箸休め・あなたを抱いた日 5
わたしに飽きた? 魅力がない。毎夜懐に潜り込んでいるので重い? うっとおしい? それとも歯ぎしりとかへんな寝言を口にしている? よだれで汚れがつくからやめてほしい?
ああ、寝ていて意識がないせいでなにをやらかしてしまっているのかもわからない。
「……こら」
頭を軽く叩かれた。
「意識が遠くへといってますよ? 集中してする気がないなら今日はやめますか」
李介さんは容赦がない。
いや、せっかく時間を割いて教えていただけるのにわたしが真剣でないことが悪いのだが。
わたしは迷った末にペンを置いて李介さんの横に行く。李介さんも手を止めている。軽く寄りかかる。わたしなんぞちびがよりかかってもびくともしない。本当に逞しく、御強い人だ。
「どうかしたんですか」
「いえ」
「もしかして、昼間の……あの陰陽生になにかされたんですか」
「それはないです」
きっぱりと言い切る。李介さんはほっと安堵の笑みを零して
「そうですか。俺がこういうことを口にするのはどうかと思いますが……付き合う相手は選んでください。朝倉といい、今日の生徒といい」
「伊吹は、優しいですよ。頼光様は……気を付けます」
わたしは言い返しながら、ふと昼間の疑問が浮かんだ。寝室のお布団のこともあって敏感になっている。
「わたし、重いですか? 痩せたほうがいいですか?」
「……いえ」
「じゃあ、寝言とか歯ぎしりとかしてますか」
「ちっとも。寝ているときは、すやすやと気持ちよさそうに寝てますね」
「じゃあ、なんでですか」
ここにきて李介さんはわたしがお布団を離された理由について問いかけているのだと察したらしい。
沈黙。
わたしは身をもっと寄せる。すると、李介さんの体が横に逃げた。
え、逃げた!
これは、本当に夫婦の危機ではないのか? 今までわたしのことをこうもあからさまに避けるようなことはしなかったのに。
わたしに魅力がない、ということか。
「そんなにもいやですか」
「なんですか」
「わたしのおっぱい小さいから嫌いなんですね」
「は、ちょ、なにを言ってるんですか!」
「だって、いま、李介さん、逃げた!」
わたしが泣きそうな顔で詰め寄ると李介さんが痛いところを突かれたという顔で押し黙る。
「李介さん」
李介さんの太ももに手を置いて顔を寄せる。
わたしには多少色香が不足しているのは自覚しているが、これでもあなたの妻としてきちんと役目を果たしたいのだ。
李介さんの手がわたしの腕を掴んで床に降ろすと、そそくと立ち上がった。
「すいません。厠に行きます。もう寝ますからあなたも早く寝てください」
逃げられた。
なにがいけなかったのだろう? わたしと李介さんはいい夫婦をしているのだとわたし自身は思っていたし、この生活に不満はないのだと思っていた。
朝目覚めて挨拶をかわして、口吸いをして、昼間はそれぞれするべきことをして、夜にはいっぱいお話をして一緒にお布団にくるまる。
夫婦とはこういうものではないのか?
いや、夫婦にもいろんな形がある。あまり会えなくても心を通わせている夫婦もいれば、毎日会っても心が通わない者もいる。
けれど、李介さんと……小日向はどうなのだろう?
ここ最近は、恐ろしい勤務表――以前はほぼ家にいないような激務だったのだが、今月にはいってちゃんと上の人に相談して、泊まり仕事も極力減らしてくださった。
寝室に行くとやはり離れているお布団に、わたしは渋々だが入る。冷たいお布団に温かみはどこにもない。重さも人の気配も。手足は自由に伸ばせるが、いつも縮めていたせいでつい丸まってしまう。
独りぼっちのお布団は広すぎる。
朝に目覚めると、それでも部屋には二人分のぬくもりが――ない。
いつもはあたたかな空気なのにと怪訝に思っていると横のお布団がもぬけの殻だ。どこにいったのかと思うと庭から声が聞こえてきたのに襖を開けてみると、庭で李介さんが素振りをしている。いつもなら土日の休みの朝だけなのに今日は朝陽が登る前に起きたのか、汗だくだ。ああ、御着物を開けて上半身のお身体が丸見えだ。引き締まった筋肉のついた肉体を見てわたしはひゃぁと声をもらしそうになるが、ぐっと我慢する。そんなことしている暇はない。急いで布団を押入れにいれて、着替えてしまうと朝ごはんの用意をしようと廊下に出る。
庭にいる李介さんと視線が合った。
わたしは手を軽く振る。
李介さんが笑ったあと、視線を逸らした。
ああ、あからさまに避けられている。
諦めたりしないんだから!
わたしは気合をいれて台所に向かった。冷たい井戸水をくみあげて、手と顔を洗ってさっぱりしたあと、鮭を丁寧に降ろして、塩を塗りこんで、焼き始める。その間に卵をといで牛乳をいれてふっくらと甘くして焼いて、丸めておく。作るの、だいぶ慣れてきたぞ。みそ汁は豆腐とわかめをいれてささっと作ればよい。
二つ並んだ弁当箱に白いごはん。そして昨日のたくわんと菜の花のお浸しを詰めて、さらに鮭と卵焼き。あとは冷蔵庫を見るとウィンナーがあるので、それをさっさと焼いて詰めて出来上がり。そのあとごはんを装っていると李介さんがきた。すでにお仕事の服に着替えている。
気まずい。
わたしたちは向き合って食べる。
なんとなく昨日から二人揃ってぎくしゃくしている。
みそ汁をすすり、白ご飯を頬張る。
ふと醤油がほしいと思って手を伸ばすと、李介さんのかたい指先とわたしの指先があたった。
「先に」
「いえ。李介さんが」
「俺もあとで」
つい譲り合ってしまう。
うう。
「では私がもらうぞ。うん。腕をあげたな。極上とはいわないが、なかなかに舌を楽しませる」
「ユエ」
「朧月様」
わたしと李介さんはいつの間にか朝ごはんの席にいる朧月様を見て呆れる。
ただ今だけはこの方がいることが救いだ。
こんな調子で朝ごはんを終えて、玄関に送りに出すとき、わたしはちょっとだけ迷ったがいつものように目を閉じて、顔をあげる。
口吸いしますか、と態度で問いかけるのだ。わたしとてさすがに言葉にして尋ねるのは恥ずかしい。昨日まではいつものようにほっぺたを手袋をした指で撫でたり、つついたりしたあとに、してくだっていたが、さて今日はどうだろう?
待っていると、頬をつままれた。痛いですと文句を口にしようとしたとき、かたい唇が重ねられた。
顔に李介さんの温もりが寄ってくる。
何気なくしてきたことだけど、口吸いとはなかなかに勇気がいる。相手とここまで接近するというのは。
ぬくもりも、肌のかたさも、匂いもとても近くに感じてしまう。
昨日、離れていたせいか、余計に。
「ん、んん?」
あれ、いつもより長くないか。これ。
わたしは思わず小さく身じろぎする。李介さんの唇が離れない。いや、これは。むしろ。
腰にまわされた腕のせいで逃げられない。
息を止めているのも苦しくなって、わたしの唇が開くと舌が入ってきた。ああ、酸素がなくて苦しい。
そう思っているとぬるりとした唾液が入って来た。これは、李介さんの。
なまあたたかくて――いやじゃない。けど。
「おい、李介、急がないと遅刻するぞ」
不意に声が飛んできたのに、李介さんが離れた。ぷはぁとわたしはようやく新鮮な空気にありつけて、ほっとした。思わず頬を染めて、肩で息をしてしまう。地上にいるのに窒息するところだった。
李介さんが多少、驚いた顔をしてわたしのことを見下ろしている。
なにか失敗をしてしまった、という顔だ。
「李介、さん?」
「……いってきます」
頬をもう一度つままれる。
「いってらっしゃい」
逃げる様に玄関をくぐる李介さんに
「なんだ。目の前の兎を狼みたいに食べないのか? 頭から食べてやればよいものを」
「ユエ!」
李介さんから鋭い声が飛び、足早に家を出ていく。
やれやれと朧月様が肩を竦めてあとを追いかけて歩いていく。兎ってわたしのことか? んん? わたしが兎? 思わず自分の頭に触れる。耳はないし、お尻にも尻尾なんてないよな、と確認する。
どういうことだ? 頭から食べられちゃうのか?
「朱雛が最近、声に応じなくなった」
伊吹の言葉にわたしは目をぱちくりさせる。
今日は迷った末、食堂にきてごはんを食べることにした。家に帰ってもやることは少ないし、ずっと李介さんの態度が気になってしまい、落ち着かない。こんなので家に帰ったところでずっと悩み続けて何もできないことはわかっている。
何かおいしいものを食べようと思っていると、肩を叩かれた。
紺ちゃんかと思ったら伊吹だった。
紺ちゃんたちは小テストの出来が悪くて居残り。伊吹はぎりぎりの点数で居残りを回避してごはんを食べにきたそうだ。ちなみに今日は午後の授業はない、ということ。
わたしは迷った末、カレーにした。伊吹は塩サバの煮込み、白ご飯、おつけものとみそ汁。
甘くて辛いルーに浮かぶ、ごろごろの野菜をつついて食べながら伊吹が神妙な顔で口にする朱雛様のことにわたしは小首を傾げる。
「いつものことではなくて?」
「きっかり一時間は呼ぶ声に応えない」
「一時間」
わたしはつい繰り返す。
「他の奴にちょっと聞いたら、アンタの式神の」
「歌穂?」
「そいつと裏山にいるらしい」
なん、だと。
わたしはもぐもぐと野菜をかみ砕きながら顔をしかめる。なんとか飲み込むと聞き返した。
「それ、本当?」
「朱雛の奴、午後はいつも座学だって知ってるんだ。午後になるとぱったりと姿を見なくなる」
「そういえば、歌穂と朱雛様って知り合いよね」
いつの間に知り合いになったのかは不明だったが……歌穂がいうには、午後に散歩しているときに助けられたと口にしていたが。
「今日は午後の十三時から巡回なんだ。千が居残りだから待つ必要があるからいいんだが」
「一緒に探せと」
「うん」
歌穂はわたしの式神だから、責任はある、のか?
前に歌穂からひなちゃん――つまり、朱雛様と裏山で遊んでいると聞いたことはあった。
花見のとき、饅頭を作るのによもぎをとったのもその遊びで訪れた場所だったそうだ。
よもぎのとれるよい場所はどこかと近江様に聞くと裏山の川の流れている場所があり、その手前だという。
わたしと伊吹はさっそくそこへと向かった。
川のせせらぎに交じって二つの声が聞こえてきた。
わたしと伊吹は二羽に見つからないように息を殺し、川の手前の林に身を隠してそれを見つけた。
緩やかな川の手前には石がごろごろと転がる浅瀬があり、そこに歌穂がいる。楽しそうに物珍し気にいろんなものを見てはしゃいでいる。
それを木の陰に腰かけて朱雛様が見守っている。歌穂が転がりそうになると、不意に風が吹いて押しとどめたり、見えない壁があの子を包んで守ってくれている。
朱雛様が危険なときにこっそりと助けてくれているのだ。
それが歌穂にもわかっているから、いつもはもじもじとしていて進んで動かないのに、今は何も怖がらず無邪気に遊んでいる。
朱雛様が絶対に守ってくれると信じているんだ。そして、朱雛様はその想いを裏切らない。
歌穂はちらちらと視線を向けると、朱雛様は片手をあげて応じている。
言葉はないが視線に想いをのせて、紡ぎあっている。
この二羽に流れる空気は甘くて、優しい。
「ほら、歌穂、おいで」
「ひなちゃん、ひなちゃん」
腕を開かされて歌穂が嬉しそうにぴょんぴょん飛んで腕のなかに飛び込む。胡坐をかいた足の上にちょこんと座って嬉しそうに笑って朱雛様を見上げている。
「ひなちゃん」
「んー?」
朱雛様の胸に歌穂が甘えるようにすり寄っていく。
朱雛様もまんざらではないらしい。しっかりと抱いて、頭を撫でたり、互いに愛しそうに頬すりをする。
いつの間にここまで親しくなったのかはわからないが、それは砂糖を水で溶かしたみたいにとろりと甘く、透明色だ。
朱雛様の太い腕に抱かれて歌穂が嬉しそうに笑っている。これは。わたしは息を飲んだ。見られているとは思ってない二羽は自然と互いに顔を寄せて口吸いを――わたしは横にいる伊吹の両目を手で隠した。
「おい」
「見ちゃだめ」
「アンタ、見てるだろう」
「……このまま後ろにいこう」
わたしは伊吹の両目を隠したまま後ろに下がる。二羽の姿が見えないところまできて、ぱっと手を離す。
「朱雛、なんかいろいろとやってたのか」
「う、うーん」
やってなくもないので唸るしかない。
「手が早いな、あいつ」
「……誰に似たのかしら」
ジト目でわたしが伊吹を睨んだ。伊吹が鼻を鳴らした。
「俺じゃない」
「……まさか、あの二羽があんな関係になっているなんて」
わたしは沈痛な面持ちで、ため息をついた。
神様も恋をしたりするのだろうか? けど、歌穂って式神だけど?
「あの二羽のこと」
「いいんじゃないのか」
伊吹はあっけらかんと言い返す。
「あの二羽が決めたなら、それに俺はどうこういう筋合いはない。神と人の契約はあっても、俺は別に朱雛にあれこれと命令できる立場であるわけじゃないし。ずっといなくなるわけではない」
「伊吹、けど」
ふと遠くから、透き通る歌が聞こえてきた。男の声は優しい、川のせせらぎのように流れ、桜の花びらのように甘く、鼓膜を撫でる。
恋歌だ。
鳥が雌に求愛するときの。
それに歌を返す声は聞こえてこない――歌穂は、歌えないのだ。舌を切られて、飛べないから、どんなに愛しい人からの歌にも返せない。
わたしはそれを知っている。歌穂はどんな気持ちでこの歌を聞いているのか。
「朱雛、歌うまいんだな」
「鳥だもの……帰りましょう」
すべてを胸にしまってわたしは伊吹に告げた。
今はまだ。これでいいはず。これでいいのだ。