3.真夜中の花蜜ミルク
◆前話に登場したスープのレシピを活動報告にUPしました。
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自分の上に飛び込んできた、温かいものをリヴェールは驚いて見上げた。
「マリィ……?」
答えはなく、彼の寝間着をにぎりしめる手の力がすこし強くなった。
胸の上のマリィは、肩をふるわせている。
閉じられたまぶたの隙間から絶えずあふれだす涙が、リヴェールの寝間着をぽつぽつと濡らす。
リヴェールはどきどきとうるさい胸の音を無視して、彼女を自分の体の上から寝台へ下ろした。
自分は床に腰を下ろす。
横たわった彼女の手を片手でにぎり、もう片方は背中に回して、その華奢な背を撫でてやった。
不安で眠れないときに、母がそうしてくれたのを思い出したのだ。
しばらくすると、マリィはか細い声で「ごめんなさい」と言った。
月明かりだけの部屋の中で、その表情は見えない。
「何が?」
「全部。ーーいきなり事情のわからない女がきて、迷惑でしょう?」
彼女は昼間の様子からは考えられないくらい、しおらしいことを言う。
「ぼ、僕は、ずっとこの森にいて、だれかと関わることもなかった。
だから、ーー君には悪いんだけど、一緒にごはんを食べられたのがうれしかったな」
マリィはのろのろと体を起こし、髪をかきあげた。
それからぎゅっと目に力をいれて「ーーだめだわ、やっぱり開かない」とこぼした。
「ねえ、もう少しだけ、ここにいてもいい?」
マリィが訊いた。
母には、ーーこの家にはだれも入れてはいけないときつく言われていたけれど、気がつくとリヴェールはうなずいていた。
「怖い夢を見たの」
ややあって、マリィが切り出した。
それから不安げに自分の体を抱きしめた。
「怖い夢? ど、どんな?」
「それは、……言いたくない」
マリィは寝返りを打ち、壁のほうへと向いてしまった。
リヴェールはなぜだかその様子が愛しく思えて、くすりと笑った。
「いま笑ったでしょう?」
「ご、ごめん」
「ーーここで寝てもいい?」
「え? ああ、うん。ーーそれじゃあ、僕は君がいた部屋に行くよ」
リヴェールが驚いて部屋を出ようとすると、マリィはその寝間着の裾を掴んだ。
「どうして?」
「ええ……? うーん、どうしてだろう。でも、なんとなくそのほうがいい気がするんだ」
「わからないならいいじゃない」
答えに窮したリヴェールは、ふと思いついて「それじゃあ、後で」と言った。
「よく眠れる飲みものを作ってきてあげるよ。だから、それまでここで待っていて」
マリィは頬を膨らませたが、うなずいて、ごそごそとふとんに潜った。
森の夜は寒い。
夏が終わりかけているこの時期、昼間は雨が降らなければじっとりした暑さがあるものの、真夜中の厨房は、しんと静かで冷えていた。
リヴェールはぶるりと震えながら火を起こす。
それから瓶詰めにしてあった玲蜜花の砂糖漬けとミルクを、小鍋に入れた。
ふつふつと煮立たせている間に、カップを二つ用意する。
ミルクが花びらと同じ金色がかったのを見て火を止め、カップに注いだ。
これだけでも甘みがあるが、瓶に溜まった花蜜をスプーンですくい、とろりと入れてよくかき混ぜる。
甘ったるいくらいに甘く。それが大切。
銀のトレイに二つのカップを乗せて、静かに上に登っていくと、暗い部屋の中でマリィは穏やかな寝息を立てていた。
リヴェールは思わずくすりと笑みをこぼすと、ロッキングチェアに身を沈めた。
昨夜読みかけだった本を手に取る。
花蜜ミルクをちびちびと飲んだ。
独特の甘い香りが鼻をぬける。
喉のあたりがぽかぽかと温かくなり、いくらも読まないうちに眠りに落ちていた。
それからマリィはこの家に居着いた。
彼女は家のことなどしたことがないらしかったが、よく働いてくれた。
それは手伝うと言うよりは、幼子がはじめて見つけた遊びに夢中になるのに似ていた。
彼女はせっかちな性格で、掃除や片付けといった作業はてんで駄目だったが、見えないながらも料理にはとても興味を持った。
何度も味見をして、理想の味に近づけていくのが楽しいようだった。
ここに落ちてきたとき、その手は磨かれた大理石のようにすべすべとしていたが、リヴェールとともに台所に立ち、雑巾を絞り、森で雨粒苺を摘んだりしているうちに、少しずつ硬くなっていった。
それはとても穏やかな日々だった。
リヴェールは自分のことや母のことをぽつりぽつりと話した。
物心ついた時には、すでにこの屋敷に居たこと。
父の顔は知らないこと。
母は育ての母であり、別に血の繋がった母親がいるらしいこと……。
マリィの目は相変わらず開かなかったが、その分耳と鼻がよくなったらしく、いつの間にか森での生活に馴染んでいる。
苺摘みのかたわらで、森に生えている薬草や毒草について話すと、それを手ざわりやにおいで判別できるまでになっていた。
一度、商人が来たのでマリィの服や靴を買い求めたが、この森に立ち寄るためだけだったらしく、手持ちのものがないと言う。
次に来たとき、若い娘が好むようなものを見繕ってきてほしいと言うと、商人は眉根を寄せ、「大丈夫なのかい?」と訊いた。
「空から落ちてきたのだろう? そんな怪しげな女を置いて、危険じゃないかい」
その目には、心配とは違う色が宿っていたが、リヴェールがその意味を理解することはなかった。
マリィは森での暮らしを楽しんでいるようだったが、夜になると不安がって眠れず、結局彼女はリヴェールのベッドを占拠する。
花蜜ミルクを二人分つくり、そばで手を握っているとゆっくりと眠りに落ちていくので、いつもそうして付き添い、彼女が寝たあとにロッキングチェアに揺られて眠るようになっていた。
マリィを探している人が、心配している家族がいるかもしれない。
ふとそんな考えが頭をもたげることがあったが、リヴェールは、未来のことについて切り出せないでいた。
それと同時に、不謹慎なことに、彼女の視力が戻らないことにも安堵していた。
顔の半分が焼け爛れたようにざらりとしているリヴェールの顔は、幼いころから忌み嫌われてきた。
本当の親から追い出されたのも、母が自分をこの屋敷から決して出さなかったのもそれが理由なのだと彼は考えている。
恐れの目を向けないのは、幼いころから、父親についてこの屋敷に顔を出していたあの商人くらいのものだ。
こんなリヴェールなんかのそばに居たいと思う者などいないだろう。
いつの間にか秋も終わりに近づいていた。
久しぶりに商人がやってきた。招かれざる客を連れて。