早紀
目を覚ますと、家のベッドの上だった。
うっすらとカーテンの端から洩れる日差し、肩までしっかりとかぶった掛布団。
いつもと何も変わった様子はない。
でも、ぼくの頭には、あの、夜の並木道、夜の橋の上のイメージがまだ生々しく浮かんでいた。
獣のような大男。
足をもつれさせながら、ひたすらに走り逃げたときの恐怖。
押さえつけられたときの恐怖と右頬の痛み。
そして、忍者みたいな服を着た女の人。
その人の手がぼくの頭に触れたときの温かさ。
べたりと触れないよう、恐る恐る指先を右頬に伸ばし―――傷ひとつない肌に触れた。
驚いて中指の腹を押し付け、上下に擦る。
その指を目の近くに寄せてもみた。
傷がない。
傷も、痛みも、きれいになくなっている。
「夢……?」
あれが夢?
だって今もこんなにくっきりと―――ってあれ?
「……?」
現実の自分の身体のことから記憶の中に意識を戻そうとして違和感を感じた。
ぼくは何を思い出していたのだろう。
何か痛いこと、そしてそれ以上に恐ろしい、思い出すのが辛いことだったような気がする。
ただ、忘れてはいけない大事なことだったような気もして、妙な居心地の悪さも感じる。
布団の中でしばらく考えをめぐらせてみたが、何かのイメージどころかおぼろげな像すら、浮かんでこなかった。
ぼくの部屋とダイニングを隔てるドアから部屋灯りが漏れてる。
早紀姉、今日はもう起きて……
―――って!
ぼくは慌てて飛び起きると、突入するようにドアを開け、ダイニングに入った。
「らしくもなくぐっすりだったな、今日は」
にやりとしながら、お盆に乗せた皿を運んできてくれている早紀姉が、そこにいた。
ここ最近ぼくが朝食は作っていたので、代わりにしてもらったことに申し訳なさと、ちょっとした敗北感を感じた。
「ごめんね、早紀姉」
「気にするな、勉強で疲れてたってことだろ。今日は土曜日だしな」
早紀姉は、ふふっと笑いながら、朝食をテーブルに並べてくれる―――と思ったらもう11時だった。おそらくこれは兼昼食になるだろう。
コーンフレーク。
レタス、ブロッコリーを中心とした緑黄色野菜のサラダ。
ぼくの好物のマッシュポテト。
それに味噌汁。
ぼくは、用意してもらった朝食を食べながら、早紀姉と他愛もない話に興じた。
ぼくの方は学校のこと、最近のクラスのトレンドのこと、早紀姉さんの方は職場のこと、同僚のこと。
ああ、それと―――。
「そろそろ気になる娘とかいないのか?」
これもいつも早紀姉が聞いてくる話題だ。それに対し、いないよ、と笑ってぼくが答えるのもいつものテンプレ。
でも、ぼくは義理の姉とのこの時間が、とても好きだった。
眠っている間に腹を減らしたのか、いつもよりも掻っ込む感じで食べてしまうぼくを楽しげに見つめる早紀姉と、ぼくはテレビをつけるのも忘れて、話し続けた。
早紀姉とぼくの間には、血縁関係はない。
ぼくはぼくの母親の、早紀姉は早紀姉の父親の連れ子で、2人が結婚したとき、ぼくはまだ赤ん坊、早紀姉は随分お姉さんだったらしい。
ぼくの実の父親はぼくが生まれてすぐに亡くなった、と早紀姉から最初聞かされていたけれど、過去にぼくの母親のことを早紀姉に話した感じからして、ぼくの母は未婚の母というやつだったんじゃないかと思う。この話題は、いつもはさばさばした早紀姉が悩んだ表情になるので、深くは聞いていない。今や顔も思い出せない人のことで、早紀姉を困らせるのも本意ではないし。
ぼくの母親と義理の父親は、ぼくが物心つく前に、どころか赤ん坊の間に、事故で亡くなった。
救いの手を差し伸べてくれる親類も誰もいなかったらしく、他の人の助けがないと何もできない赤ん坊と2人残され、どうすればよいか普通ならパニックになるはずであろうに、早紀姉はたった一人でぼくを育ててくれた。
そしてそれは、今も続いている。
この家の経済事情は、両親が残してくれた遺産と、早紀姉の稼ぎに依存していて、なるべく早く、早紀姉さんから独り立ちできる稼ぎを得るのがぼくの目標だ。中学生で基本的にバイトもできない今なら、まずは目の前の勉強だ。
「私だって稼ぎがないわけじゃないんだし、父さんたちの遺産もあるから、気にしなくていい」と早紀姉は笑って言ってくれる。たしかに早紀姉は、世間では名の知れた外資系の会社に勤めており、その稼ぎを上回るのは難しいかもしれないが、まずは、独り立ちだけでも早くしなければ、と思う。いつまでも姉さんの重荷になるわけにはいかない。ぼくさえいなければ、早紀姉はいい人を見つけて、新しい家庭を今頃築いていたはずだから。
ぼくが言うのもなんだが、早紀姉は人並み外れた美人だと思う。
艶やかに伸びた黒髪、彫の深い整った顔立ちと切れ長な目、クールで知的な印象を与える涼しげな目元。凛とした美人という表現がしっくりくると思う。
確か30を少し超えた程度―――実の年齢は本人に、聞くな、と言われたけど―――だったと思うが20代にしか見えない外見に、性格もさばさばとした姉御っぽい感じで、中1の授業参観のときは、クラスの女子の子から、「田宮くんのお母さん、かっこいいね」と言われた。声が女性としてはやや低めで男勝りの口調で話すのも、女子からかっこよく見える要因かもしれない。本人に伝えたら「お母さん」というワードがショックだったらしく、がびーん、と少し古いリアクションをされたけど。
こっちは本人に絶対伝えないけど、クラスの男子から、「田宮の姉ちゃん、エロすぎね?」とも言われた。
正直分からんでもない。ハリとボリュームのある形のいい豊かなバストに、適度に脂肪を乗せ、きゅっとラインの上がったラテン系女性のような美尻、さらにはくびれた腰。これでもかと肉感的な曲線美を見せる早紀姉の身体について、クラスの男子は「グラビアアイドルのよう」と感想を述べた。
なお、早紀姉の身体について、興奮した様子で話す男子の友達に対しては、「田宮くんのお母さん、かっこいいね」と言った子から冷たい視線が放たれていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「そういえば恭一さ」
ちょうど朝食を食べ終えて、キッチンにお盆を下げようと立ち上がったときに、早紀姉が言った。
「昨日夜中にトイレ行ったみたいだけど、その後ちゃんと眠れた?」
―――トイレ?
トイレなんて行ったっけ?
早紀姉がトイレに行くぼくを見たってことだろうか。
「昨日の夜中……?いや、覚えて……」
ない、と言おうとして、はたと口をつぐんだ。
頭の奥、意識の遠くの方に、うっすらと何かが再生されたような気がしたからだ。
それは、ぼんやりとして、ゆらゆらと揺れていて……そんな柿色の何かと緑色の何かが、一瞬浮かんで、そして消えた。
「どした?」
早紀姉が席についたまま、ぼくの顔を不思議そうに見上げて言った。
ぼくは慌てて、何でもない、と言った。夜中に起きてトイレに行ったことを覚えていないとも。
早紀姉はふ~ん、とリアクションを返してきた。
若干訝しげな表情を一瞬した早紀姉だったが、すぐに「あ、そうだ」と話題を変えてきた。
どうやら昨夜の話は、これで終わりみたいだ。ちょっと悪戯を思いついたようなにやっとした顔をしてるから、聞くのが怖いけど。
「久々にさ、姉さんと押し合いっこしようよ」
ダイニングテーブルの横のリビングスペース。
そこに敷いた大きめの防音マットの上で、ぼくと早紀姉は向かい合っていた。
2人とも上はTシャツ、下はルームパンツという格好ながら、既に手四つに組み合った状態でいる。
「いつでもいいからな~」
早紀姉が相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべながら、余裕たっぷりに言う。
そんなに言うならと、ぼくは両腕に力を入れて、ぐぐっ、とつかんだ手を押し返そうとした。
ルールは簡単。このまま組み合った状態で5分間押し合いをし、早紀姉が後ろに1歩でも後退したら僕の勝ち、というただそれだけ。ちなみに早紀姉側は、組んだ手を押し返す以外に妨害するのは無し。
―――おそらくこう思う人もいるだろう。
何で中2にもなる男のお前の方が完全に有利なルールなんだと。
だが、そのとおりぼくが完全に有利なこのルールで、この10年ほどの歳月、ぼくが早紀姉に勝てたことは一度もない。
自分の名誉のために言うと、ぼくはクラスの中で並外れて運動ができない、というわけではない。身長は……こうして少し前かがみになった早紀姉にも見下ろされてしまっているけど、それは175センチもある早紀姉が女性の中でも高いというだけで、決して163センチのぼくが低いわけではない……と思いたい。
ぎしっ、とぼくの体重をかけた前進を難なく受け止めた早紀姉の腕は、すらりとした女性らしさを保ちながらも、くっきりと鍛えられた筋肉が浮かべていた。
柔道とレスリングをやっていたという早紀姉は言うが、だからといって何でこうも力が強いのか。
「1分経過~。もうちょっと強くきていいぞ」
こっちは最初から全力でいっているのにこの余裕。ぼくは腕の高さを下げながら、何とか一泡吹かせようと力をこれまで以上にふり絞る。
「3分経過~。お、いいぞぉ。頑張れ頑張れ~」
相変わらず一瞬も優位に立てない。ぼくは、効果的な攻め方はないかと腕の位置を変えながら、必死に早紀姉の腕を押し続けた。絶対に余裕な顔をしている早紀姉の顔を見たくなくて、顔を伏せたまま。
「10秒前~。10・9・8・7……」
相変わらず涼しい声でカウントをしている早紀姉に、若干苛立つ。挑発してまで望むならと、ぼくは全身に残る力を総動員して最後の一押しをかけた。
「5・4・3・2・1、ゼロ。あぁ、ざんね~ん」
……何度もやっていることだから、今更ショックなんて受けない。
それでも、自分が情けなかった。義理の姉が、この世で一番愛する女性が自分から遠いところにいるという事実は、毎回くるものがあった。
しかも―――
「よい……しょっと」
鮮やかな足さばきでぼくの足を払った早紀姉は、ぼくが床に叩きつけられないように抱きとめながら、ふわっ、と緩やかにぼくを床に横たえた。
仰向けで、荒い呼吸のまま動けないぼくの上に早紀姉は多いかぶさると、ぼくの右腕を左脇に抱えてロックし、自分の右腕でぼくの首を抱えて袈裟固の要領で抑え込む。
「ふふん、姉さんの勝ちだな」
5分経過の時点で勝ちは決まっているのに、こうして自分の優位を誇示するかのようなことをする。相変わらず、趣味が悪い。
だが、ぼくもぼくで、抑え込んでくる早紀姉の匂いが鼻に入ってくると力が抜けてしまい、目は、Tシャツの襟から除く黒のブラジャーと、くっきりと出た深い谷間にいってしまい、抵抗しようという気がどこかに拭き取んでしまっていた。
小学校高学年ぐらいからこんな調子で、ぼくは早紀姉に抑え込まれたら床に無抵抗で大の字、という状況だ。あまり暴れると、下の階の人に迷惑だから、これはこれで正しいのかもだけど。
早紀姉も知ってか知らずか苦笑しながらぼくを解放すると、ちょうど添い寝するように、ぼくの隣に身を横たえた。
そして、ぼくの頬に手を添え、優しく自分の方を向かせると、まっすぐにぼくの目を見てこう言った。
「何かあったらすぐ言いな。姉さん、いつだって聞くから」
そのときのぼくは、何か悩んでいるように、早紀姉には見えたんだろうか。