壱.─記宝石─
契約を交わしたあの時から晴れて恋人となった俺に、姫様はたまに声をかけてくるようになった。それがどれほどの事なのかを知ってか知らずか……いや分らないことはないのだろうが、姫様は躊躇うことなくそれが当たり前であるように顔色一つ変えずに話しかけてくる。別に、それが俺にとって何か影響がある訳ではない。陰口の一つや二つ、元々心の読める俺にとって口にしたかしていないかの違いなのだから。
公表は敢えてしなかった。それでも、陰口で済むはずなかった、当たり前だ。深く考えなくても分かることだか、俺が今相手にしているのはこの街の中心的存在が一人、華神子なのだ。最高権力者であるのはこの杜を創った神様とはいえ、代行である霊家当主、その次が華神子となる。霊家はこの街の秩序を守る存在であり、異能者たちを直接まとめあげているのは華神子たちである。
つまり、少なくとも五組のうち一つの長を務める彼女が組の者から慕われているのは当然なことで。さらに言えば姫と言われるほど崇高な存在の彼女である。神の寵愛を受けその美貌はこの華ノ杜にきて数百年経つ今でも衰えることはない。異能者はその異能を充分に使えるよう、ある時から身体の衰えが一時的に止まる。それも相まって年長者の現華神子五名の美しさと気高さに人気がとどまることはない。
そんな存在に近しい者ができたとなれば騒がれ、その男が彼女に見合わない場合問題視するのも当然なわけで、「あなたなんかが姫様の傍にいるなど決してあってはならないわ」……などと文句を言われた挙句、子供のような稚拙な考えしか持たない彼らが卑劣なことをしてくるのも、まあ納得がいかないわけではない。相手にするのも面倒だから急所に当たらないように適当に流してはいるが、彼女には全て筒抜けのことだろう。
「あ〜あ、面倒くさ……」
せめて警備隊の方には伝わらないようにしなくては。土埃と痛みのない小さな傷を見て、昼休みが終わる前にどうにかしなくてはと考える。いくら数十人から受ける暴行と言えど、あれほど弱い奴らの攻撃など当たった振りをして受け流すくらい造作もないのだ。
もし自分たちが体の関係があったとしたら、見えないところに傷をつけたとしても気づくだろうに。まして彼女が自分に本当に惚れていたとしたら、破門で済まされるかすら危ういというのに。
そこまで考えて、あまりにもありえない空想に自分で考えて寒気がした。自分が、彼女が、各々を愛するなど到底ありえない話だ。あくまで俺たちはお互いがお互いを利用するための恋人ごっこをしているに過ぎないのだから。
それに優位異能者は子を成すことが難しいとされている。人に近ければ近いほど子を産みやすく、神に近い程可能性が限りなくないため、相手を選ばないし選ぶ必要がないのだ。だからこそ姫様に不埒な噂が着いて回ったりもするのだが、そういう訳で今回の件はより一層噂されているとも言える。
一度部屋に戻って着替えを済ませた後、正門を過ぎたところにある下界に繋がる鳥居の前の人集りに紛れ込む。
「あなたはどれ程お休みをとるつもり? 私にバレないとでも思ったのかしら。遅刻したのなら直ぐに報告なさい、礼儀でしょう」
真っ黒な外套に身を包み顔を強ばらせる彼らの、列の最後尾に並んでいると、いつの間にか正装である桜色の着物を召した彼女が横に立っていた。
「気づかれないと思ってたのに、鋭いですね」
「気づかれたくないのならしっかり隠すことね、その傷も」
殴られた部分を小突き、勲章にもならない、と吐き捨てると、彼女は元の位置に戻り今日の任務について淡々と説明をし始めた。
さすが上位異能者の集まりだ、陰口はほぼないが心のざわめきがひときわ多くなる。やはり噂は本当だったのか、あの姫様があんな奴と、など好き勝手ほざいてる。それでも彼女は機械のように気にすることなく話し続ける。
本当、どうやって生きてきたらあんな人になれるというのだ。これが年の功というやつなのか……そんなこと言ったら殺されるか、さすがに。一見か弱そうで本当の姫に見えるというのに、強かで思考の読めない彼女。
懐に入れられたメモをひと目見て彼女に視線を戻す。俺にはもう視線を向ける気のないらしい彼女は、説明を終えるとそのまま鳥居を潜った。
任務後、執務室に来るように。メモに書かれていたのはそれだけだった。
俺たち異能者にはそれぞれに役割がある。自分たちが今ここにいられるのはある神様が悪戯に決めた、神堕ちした低級の神様から外れたものの排除、及びその周囲の瘴気の浄化という責務があるおかげだ。とはいえ異能者全員が同じ力を持っている訳ではない。そのために大きく六つに分類しそれぞれに霊家当主と華神子がついた。華神子治めるその組には梅、藤、椿、桜、橘がその象徴として示される。
下界での任務は、言の葉を司る橘華組が中心となって動く。特殊警備隊が事前調査を済ませ、それに合わせて異能者が現場に赴き、橘華組が封印する。その時例えば神堕ちが簡単に封印できない相手であれば戦闘に特化した梅華組の者が動く。力を司る彼ら梅華組のほとんどは妖、鬼であり、異能というより妖力を使いこなす。その際橘華組は彼らのサポートに言葉に力を持たせ、攻撃力の増加、複合、防御、回復を行う。もし神堕ちに言葉が通じる場合は椿華組が中心となり説得を試みる。彼らも妖、特に妖狐の集まりとも言えるが心情を司る彼らは心に触れて惑わす力がある。人に化けることを生業にする彼らだ、観察眼が鋭く、故に心情を読むのが上手い。藤華組は現場に来ることはほぼないが、時を司る彼らはサポートと現場復帰を行う。それらを記し管理するのが桜華組である。記憶を司る彼らは任務に最低一人同行することが義務付けられていて、自分の身を守れるように記憶した能力は自分も真似できるという便利な力を持つ……自分が操れる範囲内に限られるが。
もちろん任務に赴くのは上位異能者で、それ以外は専ら華ノ杜に務める。下界にも降りることがない訳ではないが、色々面倒なのでそちらに赴くものは少ない。華ノ杜にはいくつか大きい施設があり、各々が管理することが義務付けられているため、大体の異能者はそちらに勤めている。
そして特殊警備隊が行うのは、事件の事前調査と華ノ杜内の警備などである。下界での問題発生時や依頼時、少数で現場に向かい状況を把握し、浄化に必要な異能者を選出し呼び出し任務に来た彼らに情報を提供する。特殊警備隊は特異異能者と各五組の上位異能者から成り立つ、霊家の治める一つの組である。そのため自らが問題を解決する場合もあるが、それはあくまで問題が大きくない場合に限られる。専らの仕事は華ノ杜の警護と異能者の取り締まりだ。特異異能者だけでなく各組から選出するのも組のバランスを取れるようにするためであり、警備隊上位九名、通称【 蛇華】に選ばれた者たちが、華神子の政治力への抑止力として彼らの側近に付いているのもそのためである。
これを踏まえて考えても今回の依頼は少々厄介な件だ、というよりは各任務に宛てがう割振りが問題だった。春先は何かと依頼が増えるのは例年の通りであったが、ここ最近はやけに頻繁に事件が起きる。
元々自分らは瘴気の浄化などを生業とする神様たちの補助を務めることが多い。つまり、そこまで瘴気が多くなければ仕事などないのだが、時代が時代であるが故か、はたまた行き過ぎた好奇心のせいか、隠り世の狭間へと落ちる人間が少なくないのだ。そうなれば神は手を出しにくい。不浄であればあるほど存在が危うくなることもある。それに対し自分たちは曖昧な存在であるから都合がいい。……代わりはいくらでもいる、という言い方は不本意であるがその通りなのだから仕方がない。度胸試しで危ういことに首を突っ込まないでほしいと文句を垂れても事件数は減らないのだ、片っ端から片付けるしかない。しかし、それで瘴気が大きくなり禍が禍を呼ぶのだからやはり控えてほしいものだ。そうして大きく人に手出しのできないものへと成り代わるために自分たちが駆り出される、たまったものじゃない。
そうなるといくら慣れていようと強いものを集め封じるしかないのは言わずもがな、梅華組の者の人手が足りなくなる。橘華組でもできないことはないが、あちらはサポートメイン。そこで駆り出されたのが自分たち警備隊だ。
しかし今回の分配は誰が見ても失敗であると言えるだろう。神堕ち相手に、しかもそれなりの力を持ったもの相手に高位の戦闘特化異能者が一人もいないのだ。つい先日同じような事件に駆り出されたが故に。
そうでなければ自分のような若輩者が駆り出されることもないだろう。毎年この時期に起きる人手不足はどうにかして欲しいものだと、先輩が嘆く。
ようやく着いたそこは瘴気に塗れた酷い場所だった。特別、廃病院などではないがまあ肝試しに好みそうな場所だな、という建物だった。五階建ての横に長いその建物の、四階から上が黒い雲に覆われた様にぼんやりとしていた。
「今回はやけに酷いな」
「興味本位で肝試しに来た大学生や若い連れが、入ったきり戻ってこなかったらしい。まあ、お決まりの様なもんだな」
「神様がここにいたって言うのはつまり……」
「人の寄り付かなくなったこの地に無理やり建物建てて、神様がお怒りになったってか」
「でもそれなら建物を建てる段階で死人が出るのでは?」
ワープ地点から目的の場所に辿り着いた異能者たちは各々の見解を述べる。その建物に臆することなく触れるのは姫様だった。
「この建物が建てられた当時はまだ別の地にしっかり神様が祀られていたようね。そのおかげで繁栄したものの、繁栄に伴い土地を拡大した際にその祠が壊され忘れられたことでお怒りになった結果のようよ」
ひと通り皆に説明すると、次は役割を割り当てられる。記憶を除いた際にその堕神様でも見たのか、やけに慎重に動くようだ。
「──以上、皆気を抜かないように。一瞬で持っていかれたくなければ」
彼女の脅しは、自分たちを心配する言葉にしか聞こえなかった。
着実に瘴気を消していく中、磨り減る神経を根気で研ぎ澄ませ四階、それと分かれて地下へと向かう。
カモフラージュでもしているのか、四階と比べ地下はやけに静かで、しかし姫様の話ではこの階段を下った先にここの主がいると言っていた。瘴気の多さから、上へと向かう人手を減らせず、だからといって一方のみ進むこともならず両方同時に仕掛けるしかなかった。
息苦しい……頭痛も酷くなってきた。こういった任務につくようになってから、自分は他の異能者に比べ、充てられやすいのだと気づいた。生まれがわからないせいか対処が出来ず、いくつかの任務をこなしても慣れることはなかった。うまいこと隠すことができているのか、まだ誰も気づいていないようだが、今日のは相手が強いせいか酷いようで。……嘘とはいえ、この事がバレて事務の仕事に落とされれば彼女との契約続行が困難になる。何としてでも続けなければ、弟に会うまでは。
「やけに苦しそうね」
背後から聞こえてきたくぐもった声に息を詰めると、続いてくすくすと笑う声が聴こえる。
「あなたがこんなところにいていいのですか、姫様」
「心配してみれば冷たいものね。今回の私の役割は記録者で後方にいるのは当然のことよ。戦闘と封印は得意な者に任せるに限るから」
「貴方は何度も梅華の長の力を見て記しているはず。なら戦闘は姫様が務めた方が……」
「馬鹿言わないで。いくら何度も見たからと言ってあれだけの力を使いこなせるはずないわ。知っての通り梅華の長は鬼、椿華の長は狐、二人とも妖よ。元々体の弱い私には到底できない」
ピリッとした痛みを感じた瞬間、今までにないほどの瘴気を肌で感じた。
ヤバ……っ、
「それに私はどちらかと言えばあなたに似ているわ──体全体を覆うように気を集めなさい、そうすれば少しは楽になるでしょう」
「……え、」
「早く──お出ましのようね」
似ているって何のことだ。そんなことを聞く前に体に電流が走ったかのような痛みを感じ、すぐに言われた通り気を集める。少しだけ浅かった呼吸が整い頭もスッキリしてくると、目の前の相手の力量をようやく図ることが出来た。ここまで強い相手は初めてだった。自分の持つ力は時間操作と悟り、つまり後方部隊。
そのことに良かったと一瞬でも思ってしまった自分に嫌気が差した。
「【詠え】!」
すぐに橘華組が防御壁を展開させるも一足遅く前衛部隊にいた先輩たちが薙ぎ払われる。
「医療班、直ぐに治療を施して」
「深手の方はこちらへ運んで下さい、防御壁の中で治療します」
「戦える者に防御及び戦闘力増加の加護を」
怒りで我を失った神の姿がこれほどまでに恐ろしいものだと初めて痛感した。これを封印するとは骨が折れそうだ。周りにいる怪異も片付けなければならない。
声が聞こえた。
『…………、……』
「止めてやるよ、アンタの暴走も時間さえも」
聞こえてきた神様の心の声は悲鳴にも嘆きにも似た泣き声だった。
「梅華組の者はいるか!」
「数が足りません! 食屍鬼の数が多く迂闊に神堕ちに近付けません」
人の魂だけがここに残り、雑妖と混じり怪異となった食屍鬼。神堕ちにのまれ、意識などない。ただ生者の魂を喰らうことだけ、それだけを考え行動する。
「【詠い狂え、剣舞】!」
「食屍鬼には成る可く炎で対処しろ、責めてもの計らいだ」
「椿華組は今回は戦闘を中心に行え、これ程の食屍鬼を呑み込んでる、話は通じない」
「梅華組は神堕ちに集中しろ! 橘華組が食屍鬼の相手だ」
「燃え盛れ、狐火!」
轟々と燃える人の形をした食屍鬼を喰らう炎の先に、倒れ伏した先輩たちにも炎が移る。
「先輩!」
急いで炎を止めるも、もう彼らは息をしていなかった。
「月影、前だ!」
迫り来る神堕ちの一撃に一瞬思考が止まる。
「────バカが」
神堕ちの強い一撃を薙刀で払い除け目の前にいたのは姫様だった。
「早く立てバカ者、考えなしに突っ走るな」
「桜華様!」
「ご無事で!」
「上にいた者たちが浄化を済ませたようだ、すぐに応援に来るよう伝えた。心を折られるな! あと一息だ」
力強い姫様の言葉に奮起する一同。
食屍鬼は大方片付き、少しずつではあるが神堕ちも攻撃の威力が弱まるのが分かる。
犠牲者が出ていないわけではない。
それでもこの地で安らかに眠って貰えるよう、神様の穢れを自分らが祓うのだ。
無事、封印の術をかけ終えた後、残ったのは最初に来た時の半数まで減っていた。浄化作業を終えてほとんどの隊員が外へと移動し怪我の手当てをする中、姫様だけがおらず一人で戻ってみるとやはりそこに残り佇んでいた。
「ごめんなさい、護れなくて」
幾億の光に照らされ、そこでようやく彼女が泣いているのだと気づいた。光る元となっているのは、彼らが生きたという証である記宝石という名の石である。その名の通りその者の記憶を石に象ったもの。
記憶を操る桜華組の者のみが許された行為。勿論、自分にはできない。
戦闘ではあれ程勇ましく皆を鼓舞していたのに。流す涙はなんと美しいことか。
「……外へと出るように命令したはずよ」
「すみません。……毎回、異能者が亡くなる度にそうしていたのですか」
「聞こえなかったの! 外に出なさいと──」
「あなたの姿が見当たらなかったので」
反論する気が失せたのか、彼女は態とらしく深い溜息を吐いてみせた。
「いつから?」
「あなたが彼らの亡骸を形あるものへと変えたあたりからです」
「……そう、ならいいわ」
光ることをやめた宝石の元にしゃがみこんで、彼女はひとつひとつ丁寧に箱に詰めていく。大きなものもあれば、それより半分の大きさのものもあり、色も形も様々だった。
詰められたものは多分、大切に大切に他の者も眠る地へとかえされるのだろう。普段入ることの許されない、桜華の限られた者のみが知るその地へと。深い深い、静かな場所へ。
「仲間を失う度にあなたはいつもそうして悲しんでいるんですか」
もう一度、彼女に問う。彼女は何度そうやって友を思い、嘆き、悔やみ、自分を責めたんだろうか。
自分たちは人でもまして神でもない。中途半端な存在としてここに在る。不安定故に堕ちることもあれば、静かにその長い日々を過ごす者もいる。そして終わる時は皆、何も残すことなく消える。どんなに、人のような身体を以てしても骨も何も残らない。
それをどんな形であれ残したいと言ったのは彼女だったという。その石に触れればその者の全生を見ることが出来るが、決して触れられないように静かな所へ葬るのだ。禁忌を侵さぬよう管理するのが、もう一つの桜華組の者の務め。
魂こそ変わらぬものの、何度も繰り返す自分たちにどうしてそんなものを残したいと願ったのか。いつも悲しみながら弔うというのに、なぜ証を残したいと願うのか。
「……私にもわからない。けれど、どうしてもそうするべきなのだと思っていた」ずっと前から。
「憧れてたのね、きっと。そこに自分がいたことを証明できることに。たとえ魂は変わらずとも、その瞬間そこに自分がいたことを残すことが出来ることに」
憂いの篭った瞳はどこまでも澄んでいて、初めて見た彼女の本心だった。
任務を終えて直ぐに執務室に向かおうとした俺を見越してか、姫様は桜華組の門の前に立っていた。ただ一言、ついてきてと告げると彼女は目的地も告げずに歩き始める。
華ノ杜の中央に聳える中心街、その地下へと進んでいけば様々な地へと飛んでいける簡易的なワープゲートがあり、そこからは二つの場所に行けるようになっている。一つは梅華組の者が管理する学校施設、そしてもう一つがこの桜華組が管理する図書館である。
さすがに現世と幽世との狭間にこれら施設を置くことは出来ないため、現世の人が立ち寄らぬところに見えないようにそれぞれ設置されている。そこへと繋ぐための道だ。勿論下界におりてそこから行くことも出来るが、結界をいちいち解くのは面倒なため、専らこちらが使われている。
華ノ杜の和の国らしい建物に比べ、英国風の異人館にも似たこの図書館には様々な花々が咲き乱れている。一見植物園にも見えるこの図書館には幅広い文献が置かれている。桜の大樹に出迎えられるのはさすがと言うべきか、手前の庭園を抜けると、すぐ左手にある東館と正面奥に立つ西館の大きくわけて二つある建物が聳え立つ。
そのうち、自分が最近頻繁に利用するのは東館であった。少し前までは一階から三階までの吹き抜けスペースもありカフェスペースもある西館をよく利用していたが、学生を卒業したこともあり詳しい文献の並ぶ東館を最近はよく利用していた。
今日はその西館の方だった。そういえば西館の一階と二階の奥の方は桜華組の者しか立ち入れない部屋があると聞いたことがある。入ってすぐのインフォメーション横の階段を上り、絵画の飾られた天井の高い通路を抜けると扉があり、その横には三階のカフェスペースへと繋がる階段が置かれている。
西館は東館と違いガラス張りの弧を描く独特の造りをしているが、その分より多くの自然光を取り入れることで勉強にも丁度良い明るさと静けさを作り出している。そのまま二階スペースへと入り、一段高くなっている奥のスペースの一番端の本棚を彼女は軽く押すと、その奥に見える部屋へと入っていく。入口の場所に驚き少しの高揚感も抱きながら中を覗くと、似たような本ばかりが集められ並べられていた。
「あれ、これって……」
薄い冊子のようなものもあれば、暑くて重そうな辞書のようなものもある。何百年前のものかわからないような寂れて色褪せたものもあれば、新品同様のものもある。
それは紛れもなく過去生きてきた異能者たちの記憶の書であった。
記憶の書というのはその名の通り、持ち主の全生の記憶を納める書である。記宝石との違いを表すのなら、書物は記憶を納め、記宝石は思い出を納めると言ったところだろうか。データ化された記憶の書はそのものの記憶の量により厚みが異なる。そして記憶の書は桜華組の者であれば扱いが可能というのが一番の特徴である。それに触れることでデータを物理的に呼び起こすことができる……簡単に言えばそのものの記憶の中にある食べ物であったり道具であったり、それらのあらゆるものを複写し造形することが出来る。能力値が高い者であれば、データから能力をコピーし操ることも出来る。実際、桜華組の者が記録者であるというのも、見たものを記憶し、記録の書の複写を事件のあらましとして纏めているからでもある。
「こんなにたくさん……」
「ここにあるのはごく最近のものばかりね。全てをそのまま納めるには場所が足りなさすぎるもの。昔のものは年代ごとにまとめるなりしているわ」
彼女の指し示す方を見てみれば、上段の方には背表紙の異なるものが並んでいた。
「事件毎に並べられた書庫なら霊家が管理しているけれど、個人のものはここで管理しているの。まあ、使うことはほぼないけれど一応頭の片隅にでも入れておきなさい」
何冊か手にしていた記憶の書を並べ終えると、彼女は次は中央の書棚へと戻ると、その空間内の時間を止めた。
「ここからは私以外は知らないし伝えていない、特別な部屋よ。記憶を盗まれないよう、あなた自身にも鍵をかけておくけれど用心するように」
いい? と告げた彼女は真ん中の書棚を前へ押した。するとその書棚が横へと動き、大きな扉が目の前に現れた。
まるで絡繰屋敷のそれに呆れて声も出せずにいると、彼女は扉を開け下へと続く螺旋階段を降りていった。
しばらく降りて見えてきたのは幻想的な世界だった。息を呑むほど美しいその湖に沈むは数多の宝石、否、記宝石であった。
「ここは私が記宝石を作ると決めた時に華月様に直接頼んで作って頂いた空間。螺旋階段の途中から華ノ杜に近い空間へと繋げてあるの。記宝石はその者を象ったもの、記憶の書と違い形を変えることは出来ない……変えられないように作った。だからこうして一つ一つ水葬している」
卵型の洞窟内の下には水が溜まっており、そこへ一つ一つ沈め弔うのだという。
彼女がなぜ水葬を選んだのか、俺にはわからなかった。下層にある小さな欠片がその答えなのかどうか、考えるのは無粋だと、そう思った。