4.女王マリポーサ
それは穏やかに晴れた、肌寒い朝だった。
マリィは、素朴で動きやすい長袖のワンピースを身にまとっていた。
爽やかなミントグリーンの生地が、彼女の頬を血色よく見せている。
商人には服を持ってきてもらえなかったので、母が生前着ていたものを、リヴェールが手直ししたのだ。
この屋敷で生涯困らずに生きていけるようにと、母が詰め込んでくれた裁縫の知識が、このような形で役立つとは思わなかった。
長い黒髪は動きやすいように、後ろで一つに束ねられ、リボンで結ばれていた。
小柄なマリィのために、女性にしてはかなり背の高い母のワンピースの裾をばっさりと、切った。その余り布で仕立てたものである。
「かわいいものがいいわ」とマリィが言うので、シンプルだったワンピースの首元には、白い布で大きなつけ襟を作り、アクセサリーの代わりに留めてやった。
二人は日課である、雨粒苺摘みのために森へ出た。
リヴェールの細い腕に、マリィが自らの腕を絡める。
マリィは、目が見えなくとも、持ち前の勘の良さで家の中やその近辺を探索することが増えていた。
もちろん、危険な目に合わないように、リヴェールがこっそりと防御魔法をかけておいたのだけれど。
しかし、二人で出かける時には、必ずこうして腕にしがみつくのであった。
「朝、泉へ出かけてきたのよ」
マリィは鈴を転がすような声で、にこにこして言った。
泉は屋敷の裏手の小道をしばらく進んだところにある、可憐な野草が群生している場所だ。
「この目で見られるといいのだけれど……あのね、すごくいいにおいだったの。
お花だけじゃないわ。
座ったらふかふかだろうなって思ったのよ。柔らかい草の匂いがしたの」
雪のように真っ白だった彼女の肌は、今も色白ではあるものの、日々の散歩とベリー摘みで、健康的な色合いに変化している。
リヴェールは、そんなマリィを眩しく思いながら眺めた。
それからふと思い出したように「開かずの井戸には近づいてはいけないよ」と付け足した。
マリィは口をつんと尖らせる。
「もう、リヴェールったら。何度も言わなくても覚えられれるわ!」
「でも、……森の中はたいてい安全だと確認しているけど、あそこは危ないんだよ」
開かずの井戸は、泉のある場所から、腰丈もある薮をかき分けて、さらに奥に進んでいったところにある。
リヴェールが子どもの頃、今から十年以上も前に見つけたのだが、そこだけが、空間を切り抜かれたように禍々しい雰囲気があり、──この森は、実はあれを隠すためにあるのではないかと彼は思った。
井戸の蓋は固く閉じられ、札のようなものが貼られている。
それを眺めているだけでも、肌がちりちりと痛むようで、幼いリヴェールは足早にそこを立ち去ったのだった。
しかし、──リヴェールはそのとき、自らの後ろにいた者の存在に、そしてその子どもが何をしたのかに、気がつかなかった。
「今日は、マリィがランチボックスの当番だね」
二人の日課は、屋敷の厨房で料理をすることだった。
マリィは、やはり掃除や洗濯は不得手だったが、料理は味つけばかりでなく、うまくこなしてみせるようになっていた。
この頃では、一人で弁当を作ってくれることもあり、一日ごとに当番を決めて、昼までは中身を知らせぬようにする遊びのようなものが二人のお気に入りであった。
二人はほほ笑みあい、結界の中に雨が落ちてこない時間帯を選んで、森の奥へと進んでいった。
「女王マリポーサ!」
その声は、静謐な森をびりびりと揺らした。
声のする方には、出入りの商人と、見たことの無い男が立っている。
男はそろそろ中年に差しかかるといった年齢だろうか。
がっしりとした大柄の男は、まるで飛ぶように地面を蹴って駆けてくる。
拳を振り上げ、今にもマリィに殴りかかろうとしていた。
リヴェールは咄嗟に彼女の周りに結界を張り、自分も庇うように前に出た。
男は魔法の使い手ではなかったのだろう。
リヴェールが瞬時に自身の周りにも展開した結界に阻まれて、後ろへ吹き飛んで行った。
「リ、リヴェール……」
商人がおろおろした様子でこちらに手を伸ばす。その緑の目が不安げに揺れている。
子どものころから、同じく商人であった父親に連れられて、森の奥まで行商に来てくれていた幼馴染のアビー。
今は彼女への親愛の気持ちより、怒りのほうが勝っていた。
リヴェールは彼女を冷たく一瞥すると、マリィの肩を抱き、踵を返した。
「あたしは、あんたが心配だったんだ……」
彼女の声が追いすがってくる。
リヴェールは振り返らなかった。
彼は空に手をかざし、透明な硝子のような、それでいて金剛石のように強度のある結界を、屋敷の周囲に重ねてかけた。
「待ちなよ。──その女は罪人だ!」
アビーの言葉に、足を止めたのはマリィだった。
「あなた、マリィのことを知ってるの?」
振り返ったマリィに、アビーは憎々しげな視線を向ける。
「は、それがあんたの手口か。
大方、記憶喪失のふりでもして、人のいいリヴェールを騙してるんだろう!」
その気迫に、マリィはびくりと肩を揺らした。
リヴェールは振り向くことなく、結界の強度を上げた。
外の音を遮断できるほどに。
国の外れにあるこの森一帯には、本来、雨避けの結界はない。
これは、リヴェールがアビーの父である商人の話を聞いて、自ら理論を構築し、作り上げたものだ。
彼は優れた魔術師で、膨大な魔力を身のうちに秘めてはいた。
だが、師を持たなかった。
だから、結界の仕上げに必要な術式が一つ足りないことには気がつかなかった。
それでも問題なく機能していたからだ。
そのとき、ぴしりと結界にひびが入った。
あまりにも小さな音だった。
雨が地面に吸い込まれるのと同じくらいの、ひそやかな音だ。
だから、二人は気がつかなかった。──その隙間から、砕けた雲の欠片が落ちてきたことにも、それがマリィのまぶたを濡らしたことにも。
屋敷に入り、後ろ手に扉を閉める。
リヴェールはマリィがぺたりと座り込んでいることに気がついた。
彼女は自らの体を抱きしめて、震えている。
その顔は血の気を失って真っ白で、ーーリヴェールは胸がひどく痛むのを感じた。
「あの人たち、マリィが罪人だって言ってたわよね?」
「ーーきっとなにかの間違いだよ」
気の利いた言葉も言えない自分を情けなく思った。
見えぬとわかっていたが、リヴェールは笑顔をつくってみせた。
マリィは顔を上げ、リヴェールに向かって抱きつくように手を伸ばした。
しかし、その手が彼に触れることはなかった。
「目が……」
彼女はそう言うと、目を擦った。
それからふるふると瞼を揺らした。
リヴェールははっと息を飲み、その様子を見守った。
重たい窓をこじ開けるように、少しずつ、彼女はその空色の目をあらわにしていった。
そして、恐れていたことが現実になった。
顔の半分が焼け爛れた醜い顔。
それを目にしたマリィは、ひっと息を飲み、顔色を失って、自室へとこもってしまったのだった。
その夜、はじめてリヴェールとマリィは別々に眠った。
そして翌朝彼が目を覚ますと、マリィの姿は屋敷にも森にも、どこにも見当たらなかった。