9.秋の夕暮れ、別れと再会
マリポーサはその一年で、さまざまなことを学んだ。
天気の読み方や子どもたちとの接し方、苦手だった掃除や片づけが少し上手になる方法……。
王女だったときは、ごくごく最低限の教育しか与えられずにちやほやされていたが、意外なことに学ぶことはとても楽しかった。
そして、そんなふうになにかに熱中するのは、自分が自分でいるために必要なことでもあった。
少しでもぽっかりと時間が空いてしまうと、罪の意識や、リヴェールへの心配で黒い気持ちがもくもくと湧いてきて、動けなくなってしまいそうだったからだ。
朝は誰よりも早く起きて働き、夜遅くまで勉強し、気絶するように眠る。
マリポーサはそんな日々を送っていた。
春の終わりに、シスター・テレジアが亡くなった。
心臓が痛むと言って、ーー急なことだった。
マリポーサの心の焦りはよりひどくなった。
自分は善人ではない。彼女はそれをよく知っていた。
もし、この国へと落ちてきたとき記憶を失わなかったら、リヴェールと暮らさなかったら、間違いなく自分のした事をここまで後悔することはなかっただろう。
自分は悪くない、と、責められることだけを恐れて、してしまったこと本当の意味から目を背けていたはずだと思う。
マリポーサがとんでもないことをしたと自覚したのは、リヴェールとの心地よく穏やかな暮らしがあったからだ。
もし彼が殺されたら? それを考えてはじめて、人の死に間接的にでも関わってしまった罪深さを深く理解した。
そして、母のように慕っていたシスター・テレジアを喪い、マリポーサは想像していた以上の虚無感を味わっていた。
なにを食べてもおいしくないし、うまく笑えない。ふと時間が空くと、もっとこんなことをしてあげればよかったという思いが湧いてきて、罪悪感に駆られた。
マリポーサは、青白い顔をして湿地を歩いていた。孤児院へ向かっていたのだ。
いつも一緒にこの道を歩いていたシスター・テレジアはもう居ない。
そう思うと、マリポーサは自分の中にあった大切なものがすべて空っぽになってしまったような気持ちになって、その場に崩折れた。
その場所が悪かった。湿地に潜む底なし沼。
「ああ、よく見ればわかったのに」
底なし沼の周りには、円形の囲みがある。
それは、雨喚び狐と呼ばれる獣の足跡だ。彼らは底なし沼を察知する能力に長けている。
不自然に足跡がなにかを避けているような場所は危険なのだと、シスター・テレジアに何度も教えられたではないか。
すでに膝下は、まるで大地に喰われるように引き込まれてしまっており、マリポーサはもう動くことも諦めていた。
そのときだった。どこかで、自分を呼ぶ声がした。
目を覚ますと、豪奢な部屋の中にいた。
マリポーサは鈍く痛む頭を押さえながら、のろのろと身体を起こす。
身につけているのはさらりとした上質な絹の夜着。
天井には美しい花の絵が精緻に描かれていた。
「マリィ」
それはずっと聞きたかった人の声。
マリポーサは、目頭が熱くなるのを押さえられなかった。この人が生きていてよかった。
──そう思うと涙が止まらなかったのだ。
二人はしばらく抱き合っていたが、マリポーサはやがて正気に返り、リヴェールの胸を押して離れようとした。
しかし、固く抱きとめられていて動くことができない。
「もうひ弱な僕じゃないんだ」
リヴェールはころころと楽しそうに笑った。
それからマリポーサを離したが、その華奢な手だけは逃がさないとでも言うように掴んだままだった。
「──ここは?」
「プリュイレーン王国の王城だよ」
「──王城ですって?」
リヴェールはにこにこしながら頷く。
前髪は短く切られ、分厚い眼鏡もなくなり、火傷跡はすっかり消えていた。
マリポーサは、彼が実は整った顔立ちだったのだと、はじめて知った。
一年前に会ったときと比べると、細身ではあるものの筋肉がついて少しがっしりとしたように感じられた。
何より、その身にまとっているもの。
明らかに上質なそれは、平民が着るものでは無い。
「即位したばかりなんだ」
「即位ですって?」
マリポーサは自分の耳を疑った。
「僕はね、この国の第二王子だったんだ。──国の決まりで、男の双子が生まれた場合は殺されることになってる。
でも母──生みの母ではなく、乳母なのだけれど──がね、僕を連れて逃げてくれたんだよ」
マリポーサの頭の中は疑問符でいっぱいになった。
「マリィが平民の妻になるのが嫌だと言っていたから、兄とこっそり入れ替わったというわけ。
だから、ここでの僕の名はリヴェールじゃない。ロヴェール・デュー・プリュイレーンだよ」
「な、な……」
「ちなみに魔王なら倒したよ」
混乱するマリポーサに、リヴェールは何でもないことかのように気軽なふうに言い、黒い山羊の角のようなものを取り出して見せた。
「ただ、君の話に出てきた魔王は、厳密には魔王ではなかった」
「え?」
「どうしてそう名乗ったのかはわからないけれど、魔王ではなく別の存在だったのだろうね。
それでも、正真正銘魔族の王を討ち滅ぼしておいたし、まだ一年しか経っていないのだから、──約束は守ってもらえるよね?」
リヴェールは、兎のような男だと思っていた。
けれどもどうだろう。目の前にいる彼は、まるで獲物を前にした狼のように獰猛だ。
マリポーサは観念した。
そして、三つの約束事を守って貰えるならと、彼の求婚を受け入れた。