第六話 大人だから子供のふりをした、青年時代
高校を卒業してから、ひとつの会社で働き続けた。「継続は力なり」を物語るように、俊康は職場に馴染み、資格を取り、出世した。
二十四歳になった俊康は、工場内のひとつの現場で、主任になった。さらに、他の現場にヘルプに出ることもあった。
平成十四年の、八月。今年の夏祭りも、そろそろ終わる時期だ。
日勤の仕事を終えた。俊康は、工場を出て帰路についた。
ぬるく緩い風が吹いている。
午後七時。工場近くにある小さな公園では、小学生くらいの子供が、残り少ない夏休みを惜しむように遊んでいた。
まだ少し明るい空には、月が出ている。快晴と言っていい天気だ。
今年も、そろそろ連絡が来るかな。自宅までの道のりを歩きながら、俊康はそんなことを考えた。夏祭りの季節には、必ず雄馬から連絡が来る。
もちろん、雄馬と会うのはこの季節だけではない。学生の頃に比べるとすっかり頻度は減ったが、年に二、三回は彼と会い、食事をし、昔を懐かしみながら話をしていた。
それは、幼い頃を思い起こさせる楽しい時間だった。無邪気で、強気で、活気に満ちていた頃。
けれど、この季節に連絡が来るとき、雄馬は必ず何かを抱えていた。それも、心が重くなるような何かを。
それでも俊康は、雄馬から連絡が来ることを不快に思わなかった。小さな頃から一緒にいた、幼馴染み。親友、なんて言葉じゃ足りない。でも、兄弟なんて言葉も似合わない。二人はまったく似ていない。
俊康は今、実家を出て彼女と同棲していた。結婚を考えていた。それなりにいい給料を貰っているので、貯金も貯まってきた。郊外に一軒家を買う際の頭金くらいは貯まったはずだ。
歩いていると、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
この数年で、携帯電話の機能ははるかに進歩した。少し前まで通話に利用していたPHSは、もうすっかり廃れている。今の携帯電話は、簡単な用事なら、通話をしなくてもメールで事が足りる。
携帯電話をポケットから取り出した。二つ折りのそれを広げた。ディスプレイには「坂下雄馬」の文字。
「もしもし」
「ああ、トシぃ」
雄馬が俊康を呼ぶ声は、相変わらず間延びしていた。
「おう。どうした?」
「トシぃ、今日、暇かぁ? 時間、あるかぁ?」
雄馬の声は、明るかった。けれど、どこか濁っていた。まるで、口の中に何かを入れながら喋っているようだった。
「まあ、暇って言えば暇かな。仕事も終わったし」
「じゃあ、これから会えるかぁ? 知らせたいことと、頼みたいことがあるんだぁ」
一瞬だけ、一緒に暮らしている彼女のことを考えた。ほんの一瞬だけ。雄馬と会うなら、帰るのは遅くなるだろう。しかも、明日も仕事だ。こりゃあ、今日のセックスはお預けだな。そんなことを一秒程度だけ頭に浮かべて、俊康は返事をした。
「ああ、分かった。どこに行けばいい?」
「じゃあ──」
雄馬が指定してきたのは、思った通りの場所だった。一条公園の、アオの木。
「ああ、分かった。あと三十分もすれば行けると思う」
「んじゃ、待ってるからなぁ」
通話を切った。家で待っている彼女に電話をした。友達に会ってくる。だから、今日は遅くなるかも知れない。簡潔に要件を伝えて、電話を切った。早足で一条公園に向かった。
行き慣れた一条公園に着くと、すでに雄馬は来ていた。両腕で、段ボールの箱を抱えていた。直径一センチほどの穴がいくつも空いた、段ボール。
雄馬に近付くと、聞き覚えのある鳴き声が聞こえてきた。何の鳴き声か、すぐに分かった。
ピヨピヨという、ひよこの鳴き声。
「ああ、トシぃ」
俊康の姿を見て、雄馬は嬉しそうな顔を見せた。顔いっぱいの笑顔。けれど、その顔は腫れ上がっていた。数人がかりで殴られたような顔。それでも彼は、嬉しそうに笑っていた。
腫れた雄馬の顔を見て驚き、俊康は彼に駆け寄った。
「どうしたんだよ!? 喧嘩でもしたのかよ!?」
「ああ、まあなぁ。でも、俺達の世界じゃあ、喧嘩なんて当たり前のことだからさぁ」
顔が腫れていることなんて、どうでもいい。そう言わんばかりの様子で、雄馬はその場にしゃがみ込んだ。
「そんなことよりさぁ、トシぃ。これ、見てくれよぉ」
雄馬は、地面に置いた段ボールを開けた。何が入っているかなんて、聞かなくても分かっていた。さっきから、鳴き声が聞こえてくる。
雄馬が開けた段ボールに入っていたのは、二羽のひよこだった。着色なんてされていない、元気な様子のひよこ。ちょこまかと、せわしなく動き回っている。
「元気そうなひよこだな。可愛いな」
素直な気持ちが、俊康の口から出た。
アオのことを思い出した。母親にアオのことを話したとき、長くは生きられない、と言われた。彼女の言う通り、アオは短命だった。
でも、この子達は、きっとアオとは違う。そう断言できた。
「元気だろう、こいつら。絶対に長生きできるように、売るまでの飼い方も工夫したんだぁ。俺から買っていった奴と、ずっと一緒にいられるようにさぁ。ニワトリになって、元気に鳴いてほしくてさぁ」
「……そうか……」
雄馬の嬉しそうな顔を見て、胸が痛んだ。それでも俊康は、雄馬が望みを叶えたことを、素直に祝福した。
雄馬は、言っていた。元気で長生きするひよこを売りたい、と。ニワトリになるまで生きて、ずっと一緒にいられるひよこ。
雄馬は、その望みを叶えたのだろう。今年の夏祭りで。
「雄馬、言ってたもんな。長生きするひよこを売りたい、って。長生きして、ニワトリになって、ずっと一緒にいられるひよこを売りたいって」
「そうなんだぁ。ようやく、叶ったんだぁ」
「よかったなぁ」
雄馬のような、間延びした口調で称えながら。笑顔の彼に、笑顔を返しながら。
俊康の頭の中には、現実の残酷さが浮かんでいた。
ひよこは、当たり前だが、成長するとニワトリになる。声が大きいニワトリ。もっとはっきり言うと、うるさいのだ。それこそ、近所から苦情がくるほどに。
雄馬の売ったひよこは、長生きするだろう。アオと違って、ちゃんとニワトリになるだろう。
だが、雄馬からひよこを買った人達のうち、どれだけの人が、ずっと飼い続けてくれるだろうか。
祭りに来たときは、気持ちが高揚している。その高揚感に任せて、ひよこを買う。けれど、数日もすると冷静になるだろう。ひよこを買ったことを後悔する人が、大半だろう。
その結果、売られたひよこがどうなるか。
考えたくなかった。言いたくなかった。こんな現実を知る大人になんて、なりたくなかった。子供の頃から変わらない雄馬の前では、自分も、子供でいたかった。
現実から目を逸らすように、俊康は精一杯笑った。純粋な雄馬の夢を、壊したくなくて。
「よかったな、雄馬。きっと、お前が売ったひよこの中には、アオの生まれ変わりだっているよ。アオは、今度こそ、長生きしてニワトリになれるよ」
「ああ、よかったぁ」
腫れ上がった雄馬の顔には、満足そうな笑み。けれどすぐに、その表情が少し変わった。
「それでさぁ、トシぃ」
「うん、どうした?」
「頼みがあるんだぁ」
「何だ?」
雄馬は、段ボールの中に手を入れた。ひよこの一羽が、雄馬の手を嘴で突いていた。
「実はさぁ、こいつら、売れ残りなんだぁ。夏祭りの間に、売れなかったんだぁ」
「そうなのか」
予想はついていた。高揚感に包まれた祭りの客には、普通の黄色いひよこより、カラフルなひよこの方が売れるだろう。たとえそのひよこが、長生きしないと分かっていても。
「できれば、俺が飼ってやりたいんだけどさぁ。実は、俺、これからしばらく、ひよこなんて飼えない生活になりそうでさぁ」
「どういうことだよ?」
俊康の疑問に、雄馬は答えなかった。いつまでも子供のようだった彼が、このときだけは、大人が浮かべるような曖昧な笑みを浮かべた。その場の空気を誤魔化すような笑み。
「トシぃ。こいつら、飼ってくれないかなぁ。俺も、お前になら、任せられるからさぁ」
縋るような目だった。泣きついてきそうな口調だった。それはまるで、アオが死んだ直後のような。
『トシぃ。アオが、死んじゃったんだ……一緒に、お墓、作ってぇ』
あのときの雄馬の声が、俊康の頭に浮かんだ。もう二十年近くも前のことなのに、はっきりと。
断れなかった。断る、なんて選択肢すら思い浮かばなかった。考えもしなかった。ほとんど反射的に、俊康は頷いていた。
「わかった。俺が飼うよ。ちゃんとニワトリにしてやるから」
すぐに雄馬の笑顔は、彼らしい、子供のような笑顔に戻った。
「ありがとうなぁ、トシぃ」
子供のような笑顔なのに、雄馬は、どこか泣きそうでもあった。
段ボールごとひよこを受け取って、雄馬と別れた。
別れ際に、雄馬が言った。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「しばらく連絡取れなくなるけど、必ず連絡するからさぁ。そんときは、ニワトリになったそいつらに会わせてくれよなぁ」
雄馬がどういった事情で、しばらく会えなくなるのか。それはきっと、人には言えないようなことなのだろう。彼は、そういう世界で生きているのだ。彼を取り巻いているのは、そういう世界なのだ。たとえ彼自身が、子供のような心を持っていても。
だから雄馬は、先ほど、大人のような笑顔を見せた。俊康に、自分の事情を悟られまいとして。
「ああ。二羽とも、元気なニワトリにするからな」
雄馬が、自分の事情を隠そうとしている。だから俊康も、気付かない振りをした。雄馬に合わせるように、いつまでも子供のような振りをした。
俊康は一条公園を出た。彼女にどう説明しようか、などと思いつつ。もっとも、この二羽を飼わないという選択は、俊康の中にはなかった。
ひよこが入った段ボールを運んで、俊康は、雄馬から遠ざかる。振り向かなかった。ただ、この二羽のひよこをどうやって飼おうか、とばかり考えていた。
だから当然、気付かない。俊康の背中を見送る雄馬の顔が、年相応になっていることに。
──結局、これが、最後となった。
俊康が見た、雄馬の最後の姿。