第九話
展開が怪しくなってきます。メインヒロインどんまいなお話です。
第九話
僕はひたすらに走り続ける。
今度こそ僕はもう迷わない。
アリシアを見つけ出し、そして謝らなければならない。
「はぁ……はぁ……」
なぜあんなにも心が凍てついていたのだろうか。こんなにも彼女を廃絶しようとしたのだろうか。
アリシアだけではない。コウやリオナ、トモミにも酷いことを言ってしまった。
自分自身なのに、まるで自分ではないかのような違和感。自分が自分で信じられなかった。
走っているうに、やがてあの公園へとやってくる。ざっと見渡した感じ、彼女の姿はない。
トモミやリオナ、コウが安否を聞きに来たということは、彼女はどこかにまた居候しているというわけではないはずだ。となると、彼女はどこか外にいるはずである。
公園の中をくまなく見る。草の茂み、遊具の中、そういった場所にも彼女の姿はなかった。
「アリシア……一体どこに……」
「失った、と気付いたときにはすでに時遅し。それが人間という生物の本質」
そのとき、どこからか独り言のようなものを呟く声が聞こえてくる。
――辺りが暗くなる。
僕はこのとき、すぐにカードの仕業だとわかった。
徐々に世界は崩れていき、再構築される。
それは断崖。背後には広大な海が広がり、僕は崖の端に立たされていた。
そこにいた短い金髪の少年がカードなのか。彼は大きな岩の上に立ったまま、僕のことを見下ろす。
「君を探していた」
「僕は君なんか探していないんだけどな」
彼は薄い笑みを浮かべながら岩から飛び降りる。
「人間がユジューの力を借りずに僕のシグマを解くとはね」
「君の……シグマ? まさかそれって……!」
「君の思っている通りさ。相手の心の中に疑似人格を植えつけ、心を冒すシグマ。それは相手を疑心暗鬼に陥らせ、心を孤立させる力さ」
彼は演舞でも踊るかのように軽い足取りで歩いてくる。
「でも、効果は十分にあった。君は事実、今独り孤立していて、そして僕の前に独りで立っている」
「……ッ!」
今、僕のことを守ってくれる人はいない。アリシアやトモミ、リオナを拒絶し、そして自ら独りとなった。僕にはカードを倒すような力はない。
「なんで僕に目をつけたの?」
「簡単さ。君がリトマスだからだよ」
「直接ティオナを倒すのが怖いから、僕達弱い人間を狙うのか?」
彼は自嘲気味に笑う。
「ははは、僕は戦うのが嫌いだからね。そういう荒事は好きじゃないんだよ」
「それなら最初からカードなんかにならなければいいじゃないか」
「それとこれは話が別だよ。僕はカードになりたくてなったんじゃない。カードになるべくして生まれてきたんだ」
「カードに……なるべくして?」
「ふふふ、君に言ってもわからないだろうね」
彼は両手を大きく広げながら、断崖絶壁から広大な海を眺める。
「僕はカードの中でもかなり特殊だ。君の友達……レルフィムに引けをとらない、いや、それ以上だろうね」
「別に友達ってわけじゃない……」
彼女の名前が突然出てきたことに驚きつつも、僕は眉をひそめて否定する。
「ははは、でも彼女は君のことを親しい友達のように思っているみたいだよ?」
「友達を普通、剣で突き刺したりしないよ……」
「それはこういうこと?」
気付くと、僕の胸の中心から鋼の刃が突き出していた。
「え……?」
引き抜かれて、僕はその場に崩れる。
「なーんてね、ちょっとしたスキンシップよ」
彼女は僕の体を抱き上げると、僕の唇に自身の唇を重ねてくる。
血に染まった傷口が撫でられるたびに激痛が走る。彼女はもう一度剣で傷口に触れた。
すると、胸の傷が徐々に塞がっていく。これは彼女の持つムーティエンの力だろう。
「れ、レルフィム!?」
僕は急いで体を離すと、いつの間にか背後にいた彼女に向き直り、そして構える。
「あらあら、そんな構えないでよ」
彼女はくすくすと笑う。
「別に取って食おうってつもりじゃないんだからぁ」
「ってか、いきなりスキンシップで串刺しにしないでよ!」
「いやぁねぇ、ちょっとしたコミュニケーションじゃないの」
彼女はぱっちりとした瞳をウィンクさせる。
「でも、今回の私の用事は……そっち」
そう言って、彼女は金髪の少年へと剣を向ける。
「よくも私の大事なモノに手を出してくれたわね。この代償は大きいわよ?」
少年は面白おかしそうに笑う。
「僕に挑むというの? 君は面白い人だね」
「最凶最悪と恐れられた私を前にしてその余裕……気に食わないわ」
背中から羽を一本引き抜き、彼女は剣を構える。
「戦いは嫌いなんだけどな……。ロゼ・イェシクス、顕現」
彼の手に一本の大鎌が現れる。それは二枚の刃を携えた黒い鎌。彼の背の丈ほどの大きさを持つその鎌はレルフィム以上の濃厚な闇の気配を放つ。その恐ろしさに、僕は思わず一歩身を引いた。
「少しはできるようね」
「少し、なんてもので済むかな?」
彼は大きく鎌を掲げると離れた場所から振り下した。
僕は思わずその瞬間目を見開いた。
何もなかったはずの空中からたくさんの刃が躍り出る。それは十枚とかそんな数ではない。ゆうに百を凌駕するような数に違いない。
「ッ!?」
レルフィムはガードすることよりも回避することを選んだ。空へと飛び上がる。その瞬間、彼女がいた場所へと刃の嵐が襲いかかる。
砂埃が舞い上がり、土煙がもうもうと上がる。それはつまり、あの刃が幻やまやかしの類ではなく、実体をもった攻撃だということを意味する。
「ムーティエン……あなたはティオナ?」
「僕はカードとして生まれるべく生まれし者、ノエル。ティオナとはむしろ敵対する関係にあるかな」
「ふぅん……ともかく、私の敵であることはわかったわ。なら、選択肢は一つしかないわね」
彼女が羽ばたく度に何枚もの羽が抜け落ちる。それらは次々に剣へと姿を変え、彼女の周りにまといつくように宙を舞う。
「数には数……ってことかな?」
「あなたの刃、私の刃。数が多いのはどっちかしら?」
レルフィムは一際大きく羽ばたいた。その瞬間、剣の嵐が巻き起こる。
宙を舞う数百本の剣は一斉にノエルの元へと飛翔し、彼の小さな体へと襲いかかる。
「無駄、だよ?」
再び彼は刃を振るった。その瞬間、またしても刃が雪崩のように震える。
剣と刃がぶつかり合う。それは激しい剣戟を繰り広げた。
「ぐ……!」
だが、明らかに押されているのはレルフィムの方だった。鎌は無限に現れるのに対し、剣の数は有限だ。
「さすがにムーティエン相手は分が悪いわね……。レミトネイション・ドルヲス、顕現」
彼女は一度剣を飛ばすのを止めると、もう一本別の剣を取り出した。彼女がムーティエンだといっていた、斬っても回復する剣だろう。
「あなたには特別にこの剣の力を見せてあげるわ」
彼女は剣を構えると、じっくり相手のことを見据えた。
「どうしたの? 力を見せてくれるんじゃないのかい?」
「かかっていらっしゃいな。心配しなくても、見せてあげましょう」
「ふーん、面白いね」
そう少年は言うと、何のためらいもなく鎌を振るった。
再び何十、何百もの刃が彼女へと襲いかかる。だが、レルフィムは額に汗を浮かべたまま、それを見据えて剣を構える。
「レルフィム!」
「大丈夫よ。あなたそこで見ていなさい」
刃が届くか届かないか、というそのときになってようやくレルフィムは剣を振るった。
彼女が振るった瞬間、風がざわめく。
空気の流れは無数の刃となり、幻想の刃と甲高い音を立ててぶつかり合う。
「ほう……」
少年は面白いものでも見るかのような表情を浮かべてその剣舞を見守る。
レルフィムの表情にはいつもの余裕がない。これが彼女の本気、というやつなのだろうか。
「まだこれで終わりじゃないわ」
再び羽が抜け落ちると、無数の刃を作り出す。それは風の刃と合わさって、幻想をも超える数と密度で飛翔する。
「数も威力も、そう簡単には負けないわ」
「ちょっと厳しいね」
彼はそう言うと、鎌を振るうのを止めた。
途端に無数の刃が彼へと襲いかかる。
「ナヴィシィ」
少年がぽつりと呟く。
その瞬間、光の環が幾重にも浮かび上がった。
それは莫大な量の剣と風の刃を受け止め、なお震えることもなくそこに存在する。
「な……!」
その攻撃は彼女にとって最高ともいえる攻撃手段だったはずだ。それなのにもかかわらず、彼はそれをたった一つのシグマだけで止めてしまった。いや、あれはまだ発動してすらいない。彼の周りを回る力の循環が刃の飛来を寄せ付けることを許さないのだ。
「ど、どれほどの力が……」
あのレルフィムの表情にさえ驚愕が浮かびあがる。彼は微笑を浮かべたままその力を、片手でタクトを振るかのように操ってみせる。
レルフィムはキッと表情を引きつらせると、ムーティエンを持って飛び出した。
「レルフィム!?」
「はぁッ!」
鈍い音。光の環へと刃を突き立てるレルフィム。だが、それは依然として動きを止めることなく彼の周りを回り続ける。
「刃よ! 力を喰らえ!」
そう彼女が叫んだ途端、刃が激しく震え始める。
彼女は言っていたではないか。その剣は相手から力を奪うことができる、と。
レルフィムの持つ剣は、光の環を貪るように侵食し始める。
「おっと、これはマズイな」
彼の周りで回っていた光の環が動きを止める。そして薄れて消えていく。
少年は大きく飛んで下がると、再び巨岩の上に立つ。
「ははは、君とは少し相性が悪いようだ」
「あら、私と相性がいいのは彼だけよ?」
さりげなくレルフィムはとんでもないことを口にする。少年は口元を笑みで歪めると、鎌を収めた。
「今日は様子を見に来ただけ。君とやりあうつもりはこれっぽっちもないんだよね。だから今日はもう退散するよ」
途端に背景が歪む。気付くと、そこは元の公園に戻っていた。
「待ちなさい。私がそう簡単に逃がすと思って?」
再び酔うような感覚に襲われ、景色が変化する。それはいつもの黒い薔薇園。手入れする者のいなくなった、荒れ果てた庭園。彼女はその中心に立ってくすりと笑う。
「おお、怖い怖い。僕は怖い人は苦手なんだ」
「お姉さんが優しく残酷に折檻してあげ……う……」
だが、その途端背景がにじむ。気付くとレルフィムは肩で息をしていて、立っているのも限界なようだった。
「はぁ……はぁ……く……」
「お姉さんも限界みたいだね」
再び背景が歪み、薔薇園が消えていく。舞台はまたしても無人の公園の一角へと戻った。
「僕ももう疲れたから帰るよ。じゃあね、お姉さん」
「ま、待ち……う……」
レルフィムの体が傾く。僕は慌てて彼女に駆け寄った。
「レルフィム!?」
「はぁ……はぁ……」
彼女の体は大きな羽を携えている割に軽かった。薔薇の香りが鼻孔をくすぐる。
「大丈夫!?」
「はぁ……はぁ……ユウタ……ロ……」
そのまま彼女は目を閉じる。途端にレルフィムの体から力が抜ける。
「うわっと……」
握っていた剣は手からこぼれ落ち、光となって消えていく。
「ちょっと、大丈夫!?」
彼女の息は荒い。相当無茶をしたのだろう。
「ど、どうしよう……」
目の前の美少女は僕の命を狙う敵だ。だが、今はともかく守ってくれた。そんな彼女をここに放っておくのはいくらなんでも気が引けた。
「し、仕方ないなぁ……」
僕は彼女の体を背中に背負い上げる。人形のように力の抜けた体は思った以上に軽く、柔らかかった。
「そういえばあいつ……ノエルは……?」
僕は視線を彼が立っていたジャングルジムの方へと向ける。すでにそこには彼の姿はなかった。
「よ、よかった……」
彼がすでに去った後であることに心から安堵する僕。もし、今彼の攻撃を受けていれば僕も彼女も生きてこの場を脱することはできないだろう。
「よいしょっと……」
レルフィムの体を背負い直す。自宅までほんの数分。思えば、アリシアを探そうと思って家を飛び出してからまだほんの少しの距離しか走っていなかった。
僕は彼女を背負ったままゆっくりと家へと向かった。
ドアを開き、家の中へと入る。そしてまっすぐにリビングへと向かうと、ソファに彼女の体を横たえた。
「ん……」
彼女は小さな呻き声を上げる。そのあまりの色っぽさに少しドキドキした。
アリシアも相当な美少女だったが、今こうしてまじまじと見つめると、レルフィムもかなりの美少女である。すらりとした肢体に、やや豊満なバスト。下手をするとアリシアよりも可愛いかもしれない。
「でも、かなりSだよな……」
僕を痛めつけて喜ぶあたり、彼女の性格の残虐性が伺える。いくら可愛くてもカードはカード。恐ろしい存在であることには変わらない。
「なのになんで介抱してるんだろう……」
僕は一旦頭を冷やすために冷蔵庫からコーヒーと牛乳を取り出した。そして、コップに注ぎ込み、冷たいまま一気に傾ける。
「……ふぅ」
いくらか気分は落ち着いた。冷蔵庫にコーヒーと牛乳を戻すと、再び彼女の前に座り込んだ。
「何やってるんだ、僕。アリシアを探しに行かないといけないじゃないか」
だが、レルフィムを置いて家を出るというのも不安だ。下手をすると、戻ってきたときにはこの辺り一帯が焦土となっていてもおかしくはない。
僕は仕方なく、向かいのソファに体を沈める。
すると一気に疲れが噴き出してくるのを感じた。ユジューと相対すると、ティオナであろうとカードであろうと非常に疲れる。戦いとなれば特にそうだ。
僕は少しだけ目を瞑る。そう、少しだけのつもりだった。だが、意識は徐々に沈んでいき、やがて僕の意識は深い眠りへと囚われていく。
「そう……少し……だけ……」
そう呟いた自分の声が最後に聞こえたような気がした。
「……はっ!」
僕は飛び起きた。ほんの少しのつもりがすっかり寝入ってしまったようだった。
時計を見ると既に時刻は夜の10時。すっかり夜になってしまった。
「レルフィムは!?」
僕は慌てて彼女が眠っていたソファへと視線を向ける。そこには彼女の姿はなかった。
「……黙って行っちゃったのは気に食わないけど、何かされるよりマシだったかな……」
「誰が行っちゃったのかしら?」
そのとき、僕の背後から妖艶な声が聞こえてくる。
「うわっ!? れ、レルフィム!?」
「ふふふ、気分はよくて?」
彼女はステップを踏みながら台所へと向かっていく。そして手に何かを持って戻ってくる。
「あなたが眠っている間に作ってみたの」
彼女の手には何かキノコ料理が盛られた皿があった。それは美味しそうな匂いを立てながら、湯気を揺らしている。
「うわ……凄い……。これ、レルフィムが作ったの?」
真っ白い身のキノコ。それを薄くスライスしたものと、何かの肉を一緒に炒めたものだ。キラキラと輝くそれは、シンプルだが実に美味しそうな一品であった。
「はい、どうぞ」
彼女は箸を差し出してくる。折角作ってくれたのだ。食べない、というのはいくらなんでも失礼だろう。
「う、うん。ありがとう」
僕は彼女から箸を受け取って、さっそく肉のかけらを摘まみ上げて口に運ぶ。
「なんだか弾力があるけど、この歯ごたえがいい感じだね」
「そうでしょ? 私、こう見えても結構料理とかできるのよ?」
次にキノコの方へと箸を進める。柔らかな食感と、塩コショウというシンプルな味付けが実によく合う。
「これも美味しいよ」
「喜んでもらえたようでよかったわ」
彼女はにこにこと笑う。こんな風に笑う彼女を見ると、なんだか彼女の恐ろしさが嘘のように思えてきた。
「これ、何の材料を使ってるの?」
「うふふ、よくぞ聞いてくれました」
彼女は嬉しそうにぴんと人差し指を立ててウィンクする。そんな可愛らしい仕草に思わず動悸が少し早くなる。
「天然マムシのバラ肉と、ドクツルタケのスライスを合わせて、有機水銀で炒めたの! 味付けはちょっと刺激の強い硫化水素! 舌もがとろける素敵な美味なはずよ」
思わず僕は噴き出した。
「ちょっと待って!? それって毒ばかりだよ!? ってか、ドクツルタケって名前からして毒キノコでしょ!? さっきから舌がぴりぴり痛むのは硫化水素のせい!? ってかツッコミどころ多すぎるから!」
「だってユウタロウが苦しむ姿が見たいんだもの……(はぁと」
彼女は恍惚とした表情を浮かべる。うっとりとしたその表情はまるで情事でも眺めているかのように蕩けている。
「う……お腹が……」
「ドクツルタケは腹痛や嘔吐、激しい下痢といったコレラによく似た症状を引き起こすのよ。その症状が収まると、今度は体中の臓器がスポンジ状に破壊されていくのよ」
「怖いよ! ってか説明しなくていいから!」
そんなこんな言ってるうちにごろごろとお腹が鳴り出す。
「ちょ、ど、どうすれば……」
「あら、私がそんな簡単に殺すと思って?」
彼女はにっこりと笑って一振りの剣を取り出す。
「え……それは……」
彼女は思い切り振りかぶって刃を振り抜く。その一撃で僕の体は上半身から上が吹き飛び、真っ白な壁紙にこれでもかというほどぶちまけられる。
「ぴぴ○ぴ○ぴ○ぴぴ○ぴ~」(諸事情により、音声の一部がカットされております)
するとあら不思議。僕の体はうねうねと集まりはじめ、元の人間の体を再構築する。
「あ、あれ……?」
「毒成分だけ再生させなかったの。だから、あなたは死なないわよ」
「だからって……いきなり殺すのはどうかと思うけど……」
「これで好きなだけ私の手料理が食べられるわ」
「もう食べないから!」
またしても僕は厄介なヤツを家の中に入れてしまったようだ。
一難去ってまた一難、とはこういうことを言うのだろう。
それよりも、アリシアを見つけ出さなければならない。
今から探しに出るのはいくらなんでも無理である。こんなに時間が遅くなってしまうと、もう日も落ちてしまって探せない。
僕はひとまず諦めることにすると、ともかく目の前の厄介の相手をすることに決めた。
「ねぇユウタロウ。アイアンメイデンとか興味ない?」
「ないよ!」
僕はあまり眠れない夜を過ごした。
というわのも、僕がほんの少しでも隙を見せるとすぐに拘束して拷問にかけようとするからだ。
レルフィムは元気なもので、寝なくともまったく疲れを見せない。ユジューだからか、それとも昨日ぐっすり寝たからか。昨日僕も睡眠を取はしたが、その程度の貯金ではちょっと厳しそうだった。
時計を見れば午前五時。すでに窓からは朝日が差し込んできている。
僕は眠ることを諦めると、ベッドからもさもさと這い出た。
「起きるの?」
レルフィムは勉強机に備え付けられた椅子に座っていた。長時間の勉強にも耐えられるように、柔らかいクッション付きなので、座り心地は抜群だ。
「君がいるとなかなか寝られないからね」
僕は彼女に部屋から出ていくように促す。いくらなんでも女の子の前で着替えるのは気が引ける。
彼女は僕が何をするつもりかわかったようで、残念そうな表情を浮かべて部屋から出ていく。
僕はパジャマを脱ぎ捨てると、制服のワイシャツを羽織る。
部屋に置かれた小さな鏡に僕の姿が映る。目の下には小さなクマができていた。寝不足のせいだろう。
「はぁ……なんだか色々振り回されてばっかりだなぁ……」
ズボンを履き変え、ブレザーとカバンを型に背負うと、僕は部屋を後にする。
「あれ……?」
部屋の前にレルフィムの姿はなかった。先にリビングに行ったのだろうか。
「レルフィム?」
リビングに顔を出してみるが、そこには彼女の姿はなかった。また怪しげな料理でも作ってないかと思って台所も見てみるが、やはり彼女の姿はなかった。
どこに行ったのだろうか。彼女の性格ならば家の中を勝手に弄るようなこともしそうだ。下手をすると、部屋が一つ塵と化していてもおかしくない。
僕はリビングを後にすると、家の中の色々な部屋を見て回る。
両親の部屋、使われていないもう一つの客間、和室……。
僕の家はよく大きいと言われるが、生活している身からすればそう広くも感じない。隠れることができそうな場所はほとんどなかった。
最後にアリシアが使っていた客間の扉の前に立つ。気付くと、その扉はきちんと閉まっておらず、少しだけ開いている。中からは楽しそうな鼻歌。この中にいるのだろう。
「レルフィム、いるの?」
彼女は客間に置かれた大きな姿見の前でくるくると回っていた。
「ユウタロウ、見て見てー」
僕は思わず噴き出した。
僕の部屋を後にしたレルフィムは、いつの間に手に入れたのか学校指定の制服に着替えていた。
背中の羽はどういう理屈か知らないが、しっかりと収められている。
赤いリボンが胸の中で輝き、指定のブレザーの腕には校章が光る。ふわふわとしたミニスカートは彼女がくるりと舞う度にひらひらと空を泳いで、大変けしからない。
「それって、もしかしてアリシアの?」
「ここ、あの子の部屋だったの?」
逆に問い掛けられてしまう。彼女はそう言うということは、つまりそういう意味なのだろう。
アリシアの私物に手を出したことにちょっとむっとしたが今、持ち主はこの場にいない。
「学校行ってみようかなぁ?」
「え!? だって、転入の手続きとかしてないんでしょ!?」
「大丈夫よぉ。一人くらい紛れていたってわかりゃしないわよ」
さすがに授業などは出られないだろうが、確かに彼女の言う通りである。一人くらい生徒が増えたって、別におかしいことなどないだろう。
「でも……」
「いいじゃない。さ、朝ご飯食べて行きましょう」
彼女に背中を押されてアリシアの部屋を後にする。勝手にアリシアの品を使わせてしまって、なんだか申し訳ないような気分になっていた。
いつもより少し早く家を出る。できることならば、コウ達……特にトモミやリオナに会わせるのはマズい。僕が知っている限り、三人は一度……もしかすると何回も戦ったことがあるかもしれない。
もし三人が出会えばどうなることか。あまり想像したくない。
いつもの十字路で友達に出会うことなく、僕達は学校に到着する。
「へぇ……これが学校……」
レルフィムは感心したかのように大きな校舎を見上げる。
そして一歩、校庭の土をしっかりと踏みしめるように踏み出す。
「これがこの世界の学校……」
彼女はうきうきしてきたのか、自然と足取りも軽くなっていた。
「……はぁ」
そんな浮かれている彼女をよそに、僕は大きなため息をつく。
「さ、行きましょ」
レルフィムは僕の手を取ると校舎へと駆け出していった。
「上履きは……アリシアのを借りるかな」
アリシアの靴箱から上履きを拝借する。ここまでくると、申し訳ないという気持ちは徐々に薄れつつあった。
レルフィムは珍しいものでも見るかのように壁に張り出された掲示物や、教室へと向かう生徒を眺める。
周囲では数人の男子生徒が彼女を囲んで何か囁きあっている。真っ黒で長い黒髪に黒真珠のように深い黒の瞳……明らかに美人の部類の属するレルフィムだ。それも当然かもしれない。
「私、ちょっと探検してくる」
そう言ってレルフィムはどこかへと行ってしまう。男子生徒達はつまらなそうに文句を口にすると散っていく。
「あ、ユウタロウ君」
気付くとトモミ達が昇降口に立っていた。昨日のこともあって、少し顔を合わせ辛い。
「今日は早かったんだ」
「ちょっと用事があってね」
僕が言うべき言葉はそんなことではないだろう。昨日の非礼を詫びる言葉……謝罪の言葉が必要だ。
「じゃあ私達、先に教室に行ってるね」
だが、ついに口に出すこともできずに三人は行ってしまう。
僕は昇降口に一人立ちつくしたまま、うつむいてメノリウムの床を見つめていた。
結局、謝罪の言葉を口にできないまま昼休みを迎えた。
購買でパンを二つ購入し、屋上へと向かう。なんとなく、トモミ達とは顔を合わせられない。
屋上に出ると、心地よい風が吹き抜ける。
「あ……」
ベンチにはすでに先客がいた。探検に行くと言って姿を消したレルフィムだ。
「あらユウタロウ、いらっしゃい」
彼女は少し横にずれてベンチを空ける。僕は彼女の隣に座った。
「人間を眺めているのは面白いわね。食べるだけじゃなくて、観察するのも結構いいものだわ」
彼女はそう言うと、流れ行く雲を見上げる。
僕はアリシアが好きだったあんパンを口にしながら、レルフィムと同じように空を見上げる。
「君にとっちゃ珍しいかもしれないけど、僕達にとっては当たり前の世界だよ。だから、その“当たり前”が壊れるのを恐れるんだよ」
「……」
彼女は黙りこむ。
レルフィムに自覚はあるのだろうか。人間を襲い、心を奪うということは、その人間の世界を壊す行為だということを。それだけではない。その人に関わるすべての人に大なり小なり影響を与える。一緒に世界が壊れてしまう人だっている。
僕は彼女にそれを理解してもらいたかった。
雲が形を変えながら流れていく。それは時として馬のようになり、キリンのようになり、リンゴのようにもなる。時には僕達の姿を描くこともあるし、彼女達の姿を描くこともある。
ユジューカードに人間を完璧に理解してほしいだなんて思わない。せめて、人間にも人間の世界があることを知ってほしかった。
「……ねえユウタロウ?」
「ん?」
彼女は突然、おずおずとした様子で尋ねてきた。
「もし、もしもの話よ? 私があなたの大切な人の心を奪ってしまったら……あなたはどうする?」
「それは……やりきれないよ」
もし、そんなことが起きれば僕はどうなってしまうだろうか。コウ、トモミ……どちらが欠けても僕の日常は成り立たない。
「じゃあ、もし私があなたの……」
「レルフィムッ!」
そのとき、鋭い声が響く。
僕はばっと振り返った。屋上の扉のところには……トモミとリオナがいた。
「ユウタロウに何してるね?」
「あら……いつだかの弱い子ね」
今までのしおらしさはどこへいってしまったのか。彼女はいつもの余裕の笑顔を浮かべる。
「ユウタロウは私がもらうの」
「それにユウタロウも……そんなヤツと何してるね?」
「た、ただ話をしているだけだよ! 今の彼女は何も悪いことなんか……」
僕は何を言っているのだろうか。いつの間にかレルフィムをかばうようなことを口に出していた。
「レルフィム……お前がユウタロウをおかしくしたね?」
「もし、そうだったら?」
「れ、レルフィム!?」
リオナは強く歯ぎしりをする。
「ムーティエン、フィニテイン・モグリレイ、顕現!」
「リオナ!」
彼女の手には一冊の魔導書があった。
「今すぐ目の前から消え失せるね! でないと容赦しないね」
「望むところ……かかってらっしゃい」
レルフィムの手にも一振りの剣が現れる。
「レルフィム! ちょっと二人とも場所を考えてよ!」
「それならこれでいいでしょう?」
レルフィムを中心に真っ黒い世界が広がっていく。
彼女の黒薔薇のエルフィドに捕われた僕達は現実世界から切り離される。
「さあ、いらっしゃい」
「負けないねっ!」
リオナの手の中の本が強く輝く。
僕はトモミの方を見た。気付くと、彼女は僕の方を不安そうな表情を浮かべて見つめていた。
「トモミ……」
視線が合う。だが、トモミはすぐに視線をずらした。
「……ッ!」
僕は少し悲しくなった。今や、彼女達と築いてきた関係が崩れつつあった。
リオナとレルフィムの攻撃が激しくぶつかり合う。僕はすぐにわかった。リオナではレルフィムには勝てない。レルフィムの昨日の戦いを見て……レルフィムの本気というものを思い知らされた。
今の彼女は本気の半分も出していないのだろう。レルフィムの表情には微笑すら浮かび、そしてリオナの表情には苦悩が浮かぶ。
こんな戦いは無益だ。二人が戦う理由なんてないはずだ。
「二人とも……やめてよ……」
だが、僕の声は二人に届かない。
目の前で繰り広げられる戦いに、僕は思い切り怯えてしまっている。今二人の間に飛び込んでいけば……確実に死ぬ。
炎と刃、大地と風、光と闇がぶつかり合う。その度に激しい音を響かせながら輝かしいまでの光を放つ。
「センラ」
闇が一気に膨れ上がり、一本の槍となって突き出される。それをリオナは光の壁で防御すると、今度は刃の舞踊で反撃に出る。だが、それを幾本もの闇の鞭で絡めとる。
「まだ本気を出してないのかしら?」
「ぐ……絶対に……絶対に負けないね!」
一度距離を取ると、リオナは本を開いて手を突き出す。
「雷の諧謔曲、デンルス・ゾスケル!」
光が矢となって放たれる。それは雷のスケルツォ。急速かつ軽快な勢いで飛翔する弾幕は何筋もの軌跡を描いて飛び回る。
「リベラア」
だが、光輝なる雷の魔弾も闇の壁によって阻まれる。徐々に輝きを失いながら急激に失速していく。
「あなたでは私に勝てない。無駄なことはよしたら?」
レルフィムは攻撃の手を緩めて、そう問い掛ける。対するリオナは屈辱のあまり、顔を歪めて歯を食い縛る。
「諦めるわけにはいかないね……。だって……ユウタロウは……ユウタロウは……」
言葉は弾幕となって織りなされる。何百もの光の弾幕が視界を覆いつくすほどの圧倒的な量と圧力をもってレルフィムへと襲いかかる。
「リベラア」
だが、またしてもレルフィムを囲むようにして展開される障壁に阻まれる。あれほどまでの絶対的量をもった攻撃は一発も彼女へと届かない。
「あなたは私の壁すら打ち破れない。私の盾を貫通する一撃すら放てない。よってあなたは私に勝てない。絶対に……ね」
「う……ああ……」
「リオナ!」
そのとき、今まで黙っていたトモミが大きな声でリオナの名を呼ぶ。
「私は……私はもういいから……」
「いいわけないね! だって……ユウタロウはトモミの……」
リオナの手の中から魔導書が消失する。トモミが消したのだろう。
「ようやく観念したのかしら?」
「う……うう……悔しいね……」
レルフィムはブーツで黒薔薇を踏みつけながら、リオナの元へと歩み寄る。
「レルフィム!」
僕はここでようやく声が出せるようになった。戦いは終わった。もう恐れる必要はない。
「ダメだ……。これ以上は……もう……」
「……ふん」
薔薇庭園が消失する。今までの戦いなどなかったかのように、元の校舎の屋上へと戻る。
「ユウタロウのおかげで命拾いしたわね」
レルフィムは二人に背中を向けると、僕の方へと歩いてくる。
「ねえユウタロウ。私のリトマスになる気はない?」
突然、レルフィムが問い掛けてくる。
「もし、あなたにその気があるのなら……私は人を襲うのをやめてもいいわ」
「……え?」
今、彼女はなんと言ったのだろうか。
「その代わり、ユウタロウを好きなようにする。どう、魅力的な提案じゃない?」
彼女の言う好きなようにする、というのはどういう意味だろうか。
「もちろん、あの子……アリシアとの契約は絶ってもらう。一人の人間が提供できる心はムーティエン一つ分。だから、あの子と契約したままでは意味がない。私の言っていることはわかるわよね?」
「でも、ムーティエンを作るためには心の他に……」
「言ったでしょう? 私はティオナを殺してムーティエンを奪った、と。そこに一人の人間から奪った心をはめ込んである。あなたと契約すれば、その心を持ち主に返してもいい」
「持ち主って……」
「知っているかしら? 東條ユイという少女の名前を」
僕はその名前に聞き覚えがあった。クラスメイトの一人、東條ユイ。直接の面識はあまりないが、何度か話をしたことがある。とても物静かな女の子だった。
僕は静かに頷く。
「彼女に心を返す。その代わり、あなたは私に心を差し出す。あの子との契約も絶つ。いいかしら?」
僕一人が心を差し出す代わりに、一人の人間が救われるのなら……僕は心を差し出してもいい。
「わかった」
「ユウタロウ……」
トモミとリオナは悲しそうな表情で僕のことを見つめる。
「トモミ、リオナ。僕は……一人でも多くの人が助かるなら、その方法を取りたい。心配しないで。レルフィムは……確かにちょっと怖いけど、もう前みたいな悪いカードじゃない」
「そんなわけないね……。そいつは絶対にいつかユウタロウを裏切るね。そんな、簡単にうまくいくはずないね」
「でも、少しの間だけでも人を襲うのをやめてくれるなら……僕が心を差し出す価値はある」
僕はリオナの元へと歩いていく。
「僕は皆が嫌いになったわけじゃない。昨日のはちょっとした気まぐれだ。もう、大丈夫だから……」
「ユウタロウ……信じていいのね?」
リオナは悲しそうに表情を浮かべながら僕に尋ねる。僕は……頷いた。
「こんな……カードがティオナになるなんて聞いたことないのね。どうせ……すぐにダメになるね」
リオナがそう呟いたのが聞こえた。確かにリオナはレルフィムのことを信じていない。でも……僕のことは信じてくれている。それだけで嬉しかった。
「レルフィム。どうすればいい?」
「私と契約すれば、自動的に以前に交わした契約は上書きされて失効する。あなたは私と契約するだけでいいのよ」
レルフィムが手を差し出してくる。僕はその手を取った。
「あなたの心が私の中で形になるのを感じる」
レルフィムはもう片方の手を中空に差し出した。そして、彼女は宣言する。
「ムーティエン……リアヴァチオン・ドルヲス、顕現」
光が徐々に集まっていき、彼女の手の中に光の剣が精製される。
七色に輝く虹色の剣。アリシアが持っていた剣にそっくりだ。
「これが……ユウタロウの心……」
レルフィムは満足そうな表情を浮かべて剣を振る。
「東條さんは?」
「心を返したわよ。しばらくすれば目を覚ますわ」
「そっか……よかった……」
クラスメイトが一人帰ってくる。それだけで僕は嬉しかった。
だが、ちょっとアリシアに悪い気がした。彼女に相談することもなく、勝手に契約を解除してしまった。彼女は怒っていないだろうか。
「これでユウタロウは私のもの……うふふ、ふふふふふ」
レルフィムは嬉しそうに笑う。
昼休みの終わりを告げる予鈴が校舎内に鳴り響いていた。
mixiでは二つに分けていたので、間違えて投稿してしまった。
個人的にレルフィムは僕のお気に入りなので、このままレルフィムルート突入して、そのまま話を終わらせようか非常に迷った時期です。
読者の方からもレルフィム可愛いって声があったので、もういいやって思ってた時期でもあります。