忍び
ぼくは走った。
どれだけの距離を、どれだけの時間走ればいいのか分からない。それでもぼくは走った。
背後に迫るそいつから距離をとる、ただそれだけのために。
現実的な死の恐怖―――それがすぐそこに迫っていた。
足がもつれても、息が喉で不快にこすれても、とにかくぼくは走った。
さっきまで歩いてきた並木道が、今度は駆け戻っているにもかかわらず全然終わらなくて、ぼくは祈るような気持ちになってきていた……。
―――だから、渡ってきた橋が見えてきたとき、少しだけ心に光が差したような気になったのは確かだ。
このまま、少しでも人の目につきやすい表の通りへ。
そんな風に思っていたから、前につんのめるようにして倒れたとき、押し倒されたことをしばらく認識できなかった。
右の頬を強く擦ったのかそこがずきずきと痛み、脳が驚いてしまったのか、手足を暴れさせることさえできずに、息を切らしながらぼくは地に這いつくばっていた。
ぼくの背中の上のそいつは、ぼくとは対照的にちっとも息が乱れていない。手でか足でか、ぼくを体重をかけるようにして押さえつけたそいつが、次の行動に移ろうとしているのが、気配で分かった。
一瞬背中に当たって、今離れていった硬い感触の物が何なのか、考えたくもなかった。
―――グウッ!!
くぐもったうめき声が聞こえたかと思うと、そいつの体重が背中から消えた。
それと同時に、近くの地面を、だだだっ、と駆け抜けるような音が、地に付けた耳から伝わってきた。
それから続けざまに、きいん、と金属を打ち合わせたような高い音。
その金属音と思しき音が連続、断続的にしばらく鳴り響いたかと思うと、闇の中に吸い込まれたように全ての音が消えた。
―――辺りの様子を確かめるため、一番には自分が生きているのかを確かめるため、ぼくは、ゆっくりとうつぶせから左向きの寝方に姿勢を換え、そっと自分の足の方向に視線を落とした。
ぼくの上に乗っかっていたやつが、少し離れたところに立っていた。
最初に見たときは四つん這いになっていたから分からなかったが、かなり背が高い。2メートル近くありそうに見えた。右腕をかばうように体に引き寄せながら、猫背気味にこっちをうかがっているそいつは、先ほどのうめき声からすると、やはり人間の、男だろうと思う。
そして、その大男とぼくの間にできた15メートルほどのスペースの間に、もう一人の人影がすっと立っていた。背筋を伸ばし、まっすぐに目の前の男に対峙しているその影は、背丈こそ大男より低かったが、全身から放たれる殺気のようなものは全く劣っていなかった。
ちょうど体の影になってよく見えなかったが、前に突き出すようにした手に何か持っているようだ。それは、棒のような形状でありながら、まるで燃えている火のように輪郭を揺らがせつつ、緑色の光を放っていた。
しばらくにらみ合いが続いた後、ふいに大男の方が動き出した。
対峙している相手への警戒を解かないまま、ゆっくりと後ろに2、3歩バックすると、ぼおっ、と全身が緑色の炎のようなものに包まれ、大男は消えた。
ぼくは相変わらず動けなかった。
それどころか、未だに恐怖から立ち直れずにいた。
確かにぼくを襲ってきた男は去った。だが、ここに残ったこの人は、誰なんだろう。
いや、誰かはこの際いいとして、この人はぼくをどうする気なんだろうか。
そもそもこんな時間に、こんなところで、こんなことをしてる時点で、この人も……
―――どうやら考えている暇はなさそうだった。
さっきまで離れたところに立っていたその人物は、動けずに横たわるぼくのことを見下ろすように、すぐそばに立っていたからだ。
まっすぐにこちらを見つめる切れ長な目から目線をそらすことすらできず、身体は氷ついたかのように動かない。
その人物が脚を曲げ、ぼくの方に屈みこんできたとき、ぼくは反射的にぎゅっと目をつぶった。
……温かい?
後頭部に当てられた何かから、じんわりと温かさが伝わってくる。
冷たい空気と恐怖にさらされて、すっかり忘れてしまっていた温かいという感覚。
その感覚が頭を伝わって身体に入ってくる一方、それに押し出されるように恐怖の感覚は薄れていった。
しばらく迷ったが、ぼくは目を開けることにした。どっちみちこの距離だ、もう逃げられない。
恐る恐る目を開くと、その人がぼくの頭を片手で捧げ持つようにしながら、ぼくの身体を横抱きにしていた。相変わらず伝わってくる温かさに、ぼくはその人を怖がっていたことも忘れ、視線をゆっくりと移動させることができる余裕すら出てきていた。
―――女の人だ。
なぜそう思ったのか。
切れ長で涼し気な目のせい?
袖のない服から出している色白のすらりとした腕のせい?
それとも、膝をそろえて座るその座り方のせい?
いや、服を下から押し上げ、今もこっちの身体に当たっている豊かな膨らみのせい?
しかしもう一つ気づいたことがあった。
全身を包む柿色の布地の服、顔の大部分を覆い隠す同じ色の頭巾。
……忍者?
ぞこまで考えたぼくは、全身をめぐり出した温かさに半ば導かれるようにして、意識を薄れさせていった。