2.記憶喪失とスープ
少女が目覚めたのは、すっかり暗くなったあとであった。
あちこち掃除をしたり、彼女のために母の寝間着を出してきて洗浄魔法をかけるなど、やることは山ほどあり、いつのまにかずいぶん時間が経ってしまっていたのだ。
リヴェールが厨房でことこととスープを煮込んでいると、とんとん、と階段を降りる音が響いた。
彼は料理に集中していたので気づかなかった。
扉が開いて、美しい少女が顔を出したとき、驚きのあまり飛び退いてしまった。
髪がところどころほつれ、埃で汚れていたが、少女は美しかった。
人形のように整った造形美がそこにはあり、リヴェールは思わずどきりとした。
しかし、なぜだか少女の瞳は固く閉じられている。
壁に手を付き、一歩ずつ探るように、ゆっくりと前に足を出していた。
「あの、……君は……」
リヴェールはどう声をかけたらいいのかわからず、しどろもどろになった。
少女は彼の声を聞くとうれしそうに頬をゆるめ、壁伝いに早足で寄ってくると、リヴェールの手を握った。
「ああ、よかった……!人がいたのね」
少女はリヴェールの胸に飛び込んでくるような勢いで近づいてくると、目を閉じたままで、覗き込むように顔を上げた。
「起きたら目が開かないし、ここがどこかわからなくて不安だったの。
ねえ、あなたはだあれ? ここは?」
先ほどの少女の様子とあまりにも違い、リヴェールは戸惑った。
「ぼ、僕はリヴェール。この森に住んでる。ええと、一応魔法使い……だろうか」
「魔法使い? すごいわ! マリィはね、魔法が使えないの」
少女はしゅんとうなだれた。
「き、君は、マリィというの?」
リヴェールが尋ねると、彼女ははっとして、それからうつむいた。
「ーーええ。そうだと思うわ」
「思う?」
「信じてくれる? 実は、思い出せないの」
マリィはそう言うと、肩を竦めた。言葉ほど深刻な感じのない、どこかおどけたような言い方だった。
しかし、物語のような話だが、不思議と納得できた。
たった一瞬関わっただけであったが、あまりにも先ほどの彼女とは違いすぎたのだ。
それからぽつぽつと話を聞いた。
目覚めたら視力と記憶を失っていたこと。名前だけは覚えていて、マリィというらしい。
「き、君は、ーーその……空から落ちてきたんだ」
リヴェールは伝えるかどうか迷いながら、なるべく言葉を選んで告げた。
「空から?」
「ああ。晴れているのに雨が降ってて、それで……」
人と話すのに慣れていなかったリヴェールは、こてりと首を傾げる彼女に、ところどころ詰まりながらなんとか説明を終えた。
マリィは急かすことも馬鹿にすることもなく、静かに聞いてくれた。
彼女は年齢よりも幼く無邪気な感じがして、不思議なことに、自分の今の状況に不安を感じていないように見えた。
それからふたりは、黒パンと、リヴェールの作っておいたスープでかんたんな夕食を済ませた。
「はじめて食べる味、だわ……」
マリィがぽつりとこぼした。
「な、なにか思い出したの?」
「ううん、全然。でも、これは食べたことがないと思うの」
マリィは開かぬ目をこちらに向けて言った。
それは、バターで炒めた腸詰め肉とコーン、玉ねぎに、粉を振ってミルクを入れ、マカロニも加えてことこと似たスープ。
育ての母が生きていたころに作ってくれた夜食だった。
まだ少し顔色が悪いようだったので、風呂に入るよりも負担が少ないだろうと、リヴェールはマリィに洗浄魔法をかけてやった。
てのひらから泡が飛び出し、彼女の体を服ごと包む。
それから細かい霧状の水と、温かい風とを出す。
マリィはくすぐったそうに笑い、幼子のようにはしゃいでいた。
寝台にもぐったのは、日付が変わったころだった。
リヴェールは大きくあくびをする。
彼は普段、日の出とともに起きて、日が沈んでしばらくすると眠りにつく、時計のように正確な暮らしをしていた。
こんなふうに普段と違うことをするのははじめてだったのだ。
ふと思い立って、窓を開けてみる。
夜の森は真っ暗で恐ろしげだが、宝石のように星が煌めいている。
空気は少し冷たくて、なんだか寂しい。
ふと心の奥にすきま風が吹くかのように、冷たいものが沁みてきた。
そのときだった。
ぱたぱたと走る音がして、扉が開け放たれたかと思うと、リヴェールはいつのまにか寝台に倒れていた。