桃色タイフーン 11
歌穂が眠ったので鳥かごに連れていくように近江様にお願いし、のんびりと待っていると一時間ほどしてうんざり顔の道満様が戻ってきた。
「よし、なにもないな。とりあえず帰っていいぞ」
「はぁい」
「今後は二度と呪詛に素手で触るなよ、頼むから。わしの心臓が止まるかと思ったわい」
「それはいけません。動いてください。師の心臓様」
わたしが下手に出ると、はぁと道満様がため息をついた。
「いらん知恵をつけよって! 師をひやひやさせるな。しかし、お前、あの呪詛に触れたとき、術者の痕跡はみなかったか」
「術者の痕跡ですか?」
「そうじゃ。あの術、かなり高度なものでな……ぶっちゃけ、あんなもん使えるの、この学校でもわしや一部の者だけじゃ。……流れの陰陽師とは考えにくい。いろいろとあって破門した者も数名おるがあんなこと出来るやつはおらん。時間をかけて修行したのかもしれんが」
神妙な顔で、顎に手をあてて唸るように呟く道満様にわたしは少しばかり考えた。呪詛の石に触れたとき、確かに見たものがある。
「男の人でした。すらりとした背丈の……三十代くらいの人で、優しそうな顔立ちをしてましたが、なんでしょう曖昧にしか顔が浮かびません。黒い衣服を着て」
「特徴は?」
「……目が、青かったです」
「青い目、だと」
あきらかに道満様が動揺した顔をした。
「……阿久津なのか、まさか」
「それは、誰ですか」
「お前は知らんでもいい……いや、すまん、今は言えん。ほらさっさと帰れ」
わたしは仕方なく頷き、家路につくことにした。
何か隠されていることはわかった。だが、それがすべてわたしに関わりあうことなのかもわからない。
ただの花見のつもりだが収穫はあった。知りたいことはいくつか知れた。
ぼんやりと考えて廊下を歩いていると
「転ぶぞ」
ぶっきらぼうに声に顔をあげると伊吹が立っていた。その手には弁当箱がある。
「これ、紺たちがアンタの分だって、俺に渡してやれって、アイツらはアイツらで酒飲んだのばれてこってり絞られてるから、俺だけ先に帰された」
「そうなんだ。みんな平気かな」
「わかんねぇけど、あったとしても二日酔いと補習ぐらいだろう」
主に酒は雨甲斐様のせいなんだけどね。
わたしは苦笑いを浮かべて伊吹の手にあるお弁当箱を見つめた。すっと差し出されたそれを受け取る。
「わぁ、お花見のおにぎりとおかずだ!」
そっとお弁当箱の蓋を開けてわたしは歓喜の声をあげた。
思えば振り回されてほぼ食べていないのだ。もう昼ごはんには遅いからこれは夕飯だ。いいお土産が出来た。
「今日は送っていく」
「へ」
「アンタいろいろと大変なんだろう」
「大変? ああ、なんか呪詛とかいうのね。平気よ。平気」
おなかをぽんと叩いてわたしは胸を張った。
「……あのときと同じことをしたのか」
「あのとき?」
「家が呪われたとき」
わたしは少しだけ考えて
「そうよ」
「あれ」
「?」
「もっと語ってほしい」
伊吹が、昔話を、強請っている。
まるで幼い子どものようにわたしの目に映った。ああ、そうだ。わたしは、――夕暮れのなかに子供たちが境内に集まり、強請るので話を披露する。腹が減ったといえば髪に挿した飴の簪を差し出して、ほぉらおなめと――一瞬、脳裏に浮かんだ遠い景色――今は、伊吹だけがいる。
「……気に入った?」
伊吹が小さく頷いた。
「いいわよ。いくらだってお話してあげる、だから、心配しないで、わたしは平気」
伊吹の黒い瞳がじっとわたしの言葉を吟味するように見つめてくる。わたしは小首を傾げた。
「わかった」
「ふふ」
わたしは小さく笑った。なんだかとっても嬉しいような、楽しい気持ちになったのだ。ああ、不思議だ。こんな気持ちになるなんて。
「小日向さん」
その言葉にわたしはふわふわとした、いい気持ちから現実へと乱暴にひっぱられ、縛り付けられた気がしてぎくりと肩を震わせた。
廊下の先に李介さんが立っていた。
わたしのことを認めて、ゆっくりと近づいてくる。浮ついた気持ちが地面に沈むのがわかった。
「こんなところにいたんですね」
李介さんの言葉は伊吹のことを一切無視して、わたしにだけ向けられていた。
「先ほど、保健室に行くとあなたがもう出たあとだと聞きました。私の仕事も今日はあがりなので」
「あ、は、はい」
わたしは慌てて頷く。
動きだそうとしたわたしの前にすっと腕が伸びてきたのに驚いた。伊吹が、まるで李介さんからわたしのことを守ろうとするみたいに立ちはだかる。
「伊吹」
「……藤嶺教官と、コイツはどういう関係なんですか」
「朝倉、教官にその口調はなんだ」
いけない。李介さんの声のトーンが低くなっている。わたしは慌てて李介さんの腕をつかんだ。
「李介さん、伊吹はわたしのこと、心配してくれているんです」
「……しかし」
「許してあげてください」
わたしと李介さんが睨みあう。先に視線を逸らしたのは李介さんだった。わたしの肩からほっと力が抜けた。
そのやりとりを伊吹が訝しげに見つめてくる。
「李介さんとわたしは夫婦よ」
「……は」
伊吹が瞠目して、声を漏らした。
「だから、夫婦なの」
「夫婦ってアンタ、いくつだよ」
「二十歳は過ぎてます」
むぅと睨みつける。
「嘘だろう」
「嘘じゃないもん。ねぇ、李介さん」
わたしが見上げると李介さんが帽子を深くかぶって沈黙したあと、はぁとため息をついて顔をあげて伊吹を見た。
「この人は私の妻だ」
「……っ」
衝撃を受けたように伊吹が一歩後ろに下がった。
「私と共に帰路につくので心配はいらない。お前も帰りなさい」
伊吹は何か言いたげな視線を一度、向けたあと背を向けて走り出した。
「伊吹」
わたしは途方に暮れたように伊吹の背中を見つめた。
告げるべきだと思ったから告げたけど、やっぱり、言うべきではなかったのかもしれない。わたしは後悔を抱いて俯いて、拳を握りしめた。あんなにもきらきらして嬉しかったお弁当箱がひどく重く感じられる。けど、これ以上の態度が思い浮かばなかった。
不意に李介さんの手が伸びてきてわたしのほっぺたをつまんだ。
ふにゃあ。
驚いて顔をあげると李介さんの細い目がますます細められて唇が動く。
「そんな顔、しないでください」
「そ、そんな顔ってどんな顔ですか」
わたしは勢いよく言い返した。するり、とお弁当箱を李介さんが持ってくれた。
「さぁ、荷物は俺が持ちます。帰りましょう」
「はい」
李介さんが歩きだす一歩後ろをわたしは必死についていく。
これがわたしの選んだ道だ。
家に帰ると、空は茜色から紺碧に変わっていた。鴉が翼を広げて飛んでいるような色合いだ。だったら輝く一番星は、鴉が宝物を落としてしまったのだろうか。
ふふっとわたしは目を細めて笑いながら家のなかにはいった。
このときだけは李介さんより一歩先に、戸をくぐる。
「おかえりなさい。李介さん」
「ただいま。小日向さん」
わたしの後に続いてなかにはいる李介さんに笑いかける。
「私もいるぞ!」
朧月様もいた。
「今日は休みだというのにあれこれとさせられて疲れた! 風呂だ。あと飯! 金平糖をよこしてもよいぞ!」
「ユエ……っ」
李介さんの口から低い怒りの声が漏れている。わたしは李介さんの手から弁当を受け取り、慌てて家事に勤しむ。
お風呂の支度を手早く終え、台所で弁当箱に詰められた本日の夕飯を広げた。このままでいいかな、それともお皿にのせるか。むむ。
悩んでいると、弁当箱の上に小さな、紅色のそれは桜の花びらがあった。
つまむと、ひらりと指先から逃げた。
あ。
慌てて追いかけるとひらひらと花びらが家のなかを泳いでいく。どこにいく、このちょこまかと!
「なにをしてるんですか」
着物に着替えた李介さんが部屋から出てきて廊下を走るはしたないわたしに呆れた視線を向けてくる。うう。だって、この花びらが!
締めきった雨戸の隙間から庭へと出た、それを追いかけてわたしは戸を引き開ける。
ぱっと花びらが散った。
わたしは目を見開いた。
大きな桜の樹が淡く輝いて庭に生えている――その前には狐面の小柄な老人が立っていて、深々とわたしに頭をさげる。
――このたびは我が物語をかく語りしき
――使命と
――物語
――呼び戻していただき、思い出した
――我らが尊きお方
――どうぞ、これはささやかな感謝にて
――おおさめください
淡く輝く桜は本物ではない。この翁が見せる幻の桜だ――樹が何年もかけて培ってきた思い出。
咲き乱れたときのありし日の姿なのだ。
ちょうど空を支配するのは青く笑う満月のため、桜はますます力を増して乱れる。
「夜桜か、これは雅だな」
朧月様は雨戸に腰かけて、桜を愛しむように手を伸ばし、何か事か呟くと淡く輝く青い文字を泳がせ、そこから盃を生み出した。こういうときは飲むに限るとばかりに懐から酒瓶を取り出す。どこからかくすねていたらしい。
李介さんは朧月様に対して呆れた視線を向けたあと、わたしに向き合う。
「あなたの仕業ですか」
「あ、あう、これは」
わたしの仕業といえば仕業なのだが、違うといえば違うのだが……しろどもどろにしていると、庭でひらひらと踊りだす者がいた。狐の面を顔にかけた翁だ。翁が踊るたびに桜が楽しそうにひらひらと揺れる。それに家のなかにいたちび妖怪たちがわぁと声をあげて飛び出し、翁と踊りだす。
家も小さな軋み音をたてて歌っているようだ。
ああ、もう。
わたしも混ざりたい!
「……なにか不思議なかんじがしますね。それにこの音は?」
「えへへ、あ、あの、えへへ」
うまく言葉に出来なくてわたしは笑ってごまかす。
己の体を打ち鳴らして音を奏でるちび妖怪たちが楽しそうに踊っている。彼らの姿は見えないはずだが、今のこのときだけは桜の力が李介さんにも音だけでも届けてくれているらしい。
姿は見えない、触れることもできないし、存在だってしていないけれど。けどね。
わたしは李介さんの手をとった。
「踊りましょう」
「え、ちょ、俺はそういうのは」
「いいんです。いいんですよ。両手をとって、楽しそうに笑っていればいいんですよ」
わたしがそう促すと李介さんが観念したように両手をとってくれた。リズムは合わないし、うまく舞うこともできないけれど、わたしたちは楽しそうに笑いあう。花びらが散る。広がる。世界が包まれる。
甘い匂い。
わたしが見上げていると、不意に李介さんが動きをとめた。屈みこんでくるのにじっと視線が絡み合い、唇が触れ合う。
花びらよりも、砂糖よりも、ずっと。甘い。
「李介さん」
わたしが名前を紡ぐと、そっと李介さんの頬に手を添えた。こつんと互いの額と額をあてる。そうしたら、すべて、思っていること、願っていることが通じ合うと信じる子供のように。
「あなたが好きだ」
「はい」
わたしは頷くと、腕が背中にまわされて、掻き抱かれた。強い力にはっとする。大きくて、逞しいのに、まるで幼い子供が泣きだす寸前のように思えてしまう。
「消えないでください」
「消えませんよ、李介さん」
「本当に?」
「本当です。わたしは、嘘が言えませんから」
「嘘や偽りではなくて、あなたの気持ちは」
「……李介さん」
息が出来ないほど、つよく、つよく抱きしめられてわたしは目を伏せた。両手を伸ばして李介さんの背中に腕をまわす。近くでちび妖怪たちのわぁという声が聞こえたが無視をした。