壱.─華神子と桜華─
ようやく自室へと戻った頃には、とっくに日は落ちていた。
今まで弟のことを調べるためにあらゆる手を尽くしてきた。どんなに小さいことでも、どれだけの情報量を手に入れようと揺らぐことはなかったはずなのに今はとても疲れていた。精神的に、と言える。いつまでも学生気分でいる訳ではないし比べるつもりもないが、ここまで疲弊したのは初めてだった。気付かぬうちに気を張ってしまっていたのか。あの人のそばにいることの重みを、今改めて肌で感じた気がした。
まだ、彼女の本質すら分かっていないというのに。
少し気を急いていたか、弟とようやく会えると焦っていたのかもしれない。彼女の恋人という体にすれば、彼女に会う機会が増えようが言い訳ができて、弟に会って感情の起伏が起きても誤魔化せる理由ができる。
まあ、そんな都合よく行くとは思っていなかったけど。そもそも彼女との交渉が上手くいくと思っていなかった、というのが何よりの本音だった。
色々と複雑な環境と言える自分たち双子に対して、同じ組の者だから、ただそれだけでここまで力になろうとするのか。だからこそ慕われているのかもしれないが、それは少し……まあ翔、今はかけるだったか、あいつが力を持たないから気の毒にでも思ったのかもしれない。
異能を持たない者は、人間よりも辛く堕ちることよりも惨い死を迎える。堕ちないように繋ぎ止めているとしたら少しは納得がいく。
異能を持たない者はここにはほぼいない、が前例がなかったわけではない。とはいえケースが珍しいため、詳しく知る者はほとんどいなかった。自分だって父が心の中で唱えなければ知らずにいたと思う。
異能を持たない者は器だけはあるために普通の人間のように死ぬことは叶わず異能者と同じく滅びる形で死を迎える。有力者の場合その僅かに残る異能をもって滅びるために安らかに眠ることが出来るが、力を持たないものは器を壊すために力が必要となり、それが苦痛として表れるのだ。
愛娘を失った母が、血が繋がらずとも愛を持って育ててきた息子が尋常ではない苦痛を伴い命を落とすその時を平気で迎えることがどうして出来ようか。父も決して自分たちを嫌っていた訳ではなかった。だからこそ、だったのだろう。
知らずうちに閉じた瞳に熱がこもる。
いっそのこと両親を嫌いになれればどれだけ楽に生きられただろう。
数年前、あの時弟の声が聞こえなければ何か変わっていたのだろうか。
『──兄さん』
けれどあの時聞こえた弟の声は自分を呼んでいたような気がしてならなかった。
瞑って訪れた暗闇に、先程の記宝石が目に浮かぶ。十人十色の姿を映す当人の一生が詰め込まれた記憶の石。異能者は死と同時にその身が亡び何も残らない。神であった頃の名残のようで、人ではないと突きつけられているようで言いようのない気持ちが胸を締め付ける。人の真似事をするように形を残して深いあの湖に鎮めていく。積み重なり、脆く儚くそれは長い年月を経て形を変える。
意識が遠のいていく中で、上から見えた砂のように湖を埋めるその虹色が、なかなか頭から離れてくれなった。
✿*❀
それから任務でもプライベートでも彼女に会う機会が幾度となく訪れた。
最初は隣に並ぶことすら許さないと言わんばかりに責め立ててきたあの冷たい視線もなくなりつつある。むしろ今日も一緒かと、それが当たり前になりつつある。彼女は意外と面倒見がいい気がする。あくまで振りとして付き合っているとはいえ、仕事では重要な事を隠すことなく指導してくれているし、何度か自宅に招き入れて翔の話をしてくれていた。彼は今地元の大学に通い、小さな喫茶店でバイトをしているという。話をしてくれる度に会いたいと思う気持ちは増すが、無事に普通の生活を送れているようで安心する。
「いつかそのバイト先に行けたらいいな」
会えたとしても彼はそのままそこでの生活を続けるだろうから。そう言うと彼女の和らいだ表情が少し強ばる。
「姫様?」
「いえなんでもないわ……そうね、いつか」
気のせいか。差し出された抹茶の羊羹に舌つづみを打つ。いつか家だけでなく外にでも食べに行こうか。確か先日、夏祈の知り合いの甘党の彼が新しく出来た和菓子屋を好評していた。今度来る時はそこのを買ってきてもいいかもしれない。
「さて、今回来てもらったわけについて」
彼女の雰囲気が仕事のそれに変わると、自分もそれにならい居住まいを正す。
「前回、記宝石の泉を案内したけれどそれと同様の場所があるの」
「あそこと似たような場所が他にも」
「同じ、というのは少しばかり違うかもしれないわね。あなたは弟が異能を持たないとして関連の書類をいくつか調べているでしょう。だから知っていてもいいと思ったの。いずれ必要となるでしょうから」
彼女は自身の記憶の書からいくつかの文献を取りだした。
「私たち異能者が死亡しても人のように形が残らないのは知っているでしょう」
「ええ、だからあなたが記宝石を創ったと」
「ええ、私たちは故人を弔うことはない。それはその人を思い負の感情に溺れないようにするために必要なことなの。私たちは寿命が長く丈夫だけれど体自体は人間のそれとほぼ同じよ。だから勿論いつかは死は訪れるでしょうし、深い傷を追えば致命傷となりうる。死が決して離れることはないわ」
死なないけれど死を忘れてはいけず、けれど常に隣り合わせでは仕事故にのまれる恐れも強まる。だから人のように供養することはしない。人を喪うことを忘れるなんてできないのだから、任務の時に思い出しては悼むことで十分だった。それが自分たち異能者の考え。
「けれど、任務中に異能者を失うだけでなく現場を捜査するにあたり偶然一般人に遭遇することも少なくない。事件によっては既に息を引き取っている者もいる。一般的にはその亡骸を親族が見つけられるようにするものだけど、魂しか救えない場合もある」
先日の事件が正にそうだった。多くのまだ幼い子供たちが集められその生気を抜かれていた。現代の子もいれば変わり果て身元の分からない子もいた。引きずられてはダメだと分かっていたが弔いを終えても気持ちは晴れなかった。そんな中彼女は冷静にその場を見つめていた。
「事件のほとんどはその場で弔いを行うことがあるけれど先日のようにこちらに近くなっている場所は静かに眠ることもままならない。そのため、少しでも安らかにと思い現し世の目立たないところに場所を用意しているのよ」
もう親族の元にも帰れなくなってしまった彼らのために彼女は長くその死に触れる。それは極めて危険で異能者内でも神様に近い華神子ならなおさら遠ざけるものだと思っていた。
「異能者含め他の華神子たちにも話していない。まあ何人かには既にバレているのでしょうけれど」
「……それで、なぜこの話を俺に」
「一緒に来てくれないかしら、お墓参りに」
訪れた墓地はとても空気の澄んだ場所だった。大きな慰霊碑にはいくつかの名前が刻まれていた。
「名前の知らない子にはその魂に語りかけることがあるの。その際聞いた名前をここに刻んでいるわ」
昨日の子たちを思い出してはどうか次は大きく育ち長く生きて欲しいと願う。
「あなたなら引き摺られることはないでしょうし、それともう一つ。ここには過去の異能を持たない者たちも眠っているの」
祈りを終えると静かに彼女は語る。
「転生して神様よりも人に近くなると死を迎えても遺骨が残る場合がある」
「え、しかし」
「ええ、人のようにとは言わないわ。欠片に近いものが残ることがある。それをここに一緒に埋葬してある」
だから彼らはこちらにいるのだと言った。
力を使い果たせば異能者として転生することもなくなる。だからこそ人のいるこちらで埋葬するのだろう。
そこから少し離れた場所にこちらよりも控えめに立つ慰霊碑が見えた。よく見ると供えられた花はまだ新しい。こちらも同じようなものだろうか。お供えできるようなものはすでになく、お祈りだけすませる。
姫に声をかけられその場をあとにする。そよぐ風が心地よかった。
✿*❀
下界での任務に慣れてくると華ノ杜での仕事も忙しさが増す。元々警備隊はその名の通り華ノ杜での警備が主で、下界での任務に赴くのは手伝いがほとんどだ。
自分はデスクワークより体を動かしている方がいいと気づいたのは最近だ。案外多い華ノ杜内での仕事に深い溜息ばかりしていると、見兼ねた上司に休憩に入るよう促された。申し訳なさもありつつ実に有難いと部署からでると、偶然訪れていた藤華様から声を掛けられる。
「あら、いつぞやの坊やじゃない」
「お疲れ様です藤華様」
星々の神様の先祖返りと言われる彼女の本名は、蜜衣。元花魁と名高い華やかさを纏う彼女は、桜華である彼女よりも年上と聞くがニコニコと浮かべるその笑顔はどこか幼く見せる。煌びやかな正装の着物に引けをとらない輝かしいその金髪と紫水晶の瞳は、幼い頃月影家との会談の際見た時と変わらず美しかった。
「今日はどのようなご要件でここに」
「隊長殿に会いにね。私のとこの副長の礼司君全然休んでくれなくてね、隊長の櫂くんから言ってくれたら素直に聞いてくれるんじゃないかって」
「あはは」
彼女の側近を務める副長だけでなく、隊長まで君呼びする彼女に戦きながら苦笑いを浮かべる。言葉からしてそれが冗談なのが分かる。自分に要件を話すつもりはないのだろうが、仲が悪いと有名なお二人に対して本当にそんなこと言ったら櫂隊長は更に仕事を増やしそうだ。副長の彼が今日彼女と一緒じゃないのも会いたくないからじゃないかと思ってしまう。
「そう言えば梅ちゃんと椿ちゃんが君に会って話したいことがあるって言ってたわ」
「お二人が自分にどういったご要件で」
「それは会うまでのお楽しみ」
梅華様と椿華様が自分なんかに何の用だろうか。
私も一緒に行きたかったのにずるいなあ、と零す彼女は艶やかに笑う。
「今度時間がある時また話しましょ。その時に桜ちゃんとの恋バナ、聞かせてね」
途端に冷や汗が滲み心臓が大きく高鳴った。君が本当に彼女と付き合っているのなら、だけどね。耳元で笑みを一層深め囁くと彼女は満足したように去っていった。
俺は蛇に睨まれた蛙のように足が竦み、しばらくそこから動けなかった。
それから梅華様と椿華様にお会いする機会が来たのはすぐのことだった。
「よく来たの、月影殿」
「そなたがそうか」
満月に達しようとする前の月明かりの眩しい夜だった。
訪れたのは梅華組にある建物の一つだった。隠れ名所なのか、和室の一角が滝に面し、硝子張りの窓から映る景色は中々に情緒がある。まるで滝に中にいるようだ。梅華組は渓谷にその河川を囲むようにして住居を構えている。梅林と朱色を遇った建物の建ち並ぶそこは彼ら鬼が棲む場所に相応しいように見えた。その河川の上流の近くにある立派な建物がおそらく今ここにいる彼、梅華様の私邸だろう。そのそばにあるこの建物ももしかしたら彼の別邸のひとつかもしれない。落ち着きの中に派手さが滲み出ているようだ。
名は獅生、朱と黄金の盃を手にこちらを見る彼の瞳も右眼は紅色、深い傷のある左眼は稲妻を閉じ込めたかのような黄金に染っている。落ち着いた深緑の髪色のせいかその色がよく映える。既にかなりの酒を飲み干していたのかその顔は赤く染まり今でこそ雰囲気も柔らかいが、もしそうでなければ今溢れでている彼の妖気と雄々しさと相まって気圧されていただろう。
それに対し向かいに座る彼女、椿華様──薫様は妖気こそ出ていないが冷たい雰囲気を醸し出している。柔らかそうな銀の長髪に露草色の瞳がそう見せるのか、まるで彼とは非対称だ。値踏みするように容赦なくこちらを見ている。
「会うのは神の学徒選出時の顔合わせ以来か」
「あれから一年か。ははっ、早いのぉ」
酒のおかげか梅華様は随分ご機嫌な様子で酒を煽る。
「それでお話とは」
恭しく座り、頂いたお酒をありがたく受け取る。香りだけで酔いそうな強い酒をちびちびと口にする。御二方とも妖であるからか同じ酒を水のように飲んでいた。
「ああ、二人が付き合い始めたと聞いてな」
「あの男嫌いの桜華が懇意にしていると聞けば誰でもその相手の顔を拝みたくなるものよ」
「ま、そういうことだ。今まで彼奴のそばにいられた男は彼奴と共にここに来た橘華だけさ。俺ですら仕事以外で会うことはないと言っていい」
「そなたの場合会って間もない頃虐め尽しておったからだろう」
「虐めてなどおらんわ、あれは奴の異能の底上げをだな、」
「そうカッカするでない」
「吹っかけたのはお前だろうに」
子供のように拗ねた梅華様はその勢いで一升飲み干しては酒が足りぬと新しい酒を開けた。
「やはりあの御方と同じ気を持っておるな」
変わらず冷たい物々しい視線が突き刺さる。姫でさえここまで冷たい視線を寄越したことはない。
「あの御方、とは」
「何だ、彼奴話しておらんのか。まさか気づいてないわけではあるまい」
「それはないだろう、私たちと霊家当主殿は何度も謁見しているのだ。直接御顔を見ることはないと言えど、神気の質がまるで同じだ。それに彼女は印の影響であの御方の奥方殿の神気を少し戴いているのだ、自分と似た神気を持っていて気づかないほど愚かではあるまいて」
この子は気づいていないようだが。
目の前で繰り広げられる会話に困惑する。先日彼女が口にした自分たちは似ていると言っていたあれだろうか。まるで分からないそれに、つい口をさす。
「あの、結局その御方とは」
「いや、彼奴が話しておらんのなら、わしらから話すわけにはいくまい。異能も使いこなしているようだし今のところ問題もないしの。そなたは『願い』を耳にすることが出来るだろう?」
「願い、ですか」
「ああ、それを使えるのは特別な者のみ。わしらにとってはな」
「馴染み深いものでもあるがな」
「わしらにははなから無理だろう」
「違いない。まあ使えたら大変だが」
談笑を交わす彼らにやはりついていけない。華神子でも彼女と会話する方が余程有意義で落ち着く。
ひと目、窓から見える月にを移す。姫様もこの月を見ているだろうか。
「──何だ、わしらのことを放って桜華のことでも考えておるのか」
「…………どうして」
「顔を見れば分かるさ。ははっ、これなら声が聞こえなくても分かるな」
「……何だ、心配して損した」
「どういうことです?」
「いやな、藤からお前が何か企んで桜華のそばにおるのではないかと聞いてな」
「桜華に限ってそんなことないだろうと言ったのだが、この前会ったらどうやら本当らしいというものでの」
「それでこうして酒に誘ったのだ。彼奴が簡単にやられるとは思わんが、先日の事件で不安定なのも事実。が、彼奴は人を頼ることを知らん。本人から助けを求められることもないだろう」
「だから一目見ておこうとな、あの子に相応しいか。私たち三人はそろそろ代替わりの時期だからな」
そうなってはもうあの子はだれにも助けを乞うことはなくなってしまうだろう、そう言ったお二方の視線はいつの間にか柔らかく優しいものへとなっていた。
「あの子がここに来て数百年経つが、あの子はまだ誰にも心を開いてないんだ。彼女と共に来た橘は訳を知っていたのだろうが彼女が話さないのならと誰かに漏らすことをしなかった。そして彼女は孤独でありながらその大きすぎる業を背負い、いやさらに積み重ねていった」
「彼奴はどこまでも不器用なんだ。あの細い腕でそれでも大事なものをたくさん抱え込んで、一人で担おうとする。それが当然と橘にもアイツを助けた雫玖様にさえ頼らない。いや、彼らだからこそ頼らない。それが真美の一件以来加速した」
「周りも彼女だからと安心して、それを疑問にすら思わない。だからこそ彼女に救いを差し伸べる……いや強引にでも引っ張りあげるその手が必要なんだ」
「わしらには無理だった。──なあ、お前は彼女の罪を、全てを一緒に背負う覚悟はあるか」
「もしその覚悟がないなら、あの子が傷つく前にあの子から手を引いてくれ」
今まで自分は彼女の心に向き合うことはしていなかった。
弟に会いたいと自分のことにしか目を向けず、だからこそ今まで聞いて作り上げられた神楽木 桜絆という虚像と彼女の行動に違いが見える度驚くことしかしなかった。
それが本心だと自分が何より気づいていたはずなのに。
そもそも彼女も弟に合わせるだけなら本当に表向きだけよく見せていればよかったのではないか、俺の事を気にかけてくれていたのに、自分はなんて浅はかなことをしてきたのだろう。
彼女の背負うもの全てを俺が担うなんて出来るはずもなかった。
例え契約の上に成り立つ関係だとしてもそれでもと華神子たちは望んでいたのだろう、彼女を救い上げてくれる存在を。
自分がそれになれるはずもなかった。