1.堕ちてきた少女
リヴェールは、森の奥で雨粒苺を摘んでいた。
枝から一つずつぷちぷちとちぎり、腰に下げた籠に入れていく。
彼は老人のように腰のあたりをとんとんと叩くと、長く垂れている薄茶色の前髪を片手で耳にかけた。
その額には、一筋、汗が伝っている。
もしこの場に誰かがいたならば、ひっと悲鳴を飲み込んだであろう。
穏やかでたれ目がちな目を縁取るように、顔の片側に、醜く爛れた火傷の痕があるのだ。
リヴェールは、自身で髪を耳にかけたのに、しばらくするときょろきょろとあたりを見渡し、またその分厚い前髪を戻して、醜い顔の傷を隠した。
そして、淡々と苺を摘む作業を再開した。
雨粒苺は、この国でしか取れないと言われる果実である。
とにかく湿った土が好きな変わった植物で、傘のようにこんもりと茂った木の枝には、爪ほどの大きさの実がぎっしりと重たそうに垂れている。
雨粒苺は、実だけではなく、花も食べられる。
雪のように白い花は、玲蜜花と呼ばれ、鼻を近づけずともわかるほどの甘い芳香と、たっぷりの蜜が特徴だ。
リヴェールは、深い森の奥に一人で暮らしている。
ほとんどは自給自足で事足りたが、たまに訪れる行商の者に売るために、雨粒苺のジャムや、玲蜜花を乾燥させてつくる甘茶などを作っていた。
彼は生真面目な性格であった。
ジャムや甘茶は、どれも素材の良いものを厳選しており、工程や味つけもまるで機械のようにきちんと手順と量が決められていた。
そのため、寸分違わず完璧な味のものができあがるのだ。
いつでも高品質なものが卸されるので、リヴェールのつくるものたちは、食料品にしては高めの値段であるにも関わらず、飛ぶように売れた。
しとしとと糸のような雨が降っている。
リヴェールはわずかに眉を動かしたが、集中力が途切れることはなく、雨粒苺をしっかりと検分していた。
彼の手を止めたのは、音だった。
どこからかか細い悲鳴のようなものが聴こえたのだ。
顔を上げて、あたりを見渡したが何も見えない。
気のせいだったかと視線を雨粒苺に戻せば、またなにかが聞こえる。
途切れ途切れに響くそれは、だんだんと近づいてきたかと思うと、ふっと消えた。
リヴェールはぶ厚い眼鏡をくい、と上げる。
空を仰ぎ見てはじめて「今日は晴れている」と、彼は気がつき、それから雨で湿った髪や服を見て不思議に思った。
次の瞬間、リヴェールは首をひねった。
空にひらひらとはためくものがある。
「ーー天使?」
それが豪奢なドレスだとわかると、彼は青ざめた。
空から落ちてくるのは、人のように見えた。
このままだと、リヴェールのいる場所よりも少し先、森の開けたところに墜落してしまう。
気がつくとリヴェールは駆け出していた。
彼の足が遅いのもあるが、思いのほか落下速度が出ているようだ。
あと一歩のところで手が届かない。
リヴェールははっと息を飲んだ。
墜ちてくるのは少女だった。
夜空のような長い髪が、手を伸ばすかのように、はたはたと風に吹き上げられて、上に流れている。
慌てて風魔法を繰り出す。
なにも唱えずとも、リヴェールのてのひらからは、透明な空気が、雲のように広がった。
うまくその上に落ちたのだろう、少女の体はふわりと一瞬浮き上がり、それからどさりと地面に落ちた。
リヴェールは慌てて駆け寄り、はっと息を飲む。
さらりと流れる艷やかな黒髪に、抜けるような白い肌を持つ美しい少女だった。
「あの……、だ、大丈夫ですか」
リヴェールは恐る恐る聞いた。
眉が寄せられ、長いまつ毛がふるふると揺れたかと思うと、花が開くようにゆっくりとまぶたが持ち上げられた。
そして、空をそのまま切り取ったかのような美しい瞳が、リヴェールの情けない顔を映す。
彼は慌てて目を背けた。
眼鏡で多少隠れているとはいえ、醜い自分が彼女の美しい瞳に映ってはいけない気がしたのだ。
「いたた……。どうしてちゃんと受け止めないのよ。役立たず」
桜桃のように可憐な小さなくちびるから、思いもよらぬ刺々しい言葉が飛び出す。
リヴェールは驚いて言葉を失った。
「あら……? 変ね。目がかすんでよく見えないわ……」
少女は目をこすりながら、リヴェールのほうへ手を差し出した。
戸惑いながら握手をすると、ーー彼女は瞼を閉じたまま、眉をはね上げ、目尻をきっと吊り上げた。
「おまえ、何をしているの? さっさと起こしなさいよ」
リヴェールは「すみません」と小さくなり、その華奢な体を助け起こした。
少女はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ふと足元に目をやる。
「な、なによこれ……。あたしのドレスが……」
「ああ、泥まみれになっていますね。今洗浄魔法をかけま」
「いやあああ……!」
少女は突然叫び出したかと思うと、ふらふらと崩れ落ち、そのまま気を失ってしまった。
「あ、あの……」
いくら声をかけても反応はなかった。
おそるおそる触れると、彼女の体は熱を帯びている。
しかも、よく見ると苦しげに息をしている。
リヴェールは、四苦八苦してなんとか細い体に少女を背負い、元来た道を戻った。
リヴェールの家は森の奥にある。
鬱蒼と茂った木々に隠されるように建つ屋敷は、一人で住むにはとても広い。
使っていない部屋のベッドに寝かせたときには、リヴェールのほうが息も絶え絶えという状態であった。
少女はうなされ、苦しそうに顔を歪めている。
白い肌に汗の珠が浮いている。
耳慣れない言葉が口からこぼれ落ちる。
どうしていいかわからずおろおろしていたリヴェールは、とりあえず窓を開けて換気をすることにした。
たまに掃除をしていたものの、この部屋は長い間使っていないのだ。
窓を開けると、爽やかな風が吹き込んできて、森の木々がざざ、と落ち着きなく揺れた。
いつもより風が強く、雲のかけらが吹き飛ばされるように速く流れていく。
いつのまにか北の空が黒くなっている。嵐が来るかも知れない。
数年前に育ての母が亡くなってから、、この森の中に一人きりだった。
リヴェールは後ろで寝息を立てる少女を見て、不思議な高揚感が生まれるのを感じた。
母と自分のほかには、出入りの商人くらいしか人間を見たことがなかったのだ。
しかし、ふと目線をずらすと、母の残した鏡台に自分の顔が映った。
顔の半分が焼けただれており、ーーひどく醜い。
途端に胸に黒いものが広がり、リヴェールはわずかに浮かんだ感情を捨て去った。
少女が苦しげなうめき声をもらした。
その額には、濡らして絞ったタオルを乗せてあるが、触れてみるとすでにぬるくなっていた。
リヴェールは新しいタオルを出してきて、水魔法でとぷりと満たしたバケツに漬け、きつく絞った。
少女の頬には幾すじもの汗が伝っており、ーーそのうちのいくつかが涙であると気づき、リヴェールは戸惑った。
乾いたタオルでそっと彼女の頬を拭ってやり、額のタオルを交換する。
それから厨房へ向かい、起きたら彼女に食べさせようと、スープをつくることにした。