壱.─姫と皐希─
翌朝、朝食を運んできた瑞紀にお礼を述べてすぐに帰る旨を告げた。
「そうですか。では九条殿に宜しくお伝えください」
「ええ、昨日は昼も夜も用意していただいたのに申し訳ないです」
「いえいえ、お疲れでしたでしょうし。顔色も良くなったようでよかっです。それとこちら宜しければ」
そう言っておむすびまでいただいてしまった。
「重ね重ねありがとうございます」
「道中お気をつけて」
彼の雰囲気はどことなく弟に似ている気がする。実在する人物なのだから、神様が用意したわけではないはずだが。自分に似ているという皐希と弟に似ている瑞紀。少し勘繰りすぎだろうか。
昨日と違い表の門から抜けて里を一度出て、目的の小屋を目指す。いや、あの桜をもう一度見てからにしようか。
夜で気づかなかったが山桜に目が行きがちな野山の所々にツツジの花も見える。今の鼓路町という名前はここから来たのだろうか。自然に造られた庭園はまた違う美しさを感じる。
彼女の過去から作られた偽りの世界。昨日の様子からするとこの里全体しか作ってないことを踏まえると忍という男は今ここには存在しないのだろうか。そもそもこの任務のどこからが罠だったのだろうか。
辿り着いた先に見える陽のもとに照らされた一際美しい桜に息をのむ。御神木といわれる通り全体から神気を感じた。暖かく優しくどこか懐かしい。幹に触れてみるとその神気が一層強く感じられた。これは誰に似ているんだったろうか。
「他所の者があまり長く触れてくれるなよ」
どれほどそうしていたかは分からないが、気付くと後ろに皐希が立っていた。
「すみません、どこか懐かしく感じられて」
「お前の先祖の中ににここの者がいるのか」
「いえ、そんなことはなかったと思いますが」
「俺は一応この御神木を管理してるんだ。俺自身には力なんて分からないが、祖母に手入れ以外で触るなって注意されていたんだ。お前はなんでまたここに。姫さんは一緒じゃないのか」
「ああまあ、事情があって」
「そうか。ここに来た理由も掴めたのか」
「いえ、それもまだ」
苦笑いすると、皐希もまた笑みを返す。
「訳ありならしばらくここに泊まるか。村の宿も使うつもりもないんだろ」
「いいんですか」
「ああ、代わりにお前の話を聞かせてくれ」
会うことすら拒まれると思っていたのに。呆気に取られていた自分に彼は急かすように小屋の中へと促した。
「──姫様と一緒に里に降りた?」
昨日別れてからのことを大まかに伝えると、彼は驚き目を見開いた。
「よく屋敷の中に入れたものだな」
「なぜか使いの者と納得していただけたようで」
「そうか。九条殿の。だからすんなり家を出れたのか」
「ええまあ。それからはここに。簡単に会って頂けるとは思ってませんでしたが」
成程、と彼は用意していた粗茶を飲み干した。
「お前も姫様も何やら厄介なことに巻き込まれているんだろう。そしてそれが俺と姫様に関わることだと。それなのに彼女は話すつもりがない。彼女がそう頑なに話さないとなると、口を割らせるのは諦めた方がいいだろう」
「身に覚えがあるんですか」
「いや、ただ一度決めたら絶対に意見を変えず通す奴だったから。まあどうしてそこまで話せないのか俺にも検討はつかないよ。だから俺は、あの時」
「……何か」
切なく苦しげに彼は微笑む。
「あの時あったことを全て話そう。それで今度こそ彼女を救えるなら」
姫様と出会ったのは彼女が養生しにここに来た時だった。顔も肌も青白くて、細くて生きてるのがやっと、そんな感じだった。彼女がここに来る前、ばあさんから彼女は双子の姉でありこの里の守り人だと。人を魅了する力があるが引っ張られないようにと、そう忠告してきたけどむしろそんなこと出来ない様子だった。
綺麗なこの人がどうか死ぬことのないようばあさんに言われた通り看病を続けた。ばあさんはその頃もう動くのすら辛いみたいだったし、自分が代わりに彼女の看病を行っていた。
それから数年、彼女の病気はだいぶ落ち着きを見せた。御神木の花が咲く時期は元気だったから花見もしたりした。その頃には彼女の痣の力もかなり強くなっていた。それでも彼女が傷つくようなことはしたくなくて、提案したんだ、家に戻るようにと。かなり言い争いをした。珍しく彼女も感情を昂らせて、それ以上は熱が上がるからと言ったけどそれでも彼女が首を縦に振ることはなかった。
その数日後、彼女の妹である美桜様が直々にこの家を訪れた。彼の付き人の瑞紀と一緒に。そこで気づいたんだ、妹の美桜様から力を感じないことに。姫様と一緒にいる俺だ、元々そういったのには疎い方だと思うが気づかないはずがなかった。契約を結んだと悟った姫様は俺に部屋を出るよう告げて三人で話し始めた。
話し合いの後、姫様が九条殿との縁談を受けることが決まった。
後から聞けば美桜様は小さい頃から付き人の瑞紀様を懇意に思っていて成人と共に契約を交わしたそうだ。しかし決まり故成人の際に婚約するはずだった。そこで彼女にお願いしに来たということだった。
お見合いもあるため、姫様は屋敷に戻られた。自分はここで花守を続けた。
風の噂で姫様の縁談が纏まったことを聞いた。そのことを否定する気持ちはなかった。でも素直に喜ぶことは出来なかった。
婚姻の儀式は九条殿が治める隣国で執り行われることが決まった。それが終わり次第、彼がこちらに嫁ぐようだった。
姫様が隣国へと向かう数日前、一通の文が届いた。婚儀前日にこの桜の御神木の前で会わないかと。
諦めるつもりだった。彼女の婚姻もいつか喜べる時が来るだろうと、自分の想いもいつか時と共に褪せるだろう、それまではと。
それでもひと枝桜の添えられたその手紙を見て居てもたってもいられなくなった。この恋い焦がれる気持ちを彼女に告げたくなった。
「愛してる」ただ一言そう告げて、彼女と口付けを交わした。石灯籠に照らされた桜の蕾がまだその花を咲かせることはなく、今か今かとその枝を揺らしていた。
契約を交わすことはなかった。
翌朝気づくと御神木の幹にもたれるようにして自分は気を失っていた。彼女の姿はどこにもなかった。その時、自分の記憶から彼女を想う気持ちは消え失せていた。
数日後、彼女に渡すはずだった簪を見つけて全て思い出す頃には、彼女の婚儀は終わっていた。
「それから少ししてお前たちが家に来た」
話は以上だ。皐希が静かに告げた。
記憶を消されたと気づいた時、彼は何を思っただろう。彼女も自分と同じ気持ちだと分かって、それなのに彼女にその気持ちを少しの間でも忘れさせられて。自分が彼女のために何も出来なかったとどれほど自分を悔やんだだろう。
でも今は。
「俺は、」
自分と重ねてみたけど、彼と俺は違う。
「俺はあなたに、今度こそ姫様を助けて欲しい」
話を聞いて確信した。彼女を助けられるのは彼しかいない。
「どうかお願いです」
俺には彼女を救うことは出来ないから。悔しいけど、俺には無理だ。情けない顔を見られたくなくて頭を下げた。これ以上いらない事を言わないように唇を噛み締めた。
ここから出られる鍵を握るのはこの人に違いない。そう思えてならなかった。嫌だ、自分じゃなきゃ。嫌だけどでも俺には、
「俺には彼女を救う資格はないよ」
思わず顔を上げた。その言葉は自分が今思っていたことで。皐希は既に決心したように微笑んだ。
「俺はもう彼女の傍にはいられないから。そうだろう? 君と一緒にここに来た姫様はきっと俺の知る彼女であってそうでない。だからこそ俺は君に協力したいと思った。手を伸ばした先に彼女がいるとしても、それでも俺はその手を掴んじゃいけないから。いるべき場所はここじゃないんだろう?」
諭すようにひと言一言、言葉を重ねる。
「彼女に逢うつもりはない、と」
恐る恐る聞いた質問に彼は迷いなく、ああと返事した。
俺ではダメなのに、それでも彼は意志を覆すことはなかった。
どうして、彼女をここにいさせる気はないと言うのに、どうして彼は会ってくれないんだ。彼女が彼に会えば、彼女の思いが……。
分かってる。彼は本当はもう既に亡くなっていて。理から逸脱したこの世界も偽物で。でも、会うことが叶わなくても願っているから、数百年経った今でも乞い願うからこそ雫玖様はこうして実現させたのではないだろうか。
それ以上話しても無駄だと、皐希の家を後にする。
自分が彼女を救う存在になりたい、その思いは変わらないのに、自分がそうなれるとも思えなかった。
皐希の家を離れ、御札を使い変装して村里に下りた。旅人を装ってこの里のことを聞こうと思ったのだ。
「見かけない顔だね、旅人さんかい」
小さく、人も多いわけではない。それでも村人たちの人の良さが伝わってきた。温かい雰囲気を感じる。
「ああ、この里は桜が綺麗だと聞いて」
「ああ、御神木様のことかい。小高い丘の上にあるあの桜には神様が宿ってるからね、美しいものだろ」
里からも見えるからここから毎日拝んでいるんだ、そう彼らは朗らかに笑った。
「この里はあの桜の神様とお屋敷に住むお姫様のおかげで繁栄してんだ」
聞いたことはあるかい? この近くで一番の別嬪さんだと自慢気に話す。ここに来て何度も聞いた話を、紘は遠慮することなく聞いていた。
日が暮れるまで紘は里を見て周り、人から話を聞いた。もし皐希が婚儀を遮ることがなければ、姫様がそのままこの地にいたのなら、訪れたかもしれないこの里の平穏を思い浮かべる。もしあの時焼かれずに繁栄していたのなら、この里は温かくて優しい人に囲まれて栄え続けたかもしれない。
もし、なんて想像しても無意味だ。
皐希も考えたのだろうか。今の平和なままが彼女の幸せに繋がるんじゃないかと。お互いに自分の気持ちをひた隠しにして、それが幸せだと言い聞かせて。
約束の時間が訪れ、屋敷に忍び込んだ。昨日の彼女を思い出す。記憶をなくした、自分を知らない彼女の姿。もしそれが彼女の望む姿だとしたら。自分の要らない世界を彼女が望んでいるのだとしたら。
思わず姫様の部屋の襖を勢いよく開けてしまう。今すぐその考えを否定して欲しくて、彼女のいつもの声が聞きたくて。それなのに、
「『誰?』」
ああやはり。もう昼の変装は解いているのに。彼女が見慣れているいつもの隊服を着ているのに。
「『……皐希?』」
重なる心の声が、彼女の嘘偽りのない本心だと告げる。
自分の心に黒い靄がかかるように重く感じる。どうしてその名前を言うんだ。そう言いたいのに、やはり彼女の心を占めるのは彼なのだと分かってしまって。彼女の顔が見られなくなって、見ていられなくて、ここにいたくなくて、逃げるようにその場を後にした。
後ろから慌てたように紘と呼ぶ彼女の声が聞こえた。それでも今は彼女から離れたかった。
生憎今日得られた情報は、彼女が想う彼が鍵だと確信しただけだ。
タイムリミットまであと一日、刻々と迫る中、それでもここを出られる策は思い浮かばなかった。
泣きそうな表情をした彼がその場を離れていく。ここに来てから記憶が朧気になっていくのを感じていた。美桜と瑞紀と共にいる時間が長くなり、懐かしんでいたはずが当たり前になってきていた。自分の記憶が確かなうちに、紘だけでもこの世界から出さなければ。薄れていく意識の中で桜絆はある記憶を思い起こしていた。それは夢か現実か。
「ひとつの賭けをしよう、××」
ある男と交した一つの賭け事。何を賭けたのかも、誰と交した約束かも思い出せない。結局勝ったのはどちらだったか。
✿*❀
皐希に初めて出会ってから好きになるまで時間はかからなかった。
彼はぶっきらぼうでいて、それでも私が苦しそうな時は優しくしてくれた。今なら自分がなぜ体調が悪かったのか分かっているが、当時はなぜこんなにも頻繁に熱を上げて寝込むのか分からなかった。医者も舌を巻いていて、それなのに彼は付きっきりで看病してくれた。熱に浮かされて意識がはっきりしていない私に、彼は励まし続けてくれた。元気な日には御神木の近くまで連れて行ってくれた。二人だけの花見は特別な時間だった。
成長して体調が良くなって、痣の代償の力が強くなった。異性にはこの力は毒らしく、契約だけはされないよう隠していたけれど、彼にとっては迷惑だっただろう。彼も屋敷に戻るように言ってきたが、それでも彼のそばにいたかった。彼と契約したいと思っていた。
契約は特別だ。契りを交わせばその力は抑えられ契約者にのみその恩恵が与えられる。だからこそ隣国との国益として扱い利用されてきた。自国の繁栄を思えば、簡単に契約を交わすことは許されないし、相手は縁談相手が相応しい。自分が今こうして自由に生きられているだけで幸せなのだ。本来はそんな自由は許されなかった。
それでも叶うなら好きな人と結ばれたかった。
そんなある日、突然妹の美桜と付き人の瑞紀がこの家を訪れた。縁談話だった。もう逃げられなくなった。
妹は瑞紀が好きだと告げた。瑞紀もそうだった。だからどうか、と。彼女が瑞紀を好きなのは知っていた。私の世話は大変だったから妹の付き人である彼も手伝ってくれていた。それを妹はよく思っていなかった。今思えばその頃から好きだったのだろう。妹は私より痣の代償が弱くて、彼もまたその気持ちに嘘はないだろう。
幸せになって欲しい。そう思うのに、同時に私も彼と結ばれたかったと思ってしまった。
妹の話を了承した自分はすぐに屋敷に戻ることを皐希に告げた。彼は何も言わずにそれを許してくれた。元々屋敷に戻るよう言っていた彼のことだから、否定はしなかっただろうけど、少しそれが寂しく思えた。
見合いを重ねて、忍殿は自分のことを気に入ってくれたようだった。魅了する力の存在を初めてありがたく思った。
それから縁談はまとまりすぐに婚姻の話が上がった。忍殿は自分のことを気に入ってくれているようで受け入れてくれた。愛されている、大事にされているのが分かった。
それでも皐希への想いはそう簡単に消えてくれなかった。毎晩、自室から月を眺めてはその時だけはと、彼のことを考えた。
順当に手筈が整う中、この気持ちを終わりにしようと手紙を出した。お香を焚いて桜の枝を添えた。最後にもう一度だけ彼に会いたかった。婚姻の儀に向かう前夜のことだった。
御神木の桜の大樹の下で、皐希は待っていてくれた。
それだけで嬉しかった。でもそれだけですむほど、気持ちは鎮まってくれない。
あの日、屋敷に戻る時引き留めてくれはしなかった、だから彼の気持ちが自分に向いてくれるとは思っていなかったけれど、それでも自分の気持ちは伝えたかった。
唇が震えて上手く言葉が出てこない。いつの間にか泣きそうになっていた。
そんな自分を見て、彼は全て分かっているようにくしゃりと笑って、一言告げる。
「愛してる」
それだけでいっぱいになって、気持ちが溢れて涙が零れて、そんな自分に彼は口づけてくれる。
この気持ちが叶うことはない、分かってるけれど、告げられずにはいられなかった。
「私も、愛しています」
誰よりもずっとお慕いしております。今だけはどうかそう思うことをお許しください神様。
こぼれ落ちる涙を止められなかった。
ごめんね、最後の口付けを交わして、私は彼の記憶から自分との思い出を消した。初めて異能を使った瞬間だった。
先刻悟ったように思い出した異能を初めて使った代償は体に大きな負担をかけた。倒れそうな自分の体を必死に支えて何とか屋敷に戻る。自室に戻るとほっとしたのか、また涙が溢れた。
隣国での婚儀は恙無く終わりを迎えようとしていた。誓杯の儀式を終えて、桜の印に口付けをすれば契約が成される。
契約者と二人にされたその部屋で契約が成される正にその時だった。記憶を奪ったはずの、いや正確には記憶に封をかけたはずの皐希が目の前に現れた。
「攫いに来た、姫様」
有無を言わさず手を引かれ屋敷を出た。後ろから怒り狂った忍殿の声が聞こえた。心配するように皐希の名を呼ぶと、彼は場違いにも婚礼衣装の自分を綺麗だと笑ってみせた。
記憶を封じたはずなのになぜここにいるのだとか、どうして思い出したのかとか、聞くべきことはあったはずなのに、ここに来てくれたことが、自分を思い出してくれたことが、自分に手を差し伸べてくれたことが嬉しくて胸が締め付けられる。あの日枯らしたはずの涙がまた溢れそうになる。
脚が縺れてしまい、追っ手が来ないことを見計らって、彼がどうして思い出したのか教えてくれた。
「これ、あの日渡そうと思ってたんだ」
桜の描かれた一輪の簪。シンプルなデザインの蜻蛉玉のついた簪だった。
「それを見るまでは本当に忘れてた。お前が何かしたってことよりも、そうするしかなかったお前を止められなかった自分に腹が立った」
後ろ向いて、言われるがままに振り向くと解れてきていた編んでいた髪をほどかれ、結い直される。彼が手を離してもう一度振り向く。よく似合ってる、彼はそう言って抱きしめてくれた。
もう彼から離れたくない。嬉しくて抱き締め返すと、刹那彼の呻く声が耳元で聴こえた。
「皐希、」
驚いて体を離すと彼はそのまま崩れるように倒れた。彼の温もりと、真っ白な着物に残った赤い痕が残る。抱きしめていたその手にも血がベッタリとついていた。九条殿の家紋の記された小刀が彼の背中中央に突き刺さっていた。
慌てて名前を呼ぶ。いくら呼びかけても、彼は返事をすることはなく、荒く呼吸を繰り返す。どうすればいいかも考えられなかった。
帰ろう、一緒に、桜の樹の下に。意味も分らずそう告げていた。弱い細い体で彼の体を支えるには自分には到底無理だった。それでも、忍殿の元に戻る気はもうなかった。
このまま、彼に添い遂げようと、初めて彼と出会った場所に向かった。彼が出会ったばかりに教えてくれた道を通り、彼女は桜の木の下へと辿り着く。分かりにくい道を通ったとはいえ、血痕からここに着いたことは彼には明白なのだろう。
懐に携えていた懐刀をぬき、印のある左胸を上から突き刺す。息苦しく霞む視界の中で、彼を大事に抱き締めて意識を手放した。
「夢……」
桜絆は寝惚け眼で自室を見渡した。今まで何の夢を見ていたのかは分からなかった。
それを見終える頃には、桜絆の記憶から、皐希と重なる紘との思い出も存在も忘れていた。