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箸休め・あなたを抱いた日 6

 木々の生い茂った緑が作るまだらな影のなかを道を歩きながら、わたしは小さなため息をついた。冷たくも、あたたかな空気。甘さが消え去り、だんだんと暑くなっていくのだろうな、と感じさせる。

 山道は涼しいが、でこぼこの地面を踏みしめると汗が伝う。

「転ぶぞ」

 伊吹がわたしの手を握りしめる。

「うん。ありがとう」

 わたしは伊吹の手を強く握りしめた。

「あら、あなた、手にたこが出来てる」

「毎日しごかれてるから、な」

 ふと伊吹がなにか気が付いたようにぱっとわたしの手を離した。

「伊吹?」

「いや、藤嶺教官が見たら、と思って」

 わたしは目をぱちくりさせる。どうして、ここで李介さんの名前が出てくるのだろう。

「あの人でも、自分の奥さんにちょっかいだす男はいやだろう」

「ちょっかい? 伊吹が」

「なんだよ」

「李介さん、そんなこと気にするかしら?」

 本物の小日向なら気にするのかしら? けど、わたしは。

 ああ、そうだ。伊吹にもわたしは小日向なのだ。

「アンタの前だと……優しいのかもしれないけど、俺が知ってるのは鬼みたいに強くて、おっかないうえ怖い藤嶺教官だ」

 わたしの知っている李介さんは、お酒に弱くて、少しだけめいめいしくて、優しくて、不器用で、触るのが大好きで、不器用で、口下手で……努力を惜しまない人。

 人の目を通すとこうも違うのかと驚くが、そうか、李介さんはいつもいろんなところで気を張ってがんばっているのか。今夜は李介さんに美味しいものを作ろう。

 伊吹は結局、もう手を繋いでくれようとはしなかった。

 そうして意識された距離が、すこしだけ、さみしく感じられた。

 伊吹、お願いだから、あなたは、遠くに行かないで、ね。



 今日はそろそろ終わってしまう春を惜しんだ献立である。春キャベツと三枚におろした鯖を潰したトマトで煮込んだ。これは隣のお家のいくちゃんのお姉さんが愛読している婦人雑誌をもういらないといって譲って頂いき、文字の勉強のため読んでいたのだが、それに作り方が掲載されていた。さっぱりした魚をことこと煮込んで味をしみこませ、魚の身をほろほろにしたそれは、少しだけ酸っぱいし、辛い。

 李介さん好みである。

 白いごはんは少しあまく、ふっくらとさせるには蜂蜜をいれるといいと聞いたのでものは試しにやってみたら、きらきらとしたお米。一口たけ食べると、つやつやのまったりとした味わい。

 つくしは卵とあえて、炒め物。味付けは醤油、塩胡椒のでさっぱり風味。

 菜の花のおひたしを作っておいた。

 李介さんがほどよい時間に戻ってきたので二人でいそいそとごはんにする。

 むろん

「つくしか。春らしいな。なんだ、もうすこし濃いめの味が私好みだぞ」

 朧月様がちゃっかり食べているのだけど。

「ユエ、文句を言うなら食べるな」

「なんだ。感想だぞ。うむ。この米はまろやかなかんじだな」

 二人とも飽きもせず言い合いをしている。

 ああ、けど。つくしの苦み、お魚の噛むと形が崩れて口のなかでこぼれて、広がる味わい深さ。

 今日は大成功だ。

「李介さん、おいしいですか?」

「ええ」

 目を細めて笑ってくださる、その顔にわたしは小さく頷いた。

 その日の夜も勉強をして、寝室に行くと、やっぱり布団は離れていた。わたしは少しだけ迷ってお布団をぴっとりとくっつけて、李介さんのお布団のなかにはいった。静寂。そこに足音が聞こえてくる。目を閉じる。どきどきする。開いた音。沈黙。そのあと、ゆっくりと布団が剥ぎ取られる。

「李介さん」

 寒いです。

「困った人だ、あなたは」

「……どうして、離すんですか? わたしは、あなたの奥さんですよ? なにを我慢して、なにを避けようとしているんですか? わたしが気に入られないら怒っていいし、殴ってもいいんです。だって、わたしは、あなたの奥さんなんだから」

「そんなこと、出来るわけないでしょう」

 握った手に手を重ねて、指を絡める。冷たい。それが怯えたように震える。

「わたしは、あなたの妻です。あなたが好きなように振る舞い、願って、形作ればいいんです。わたしの身は、あなたのものなんですから」

「……っ」

 苛立ったような沈黙のあと。小さな息が吐かれる。

「俺がどれだけ我慢しているか、あなたは知らないでしょう」

 向き合って告げられた言葉の意味を理解しようとしてわたしは黙ったまま。

 かたい指に唇が触れて、撫でられる。ゆっくりと口を開ける。そっと指が下唇をなぞって口の中に入ってくる。前歯をつついて、さらに奥へと。濡れた口腔に入る指先を軽く食む。そうすると、指がなかにはいってきた。歯をなぞって、舌をつついて、軽くひっかいてくる。

「むぐぅ」

 思わずえづいてしまった。

 いやではない。

 それを示すように口をできるだけ大きく開けて、舌先で李介さんの指先を嘗める。絡めて、遊ぶ。

 わたしは、

 李介さんの視線を感じる。

 わたしは、あなたの

 伏せていた目を開けて、李介さんを見る。

 わたしは、あなたの、小日向ですよ。

 目が合った。

 口のなかにある李介さんの指が動いた。なかを強く撫でた。もっと撫でたいといいだけに。

 そうか、この人はこれを我慢していたのか。もう我慢しなくていい。わたしは、あなたの妻なのだから。

 妻とは夫に尽くすもの。わたしの魂に刻まれた言葉のまま、わたしは動いた。

 李介さんの腕に、強く強く抱きしめられて覆いかぶされた。


 海のなかに沈む。溺れる。慌てて陸にあがろうとする。気持ち良さに我を失くしてしまいそうで怖くなる。ううん、なくしても、いいのかもしれない。

 けど、ときどき現実へと帰る。あたたかな布団と、わたしのことを見下ろしてくる李介さんの目。細めてわたしのことを見ようと、必死に向けてくる視線。射抜かれて、死んでしまいそう。手を伸ばしたら、握りしめられた。潰さないように。壊さないように。

 壊してもいいのに、いじらしい。

 ほっと一息ついたらひきずられて、また溺れた。一瞬、このまま死んでしまうのかもしれないと思ったが、ちゃんと息はしていて、意識はある。ときおり沈みそうになるとき、視線を覚える。気遣うような、愛しむような。あなたが沈めているのに。詰ろうとしてやめた。甘えることが下手な狐がすりよってきているみたいで、無碍にできない。愛しい、可愛いと示すように頬を撫でると、自分からすり寄ってくる狐はかわいい。油断していると牙を出して噛みつかれた。

 ああ、沈む。

 あなたのなかに、溺れて、死んでしまいたい。今だけは。今だけはあなたに全部攫われる。


 薄い光が差し込んでいる――朝だ。朝がきたのだ。

 目覚めたとき、とても心地のよいぬくもりに全身を覆われていた。

 李介さんの腕に抱かれているわたしは手をまわして、爪をたてる。とても眠たい。けど、起きなきゃ。相反する気持ちの板挟みが唸っていると、頭を撫でられた。

「もう少し寝てましょう」

「けど」

「休みですから、遅い朝でもいいでしょう?」

 わたしは、はぁいと声を漏らした。欠伸が出てしまう。怠惰な猫になったように李介さんの腕のなかにもぐりこんで、再び微睡に揺れる。

「りすけさん」

「なんですか」

「呼んでみただけです」

「……そうですか」

 静寂。

「あなたを、俺はなんと呼べばいいんでしょうね」

「なんですか、いきなり」

 頭を撫でる指先が優しく動く。

 わたしは心地よく目を細めた。今日はこうやってだらだらと二人きりで過ごすのか、それは悪くない。

 空気が優しい。家自体が労わってくれているからだ。きっと今日は一日うるさい朧月様にも煩わされないだろう。ちび妖怪たちも静かなものだ。わたしは小さな吐息を漏らす。ぬくもりが全身に行きわたる。

 李介さんのぬくもりがわたしを包んで離さない。

 言葉ではなくても相手に伝わるものはある。

 愛しいも、好きも、望んでいるというのも。

 こんなにも、

 愛しいと。

 こんなにも、この人は

 相手を大切にしている。


 こんなにも、この人は小日向を愛して、大切に思っているのだ。


 少しだけ、わたしらしくもない、羨ましいという気持ちが生まれる。

 目の前にいる男のいじらしさや不器用なりにも懸命な愛の示し方、なにもかも好ましい。けっしてうまくもない、愚直に、真っすぐ、だからこそ強いし、傷つきやすいんだろう。

すやすやと寝息をたてている李介さんに手を伸ばして頭を撫でる。髪の毛はふわふわしていた。無防備な寝顔につい悪戯心をくすぐられる。

 そっと頬を撫でて、髪の毛を指先で弄ぶ。深く眠っているのがいくら触れても起きない。可愛らしいこと。

「はやく、手に入るといいですね」

 本物の小日向が戻ってくるといい。

 あなたがこんなにも愛していることも、さみしがっていることも、伝わるといい。

 わたしは目を細めて笑った。

 それまで李介さん、わたしはあなたの小日向でいます。

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