桃色タイフーン 7
体を貸すとは、わたしの肉体の権利をひふみに明け渡す、ということだ。一つの肉体に二つの魂は入らない。ときどき二つの魂が共存しまうこともあるが、それは稀なことだ。
わたしは目を閉じるように言われ、呪を口にした道満様によって浅い眠りに沈められた。
意識は起きているが肉体を動かすことができない、現と夢の間のような感覚だ。
不思議なものだ。
「やりました! これで、伊吹様に言葉を伝えられます」
手を合わせて歓喜するひふみ。
一応言っておくが、この肉体はわたしなのだから変なことをしないでいただきたい。
「承知してます。では早速……きゃあ」
思いっきりこけている。
「そりゃあ、今まで霊体でふよふよしていて歩くなんてなかっただろう。いきなり二本足で歩けと言われて歩けるわけがない」
「そ、そんなぁ!」
ひふみが驚愕している。どうやら霊体で浮遊してばかりの彼女には歩くなんて発想はなかったらしい。そりゃ、そうだ。
ひふみは必死に四つん這いになってなんとか立ち上がろうとするが、うまくいかないらしい。
「足に力をいれるんだよ。ほらよっと」
道満様に手をひかれて、助け起こされてなんとか立ち上がる。ふらふらしているが、ひっぱってもらえればなんとか這いずって歩ける有様だ。
「う、うう、伊吹様」
「がんばって歩けって、あ……いかん、あちらの宴に呼ばれておるわ。あとは自分でなんとかしろ」
「そ、そんなぁ」
道満様、そんなあんまりですっ
わたしとひふみは悲鳴をあげるが、無視して道満様は手をひらひらと振ってそのまま空気のなかに消えてしまった。
「どうしたらいいのでしょうか」
そんなことわたしは知らない。
「助けてください。うう」
わたしの肉体でめそめそしないでほしい。
つんけんしていると、視界の端に見えた――雨甲斐様だ。あの方を呼ぶのだ!
「え、え、っと、あまがいせんぱーい」
「ん、あれ? どうしたんだい? なんだか生まれたての小鹿みたいにぷるぷるしているけど」
「あ、あの、きゃあ」
歩こうとして思いっきりこけたひふみが雨甲斐様の懐に飛び込んでしまう。勢いがついていたことと雨甲斐様が警戒してなかったせいで思いっきり押し倒す形としなってしまった。
「あはは、押し倒されるのは歓迎だけど大胆だな」
「あ、あ、あ、いやぁー!」
ひふみが思いっきり雨甲斐の頬を叩いた。わたしも同じ状況であれば叩いていたのでこれは咎めるつもりはない。
「お前! 私の涼彦になにをしておるっ」
この最悪なタイミングで、面倒な神が来てしまった。
怒りの形相の蒼霏天様が迫ってくるのにわたしは顔がひきつる。ひふみも同じく恐怖で震えている。
美人が凄めば、それだけで恐怖を呼ぶものだ。
「あはは、押し倒されちゃった」
間違いではないが、誤解を招くうえ、ややこしくなるようなことを爽やかな笑顔で口にしないでいただきたい雨甲斐様!
「な、なっ、なぁ! 小娘ぇ! そこになおれぇ!」
ひぇ。
怒りに震えながら全身に霊気を纏う蒼霏天様にわたしは天を仰いだ。ひふみは半泣きである。
勘弁してくれ。
このままでは逃げられないと思ったとき、体を持ちあげられた。雨甲斐がわたしの体を横抱きにしてその場から逃げてくれたのだ。ありがたいがいろいろと問題だ。
「涼彦! 浮気か、私というものがありながら」
「うーん、酔ってるなぁ」
酔ってる? まてまて。お酒なんて……ちらりと宴のシートを見ると酒瓶がある。いつの間に!
紺ちゃんが件様とけらけらと笑い踊る。千ちゃんが泣いているのを二匹の狐たちが両端からすりよって慰め。真っ赤な顔でこくこくと酒を飲んでいる案ちゃんと周黎様。
白い犬が心配して吼えている。
なんとも地獄である。
そのなかに目当ての伊吹がいない? ああ、そうか、買い出しに行くとか先、声が聞こえてきたけど……伊吹、戻ってきて!
「いや、ちょっと家のを一つ、二つちょろまかしてね。さりげなくみんなの飲み物にいれたら面白いことになって。まさか、蒼霏天があそこまで酒癖が悪いとは思わなかった。一人で一升瓶をあけちゃってね」
お前か! すべてはお前が原因かぁ!
わたしが叫ぶ横に、しゅんと水の玉が飛ぶ。
振り返ると背後で仁王立ちしている蒼霏天様の周辺に水の玉が生まれ、浮遊している。そして、矢の如く、飛ぶ。
まってまってまって!
危ない!
雨甲斐様が振り返り、真剣な顔で叫ぶ。
「やめろ、蒼霏天っ! うわぁ」
思いっきり水の玉が顔にかかっている。
「うーん、酔っているせいか制御がきかない。うん。逃げよう」
お前!
わたしは思わず怒りに戦慄いた。
「制御がきかない神ほど面倒なものはない。ここは逃げるが勝ちだ」
「あ、あわわわ」
ひふみが悲鳴をあげている。
ん、まて、先ほどから、もしかして、わたしのことが見えているんですか!
「うん。見えているよ? なんだかおもしろいことになっているなぁと思って」
笑顔で言われる、その横を水の玉が飛ぶ。
ひぃ!
見えているなら言いたいことはひとつだ。
なんでこんなバカなことをしたんですか!
「面白そうで、つい」
にこにこと悪意のない笑顔なのがなおのことタチが悪い。紺ちゃんが会わせるのを渋っていた理由がようやくわかった気がする。
この人は完全に面白がってやっている。
おかげで桜の木と人々の間を飛び回って水の玉から逃げる羽目になっているのに。
雨甲斐先輩が騒ぐ宴会の合間、合間を狙い、飛び回る。それに水の玉が飛んで悲鳴が轟く。
「しかし、このままだと危ないね。誰かを犠牲、いや、囮になってもらおう」
犠牲といいましたね!
「ひゃあ、あああ~」
すでにわたしの体を借りているひふみは目をまわしている。無理もない。
「あそこに見えるは大変よい囮! 少しばかりがんばってもらおうか」
何かを見つけたらしい雨甲斐様がそのようにおっしゃるので見てみれば、カッキー色の軍服の二名の男性はわたしが見たことある人物だ。
顎に無精ひげをたくわえているのは、確か、梅桃様。その横にいるのはああ、飛んでいきそうな軽薄さの笑顔の反町様だ。二人とも両手に、重い黄色いプラステックの箱をさげている。どうやら飲み物を切らして買いに行ったようだ。
関わりたくない。
李介さんたちが花見を行っている席まできてしまったのか?
李介さんに迷惑をかけたくない。ひふみ様、お願いだから逃げて!
わたしの悲鳴に近い願いも空しく、雨甲斐様は囮となる相手を見つけると真っ先にそちらへと向かった。
「きょーかん!」
雨甲斐様の声にお二人が足をとめて、こちらへと視線を向ける。
その二人の前に走ってきた雨甲斐様はネズミのように俊敏かつ、迷いのない動きで後ろに逃げ込んだ。
「鍛えているつもりだけど、さすがに、汗が滲むなぁ」
などと雨甲斐様がおっしゃるのに状況を把握していない梅桃様と反町様が驚いている。
「お前らは、李介のところの」
「え、え、こひなさ、わぁ!」
水の玉が反町様の顔に直撃した。
「おのれぇ! もう一撃!」
容赦がないもう一撃はいきなりの自体に唖然としている梅桃様の顔にヒットした。
「うお、なんだなんだ!」
「教官、生徒のために身を盾にするのは教員として大切なことだと俺は思いますよ。すいませんが、しばらくはがんばって囮になってください」
「は、おい、こら、雨甲斐って、つめてぇ」
水の玉がなぜか雨甲斐様ではなく、梅桃様に集中する。その隙をついて雨甲斐様は逃亡する。
「運がいい。梅桃先生はびっくりするぐらい運がなくて倒れたり、こけたりの人だから、きっと、蒼霏天に絡まれているよ」
後ろを見ると、追いかけようとした蒼霏天様と梅桃様が衝突している。あのふくよかな胸のなかに顔を埋めて倒れているは、ある意味では運がいいのか? あ、その上に反町様まで足をすべらせて倒れた。南無。
「さて、唯一、この場で頼りになる伊吹を見つけて助けてもらわないとな。あいつだけは酒を飲んでないはずだ。俺はこう見えて悪運だけはいいんだ。ほら、伊吹がいた」
「あう、い、いぶきさまぁ」
ひふみが伊吹の名前に必死に声をあげる。
見ると焼き鳥の屋台の前で伊吹が買い物をしていた。
「おーい、伊吹」
「……雨甲斐先輩? そいつを抱えて、なにしてっすか」
「うーん、逃げてる!」
伊吹の前まで逃げてきた雨甲斐様が笑顔で告げる。
「は?」
「いやー、酒を飲ませたらえらいことになってね! 悪いけど、伊吹の朱雛で蒼霏天の酔い覚ましをしてほしいんだ」
「……また勝手な」
まったくもってその通りだ。
「朱雛、どっかに行ていないんですよ」
「そうなのかい? ああ、なんか可愛い女の子とどこかに行ってたね?」
そういえば、歌穂の姿も見ていない……
「しばらく邪魔するなって言われてるんっすけど」
「このままだと水も滴るいい男に俺がなってしまう。まぁ、それはいいんだが、彼女も濡れちゃうよ」
「雨甲斐先輩が、そいつのこと降ろしたらいいんじゃないですか?」
「構わないけど、そうすると、小日向ちゃんが思いっきり狙われるよ?」
伊吹が顔をしかめる。
こ、この着物は今日のために李介さんのお母様のものをおろしたばかりなのだ。それを汚しては申し訳なさすぎる。
わたしは祈るように伊吹を見た。どうせわたしのことが見えてなくても、お願いだから助けて!
「い、いふ、ぎ、さまぁ」
ひふみがすがるような視線を向ける。
伊吹がはぁとため息をついた。
「勝手だ」
ぼそっと文句が漏れた。
「けど、俺が呼んであいつ来るかな」
「来てもらいたいねぇ。ほら、もう迫ってきてるし」
美しい顔を鬼のようにゆがめた蒼霏天様が迫ってきている。梅桃様と反町様はたいした足止めにならなかったらしい。
「おのれ、泥棒猫! またぬかっ!」
恐ろしいにも程がある。
「めっちゃくちゃ怒ってますね」
「うーん、酔いがいい具合にまわってるなぁ。さて、朱雛をがんばって呼ばないとな」
「……朱雛―っ」
伊吹が声をあげるが、反応はない。
さらさらと桜の花びらが散るばかりだ。
「やっぱり」
伊吹が呆れた声を漏らす。
そんな容易く諦めてもらっては困る。
わたしは覚悟を決めた。
歌穂には悪いことをするけれど、背に腹は代えられない。
ええ、いままよ!
歌穂―――!
わたしは自分がいま霊体であることを無視して声をあげる。それに桜の木が大きくざわめいて、悲鳴があがった。
「きゃああああ、ひなちゃあーん」
わたしの声に引き寄せられて歌穂が落ちてきた。
どうやら桜の木の枝の上で歌穂と朱雛様は二人きりの花見を楽しんでいたらしい。転げ落ちた歌穂は尻もちをついて、いたたと声をあげて顔をあげると泣きだしそうな顔をしている。
「あう、ご、ごしゅじんさま? え、あ、およびになり、まちた?」
歌穂がおろおろと立ち上がった瞬間、思いっきり頭から水の玉をかぶった。
「ひゃあああ、うぅうう」
可哀そうに、悲鳴をあげてその場に歌穂は倒れた。気絶したらしく、人の姿ではなく、鳥の姿に戻ってしまっている。
「歌穂、どうし……歌穂! ……俺チャンの歌穂になにしてくれてんだババア!」
慌てて追いかけてきた朱雛様が歌穂の有様をみて驚き、両手に優しく雀の歌穂を抱えると声を荒らげ、蒼霏天様を睨みつける。
「うるさいわ! 邪魔じゃ! 小童!」
「このババア! 酒くせぇ! 酔っぱいが! さっさと目を覚ませ!」
二柱が睨みあう。
一触即発状態はまるで怪獣大決戦ともいえる恐ろしさに満ちている。
伊吹はそんな様子をいつもの無表情で見つめているが、ふと、手を伸ばしてきた。わたしのことを雨甲斐様の腕から奪い取り、胸の中に抱えてくれる。体はわたしだが中身はひふみである。ひふみは嬉しそうに伊吹のことを見つめている。もうこのまま極楽浄土にいきそうな目だ。
「雨甲斐先輩」
「ん? なんだい、伊吹? お、二柱ともやりあう態勢にはいったよ」
あくまでマイペースにこの大混乱を雨甲斐様は楽しむつもりらしい。本当に神経だけはずぶとい。
「だいたいやらかしたのは雨甲斐先輩だってわかったんで、自分のしたことは自分でケリつけてください」
「ん、んん? 伊吹、もしかして、怒って、おわぁ」
伊吹がわたしの体をだっこしたまま雨甲斐先輩の背中に素早くまわりこむと、片足をあげた。
思いっきり雨甲斐先輩を蹴って二柱の間につっこませる。
「涼彦!」
「なんだ、てめぇ!」
二柱が叫んで、水と炎が炸裂しているのを横目に伊吹はさっさとその場を離れた。
ひどいし、容赦がない。
「あの人に片付けてもらおう」
「あ、あの、伊吹、さ、さまぁ」




