第八話 友達のアオ
永くひとつの会社で働いていたら、当然のように出世した。手にしている社会的地位は、年々大きくなっていると自覚している。
それと同時に、色んなものを失ってゆく。若さ。体力。健康な体。
そんなことを感じながら、俊康は、仕事を終えて帰宅した。
平日の、午後八時。
俊康は、四十四歳になっていた。
令和四年。八月。またこの季節がやってきた。夏祭りの季節。
「ただいまー」
帰宅してリビングに足を運ぶと、娘が、ソファーに座りながらスマートフォンを見ていた。
最近、娘は、YouTubeの動画をよく見ている。その音が、俊康の耳にも入ってくる。聞き覚えのある鳴き声。ひよこの声。どうやら、ひよこの動画を見ているようだ。
「あ、お父さん、お帰り」
言いつつも娘は、俊康の方を見ようともしない。動画に夢中なようだ。どこか素っ気ない。
これが反抗期か、などと思いつつ、俊康は冷蔵庫を開けた。冷えた麦茶がボトルに入っている。冷蔵庫から取り出し、コップに注いで飲んだ。冷たい感触が喉を通って気持ちいい。歳のせいか、最近すっかり暑さに弱くなった。
妻は、ダイニングで夕食の準備をしていた。
「ただいま」
「お帰りなさい。今日もお疲れ様」
夫婦仲は円満と言っていいと思う。いつも、ちゃんと互いを労い合っている。一緒のベッドで寝ている。今でも、月に一度はセックスをする。
娘の動画の音が止まった。ひとつの動画の再生が終わったのだろうか。
再生が終わるとほぼ同時に、娘はソファーから立ち上がった。軽い足取りで、俊康のところまで来た。
「ねえ、お父さん。お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
俊康はYシャツのボタンを外しながら、娘の話に耳を傾けていた。
「私ね、また、ひよこ飼いたい。てか、私が産まれたときは、ユーマもアオももうニワトリだったから、ひよこから飼いたい」
Yシャツのボタンを外す俊康の手が、止まった。
「どうしたんだ? 急に」
「いや、ずっと思ってたんだよ。また飼いたいな、って。今度は、ひよこから面倒見たいな、って」
この数十年で、世の中は大きく変わった。動物愛護法なんかも取り上げられるようになって、夏祭りでカラーひよこを見かけることはなくなった。
それでも、と思う。
「まあ、いいけど。でも、祭りとかでは飼わないぞ。飼育状態が良くないだろうからな」
雄馬は、もういない。ニワトリになることを願いながら売る奴は。
「わかってるよ。あのね、友達のお姉ちゃんが酪農の大学に通ってるんだけど、そこから貰えるらしいの」
「そうか。まあ、いいんじゃないか」
俊康は妻に目を向けた。
「いいよな、ママ」
「私はもう相談されて、オッケーしてるよ。でも、ちゃんと皆で面倒見るんだよ?」
「ああ」
「分かってるよ」
俊康と娘が、口々に妻に返事をした。
「じゃあ、ニワトリ小屋、掃除しないとな」
「うん。もう十年くらい使ってないからね」
「名前は、もう決めてるのか?」
聞くと、娘は、ニンマリと子供らしい笑顔を浮かべた。
「決まってるじゃん。ユーマとアオだよ」
娘の言葉を聞いて、俊康の頭の中に、幼い頃の記憶が蘇った。今の娘よりも幼かった頃。その頃の、幼馴染みの言葉。
『トシもさぁ、アオの友達だ。トシは、俺の友達だからなぁ』
自然と、俊康の顔に笑みが浮かんだ。
「そうだな。友達の名前だもんな」
(終)