桃色タイフーン 9
伊吹が腕と足の力を使い、するすると幹の上にのぼりはじめる。花びらの舞い散る少し上の部分まできたが、そこで伊吹が舌打ちした。
「根だけじゃなかったな」
すると細い枝たちがこれ以上、上に行かさないように伸びている。一本の枝が伊吹の顔をひっかいた。
「っ!」
伊吹の体が一瞬揺らいだ。大した攻撃力はないにしても、素早く振るわれれば下手すれば皮膚が切れてしまう。
「伊吹!」
「平気だから、アンタは殴られないように頭を低くしてろ」
「けど、けどぉ」
「行けるところまで行く」
伊吹が腕を伸ばして、進むのにわたしはしっかりとしがみついているしか出来ない。ここでただ守られるしかできないの? そんなのいやだ。絶対にいやだ。わたしに出来ること。
それは。
耳を澄ませて、木の声を聴くこと!
お前の物語はなに? なにを語りたいのか。わたしが、語り明かしてみせる。
――咲かなくちゃ
切実に声を漏らす。
――咲かなくちゃ
脳裏に浮かぶ、微笑む人の顔。ぼやけてしまって、夢幻のように薄れていく。
――咲かなくちゃ
小さな枝を地面に刺して、ひとつ、また一つと樹が――増えていく。
――あの人のために咲かなくちゃ
笑って自分のことを美しいと口にするあの人のために!
わたしは目を見開いた。
わかった。お前の物語、見つけた、語るべき物語を。
わたしは伊吹の胸を軽く叩く。伊吹が驚いたようにわたしのことを見た。目と目が合うと、わたしは嬉しくて笑った。
「伊吹、少し耐えてくれる?」
「なにするんだ?」
「語り明かすのよ」
わたしはそれだけいうと伊吹の胸から這い出る。近くの太い枝を足場にして腰かける。ゆっくりと口を開く。
「むかーし、むかしのことじゃった。
山のなかさ、ひとつの家があったてな、一人の爺さんと孫が暮らしておった
山のなかに生えた桜の樹の枝をひとつ、まぁたぁ、ひとつと手折っては自分の畑に埋めて挿し樹にして売っておった
ある冬の前の日じゃった
冬山に食べ物を探して孫がはいると、足を傷つけた狐がおった。かわいそうに、ぼっこさしいて、と孫は狐の足に自分の持っている手ぬぐいで巻いてやった
狐は、そうすると、山のなかさ、けぇったがなんべんも孫を見る様にふりかえったなぁ
その日か、ああ、その日はなにもとれなんだと孫は爺さんにいい、爺さんはええよ、ええよと笑って、二人は粥をすすった
その日の夜じゃった。
爺さんは何者かに呼ばれるにな、家から出ると、狐がおった
おめぇ、孫が助けた狐か? 問いかけるが狐はさっと逃げていく。いやぁ、まるでついてこいといいたげに足を止めちゃふりかえり、止めちゃふりかえる。爺さんはそれに必死についていった。
山の中にはいると、雪が降るなかじゃというのにそれは見事な桜を男は見つけた
ああ、なんと見事な桜の樹じゃろうか!
雪のように花びらが散っておる!
爺さんののまえにぬぅっとな、狐顔の爺さんが出てきた。
わしは桜の翁という、お前さんの孫にゃ恩がある。この桜の木の枝を一本持ってかえるがいいじゃろう
この桜はなかなかむつかしいが、咲けばなんでも願いが叶うじゃろう
爺さんは一本、枝をもらい受けてそれを自分の畑に植えた
あの美しい桜を自分の畑で咲かせたいと思ったんじゃ
しっかしなぁ、枝は土になじんだが、なかなか花を咲かせようとしなかった。何年も待ったが、なかなか咲かん
それに村のもんは狐にばかされたんじゃるぇだろうかと笑ったが
それでも爺さんと孫はその桜を大切にした
ああ、その年のことじゃった
悪い病が流行ってな、大勢の人が息絶えてしまった。それは爺さんと孫のところもそうでなぁ、爺さんが倒れちまって咳をする。孫が必死に看病するがちぃともよくならない
ああ、死ぬ前に桜を見たかったなぁ
と爺さんがいうと孫は急いで畑の桜のところまでいくと、その前で両手をあわせて祈った
桜よ、桜、咲いてくれ。爺さんのために、咲いて――」
わたしが言葉をつづけようとして、忌々しいとばかりに強い力で風をヒュン切り、枝が飛んできたのにはっと息を飲む。
まずいと思ったとき、伊吹がわたしの前に飛び出し枝を両腕で受けた。
皮膚を切って、赤い血が散る――伊吹!
わたしは声を出そうとしたが
「俺はいいから話を続けろ! アンタが話し始めて桜の様子がおかしい」
伊吹の声にわたしは開けた唇を閉ざした。
語るべき物語の途中で、語り部はそれ以外を口に出来ない。
見れば桜の樹は悶えるように枝をめちゃくちゃに動かしている。
なにかを思い出すように、訴える様に。
わたしはかたく閉ざした唇を再び、押し開けた。
「孫の願いこめた祈りの、翌日のことじゃった
畑仕事に出た孫はそれは見事に咲いた桜を見つけたんじゃ。
孫は驚いて呆けたように見つめた。
なんと、美しい桜じゃろうか……
そう呟いて急いで家に戻ると、爺さんをおぶって桜の前まできたんじゃ。
いくつもの花びらが散っているなか、爺さんも見事に育てた桜の木を見て、震えながら涙を流しておった
不思議なことに爺さんの病はたちどころになおっちまった
その桜はそのあと咲き続け、病に苦しむ村人たちがこぞってやってきて病をなおしていった
冬が終わった春に枯れちまったが、見ると雪の下に狐の死骸があった。
そいつは足に孫の布を巻いた、あの助けてやった狐じゃった
お前が、咲かせてくれたんじゃな。桜の翁、孫は狐を抱き上げ、感謝してその狐を桜の木の下に埋めてやり、毎年、冬の前にはお供えをした。
桜は毎年冬の前、きっかり決められた日に花を咲かせて訪れたひとの悪いところをなおしてくれた」
わたしは語り終えてゆっくりと息を吐いた。
「その咲く日から、桜のことは十六桜と言われた。おしまい」
桜の木々がざわめいて、動きとめた。花びらが降るのは泣いているようにも見えた。わたしが視線を伊吹の背中越しに向けると、幹の前に半透明の一匹の狐が立っていた。その姿が揺れて人の姿になる。
小柄な老人が深々と頭をさげてきた。
――わしめが、しばらく桜を抑えております。どうぞ、こやつの悪いものをとってやってくださいませ
わたしは頷くと伊吹を見た。
「止まったのか? この爺さんは」
「桜の翁がしばらく桜を終えてくれているわ。はやく、上に」
「……わかった」
伊吹がわたしのことを再度抱え上げてくれた。うひゃ。自分で登れると言いたいが、伊吹はわたしの言葉なんて聞いていない。
猫のように幹を登っていく。
わたしは視線を動かし、あっと声をあげた。
「あれ、あれよ。伊吹!」
わたしが指さす右斜め上――てっぺんが近いそこに伊吹が体を進めてくれた。だいぶ枝が細くなってきたのに、伊吹が動きを止まった。
「これ以上は二人だと折れる。アンタ、あとは猿みたいにいってくれ」
「うきーって啼いて登ればいいのかしら。もう! お尻、おしてくれる?」
「ほら」
わたしが幹に手をついてよじ登るのに伊吹がお尻を押してくれた。ああ、着物が汚れちゃう。けど、今はそんなことを言っている暇はない。
鼓膜を叩く声がする。桜の悲鳴だ。自分のことをここに植えてくれた人々の顔が浮かぶ。いくつもいくつも。山の中からここへときて、人々の笑顔を見て、喜びを覚えていた。咲きたいと願っていた。それを邪魔する悪いもののせいでひどい苦しみを覚え、暴れるしかなかった。苦しいと。
そう、苦しかったのね。けど、もう大丈夫。
わたしはてっぺんまで来ると、その黒い石を見つけた。
歌穂のときと同じだ。
恨みを行為的に集めて、封じた石だ。これがあるから桜は苦しんで暴走していたのだ。
もともと、長い年月を生きてきた桜のなかにある霊気を刺激し、活性化したのだろう。わたしは躊躇いなく、石に触れた。小石のそれは触れたとたんに熱を持って、手のひらを焼いた。痛みに顔をしかめる。
「いい加減にして! わたしたちは花見を楽しんでいるの! どこの誰か知らないけど!」
この石は歌穂のときほど強くないし、深くはない。ぺき、と音をたてて石がわたしの手のなかでひびが入る。ひびの部分から黒い煙を吐き出し、それが一瞬人の姿をとった。宙に浮いた人間――高身長の、若い男だ。
黒の衣服に、青い瞳に栗色の髪の毛。優しそうな雰囲気があるのに、怖いと反射的に思ってしまうなにかが男にはある。
男がわたしのことをじろりと見下ろしてくる。
わたしは睨み返した。
おもしろイ
それだけ、言い残して男は空気のなかに霧散した。
どっと、冷や汗をかいてわたしは全身の緊張が緩むのがわかった。あれはただの人ではない、ろくでもないものだ。
今のわたしが相手して勝てるかも正直微妙だ。
厄介なものに目をつけられ、ちゃった――ぐらりと頭が重くなって、自分の肉体も支えきれずに下へと落ちる。
あ、やばい。これは。
そう思ったとき、甘い香りに包まれた。半透明の真っ白い女――ああ、お前が桜なんだね。彼女がわたしのことを抱きとめてくれ、落ちる速度が落ちた。かたい何かに抱きとめられた。
「大丈夫かっ!」
うるさい声に重い瞼を開けてみると、伊吹が怖い顔をしてわたしのことを睨んでる。
「う、ん、ちょっと。しんどいけど」
「……桜の樹の枝があんたのことを受け止めてくれたんだ。じゃなきゃ落ちて死んでたぞ!」
「伊吹がいるもん」
わたしは言い返す。
「俺だってアンタのこと毎回だっこできない!」
噛みつくみたいに、言い返された。ああ、これは本当に怒っているんだ。伊吹も怒るのね。
「けど、抱きしめてくれるじゃない」
「……落として痛い目みせたほうがよかったか」
ああいえばこういう。わたしはふふと笑った。
「伊吹、だっこして、てね。すこし、眠いわ」
「……勝手だ」
文句を言われたがわたしは知らん顔をして、ちらりとそちらを見る。半透明な老人の横には心配そうな顔をした娘がいる。ふたりはわたしたちを見て一礼すると、空気に溶けていった。
ひらり、と何かが落ちてきた。
「あ、咲いた」
花びらがひらひらと落ちてくる。桜の花びらだ。まるで雪のように、真っ白いそれが舞っている。ああ、きれい。




