10.魔族の王
それはまだ冬だったある日のこと。
リヴェール、──今はロヴェールである──は、執務室の椅子にぐったりと凭れて、手の甲で目のあたりを覆っていた。
老獪な貴族たち、傀儡の父王、貪欲な実母……。
これまで人と関わってこなかった彼にとって、王城での暮らしはとにかく疲れるものだった。
暗殺の可能性もあるため、執務室の横に兄が造らせていた小さな厨房に立ち、無心で野菜を刻む。
酸味のある野菜の汁で野菜と肉、小麦を練ったものを煮込んで、スープをつくった。
熱々の湯気を立てるそれを、ちびりちびりと口に運ぶ。
少し前までは、一人でとる食事が当たり前だったというのに、今はぽっかりと胸に穴が空いたかのようだった。
彼は後片づけを済ませると、袖机から、黒い布で包んでおいた角を取り出した。
曲がりくねった山羊の角のような黒いそれは、魔王の角である。
「なあ、リヴェール……。本当に行くのか?」
あれはちょうど一年ほど前。霜が降りた朝のことだった。
雲の王国から落ちてきた男──フォルミーは、魔王の棲み家の前で、屈強な体をぶるりと震わせた。
マリィの行方がわからなくなった頃から、二人はずっと共に行動をしている。
二人ともこの国には身寄りがなかったし、フォルミーは、自分が関わった手前、彼女の安否が気にかかったようだ。
一年かけてようやく彼女を見つけ出すまで、気が気ではなかったが、それでも、フォルミーが共に居たことで、ずいぶん救われた。
誰かとなにげない話をしながら食事をする。
それが幸せなことなのだと、彼は実感していた。
魔王の棲み家は、雨の王国の中にあった。
いや、正確に言えば、国内に入口があったというべきか。
それも、リヴェールの目と鼻の先に。
泉の向こう。隠されるようにあった、開かずの井戸である。
魔王が棲む闇の王国は、ここから遠く離れたアスメル大陸の地中深くにあるという。
しかしながら、空間をねじ曲げた入口があることを、リヴェールは知ることとなった。
マリィと別れたリヴェールは、屋敷の書庫を漁り、それらしい文献をいろいろと調べた。
しかし、魔王についての記述はない。
だが、かつて魔族が暮らしていたという、闇の王国への入口が国内にあることを知ったのである。
そして、すべてが繋がったのだ。
見捨てられた森の奥にぽつんとある豪奢な屋敷。
これは王城に来たあとに知ったことなのだが、双子の男児、つまり忌み子が貴族に生まれたとき、表向きは殺したことにして、ここに隠されるように住むことになっていたらしい。
その意味がわかるとぞっとした。
調べてみると、忌み子のいない時代でも、屋敷にはつねに誰かが暮らしていたようだ。
書庫には秘密の金庫があり、──なぜだかそれまでは目につかなかったので、何らかの魔法が働いていたのかもしれない──、そこにはこれまでここで生涯を過ごしてきた者たちの手記があった。
なぜこの国が、天に見放されたかのような悪天候なのか、リヴェールはようやく合点がいった。
この国は、神との戦いから逃れてきた魔族が興したものだったのだ。
だから、神に見放されている。
闇の王国に残った者たちは戦争をしない保守派。ここに逃れてきたのは、神の領域を奪おうとした簒奪者だったのである。
『我々の中には、悪魔の血が流れているのだ』
そのように記していたのは、何代か前の、公爵家の三男であった。
ここに留めおかれていた者たちは、たいてい、王位継承権の低い王族であった。
彼らは皆、預かり知らぬところでの見張りであり、万が一に備えての生贄であったのだろう。自分も含めて。
王族はその身に強大な魔力を宿すと言う。
万が一、闇の王国から魔族が攻め入ってきたときに備えて、時間稼ぎの盾のように考えられていたのかもしれない。
思えば、あのような森の奥に行商の人間が来ることもおかしい。
彼らはきっと、生贄たちの安否確認を命じられていたのだろう。
あの行商の親子も。
開かずの井戸には、はじめて見つけた幼いころ以来、近づいたことがない。
しかし、事情をしってから訪れてみると、かすかに蓋が動いている。
そして、そこには子どもなら抜けられるほどのすき間があった。
リヴェールは眉根を寄せた。
「どうした?」
「──いや、気になることがあって……」
リヴェールは、井戸の蓋をちらりと見た。
それからため息をつき、手をかざす。
蓋はほろほろと焼き菓子が崩れるように、かんたんに消えてしまった。
二人は顔を見合わせ、フォルミーがごくりと息を飲んだ。そして、井戸の中へと足を踏み入れた。