみると彼女は気を失っていた。
「離れてください」
ベアトリクスは七つの光の珠を従えてやってくる。彼女は僕のすぐそばまで歩いてくると、感情のない瞳で見下ろした。
「私はカードを倒さなければいけません」
「殺さなくたっていいじゃないか!」
「カードは倒すべき存在。ここでトドメを刺さなければいつまた人々の生活を脅かすかわかりません」
エクスリブルカをまっすぐに僕へ突き付ける。
「私は恩人を傷付けたくありません。離れてください」
「嫌だ!」
「……ふぅ。困った人ですね」
彼女は剣を握り直す。
「私は恩人ごと討伐すべき者を斬らなければなりません。私としてもそれは避けたいです。どうかどいてもらえませんか?」
僕は口を真一文字に結んでベアトリクスを睨みつける。
彼女は目を瞑って剣を構え直す。
「では……とても悲しいことですが、あなたとはわかりあえなかったということですね」
そして目を見開き、剣を振り上げる。
「さようなら、ユウタロウさん」
僕は堅く目を瞑る。
そのまぶたの裏側に様々な思い出が蘇る。
アリシアと会った日のこと。アリシアと出かけた日のこと。一緒に寝たときのこと……。
死ぬ直前になって自然と愛しい人の姿が思い浮かんできたのは嬉しかった。せめて死ぬ前にもう一度会いたかったが、それは叶わないだろう。
僕は心の中で彼女に謝る。
勝手に先に逝ってしまってごめん。
「待って!」
そのとき、神殿に声が響いた。
その声の主が誰かに気付き、僕は目を開いた。
「いえ、待ってください!」
「アリシア!」
視界の端に彼女の姿が映る。
買い物袋を片手に仁王立ちするアリシア。それを見て目を細めるベアトリクス。
「あら、あなたは……」
「ベアトリクス議長、お久しぶりです」
アリシアは彼女の元へと走り寄り、頭を下げた。
「昔私の秘書だった……」
「アリシアです」
彼女は頭を上げると、まっすぐにベアトリクスのことを見据える。
「またですか、ベアトリクス議長」
「え、またって……?」
僕は彼女の言葉の真意を理解できずに聞き返す。
「また勝手に勘違いして関係ない人を討伐しようとしてるじゃないですか!」
「え、だって彼女はカードの……」
「報告書出したじゃないですか! レルフィムは改心してティオナになったって! ちゃんと事務の許可もらってるんですよ!」
「あ、あれ……? そうでしたっけ……?」
「これ、ちゃんと見てください!」
アリシアは何かわからぬ言葉で書かれた紙をベアトリクスに見せる。
「これ、捏造とかじゃないですよね……?」
「違います! ちゃんと正真正銘本物の許可証です!」
ベアトリクスは力無い笑いを浮かべる。
「あ、あれぇ……? また私、やっちゃいましたか?」
「まったく! ベアトリクス議長は勝手に一人で突っ走り過ぎです! 正義感が強いのはいいことですが、いきなり討伐しないでせめて確保して、審議にかけてから処分を決めるようにしてください!」
「は、はい……。ゴメンナサイ……」
あれほどまでに恐ろしく見えたベアトリクスがアリシアの前ではぺこぺこと頭を下げている様子を見て、僕は思わずぽかんとなった。
「ああ、ごめん、ユウタロウ。この人はベアトリクス最高議長。私達の一番トップの人で、議会一のおっちょこちょい。いっつも勝手に突っ走って独走して取り返しのつかない事態を引き起こすトラブルメーカー」
「あ、アリシア! それはちょっと言い過ぎですよ!」
「いいえ、言い過ぎじゃないです。いつも何かしら取り返しのつかない事態を引き起こしてるのはベアトリクス議長じゃないですか!」
「た、たまにはいいことしてるもん……」
「確かに、大罪人レベッカを捕えた功績は大きいですが、なにもその場で消し飛ばすことないじゃないですか!」
どうやら彼女の話を聞いている限り、とんでもないおっちょこちょいのようだ。
つまり、僕達は彼女の勘違いのせいで命を落としそうになったということだろうか。それはちょっと納得できない。
「まったくもう、ベアトリクス議長は……私が来なかったらどういうことになってたか……。ユウタロウ、レルフィムは大丈夫?」
「あ、えっと、気を失ってるみたいだけど、普通に息してるよ。多分大丈夫だと思う」
「そう……ならよかったわ。……議長。何逃げようとしてるんですか?」
「あ、えっと、ダメですか?」
「ダメです」
アリシアはにっこりと笑った。
僕はその先は見ないよう、聞かないよう、耳を塞いで目を閉じて隅の方で縮こまっていた。
「で、議長はなんでこっちの世界に来たんですか?」
レルフィムをひとまずベッドに寝かせた僕達はリビングでお茶を飲みながら話し合う。
「そうですね……。まあ、最近カードによる被害が増えつつあるから、というのは表向きの理由ですね」
「本当の理由は……?」
「……ノエルが出たから、です」
その名前は僕にも聞き覚えがある。幾度となく僕達を狙ったカード。彼は特殊なカードなのだろうか。
「人間のユウタロウさんが知らないのは当然ですが……アリシア、あなたは五年前のあの事件を覚えていますか?」
「あの事件……と言いますと、例の爆発事故ですか?」
二人はその事件について説明する。
ユジューは生きていくために人間の感情をエネルギー源としているが、その人間だけに頼った生活を変えようと提唱した者がいた。彼は研究所を設立し、潤沢な予算の元、人間に頼らずに生きていく生命エネルギーを生み出す研究を始めた。
精神サイドに大きく偏ったユジューは物理的なエネルギー摂取だけでは長期間生きていくことはできない。多少は大丈夫だが、すぐに精神面にガタが来て、心を壊してしまうという。
だが、そのエネルギーをもし自力で生み出すことができるようになればどうなるか。それを考え実行に移したのがその研究所だという。
しかし途中で実験は失敗したのか、研究所を巻き込むほどの大爆発が発生し、数人の研究員が帰らぬ人となった。
「あの事件とノエルがどういう関係が……?」
「これはあまり外に話しちゃいけないのですが……あなたならば大丈夫でしょう。それと、アリシアが信用するユウタロウさんも……」
彼女は椅子に座り直してお茶を少し飲む。
ベアトリクスが話した内容をまとめるとこういうことだ。
その実験は実は成功していたのだ。だが、エネルギーを自力で生み出すということは、すなわち無から有を作り出すということにほかならない。その能力は更なる大きな力を生み出し、この世界に破壊をもたらしたというのだ。
「虚無から引き出した力は危険です。それは無限大に膨れ上がり、止まることを知らない。わかりますか、いくらでも増え続ける強いエネルギー。それがたった一人のユジューによってもたらされるということの恐ろしさ。この世界を支えるパワーバランスが崩れるのです」
「ぼ、僕達が相手していたのはそんな恐ろしい存在なの!?」
他のカードより少し強い程度にしか思っていなかった。だが、実はその程度では済まない強力な力の持ち主だというのだ。
「事故はノエルが?」
「いえ、彼を討とうとした我々の攻撃によって引き起こされた爆発です」
「討とうとした……?」
「そんな者が存在することを許せばそれこそ世界の危機です」
「ちょっと待ってください。議長達は……自分で生み出した存在に手をかけようとしたのですか?」
「そうです。彼を放っておくことは危険でした」
彼女の言葉の裏側に僕は何か違和感を感じる。それに気付くよりも早くアリシアは立ち上がった。
「議長、それはつまり何も危害を加えようとしなかった彼を討とうとした、という意味だと捉えてよろしいのですか?」
「……」
「議長!」
アリシアはドンとテーブルを強く叩いた。ガラスのコップの表面についた水滴が滑り落ちる。
「……」
「そうではないと言ってください。彼が暴れたから、だから倒そうとしたと……」
「いいえ、彼は何もしていません。けれども、私達は彼が恐ろしかったから討伐しようとしたのです」
「そんな……それって……」
アリシアの足からすとんと力が抜ける。そのまま椅子に座り込むと、力なく背もたれに寄りかかる。
「絶海の岸壁……あのエルフィドはそういうことだったのね……」
「あれがどうかしたの?」
「あのエルフィドには孤独と憎しみが渦巻いていた。表面ではうまく取り繕っていたかもしれないけど、心の姿を映し出すエルフィドまでは騙しきれなかったというわけね」
「彼は……憎んでいましたか。討ち滅ぼそうとした私達のことを……」
「誰を憎んでいるかまではわかりませんが……私はあの世界にいるだけで気分が悪くなりました」
僕はそこまでは感じることができなかった。これが人間とユジューの差なのだろうか。
「議長はまた……彼を殺しに?」
「……そうです」
「それは……彼が恐ろしい力を持っている存在だからですか?」
「いえ、もうその言葉だけではくくれなくなりました。彼は実際にカードに力を与え、この人間の世界に住まう人間達の心を確実にすり減らさせています。このままでは人間が滅びるのも時間の問題です。彼は文字通り危険な存在となっているのです」
「でも……そのきっかけを作ったのは議長達ですよね……?」
「……そうですね」
彼女は立ち上がると、背を向けた。
「でも、私達は彼を倒さなければなりません。この世の平和のために……」
それを理解できない僕ではなかったが、アリシアはもちろん、僕も納得できなかった。
「何か……その力だけ取り除くとかの方法はないの?」
「わかりません。でも、現時点では倒す以外の方法は見当たらない、としか言いようがありません」
「……」
僕は彼のことがとても可哀想に思えた。勝手な都合で生み出されて、勝手な都合で消されようとしているのだ。そんなこと、誰が納得いくのだろうか。
ベアトリクスの表情を伺う。彼女もまた納得のいかない一人だろう。彼を生み出したのは彼女だけではないはずだ。
「そういうわけで、こちら側の世界にしばらく滞在させてもらいます」
「え……? ちょっと待って、それってもしかして……」
「こちら側に滞在する間、置いてもらえませんか?」
やっぱりそういうことですか。
僕の家はユジュー専用の宿か何かだろうか。
「もちろん、お礼はします」
彼女がそう言うと、懐を探り始めた。
「これでいかがでしょうか」
そういって彼女がテーブルの上に置いたのは……日本円の札束だった。それが次から次へと積まれていく。
「え、ちょ、な、これは一体何!?」
「足りませんか……? 」
これだけあれば良質のアパートを数年間借りられそうに思うのだが、そういうことには疎いのだろうか。それともここでないと何かダメな理由でもあるのだろうか。
ざっと見て一千万円はある。謝礼としては十分過ぎるほどであった。
「いや、こんなん受け取れませんから!」
「食費とか、各種光熱費とかが必要になりますよね。それにアリシア達の迷惑料ということも含めて……」
確かに迷惑である。だが、こんなに受け取ってもいいものだろうか。
「受け取らないなら燃やします。私には必要ないので」
「わ、わかりました! 受け取りますよ!」
つまり、僕に選択権はないようである。受け取って彼女を住まわせるか、受け取らないで彼女を住まわせるかのどちらかで、彼女を追い出すという選択肢はないようだ。
「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」
彼女はぺこりと頭を下げる。この家はいつから異世界人専用宿泊施設になったのだろうか。
何はともあれ、また一人僕の家に住人が増えてしまった。
またしても新キャラが出てきてしまいました。
某RPG第九作目に出てくる女騎士は関係ないです。