1 踊り部の里
その一 踊り部の里
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「ダメ!ダメ、ダメ、ダメっ!」
ラリア教師がヒステリックに叫んだ。
リーリエは踊りの途中で凍りついたように動きを止めた。片足でつま先立ち、広げた両手の十本の指先まで、気を込めてぴんと張り詰めたまま。
「また、あなたなの、リーリエ!
何度言ったらその同じステップを間違えなくなるの!」
ひそひそとささやき合う少女達のざわめきに囲まれて、リーリエは恥ずかしさに真っ赤になって立ちすくんでいた。
(ああ、またやってしまった)
ちょっと気を抜いて、何も考えず気持ちよく踊っていたのだ。神々に捧げる数々の舞いの中でも、最高の難曲とされる、この龍王の舞踏を。
他の踊りなら難なくこなす技量を持つリーリエが、なぜかこの踊りだけは、いつも同じ所で踏み違えるのだった。それも曲に身体が良く乗って、無我の境地で踊っている時に限って。
(これだけなのに。他の踊りなら、誰にも負けない自信があるのに)
リューマチを病んだ身体を庇いながら、ラリア・ナビ、半世紀前に最高の踊り手、「水の巫女姫」の称号に輝いた教師が近づいた。かつての王国一の踊り手も寄る年波には勝てず、すっかり白くなった髪をきつく結い上げ、崩れてたるんだ体形を目立たせぬ都風のしっかりした織の衣服に身を包んでいる。
罰を待って揃えて出したリーリエの手のひらに、ぴしりと竹の鞭が振り下ろされた。
二度、三度、四度。跡は残らないが、あまりの痛さに涙が滲む。
「この踊りの重要さが、まだ判っていないのね、リーリエ!
この龍王の舞踏は百二十年に一度の、水の大祭で踊られる最も神聖な舞踏。千年以上にわたって踊り継がれてきたものなのですよ!ステップの一歩、指先の角度一つ替える事は許されないのです!」
あーあ、またみみたこのお説教、と後ろで愚痴る声がする。
「それをリーリエ、あなたときたら、毎度毎度、何という事でしょう!
今年こそがその百二十年に一度の大祭だというのに、それなのに、あなたは学校一の恥さらしだわ!
よござんすか、今度間違えたらあなたは一級格下げ、「蕾」から外して祭りの参加資格を取り上げますからね!」
リーリエは息を呑んだ。
そんな屈辱、絶対耐えられない!
前に並んでいた意地悪なマリエールが、振り向いて、くすりと笑った。
泣くもんか!絶対に泣くもんか!
手の痛みより悔しさに耐えかねて、溢れる涙をこぼすまいと、上を向いたリーリエの眼に眩しい青空が映る。ここは山の中腹、踊り部の里の、中央の広場。
十二歳から十八歳までの少女が五十人近く、長い黒髪を背に流し、よく似たほっそりした体に揃いの舞踏着を着て、髪にはマリンカの白い花、すらりと伸びた手首と裸足の足首に鈴をつけ、園に植えられた花々のように並んでいる。
首都から離れた静かな山間の、この里の舞踊学校に全国各地から集められ、踊り手として修業に励む、「花の蕾」と呼ばれる最上級の生徒達だ。
このクラスに上がって初めて、全国各地で開かれる祭りに踊り手として招かれる事が出来、三年ごとに首都の水の大神殿で開催される水の祭りに参加する資格を得る。
王族が代々の神官長を務め、龍王様を祭る水の大神殿。
その大神殿直属の格式の高いこの学校のためだけに、租税免除された三つの村があり、多数の練習場をもつ舞踏学校、音楽学校、男子寮、女子寮、教師と生徒の生活すべてを支えているのだ。
生徒の衣食住は保障され、豪華な祭りの衣装や見事な楽器が神殿から惜しげもなく貸し与えられる。
三歳から受けられる入学試験は非常に水準が高く、才能が伸びずに脱落していく者もまた多かった。
貧しい孤児も貴族の娘もなく、ただ踊りの才だけを評価される娘達。無事卒業し踊り手となれば、全国各地、毎日のように何処かで行われる祭りに招待され、踊りを奉納する華やかな毎日が待っている。
舞台の上で見染められ、玉の輿に乗る者も多く、国民の七割が農民というこの国で、娘が踊り手になるのはとても名誉な事とされていた。
水に恵まれた豊かな南国、ダイキリア。
神々と祭りの、花々と踊りの王国。
緑深い亜熱帯の山々から流れ落ちる無数の滝は集まって果樹園や水田を潤しながら南へ流れ、大海原と接するキリア湖に注ぐ。
人々は大地の女神、水の男神を讃え、村々の社に|八百万〈やおよろず〉の神々と自然界の|精霊〈シー〉を祀って、踊りを奉納する。
踊り手となる若く美しい娘達は、神々と対話する者として尊敬され、その最高の晴れ舞台は広大なキリア湖の畔、輝く水の都として名高い首都ダイキルの大神殿で三年に一度開かれる、水の祭り。
そこで王国一の踊り手、「水の巫女姫」が『龍王の舞踏』を奉納するのだ。
踊り手として幼いうちから鍛えられ、磨き抜かれてきた娘達の中で、今年十四になるリーリエは、舞台の最前列に並ぶ取り分けて美しい部門には入っていなかった。花の群れに譬えられ、たおやかな優しさを愛でられる娘達の中、父親似のはっきりとした顔立ちと長めの手足は、個性が強すぎて群舞に向かぬ、と評されていた。
自分の顔で唯一気に入っているのは、長いまつげのくっきりとした大きな眼だけ。その眼すらも、負けず嫌いの眼差しがきつすぎると、いつも注意されてしまうのだ。
だがその動きはひときわしなやかで、若い柳のように優美だった。
大勢で一緒に踊っても、自然に眼がいってしまう、いきいきとした力強さ。
今でこそ教師達に眼をつけられやすい,荒探しをされやすいという弱点だが、それは正規の踊り手になった時、何ものにも替えがたい長所になるはずのものだった。
なのに。
(格下げになるくらいだったら死んだ方がましだわ!)
仲の良いアリナとサンが元気を出せと笑いかけてくれたが、意地悪なマリエールと取り巻きたちが後ろで嘲笑っている。
夕食前の自由時間に、寄宿舎で皆と顔を合わせる気にもなれず、リーリエはそっと学校を抜け出した。