情魔
「少年」
かけられた声に振り返ると、そこに女の人が立っていた。
背筋を伸ばした長躯を柿色の着物を思わせる衣装に包み、袖がなく、丈の短いその衣装から、肩から先と太ももから先のすらりとした四肢をあらわにしていた。
頭には頭巾を巻いていたが、布に覆われていない部分からすっと通った鼻筋と切れ長の瞳が覗いている。
それは、まさしく「忍者」というような、格……好……で……
橋の上――
背の高い大男―――
ぼくを横抱きで介抱してくれた、頭巾の――――
「助けてくれた……お姉……さん?」
「……やはり、覚えているのだな?」
女性としてはかなり低い声だ。早紀姉よりもさらに低い。
忍者のお姉さんはゆっくりと歩み寄ってくると、ぼくのそばに立った。
背も高く、ぼくは見上げる形になった。早紀姉や新城先生と同じくらいだろうか。
「いろいろと動揺しているとは思うが、まずは落ち着いてもらうために言っておこう。私は君の敵ではないし、君はここから元の世界に戻ることはできるから安心して欲しい」
忘れかけていた安心感がどっと押し寄せてくる。
我ながら単純なもので、女性の言葉でぼくはだいぶ落ち着くことができた。
「ただ、申し訳ないが、君が情魔に襲われたこと、私のことを覚えていることを考えると、元の世界に戻してあげる前に少し説明をしておかなければならない」
忍者のお姉さんが言葉を続けた。
「少年は、『妖怪』や『魔族』がこの世に存在する、と言われたら信じるだろうか」
妖怪?魔族?
妖怪っていったらぬらりひょんとか、座敷童とか。魔族ってどんなやつのことだっけ?
――さっきの包帯男とかは、妖怪の類なのか?
「そうだ。あれも妖怪や魔族に数えられる者だ。この世界には、おそらく君も知っているだろう河童などの妖怪や、吸血鬼などの魔族が数多く住んでいる。妖怪は東洋起源、魔族は西洋起源というだけで、どちらも住処が混じり合っている今、両者を区別する意義はないがな。最近は、これら妖怪、魔族を併せて、『妖魔』または『妖魔族』という」
何だか学校の授業のような話になってきた。
「ここまでが背景事情として重要な話なんだが、これからの話の方が、君自身にとってはより重要な話になるだろうから聞いてほしい」
何だろう、このお姉さんが言うのならきっとそうなんだろうけど。
なぜか、ぼくはこの忍者のようなお姉さんを既に信用していた。
「君はさっき、妖魔を光で打ち払ったね」
右手に握ったシャープペンをちらりと見下ろして、お姉さんが言った。
「落ち着いて聞いて欲しいが、君はまた妖魔に狙われる可能性が高い」
全身に寒気が走るような感じがした。
「君は先ほど自分がどうやって戦ったのか、どうやって光をシャープペンから出したのかがわからない、そうだな?」
ぼくは首を縦に振った。
「うむ。まずそこからだな。手短に言うと、君はシャープペンに刀の霊を宿らせたのだ。」
「刀の霊?」
「物は、しばしばその作成者や使用者の強い思いが精霊となり、宿ることがある。日本では『付喪神』と呼ばれているな」
知っている単語が聞こえて、少し府に落ちた。
ぼくは付喪神に守られたっていうことなのだろうか?
「そうだ。君の呼びかけに応じた刀の霊が、君を守ったのだ」
お姉さんが続けた。
「人間の中には、自らも霊を呼ぶことで、妖魔や霊に対抗できる術を持つ者がいる。武器の精霊を手元の物体に降ろして対抗する術を特に『兵具降ろし』というが、君はそれをやったわけだ」
何だか自分の異常なところが分かったようで、複雑な気分だ。
そんなことをしてしまったシャープペンの方は大丈夫なのだろうか、ぼくは今一度シャープペンに目を移した。
「ああ、今のシャープペンには、精霊はもういない。君の身の安全を確認して、自分の世界に帰ったのだろう」
ずいぶん親切な刀の霊が来てくれたようだ。
何かどこかにお供えした方がいいのだろうか。この場合、お供えする場所なんてあるのだろうか。
「まあ、一度見た方が早いだろう」
お姉さんは、胸元から人型に切り抜いた紙のようなものを取り出し、人差し指と中指に挟むようにして片手で持った。
「今からこれに霊を宿らせるからな。…ほら、宿ったぞ」
お姉さんの指先に挟まれた紙が白い火のようなものに包まれ、燃えるように輝いた。
「火のように見える光は『気〈オーラ〉』といって、霊力が目に見えるほど濃くなったものだ。」
人型の紙がお姉さんの指をふわりと離れ、その場に浮遊した。
その間も紙は白い火のような光をまとい続け、未だに血のように紅い世界で紅色を押しのけるように輝いている。
お姉さんのヘーゼル色の瞳の中で、火がゆらゆらと揺れていた。
紙はしばらくその場をふわふわと漂うと、お姉さんの手のひらに舞い戻り、白い火が消えるとともに動かなくなった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「君にもやってもらいたいのだが、その前に……少しこっちに近づいてくれ」
お姉さんにもっとだ、と言われるままに近づいて、もう少しで密着するというほどに距離が近づくと、お姉さんは片手をぼくの肩に乗せ、もう片方の手をぼくの後頭部に回した。
かっこよく前に張り出した大きなバストが目に入り、かなりどきどきしていると、後頭部に当てられた手から、じんわりとした温かさが伝わってきた。とても優しく、身を委ねたくなるような感覚だ。
「よし、これでつなげられたな」
しばらくしてお姉さんが離れると、ぼくは少し残念に感じたことを隠しながら聞いた。
「何をつなげたんですか」
「少年と私の間に、連絡用の空間をつなげた。これで――」
『この声が聞こえるだろう』
突然、お姉さんの声が今までと別のところから聞こえた。目の前のお姉さんからではなく、まるで、自分の中から頭に響いてくるような……。
『これで、君の声が私にも聞こえるし、私の声が君にも聞こえる。……本当は時原橋の上で会った時につなげられればよかったのだが、つなげ切れていなかったようだ』
お姉さんはどうしてここまでしてくれるのだろう?
よく考えなくても、知り合いでもない僕とつながりまで持とうとするのは何故なのだろう?
『ああ、これが私の任務だからな。そこは気にしなくていい。どんな任務なのかは言えんが』
お姉さんが答えてくれた。
『これで妖魔が現れたとき、君から私を呼ぶことができるし、私も君に語りかけることができる。だが、私もつきっきりで君と一緒にいるわけにもいかないからな。先ほどの『兵具降ろし』、自分だけでできるようにはなっておくべきだろう』
それから、再び先ほどの付喪神を呼び戻す練習を、お姉さんとした。
ただ心の声で霊を呼べばよいというのではなく、物に霊力(お姉さんによると、精神力に近いものらしい)をかけて、霊が来れるように環境を整える必要があるらしく、それまで霊力といったものを知らなかった僕には、これがまず大変だった。
それでも、何とか物に霊を憑かせる、というところまである程度の形にするのをお姉さんはじっと見守ってくれていた。
そこまでが何とか形になると、今度はそれの応用だ、ということで、この紅の世界から元の世界に戻るための方法も教えてくれた。
お姉さん曰く、この紅の世界はさっきの妖魔が霊力を使って作り出した空間とのことで、その妖魔が消えた今、長い時間をかけて消えていくとのことだった。
だから、この空間が消えないように僕の霊力を補填すれば、この空間を維持できるし、出口を呼び出すこともできる、とのことだった。
ぼくは、半信半疑で手のひらを虚空に掲げ、ぐっと自分の精神力を外に流れさせるイメージで集中した。
『ほら、出口が出てきただろう。成功だな』
……本当にできた。
目の前にできた出口は、ぼくの身体がすっぽり入りそうなほどの大きさの穴で、中央が揺らぎ渦巻いていた。
そのいささか超自然的な出口を呼び出したのがぼくだということが、我ながら信じられない気分だった。
『ここから元の世界に戻れるが、最後に一つ、言い忘れていたことがある』
ぼくは、お姉さんに向き直った。
『今日だけでも、霊力が気〈オーラ〉の形になっているのを何度か見たと思うが、気〈オーラ〉には霊力の強さに応じた色があある。霊力が微弱なときは白いオーラになることが多く、人間が霊力を使うときはこの色になることがほとんどだが、人よりも強い霊力を持つことが一般的な妖魔が気〈オーラ〉をまとったときは、気〈オーラ〉が緑色になる。妖魔よりもさらに強い霊力を持つ『神族・神獣族』と呼ばれる者たちの気〈オーラ〉は青色になるそうだが、神族・神獣族が人の目に触れるようなことはほぼないから、これは忘れてくれてもいい。君にとって危険なのは、気〈オーラ〉の色が緑色の者たちということだ』
ここまで言って、お姉さんは、止めてすまなかったな、とぼくを渦巻く出口に促した。
お姉さんは、自分は少し調べることがあり、しばらくしてからこの紅の世界から出ると言った。
ぼくは、出口に歩み寄っていったが、ふと、足を止めた。
『どうした?』
お姉さんが足を止めたぼくに意外そうに言う。
「お姉さんは、妖魔なんですか?」
ぼくはもう一度後ろにいるお姉さんに向き直り、言った。
「……なぜそう思うのだ?」
お姉さんが、ぼくらの間につながる連絡路ではなく、自分の声で反応した。
「時原橋で助けてくれたとき……」
お姉さんのオーラの色が……と言おうとしたとき、お姉さんがああ、と言った。
「君はよく見ているのだな、そうだ、私も妖魔の端くれだ」
お姉さんはあっさりと認めたが、ほんの少し、ほんの少しだけ雰囲気が変わったような気がした。
正直それ以上が聞きにくくなったが、他に何かあるか、と言うお姉さんに対して、勇気を出して聞いた。
「どうしてぼくにこんなに親切にしてくれるんですか」
「……君の存在は我々にとって重要な意味を持つからだ」
どんな意味を持つのか、ということは教えてくれなさそうだ、と雰囲気で思った。
ぼくは今一度助けてくれたことについてお姉さんにお礼を言った後、出口へ向か……おうとしてお姉さんにまた向き直った。
「あの……!」
「どうした?」
「お姉さんの名前は……」
今日の中ではとても重要度の低い質問だったかもしれない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「名乗るような名前ではない」
だが、お姉さんは答えなかった。
拒絶に近い反応に臆したが、お姉さんの雰囲気を変えてしまったことに少しきまり悪さというか罪悪感を感じていたぼくは、しつこく、しかもあまり頭のよくない質問を投げかけてしまった。
「……クノイチさんって、呼んでもいいですか?」
霊を呼ぶ実演のときに緋色だとわかった組紐で結んだポニーテールを風に揺らし、無表情で立っていたお姉さんは少しだけ目を見開くと、ふっと笑いを漏らした。
「好きにしろ」
雰囲気の和らいだクノイチさんに対し、ぼくは言った。
「ぼくは、田宮恭一です」
ぼくの存在が重要だと言っていただけあって、もう既にぼくのことを知っているらしいクノイチさんは、ああ、と言って返した。
そのあと、気を付けてな、恭一、と言ってくれたことが、ぼくにはとても嬉しかった。
ぼくは再度クノイチさんにお礼を言うと、渦巻くこの世界の出口に向かって今度こそ歩んでいった。