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夢結びて花香る  作者: 茉莉リノア
5/21

壱.─手のひらの簪─


「──もしその覚悟がないなら、あの子が傷つく前にあの子から手を引いてくれ」


 頭の中で何度も反芻する。あの日聞いたあの言葉。鈍器で殴られたような、そんな衝撃を受けた。無意識に手を頑なに握りしめていた自分が恥ずかしくて恨めしい。

 自分は何もしてなかったのに、彼女はそれでも自分を大切にしてくれていた。そこに愛しいという感情はきっとなかったけれど。自分も彼女にとっては大多数と同じく守るべき対象だったのだろう。

 そう考えては悔しくなる。そんな資格自分にはない。彼女とは契約の関係に過ぎないと、それに甘えていたのは自分なのに。

 自分は彼女の隣にいて彼女を支える存在にはなれない。それでも、今まで彼女がしてくれた分を返すまでは。彼女が許してくれるまでは、少しでも彼女の支えになれたら。


 夏祈から教えてもらった和菓子をいくつか見繕って彼女の私宅へと向かう。一緒に貰った茶葉も彼女は気に入ってくれるだろうか。

 改めて思うと、あれだけ何度もここに足を運んではお茶をしているのに、彼女の好みを細かく知らない。この前貰った羊羹も自分は抹茶で彼女は桜を選んでいた気がする。もしかしたら彼女は抹茶が苦手だったんだろうか。思い出してみると俺に出してくれているものと彼女が口にするものが違う時が度々あった。

 今の自分みたいに考えて出してくれているのだろうか。たまたま家にあったものを出しているのかもしれない、それでもそれを選ぶ時に自分のことを考えてくれているのなら、それ程嬉しいことはない。

 どうか、彼女のお気に召しますよう。


 蒼く色付く葉桜の横を抜け、彼女の部屋へと向かう。少し前まで庭一面に桜色の絨毯が拡がっていた庭も、今は夏の庭へと様変わりした。天気がいいせいか開けられた和室から風が通り抜け、その匂いが鼻をつく。

 この匂いだけは好きになれない。

 早く彼女に一言挨拶して、お茶を淹れようと足早に歩いていると、丁度客間から誰かでてきた。

「鈴香さん」

 声を掛けると彼女もこちらに気づいたようで笑顔を向けてくれる。

「久しぶり、紘くん」

 この優しい笑顔を見せる彼女が桜華組内で桜華様次いでの実力者だと誰が思うだろう。(おおとり) 鈴香(すずか)、特殊警備隊に選ばれその実力を認められ異例の速さでこの組の副長にまで上り詰めている。姫様と契約を結んで以来何度も会っている内にいつの間にか仲良くなった。今では姉のように慕っていた。警備隊の中では夏祈と違うベクトルで一番仲がいいと言っていい。

 そんな彼女はいつもの三つ編みヘアは変わらずに、珍しく隊服ではなく普段着を着ていた。今日はオフだろうか。

「ああ、この格好? さっき突然用事入ってね、元々オフだったんだけど急遽だから仕方なく。紘くんは桜絆様とお家デート?」

「そんなんじゃ。仕事か、日改めた方がよさそうですか」

「ううん、それはもう済んだよ。ただお疲れみたいだったからお茶でもと思ったんだけど、珍しいね、紘くんから何か用意するの」

 そう言われて苦笑いする。

「ええ、夏祈の知り合いが美味しかったって言ってたので持ってきたんです。彼の知り合いの甘党さんは外れがないらしいので。それに合う茶葉と一緒に」

「へえ、美味しそうだね。いいなぁ」

「よかったら一緒にどうですか? 多めに持ってきてしまったので。オススメしてもらうまでは良かったんですけど、その中からなかなか選べなくて、結局ほとんど買ってしまって」

「いいの?」

「ええ、ぜひ」

「じゃあ今日はお言葉に甘えようかな」

 準備手伝うよ、と言ってくれた彼女と台所に向かう。

「鈴香さん、和菓子どれにしますか」

「うわぁ、どれも美味しそう。……そうだな、私は桜絆様が選んだ後で決めるよ。この皿にいくつか乗せて選んでもらおう?」

「そうですね。姫様ならどれ選ぶと思います?」

「どうだろう。桜絆様その日の気分で決める時あるから。お茶もう少し待ってね」

 皿に乗せた菓子を一度冷蔵庫にしまう。手持ち無沙汰になってしまった。

「あの、ひとつ聞いていいですか」

「ん〜……なあに?」

「鈴香さんに聞いてもいいのか分からないんですけど、前任の副長のこと」

 お茶を用意していた彼女の手が止まる。

「…………どうしたの急に」

「先日梅華様と椿華様にお会いする機会があって、それで。前から俺の育ての親が前任の副長の親で、任務中亡くなったとは聞いていたんです。だから俺の弟がいなくなって、疲れてしまって……でもそれ以上に聞くことはなかった。知りたいんです。姫と真美さんのこと。どうして話すのも遠慮するのか」

「そっか。桜絆様のことだもんね。華神子様たちからどう聞いたのか分からないけれど……あのね、決して話しちゃいけないことではないの。誰も知らないの、親も彼女の恋人の崇仁(たかひと)さんも」

「え、」

「でもごめん。この話、また今度でもいい? 今日はせっかく美味しいお菓子もあるから。今度日を改めて。私も詳しくないけど、それでもいいなら」

「……分かりました。そうですね、姫様をお待たせするのも悪いですし」

 それから彼女の待つ部屋へと向かった。

 夏祈の知り合いの言う通りかなり美味しかった。季節の花にちなんだ和菓子。透明感があり陽の光を反射して見た目も美しい。控えめな味のそれに合うお茶の方も彼女は気に入ってくれたようだった。

 喜んでくれて嬉しいはずなのに、今日は少しでも彼女の好みを知ろうと意気込んでいたはずなのに。それなのに結局素直に彼女の顔を見れることはなかった。


 それから日を改めて鈴香さんと会った。静かな喫茶店の個室を前持って予約しそこで待ち合わせた。

「この前はごめんね。話の方気になってせっかくのデートダメにしちゃって」

「いえ、俺が聞きたいって言い出したのは自分なんで。鈴香さんがいてくれて助かりました」

「持ってきてくれたお茶、桜絆様気に入ってほぼ毎日飲んでるよ」

「そっか、よかったです」

「何か頼む?」

「いえ、俺は。何でも」

「……そっか」

 メニューを差し出されたけれど、そんな気になれなかった。どうしてここまで不安になるのか自分でも分からない。事件のことを知れば気がすむだろうかと、急いてしまう。彼女が話してくれないその理由とは何か。

 悩んだ末に鈴香さんはオレンジティーに決めたらしく、自分は一緒にアイスコーヒーを注文する。

 時間を待たずに運ばれてきたそれを一口飲むと、彼女は持ってきた書類を見せてくれた。

「まず、これが当時の任務の報告書のコピー。まあ見てわかるように任務後事故に遭ったとしか書いてない」

 報告書の提出者は姫様の名前だった。彼女自身が隠したという紛れもない証拠に、胸がざわつく。

「ここからが本題ね。私も前任だった彼女のことが知りたくて先輩に聞いたことがあったの。私が警備隊に入ってすぐに亡くなって、直接会ったことはあっても仕事してる時の彼女を見ることはなかったから。

真美さんは努力家で真っ直ぐな人だった。同期である、当時天才だと言われていた崇仁さんに次ぐ程の実力者でありながら、それに驕ることなく努力し続けた人だった。私も天才とか言われたこともあったけど、調べる内にそれとは比べものにならないほどだと思った。彼女と崇仁さんがそれぞれ副長になってからも彼女はその異能を極めていった。崇仁さんは特殊異能者でありながらその実力の高さを買われて椿華組の副長を務め、それに対し、真美さんは桜絆様を叱れる人だって、違う意味で他の華神子様たちも注目してたって聞いた。それ程桜絆様と仲がよかった。……本当、羨ましいくらい。

彼女が崇仁さんと付き合い始めてすぐのことだった、事件があったのは。一緒に向かった隊員の一人である先輩の話によるとね、任務を終えて帰る最中、何人かは既に華ノ杜に戻ってすらいたのに、後ろから付いてきていたはずの桜絆様と真美さんだけがいつの間にかいなくなっていた。それに気づいた先輩は慌てて戻るともう真美さんはいなかった。茫然自失となった桜絆様しかいなくて、様子がおかしいといくつか質問してみても答えることはせず。桜絆様の身を案じてそのまま急いで帰国。誰もが心配していたけど女性の付き添いも断ったらしい。一人にして、と。しばらくして警備隊含む彼女の関係者には任務中の不慮の事故で死亡と伝えられた。納得するものは誰もいなかった。でも真実を知るのは彼女だけ。真美さんの、あなたのご両親と、崇仁さん、真美さんと崇仁さんと特に仲の良かった歩さんは何度も桜絆様を問いつめたらしいけど結局話されることは一度もなかった」

 これが私が聞いた話。

 水滴の着いたグラスを持ち飲むことはせずにユラユラと揺らす。グラスの中の氷がカラリと音を立てた。

「真美さんほどの実力者が簡単に事故でなくなるはずなかった。しかも任務後、桜絆様が一番後ろに並び戻っていた。もし本当に事故が起きたとしても桜絆様がそれを見過ごすとは思えない。真美さんがようやく崇仁さんと結ばれたって、当時警備隊の隊員たちもかなり喜んでたらしいし、事故に遭ったとしてもそんな時に簡単に命を投げ出すとは思えなかったって……」

 口を閉ざした鈴香さんに、自分も何も言えなかった。

 何があったのか知っているのは姫様だけ。それなのに真美さんの大事な人にすら事件について話すことはなかった。

 こんな自分にすら大事だと護る対象にするのに。そんな仲間思いの人が、真美さんが愛した人をおざなりにするようなことをするだろうか。彼女なら何があったとしても真美さんの恋人や両親だけにでも包み隠さず全てを話すだろう。

 それなのに話すことはしなかった。話せない理由があった? でも彼女は華神子であり、彼女に命令出来るほどの人がいるんだろうか。霊様がそんなことするように見えない。

「ねえ紘くんはさ、何が起きたから隠さなきゃいけなくなったと思う? 警備隊としてやってはいけないことってなんだと思う?」

「……警備隊は華ノ杜屈指のエリートとして異能者たちの上に立っている。その中でもさらに優秀な【蛇華】なら尚更。その実力から信頼され、だからこそ取り締まりを担っているし、それに安心して異能者たちは生活ができている。その信頼をなくすような、例えば姫様の意に背く行為を行うとか。けど鈴香さんが尊敬する程の方がそんなことするとは思いませんし。そういったことをするのならあの黒の化物になる可能性の方が高いかと」

「その黒の、もしね何かが原因で彼女がそれになっていたとしたら、結果として信頼を落とすことになるんじゃないかな」

「どういうことですか」

「黒の化物、通称黒夜叉。どんな存在かは分かるよね」

「元異能者で自分の異能にのまれ、理から外れた存在。黒夜叉よりも高位の異能者しか太刀打ち出来ないため発見しても気付かれないように距離を置いて即時連絡を取る、くらいしか」

「簡潔に言えばそうだね。……もし、任務終了後に黒夜叉が現れて桜絆様がその存在に気づいたら、あの方はどんな行動をとると思う?」

「姫様は対処出来得るでしょうから、終了後でしたら隊員たちに知らせずにそのまま。知らせて隊員たちを不安を煽るようなことしないでしょうから」

「そうね。じゃあ、後ろから桜絆様がいないことに気づいた真美さんはどんな行動をとると思う?」

「話を聞く限り彼女を心配してすぐに引き返し姫の元へ──まさか、」

「もしそこで黒夜叉に遭遇してしまったら、その黒夜叉が元はかなりの高位の異能者で彼女より格上の者であったとしたら、どうなると思う?」

「黒夜叉に畏怖したことで彼女自身が黒夜叉に堕ちたとでも? しかしその場に姫様がいるのにそんなこと」

「君はこの桜華組とはいえ異能の種類が違うから知らなかったかも知れないけど、私たち記憶に触れる桜華組の異能者は黒夜叉についてもう一つ教えがあるの。黒夜叉を見たら桜華組の者だけは即時撤退を命ずると。報告を他の隊員に引き継ぎ、桜華組だけは逃げろってね。黒夜叉は理性を失う分異能の抑制が出来ない。それと同時に感情や記憶も抑制されることなく駄々漏れになるの。紘くんも気をつけた方がいいわ。一層のまれやすくなる」

「なら、その記憶を見てしまって彼女はのまれたと」

「これはあくまでも推測。真美さんが叶わない相手で、尚且つあの方が隠したのであればこれが妥当かなって。それでね、ここから私が君に話した理由なんだけど」

「姫様に隠すよう命令した存在ですか」

「話が早くて助かるわ。そう、私が問題視しているのはそこ。あの方なら隊員たちのことを思って大事にしないでしょうけど、崇仁さんや彼女の両親にまで隠すのはおかしい。だからあの方に黙っているよう告げ口した人がいると思うの。あの方が隠せばバレる心配はないもの」

「仲間思いのあの人の優しさに漬け込んで利用した、と」

「顔が怖いよ、紘くん。でもよかった、あの方のことをきちんと想ってくれてるのね」

「あの人を苦しめるようなこと、あの人のことを知っているならそんなこと出来るはずないでしょう、好きに限らずとも」

 それ程彼女はやさしい人だから。

「でも俺がそんなの相手に出来ますかね。少なくとも姫様より格上でしょう?」

「あら、いつになく弱気ね。そんなことないと思うわ。あの方より上となると霊家の御当主様か華月様になるけど、そんな方々が頼むとは思えない、あの方がやっていると気づいていたとしても」

「そうなると誰が指示したのか特定は難しそうですね」

「だから紘くんの力を借りたいの」

「俺の? どうやって」

 心の声を読めれば何とかなるかもしれないが、それにしても特定ができないなら難しい。

「私は君ならあの方から話してもらえるんじゃないかって思ってるの」

 そんなこと、自分に可能だろうか。

 思わず下げた視線の先に、氷が溶けきったアイスコーヒーが目に映った。今でさえ、自分のことばかりで、見える彼女の心も暗闇に閉ざされているのに。

「……私ね紘くん。真美さんと桜絆様の関係に憧れてるの。対等な存在になりたい。自分にそんな実力があるとは思っていない。それでもあの人の助けになりたいと思う。どれだけ辛いのかそばにいたら分かる。何か出来たらってそう思ってた。そんな時に君が来たの」

「俺が?」

「気付いてる? 君があの方のそばにいるようになってからね、雰囲気が優しくなったのよ?」

「そんなこと……」

「ふふっ、案外謙虚よね、君。この前のお茶も和菓子もそうよ。少しずつだけど君に心を開いてきてる。君ならあの方の心の傷を癒せるんじゃないかな」

 出会ったあの日から、少しでも変わっていけているんだろうか。彼女のおかげで助けられてるのは自分の方だと思う。自分には彼女に見合う資格はないと思う。彼女を助け出せるほどの力も度胸もない。

 それでも近くにいられるなら少しでも彼女の心を軽くしてあげたいと思う。

 目の前で話す彼女のように、姫の助けになれるならできるだろうかと心配するよりもまず行動に移さなければいけない。やらなきゃいけない。

「覚悟、できた?」

 悪戯っぽく彼女は笑う。どこまで計算してこの話をしてくれたのだろうか。姫様もそうだがこの人も相当なお人好しだ。

「ええ、十分に。最終目標は姫様の笑顔ですかね」

「あら、幸せにするくらい言ったらどうなの」

「笑顔にできる頃には幸せにできているんじゃないですか」

「ふふっ、そうかも。私も私にできることをするわ。あの方が背負わされた隠してきたものはきっとあの一件だけじゃない。想像を絶する程辛いことを彼女はそれでも誰かのために耐え忍んできた。もう十分すぎるほどに。だからこれから幸せでいていいと思うの。私たちが幸せにするの」

 負けないわ、君にも。

 デコピンをお見舞され最後に「あの方の花嫁姿早く見せてね」と冗談っぽく言われた。

 それは叶わないかもしれないけれど、その隣に立つのが自分であれば、そう思う。



   ✿*❀



 あの日鈴香さんの口車に乗せられる様に啖呵を切ってみせたものの、未だにどうするか悩んでいた。姫様のそばにいたいと思うものの、契約しても彼女は距離が近づくことを拒んでいるように見えた。これは確信していることだった。隔てられたその壁は中々に頑丈で、それを無理やり壊すのは違う気がした。だからと言ってあの日のままではいけない。

 今まで誰かのことをこんなに思うことはなかった。難題ではあったけれどそれでも気持ちが沈むことはなかった。

 初めは華ノ杜内で彼女に行きたいところはないか聞きながら誘った。華ノ杜でも繁華街と呼べる施設の立ち並ぶ場所がある。地下にワープゲートがあるため最近では仕事で利用することも多い中央街だが、大きな時計塔を中心として継ぎ接ぎのように店が立ち並んでおり、華ノ杜で休日を過ごすにはうってつけの場所である。かなりの店があり、入り組んだ場所に構える店もあるため誘ってはみたが、彼女が首を縦に振ることはなかった。

 少しずつ仕事が増え自分も彼女も忙しくなりつつあった。祭りの開かれる時期は忙しくなると聞いていたが、それもあってか彼女は日々忙しそうにしていた。のめり込む様に一心に仕事をする彼女に危うさを感じて、休息と銘打って街が駄目なら下界ではどうかと誘う。今更、動物園や遊園地に行きたいとは言わないだろうから、任務で下界におりる時に下調べして彼女が好みそうな場所を選んだ。それはデートというにはあまりにも拙いものだった。

 彼女に誘われて私邸にお邪魔していた時は必ず途中で仕事の話に移り変わっていたが、下界ではそれはなかった。一日休むことを許さない彼女にとって下界に行くのも最初は乗り気でなかった。だから誘ってもディナーのみであったりはしたが、それでも普段見なれない洋装姿の彼女を見れるのは、新しい一面がのぞけたようで少しだけ優越感があった。

 そうしてゆっくりと姫様との時間を増やしていく、はずだった。待ち遠しくしていた約束も徐々に合わなくなり時間が空いていった。

 いつの間にか自分たちの関係は契約範囲内に戻っていた。顕著に関係を変えようとはしなかったが、距離を縮めようとしていることに気づいたのか、いつの間にか距離を空けられていたのだ。気付かれないように少しずつ慎重に着実に、それは彼女の方が一枚上手だった。

 それでも諦めはしなかった。諦められなくなっていた。

 自分がそばにいることが叶わないなら、贈り物をあげようと決めた。いつも彼女がつけている簪が気になっていたのもある。肌身離さず常につけているトンボ玉の付いたシンプルな簪。誰かから貰ったものかどうかは分からないが彼女が大切にしているのはわかっていた。対抗心だった、それをあげたのが誰かも分からないのに。彼女に似合う淡い桜色の簪を自分が選んだものを付けて欲しいと思った。それに想いをのせて、きっとバレているだろう気持ちは素直に伝えようとはしなかった。


 次会えた時に渡そうと思っていた。しかしそれが叶うこともなかった。突然だった。

 行き慣れた彼女の邸宅へと向かう。久々に彼女からアクションがあった。買ったばかりの簪をしのばせて彼女の部屋へと向かった。

 意識が朦朧とする程の暑さではなかった。でもそれからのことはあまりはっきり覚えていない。

 告げられたのは一言、別れて欲しい、それだけだった。

 いや契約のことも色々話していたと思う。渡された書類の中に住所の書かれたメモ用紙が一緒になっていた。でもその言葉の衝撃が大き過ぎて受け止めきれなかった。自分が何を言ったのかもあやふやだった。

「ごめんなさい、もう会えない」

 そう言って微笑んだ彼女の笑顔は、紛れもなく仮面を外した本当の顔だった。

『神様のウソつき』

 去り際に聞こえた初めて聞いた彼女の『声』、その声が頭の中で反響して、その場に立ち尽くすことしかできない。息すら上手く吸えなかった。

 それから二年、彼女に会うことはなくなった。

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