第二話 同じ方向を見ていた、小学生時代
「なんでお前は喧嘩ばかりするんだ!?」
怒鳴り声と同時に、バチンッという音が聞こえた。
その音を耳にして、俊康は、通りがかった職員室の前で足を止めた。
小学校五年。昭和六十三年の、七月。もうすぐ夏祭りの季節。
そんな平日の、昼休み。
夏場で暑いからだろう、職員室のドアは開け放たれている。
俊康は、職員室の中を覗き見てみた。怒鳴り声や今の音の正体には、概ね気付いていた。
職員室の中で、雄馬が、担任の教師に怒鳴られていた。
やっぱりな。俊康は胸中で呟きながら、大きく深呼吸をした。
雄馬が怒られている原因は、自分にもある。それなら、あいつを助けないと。そんなことを思いながら、職員室内に足を踏み入れた。
雄馬は、三年生くらいから急激に体が大きくなった。腕っぷしも強くなった。貧乏な家庭を馬鹿にする奴等を、片っ端から殴り倒して黙らせるようになった。
俊康は、相変わらず雄馬とよく遊んでいた。必然的に、彼と一緒に喧嘩に明け暮れるようになった。
雄馬や俊康が殴り倒した同級生が、仕返しに、自分の兄貴やその友達を連れてくることもあった。
俊康は、雄馬と違って学年の中でも小柄だった。雄馬ほど腕っぷしは強くなく、もちろん、喧嘩も彼ほど強くない。それでも、雄馬と一緒に喧嘩を続けるうちに、戦い方を覚えていった。
相手が脅すようにベラベラと喋っているうちに、とりあえず一発かます。小柄な自分が拳で殴っても、相手はそれほどダメージを受けない。だから、襟首を掴んで思い切り頭突きを食らわせる。相手の鼻や口に当たれば、血まみれになるほどの大ダメージを与えられた。
しかし、戦い方を覚えたといっても、俊康が強くないことに変わりはない。こちら側の主力は、あくまで雄馬だった。俊康がひとり這いつくばわせる間に、彼は二人三人と叩きのめしていた。
先日は、同級生が、兄貴とその友達を連れてきた。以前、雄馬や俊康にやられた同級生。その仕返しに、だ。同級生の兄貴は中学生。その友達も、もちろん中学生。それが、五人もいた。
絡まれた雄馬と俊康は、いつものように迎え撃った。五対二。いや、むこうには同級生もいるから、六対二か。手加減なんて、もちろんできなかった。
雄馬も俊康も、メチャクチャに殴られた。顔が、岩のように腫れ上がった。でも、骨折などの重傷は一切負わなかった。
相手の中学生のうち四人は鼻と歯が折れ、一人は頬骨を陥没骨折した。頬骨を陥没骨折したのは、たぶん、倒れたところで雄馬に顔面を踏みつけられた中学生だろう。
ちなみに同級生は、兄貴達をおいてどこかへ逃げていった。
どう考えても、悪いのは相手の方だ。ただ、結果として相手の方が重傷だっただけで。こっちだって、中学生に絡まれて必死だったんだ。
憤慨しながら、俊康は、ズンズンという足取りで雄馬とその担任に近付いていった。
「先生。ちょっといいですか?」
「あ? 何だ? 今取り込み中だ」
言いながら、先生は煙草を口にし、火を点けた。
「今、先生が雄馬を怒ってるのって、あれですか? 中学生五人をヤッたやつ」
「何だ? 知ってるのか?」
どこか白々しい口調だった。
「俺も一緒だったんで」
「おい、バカ!」
焦ったような表情を見せて、雄馬が怒った。
「お前はさぁ、関係ないだろぉ! いいから教室戻れよぉ!」
雄馬のセリフで、俊康は悟った。いつものことなのだ。雄馬は、俊康と二人でした喧嘩でも、ひとりでやったと言い張る。自分ひとりで泥をかぶって、自分ひとりで先生に殴られて、自分ひとりで反省文を書くのだ。
雄馬がそんなことをする理由は、単純だった。俊康は、勉強ができるから。雄馬と一緒に遊んで、一緒に喧嘩をしていることを抜かせば、俊康は優等生だった。だから雄馬は、俊康を巻き込むまいとしているのだ。
「いや、関係なくないだろ。俺ら二人で、あいつらヤッたんだし」
煙草の煙を吐きながら、先生は舌打ちをした。成績優秀な生徒には、問題なんて起こしてほしくない。それが教師の本音だ。俊康を庇うという面においてだけは、先生と雄馬は同調していた。
「まあ、さすがに雄馬みたいに相手を一方的にヤるなんで無理でしたけど。でも、一応、中学生五人のうち二人は、俺がヤッたはずですよ?」
「……ふざけんなよぉ、トシぃ」
事実を告げた俊康に、ぼそりと、雄馬が漏らした。
「庇ってほしいなんて頼んでないだろ。てか、俺だって中学生をヤッたんだ。自慢させろ」
見ると、雄馬はふて腐れたような顔になっていた。
先生はため息のように煙草の煙を吐くと、自席の椅子に腰を下ろした。灰皿で、煙草の灰を落とす。
「なあ、沼川。お前は頭もいいし、お母さんだってお前に期待してるんだろ? なんで、こんな奴とツルんで喧嘩なんかしてるんだ?」
「別に、こっちから喧嘩を売ったわけじゃないですよ? やられそうだから戦っただけです」
「無理に喧嘩する必要なんてないだろ? 後で俺たちに言ってくれれば、ちゃんと手は打つんだし」
嘘つけ。俊康は胸中で吐き捨てた。俺達が同級生に嫌がらせをされたときに、見て見ぬ振りをしたくせに。
もっともらしいことを言う先生に腹が立って、俊康は、こいつとも戦ってやろうと決めた。こいつは、雄馬を殴ったんだから。
「じゃあ、とりあえず俺たちに、あの場では無抵抗で殴られていろと? そういうことですか?」
「そうは言ってないだろ。やり方は色々あるだろ?」
「例えば?」
「逃げるのが一番いいだろ」
「逃げるって、中学生五人からですか? 俺たち、どんだけ足速いんですか? チーターですか?」
「屁理屈を言うな! どうして素直に『はい』と言えないんだ!?」
先生は椅子から立ち上がり、唾を飛ばして怒鳴った。勉強のできる優等生相手でも、自分が論破されるのは気に食わないらしい。
先生のあまりの身勝手さに、俊康も苛立ってきた。もっと苛めてやりたくなった。
「もし逃げられなかったとしたら、俺たちはリンチされますよね? それで死んだらどうするんですか? 死んでから先生にチクれって言うんですか?」
「中学生に殴られたくらいで死ぬわけがないだろう!!」
「いや、死ぬことだってありますって。やってるでしょ、そういうニュース。もしかして先生、ニュースも見てないんですか?」
先生の顔が真っ赤になった。口の中で「このっ……!」と言うと、拳を振り上げてきた。
俊康の左頬に衝撃が走った。先生の拳で殴られた。けれど、この程度のことは想定内だ。
年齢が二桁に到達したばかりの、俊康。そんな子供に言い負かされた、馬鹿な大人。
そんな先生を笑ってやるつもりだった。
だが、笑えない事態となった。
「てめぇ! いい加減にしろよぉ!」
怒鳴ったのは雄馬だった。正確には、怒鳴ると同時に拳を振り上げていた。
雄馬の拳が先生を捕らえた。先生が殴り倒されると、職員室内は騒然となった。
──この職員室内の大乱闘は、後日、大きな問題となった。
俊康の母親は怒って学校に乗り込み、子供に言い負かされた挙げ句に殴る教師について言及した。
俊康の母親は、女手一つでも全力で働き、全力で息子を育てている。全力で、息子を愛している。
雄馬の父親は、この問題に対してまともに対応することはなかった。雄馬が殴られたことに対しても、何も文句は言わなかった。
中学生が大怪我をした問題は、最終的にうやむやとなった。
その後、年が変わって六年生になる頃には、雄馬はすっかり有名人となっていた。そこら中で暴れ回っていた。俊康が一緒のときだけではなく、ひとりのときにも。その名前は、学校内だけではなく市内に知れ渡った。
『一条東小の坂下雄馬』
それは明らかに、悪名だった。
それでも俊康と雄馬は、友達だった。