第五話 変わってしまって、社会人になった
高校を卒業した俊康は、市内の食品工場に就職した。大手食品会社の製造工場。一般的な工場に比べると給料も高く、大手だけあって安定もしていた。
就職してから、フォークリフトの資格も取得した。工場内の資材を移動させ、運ぶための資格。当然のように、入社当初から比べて給料は上がってきていた。
平成九年。
俊康や雄馬が高校を卒業して、一年少々が経っていた。
八月。また今年も、この季節がきた。夏祭りの季節。
夜勤を終えて、俊康は家で寝ていた。朝十時に帰宅して、軽い食事をとり、夜まで眠る予定だった。明日は休み。だから、ゆっくりと体を休めよう、と。
目覚まし時計のタイマーは、午後七時にセットした。
しかし、それよりも早く目を覚ますことになった。
俊康の枕元で、PHSの着信音が鳴った。
PHSは、昨年あたりから市場に出回り始めた小型の携帯電話だ。ほんの少し前までの携帯電話は、大きなボックスごと持ち運ぶ必要のある不便なものだった。しかも、音質は悪い。
しかし、PHSは、従来の携帯電話よりも遙かに音質が良く、しかも片手で持てるサイズだった。便利になったな、などと思ってしまう。
もっとも、こうして眠りを妨げられることもあるから、便利なのも考えものだ。
半分寝ぼけながら、俊康は電話に出た。
「はい。もしもし」
「トシぃ」
PHSの向こうから聞こえてきたのは、雄馬の声だった。彼らしくない、どこか弱気そうな、沈んだ声だった。
「なんだ、雄馬か。どうしたんだよ?」
雄馬と最後に会ったのは、半年ほど前のことだった。そのときに、購入したばかりのPHSの電話番号を教え合った。
「トシぃ。今日の夜、暇かぁ? 仕事、ないのかぁ?」
俊康の眠気が、少しずつ覚めてゆく。意識がはっきりしてくる。
雄馬の声は、やはり沈んでいる。そう感じたのは、寝ぼけているせいではなかった。
最後に雄馬と会ったのは、彼の父親が亡くなったとき。そのときの声に似ている気がした。
「どうしたんだよ? 何かあったのか?」
「トシぃ」
弱気な雄馬の声を聞きながら、俊康は、布団の中で体を起こした。
「俺さ、夜勤明けで、今起きたところなんだ。だから、今からシャワーでも浴びるよ。それから家出るから──」
俊康は、部屋にある目覚まし時計を見た。時刻は、午後六時半を指していた。
「──七時半か、八時くらいでいいか?」
特に要件を言われなくても、俊康は分かっていた。雄馬は、俊康に会いたいのだ。会って、何かを言いたいのだ。鼻水を垂らすような年頃からの付き合いだから、それくらいは分かる。
「疲れてるのに、ごめんなぁ、トシぃ。じゃあ、一条公園で待ってるからさぁ」
「ああ。アオの木のところでいいな?」
「ありがとうなぁ、トシぃ」
俊康は布団から出ると、大きく伸びをして、セットしていた目覚まし時計を止めた。どうせあと三十分後には起きるつもりだったのだ。
部屋から出ると、母親が仕事から帰ってきていた。子供の頃から住んでいる、二DKのアパート。もうすっかりボロくなっている。夏は暑いし、冬は寒い。引っ越したいとも思う反面、今さらとも思ってしまう。
「あら、俊康。起きたの?」
母親が聞いてきた。彼女は、俊康が就職して家に生活費を入れるようになっても、昔と変わらず働いている。もう五十になるので、最近は疲れが取れないとボヤいていた。
「ああ。シャワー浴びて、ちょっと出かけてくる」
「そう。どこに行くの?」
「一条公園。雄馬に会ってくる」
「あんた達、いくつになっても仲いいね。雄馬君は元気?」
「まあね。たぶん、元気」
雄馬が檜山組に入ったことを、母親には話していない。自分の息子が、暴力団員と付き合いがある。そのことに、彼女はいい顔をしないだろう。無駄な心配をさせたくなかった。
シャワーを浴びて髪の毛を乾かし、軽く食事をした。歯を磨いて、出かける準備をした。時刻は、七時半になっていた。
家から出ると、ぬるい風が吹いていた。夏祭りの季節の風。
夏休みだからだろう、親子連れで歩いている家族が何組かいた。祭りの帰りか。それとも、親子でどこかに遊びに行った帰りか。
あんなふうに親子で遊びに出かけることなんて、俺達にはなかったな。すれ違う親子連れを見ながら、俊康は昔を振り返った。
俊康の母親は、俊康を育てるために身を粉にして働いていた。だから俊康は、たとえ裕福でなくとも、食べるものや着るものに困ったことはない。反面、親子で夏祭りに行ったこともない。
雄馬の父親は、生活保護で得た金を自分の酒代に回していた。いつも酔っ払って、自堕落に生きていた。だから、雄馬が父親と遊びに行くことなどなかった。唯一の例外は、アオを買った夏祭りのときだけ。俊康の知る限りでは、だが。
一条公園について、アオの木の下に足を運んだ。
アオが眠る木の下。雄馬が父親に買い与えられた、小さな命。小さな、青いひよこ。
ニワトリになれなかった、ひよこ。
雄馬は、すでに来ていた。遠目に見ると、彼は、普通の白いシャツにスラックスを履いていた。近付いてみると、彼の着ているシャツが、変わった柄だということに気付いた。赤黒い、まるで血痕のような柄のシャツ。
雄馬はアオの木に寄りかかって、どこか呆然としていた。
さらに近付いて、俊康は、ようやく気付いた。雄馬の服の模様が、決してシャツの柄ではないことに。
昔の喧嘩で、相手の血が服についたことがある。だから分かる。
雄馬のシャツについているのは、本物の血痕だった。
俊康は慌てて、雄馬に駆け寄った。
「おい! 雄馬! お前、怪我してるのか!?」
駆け寄りながら声を掛けると、雄馬が俊康に気付いた。
雄馬は、泣き笑いのように顔を歪ませた。
「ああ、トシぃ。久し振りだなぁ」
そのまま、アオの木に背中を擦るように、ズルズルとその場に座り込んだ。
「おい! 雄馬! 大丈夫か!? 救急車呼ぶか!?」
「ああ、大丈夫だよぉ。怪我してるのは、俺じゃねぇんだ。これはさぁ、返り血なんだぁ」
雄馬の声は、涙声に近かった。
もしかして、こいつ、人でも殺しちまったのか? そんな疑問が俊康の頭の中に浮かんだ。だから、こんなに茫然自失になっているのか?
「何があったんだよ? 何かあったから、俺を呼んだんだろ?」
もし本当に、雄馬が人を殺したのだとしたら。俊康の背筋に鳥肌が立った。背中と脇が冷たくなった。汗が滲んでいる。これは、暑さのせいで出た汗じゃない。
「トシぃ。俺、恐くなっちゃってさぁ」
雄馬は、右手で目を押さえた。かすかに震えていた。
「何があった? ゆっくりでいいから、話してみろよ。そのために俺を呼んだんだろ?」
「トシぃ」
雄馬は声を震わせながら、拙く話し始めた。
雄馬の所属している檜山組では、薬物は御法度だった。薬に手を出すのは恥。そんな掟があった。
けれど、その掟を破った者がいた。雄馬を檜山組に誘った先輩だという。狂走会の、元総長。
薬に手を出した元総長は、粛正された。
「日本刀でさぁ、腕、斬り落とされちまったんだよぉ。右腕がさぁ。先輩の利き腕、右腕なのにさぁ」
元総長の右腕を斬り落とす際に、雄馬は、彼の腕を捕まえている役だったという。
「先輩なぁ、震えてたんだよ。ガタガタいってさぁ。俺、手首をガッチリ掴んで、動けないようにしてたのに、震えてるのが分かるんだよぉ。オヤジがさぁ、先輩の腕に日本刀振り下ろして……」
「オヤジ」というのはもちろん、雄馬の父親のことではない。
その「オヤジ」は、驚くほどあっさりと先輩の腕を斬り落とした。まるで、大根でも切るように。
「血がさぁ。ドバドバ出て……俺は、先輩の腕を片付けて……他の人達は、先輩の止血して……」
話しながら、雄馬の体が大きくガタガタと震え始めた。
彼は、泣いていた。
「先輩、恐かっただろうなぁ。俺も、恐かった……人って、あんなに簡単に壊されるんだよなぁ。簡単に、自分の腕がなくなっちまうんだよぉ……」
雄馬のシャツを染めているのは、元総長の血。雄馬が片付けたという元総長の腕から、流れ出た血。
今の雄馬の姿が、現実的に物語る。彼が今、身を置いている世界を。その恐さを。
俊康は、雄馬の前にしゃがみ込んだ。彼の頭を、クシャリと撫でた。短く切り揃えられた、坊主頭。小学校の頃までなら大柄と言えた雄馬の体格は、今ではほとんど平均的な大きさだ。身長は一七五くらい、といったところか。それでも、俊康よりは大きい。
でも、今の雄馬の体は、ひどく小さく感じた。
「雄馬、どうする?」
「……」
「足、洗うか?」
俊康は初めて、雄馬を否定する言葉を口にした。彼が進んだ道を、否定する言葉。
「恐いと思ったんなら、潮時じゃないか? まともに働いて、平々凡々と生きてもいいんじゃないか?」
雄馬は、昔から喧嘩が強かった。俊康の知る限り、彼が喧嘩で負けたことはない。小学生の頃は、俊康のために先生だって殴った。たった十一歳の少年が、だ。
でも、雄馬の心は、決して強くない。何かあると俊康を呼んだ。「トシぃ」と間延びした口調で呼び、甘えるように話しかけてきた。
雄馬は、昔から変わっていないのだ。アオを可愛がっていた、あの頃と。アオが死んでしまって、ボロボロと涙を流していた頃と。野良の子猫を拾って、一生懸命里親を探していた頃と。
何も変わっていない。
「お前が足洗って普通に働くなら、俺も、一緒に仕事探すからさ。できるかどうかは分からないけど、ウチの工場で働けるかも聞くからさ」
雄馬は、しばらくの間沈黙した。
ぬるい夏の風が吹いている。
夏祭り帰りの子供の声が聞こえる。
公園を横切っていく親子連れがいた。子供は、リンゴ飴を手に持っていた。
普通の家庭で育ち、普通に生きている子供。普通に生きている人達。俊康は、そんな人生を選んだ。雄馬は、普通とはまったく違う人生を選んだ。
幼い頃から一緒なのに、まるで違ってしまった人生。
「トシぃ。俺なぁ」
しばらく経ってから、雄馬が話し始めた。
「夏祭りで、ひよこ、売りてぇんだぁ」
夏祭りの出店。テキ屋。彼等の素性がどのようなものか、もう分からない歳ではない。雄馬達の世界にいる人達。彼等が店を構える、夏祭り。
「アオみたいに、変な色したひよこじゃねぇんだぁ。元気でさぁ、長生きしてさぁ。格好いいニワトリになってさぁ」
ふいに、俊康は思い出した。アオを弔ったときに、雄馬が言っていたことを。
『じゃあ、俺はさぁ、死なないひよこを育てて、売るやつになるんだぁ。変な色にしないで、ちゃんと、ニワトリになれるひよこを売るんだぁ』
雄馬と俊康は、二人で会うとき、ほとんど毎回ここに来る。アオが眠る、この木の下に。
『ニワトリになっても、ずっと友達でいられるようにするんだぁ』
アオは、自分の友達。そう、雄馬は言っていた。
友達には元気でいてもらって、格好いいニワトリになってほしい。大きい声で鳴いて、いざとなったら嘴と爪で戦って。
雄馬は、雄馬のままだ。昔から、何も変わっていない。
俊康が──雄馬の友達が、どれだけ変わってしまっても。