桃色タイフーン 8
ひふみが震える声に不似合いな、乙女のように燃えた視線を伊吹に見つめる。そうだ、ここでさっさと気持ちを伝えてしまえばいいのだ! はやく想いを告げろ!
伊吹は一瞬だけわたしの肉体を見つめて、眉を寄せたあと
「被害受けないところまで走るから黙っててくれ」
「は、はひ」
二柱の喧嘩の被害にあわないため、伊吹が走り出すのにわたしは引っ張られる。
どうも肉体と魂というものは一定の距離――だいたいに三メートルほどしか離れることは出来ないらしい。離れようとしても紐にくくられたようにひっぱられてしまうのだ。わたしは伊吹の走るあとについて空中に浮かびながら、視線を巡らせる。
李介さんたち、どこで飲み会をしている――いた!
正反対のところでカッキー色の軍服の人たちを見つけた。酒が進んでいるらしく、楽しげな雰囲気にわたしは口を開けようとして、閉ざした。どうせ、今のこのわたしの姿は李介さんには見ることはないんだ。
伊吹が進んでいったのは花見見物のいない大きな桜の木の下だ。この桜の前だけは人がいない。
「ここは千年桜っていわれる神樹で、聖域だから誰もいないんだ。っても、戦後に平和の象徴として山のなかにあったのをここに運んで飢えたらしい」
伊吹がわたしの疑問をあっさり解消してくれる。
「アンタ、どうせ世間知らずだから知らないだろう?」
見えているわけではないらしい。
「い、いぶき、さまぁ」
ひふみが地面に降ろされて、じっと伊吹のことを見上げている。
そうだ。さっさと思いを告げて玉砕して、その恩からわたしに協力してほしい。
拳を握りしめて心の底から思うが、ふと思えば伊吹も男の子なんだから女の子から告白されたら戸惑ったりするのだろうか? それとも他に好きな子がいるとか口にするのだろうか? 気になるが、人様の恋路の邪魔をしてはいけない。
わたしは少しばかりの興味と葛藤を抱えて、出来るだけ距離をとる。
雪のように降る桜の花びらに、太陽の日差しがきらきらとしていて、なんとも雅だ。
空中にふわふわと浮いたわたしはぼんやりと空を眺め、桜の木のざわめきをきく。
――たすけ、
――おね……が
――たすけ――!
悲痛な声に、わたしは目を見開く。
声の主はどこにいるのかと視線を巡らせて、目の前の桜だと理解した。
水に沈むような苦しみがこだまする。
誰かがこの桜になにかをしている。地上かと思ったが違う、上だ。
けど今のわたしでは届かない。
伊吹! って、だめだ、伊吹は今告白されているし。えーと、えーと、あ。
「なんだか、すごい騒動みたいですよ。神様同士で喧嘩をして」
「あんまり近づきたくないな」
「けど、そういうのを納めるのも自分たちの仕事ですから、ほら酔ってない人間少ないし……あ」
話をしているのは、遠盟様と科戸様だ。どうも朱雛様たちの争いがヒートアップしているらしく、えらい騒動になっているらしい。
あまり酔っていない人たちが騒動の鎮圧化に向かっているようだ。
遠盟様とわたしの目が今、ばっちり合った。
「え、なに、して、ぶはっ!」
遠盟様が戸惑った声をあげて、噴き出した。
「え、ちょ、どうしたの」
科戸様が驚いている。
「ぷぷぷぷ。あはははは、ごめん、ちょ……ああ、そっか、君には見えないんだよね? えっと、幽霊がいた」
「なに笑って……は、幽霊?」
「うん。かわいい幽霊だよ。ぷぷぷ」
そんなに笑うことか!
わたしのいろいろな気持ちを抱えた視線に遠盟様は人のよい笑みを浮かべて頭を下げてくる。
「どうかしたんですか? 幽霊さん」
――いろいろとありまして、助けていただきたいのですか
「構わないけれど、君、体は?」
――貸してしまって
「そっか。科戸、あっちの騒動は君に任せてもいい? こっちらでもいろいろとあるみたいだから」
「……え、やだよ」
すごく顔をしかめて、科戸様が告げる。なんだかはじめて会ったときと態度がかなり、違う。もしかしてこちらが素だろうか。
「科戸、素が出ているの、見られるとあまりよくないかもよ」
「相手は幽霊なんだろう」
「うーん、幽霊といっても生徒、かな」
「は?」
意味が分からないと言いたげな科戸様に遠盟様が曖昧に笑った。
「うまく説明できないかなぁ。とにかく、こちらの要件を片付けたいから」
「だったら神様の乱闘は先輩に頼もう!」
拗ねた子供のような言い方をして科戸様が
「藤嶺先輩――! 神同士の乱闘の鎮圧願いできますか? こちらでもなにかあったようです」
声をあげると、李介さんが不機嫌な顔をして現れた。纏う気配が鬼神のようだ。
あははは。李介さん、こわいです!
「科戸教官、以前から伝えていますが我々は帝都軍人として規律を重んじるためにも呼び名一つにしてもしっかりと」
「はーい、すいません。じゃあ、俺はこっちがあるんで、あっちは頼みますね。わぁ、なんか人だかり出来て……あれ、あそこに見えるのって梅桃先輩と反町先輩じゃないんですか。ずぶ濡れですね」
「なにをしているんだ、あの二人は」
李介さんが沈痛な面持ちでため息をついているのにわたしは胸が痛くなった。せっかくお花見を楽しまれていたのに、邪魔をしてしまった。ごめんなさい、わたしのせいじゃないけど、ああ~!
「ユエ、ユエ、どこにいる!」
「なんだ、李介、犬猫のように名前を連呼するな。私の言い返すぞ。李介、李介、李介っと連呼してもつまらんなぁ、お前の名前は」
李介さんの後ろから朧月様が現れてにやにやと笑っている。
「ユエ! お前、酒臭いぞ」
「ふふ。少し酒を飲んだ! つい他の奴にも飲ませてしまった。そうしたら面白いことになってなぁ。まるで祭りのようではないか! なぁ李介」
雨甲斐様の片棒担いでやがった、こいつ!
あまり語らないが、だいたいのことをそれで察したらしい李介さんが怒りに言葉をなくして、無言で騒動へと進むのにわたしは大変申し訳なくなった。ああ、ああ、李介さん、怖い、怖いです。
「貴様ぁ!」
「なんだぁ、てめぇ!」
白熱する二柱の叫び後に
「いい加減にせんかぁ!」
李介さんの怒声が轟く。
「ユエ! 縛れ!」
「むぅ。私は楽しく飲んでいる、これも面白い余韻ではないかー、あいたー」
「早くしろ!」
腰にさした刀の柄ごと引き抜いて朧月様の頭を叩く。そして恐ろしい速さで二柱の頭も同じく柄で容赦なく殴った。
「あいたっ」
「ってぇ!」
「平和と法を重んじべき軍人の端くれが、恥をしれっ! 束縛!」
青い言葉が――朧月様が生み出した言葉が飛び、二柱を縛り上げる。李介さん、怖いですが、かっこいいです。あー、やっぱりこわいです!
「あはは、怒ってる。怒ってる。まぁ、なんとかなってるし、いいや。君の問題のところに案内してくれる? 可愛い幽霊さん」
にこりと、遠盟様が笑う。
この人のこの笑みと、この言葉を受けるたびに胸の奥がさざめき、苦しくなる。
記憶のずっと奥、深いところで同じ言葉が繰り返される
――僕の、可愛い××さん。
一体、これは何の言葉なんだろう。わたしは、そんな言葉を知らない。聞いたこともない、はずだ。
震えが走りそうになるのにわたしは息を深く吸い込んで閉じ込める。その記憶は思い出してはいけないものだ。それに今はそれ所ではない。
急いで桜の木の元へと帰ろうとして、わたしは、思い出した。
ひふみ様が、伊吹に告白してるんじゃなかったけ!
行ってもいいのか、いや、けれど、ほっとくわけにもいかない。
おろおろしているわたしを遠盟様がにこにこと面白そうに見ている。
「とりあえず、桜の所に行けばいいのか。科戸、あっち」
「……素が出てないか」
「ごめん。ちょっと面白くて今は演じるの無理そう……ぷぷ」
二人のやりとりを聞きながら急いで伊吹たちのところへと戻った。こういうとき霊体だと疲れを感じないので助かるし、移動もほぼ一瞬だ。
はやく告白して! そして玉砕してわたしの体を返してください!
「あ、あの、伊吹様、わ、わたし」
桜の花びらが舞い散るなかでわたしの体を使ってひふみが必死な顔で伊吹を見上げている。
伊吹は疲れたのかわたしの体を地面に降ろして見下ろしている。その顔が妙なものを見るという顔だ。
「アンタ、違うだろう」
「え」
「うまくいえないけど、俺の知ってるアイツじゃない」
「は、はい。違います」
わたしはびっくりして目をぱちぱちさせる。まさか、伊吹にばれると思っていなかった。
「どういう事情か知らないけど、返してくれ」
「伊吹様」
「たぶん、今頃困ってるだろう、ソイツ。体を返してやってくれないか」
ひふみが驚いた顔をして、じっと伊吹を見つめて、笑った。
「お優しい方。だから、わたしは」
――伊吹っ!
わたしが声をあげた。どうせ届かないなら思いっきり。
風がさざめいて、地面に落ちた花びらが浮く。
伊吹が振り返った。わたしのことは見えてないはずなのに、わたしの方向を見てる。
「あ、いた」
伊吹が言い切る。え、見えてるの?
「伊吹様……」
「たぶん、アイツ、ここにいるだろう。で、わめいてるだろう」
なぜわかる!
驚愕するわたしに、ひふみが噴出し、くすくすと笑った。
「はい。そうです。伊吹様は本当にこの方が好きなんですね」
「好き? いや、世話してるだけ、おい」
ひふみが倒れる様に伊吹の体に飛びついた。人の体でなにをしている! 告白は許可したが、それ以上のことは、って、いゃあああああ!
ひふみが伊吹の顎に手をあて、熱心に見つめる。
「あなたが好き」
花びらが散るように告げる。
「あなたが好き」
今までの気持ちをこめて。
「お慕いしております。伊吹様。どうか、今までのようにわたしの上で文字を書き、御学びください。わたしはそんなあなたを、あなたたちを見ていることが嬉しいから。けれど、出来たらあなただけの机になりたかった」
それは願っても、叶わないことだ。
一時を過ごす生徒たちが集まる教室のなかに存在するひふみは――机は生徒たちに扱われ、彼らを見守り、そして成長して巣立っていく彼らを見送るしかできない。
ひふみはずっとそれを繰り返してきた。
生徒たちの物語を見つめ、彼らの物語がうまくいくように願いながら。
本来は物語に関与することも、主役にもなれない存在だ。今はたまたま目覚めて動いて、言葉を紡いでいるだけ。
その奇跡をひふみは心の底から味わっている。
ああ、これはこの子の物語だ。
「五十年、あともう五十年して、わたくしがまだ生きていて、あなたに恋をしていたら、どうか、そのときはわたくしのことを迎えにきてください。ちゃんと神になります。あなたにお仕えします」
伊吹がなにか告げる前にひふみが背伸びをして、その唇を奪い取った。
触れたら、終わり。なにもかも。
花びらのように甘い感触が――わたしが味わっているのに、目を見開く。
あ、あ、あ、あ、
「いやぁ!」
思わず伊吹の頬に平手打ちを炸裂してしまった。
「いてっ」
「あーー、ごめん、伊吹!」
「……勝手だ」
「わたしのせいじゃないもん!」
思わず叫んでいた。だって、わたしは告白は許したが口吸いまでするとは思わなかった。焦っているわたしを見下ろして、頬が赤い伊吹の目尻が緩んだ。
「うん。いつもアンタだ」
「え」
「我儘で、おっかなくて、騒がしくて、元気で、勝手な」
「……それ、全然誉めてない」
くすくすとわたしの背後で笑い声が聞こえてきたのに見上げると、ひふみが成功した子供のように笑っている。
なんてことをしてくれたのだ!
――だって、これが最後のチャンスと思ったので……心にあった言葉は全て出し尽くしました。わたしはただの机に戻ります。そして、また多くの生徒を見つめます。彼らの成長を見ます。あと五十年して、神となる。
それは途方もない時間だ。壊れずに神となれるかもわからない。けれど。ひふみは満足したらしい。
彼女の肉体が薄っすらとすけはじめている。
満足した彼女を彼女としてとどめていた奇跡が消えていこうとしている。
――対価をお支払いします。我が学校に違和感があります。
わたしはじっとその言葉を聞いていた。
――詳しくはわかりませんが、なにか一つ多い……本来ないものが学校に交じってます。あたかもあるべきもののように。けれど本当は、そんなものない。みな、気が付いてないだけです
そこでひふみは消えてしまった。
それだけ知れれば十分だ。
わたしは間違いなく、近づいている。ああ、よかった。かみさま。
「おい」
伊吹の人差し指で額を突かれて、わたしはそちらを見た。
「俺のこと呼んだだろう」
「忘れるところだった。いや、まって、まって、あの、今のは」
「アレ、アンタじゃないやつだうろ。わかってる。で、今度はなにをやらかしたんだ?」
やらかした前提で話さないでいただきたい。
「ここかな。あれ。朝倉くん?」
背後から声がしたのに見ると、遠盟様と科戸様。実にいいタイミングだ。
「良い時に来ました! あの、この上でなにか、よくない、きゃあ!」
地面に大きく上下してわたしは転げそうになったのを伊吹がまたしても抱えてくれて、ことなきを得た。
見ると、地面が盛り上がり、うごめいている。そこから出てきたのは植物の根だ。
「樹の根か!」
科戸様が叫ぶ。わたしは伊吹の懐でひゃあーと声をあげる。伊吹が後ろに飛んで、なんとかその根から逃げてくれたが。地面からいくつもの根が盛り上がり、這い出てきた。根が触れたところが、じわりと溶け始めている。
「他の命を吸い取っているね。これは、危ないかも」
「何呑気なことを、うわっ~!」
「科戸、大丈夫?」
後ろに転げそうになっている科戸様を片腕で支える遠盟様が右足を前に出し、腰を低く構えている。あいている右腕がなにか掴もうとして、つかみ損ねて彼の顔がしかめられる。
その隙をついて根が伸び、襲い掛かってくるのを科戸様が片腕を振って、退けた。その細い手に曲がった大振りの獲物がある。
あれはなんだろうかと思ったとき、伸びてきた根を科戸様が腕をふって、それを薙ぎ払う。人の力では、根そのものは切れておらず、軽く軌道を変えさせ、振り払っただけだ。
「グルカナイフ、どこに持っていたの」
「懐。一応、これも仕事だから武器の装備は言われていたし」
懐と言われて見てみると、カッキー色の上着がいつの間にか開かれて、その左側に革の入れ物がある。
「……気が進まないけど、散娑」
うんざりとした声を漏らす科戸様に
「なぁに、れーくん」
影から現れたのは黒い痩せた男だ。黒百合の、花びらが開くようにひらひらと長い着物の衣服に狼の毛のように撫でつけた緑髪は長く、一つにまとめて尻尾のようにたらしている。表情がはっきりとわからないのは黒に太陽のような印を刻まれた目隠し布のせいだ。
ひょろりとした身長は高く、わたしは首が痛くなりそうだ。この神、どことなく軽薄な印象を受けてしまう。
「音」
「いいけどー、れーくん、あれ、叩き斬るの?」
「むろん」
「だめだよ。科戸」
きっぱりと遠盟様が言い切る。
「この桜、大事なやつなんだろう? 忘れたの?」
「こんなバケモノになってるのに?」
苛立ちを見せて科戸様が吐き捨てる。
「なったとしても勝手に切ったら怒られるんじゃないの?」
「れーくん、さすがにまずいんじゃない?」
遠盟様と呼びだした憑神に言われて科戸様がむすっとした顔をして、はぁと息を吐いた。
「だったらどうするの? このままだと全滅するし、ここは今花見客が大勢いるんだ。下手すると死人が出るかもしれない」
「あ、あの」
わたしが声をあげた。
そのとたんに全員の視線が向いた。思わず緊張してしまうが、わたしのことを抱いてくれている伊吹がなにもかもわかっているといいたげな視線を向けてくる。
「方法はあります。上にこの騒動を起こしている原因があります。それを壊せば」
「壊すって、上? 散娑、いける?」
「んー、ちょっと難しいかも。ほら、根がひょろひょろしているし~?」
「使えない」
「れーくん、ひどい」
なんだか今まで見てきた憑神と人の関係とは異なったやりとりをしている。こういう関係もあるのか。
「俺がいきます。コイツを抱えて上に行くぐらいならできます」
伊吹が真剣な顔で言い切る。
「え、伊吹、わたしのこと、抱えていくつもり?」
「アンタ、あの樹、のぼれるのか?」
「……猿みたいによじ登ってみせましょうか?」
わたしの言葉に伊吹が目を丸めて、噴き出した。
「アンタ、その服でか?」
そうだった。
わたしは今着物姿だし、これは李介さんのお母様の残したものであまり汚したくない。いや、背に腹は代えられない。う~!
「まず近づくことが大切だよね? 俺と科戸が隙を作るから伊吹くんだったよね? その子を連れて行ってくれる? あまり話している暇もないしね」
遠盟様が、今にも襲い掛かろうとするうねる根を見て告げるのに伊吹が頷いた。
わたしは何もしないのか?
「アンタの出番はあとだ。俺はアンタを抱えて登れるところまで登るから、そのあとのことは頼む」
「頼むって」
「猿みたいに登れるんだろう?」
「むぅ」
わたしが押し黙ると伊吹が身を低く、駆け出す。その前に遠盟様が躍り出る。その手に長い枝が握られていた。どこかで拾った枝を素早くふりと、鞭のように撓って襲い掛かってくる根を退ける。
「科戸! 今!」
「はいはい! わかったよ! 散娑、音!」
「はーい、れーくん」
散娑様が呑気な返事をしたあと、口をゆっくりと大きく開ける。
「少しおーきいよー? ……波ッ!」
まるで居眠りをはじめる猫の欠伸のような口から放たれたのは空気を震わせるほど、大きな音だ。波動となって根を痺れさせる。動きの鈍った根たちを遠盟様と科戸様が牽制する間を伊吹が走り抜け、幹まで来ると、地面を踏んで飛び乗る。
「俺のこと抱きしめてろ」
「ふぁい!」
わたしは伊吹に抱きついた。




