桃色タイフーン 1
一日が二十四時間なのがいけない。
こんなに短いとなにも終わらない。
「間違えてますよ」
「う」
李介さんの指摘にわたしは手を止める。ちらりと視線を向けると、じっとよく研いだ墨のような黒い目がわたしのことを睨んでいる。
そっと李介さんが手を伸ばして、わたしの手に重ねてくる。
「はの書き方は教えましたよね?」
「……はい」
「だったら、書き方の手順も覚えてますね」
「はい」
「手順をおろそかにしてはいけません」
「はい」
わたしはただ萎縮して返事をする。
「一度俺と書いてみましょうか」
「はい」
後ろから李介さんがわたしの手を握りしめて、は、と書かせてくれる。ペンはわたしが握っているのに、大変美しい文字だ。
「では、これでもう一度」
「はい」
学校に通い始めるにあたり、名前を書けるようにはなった。問題はそのあとだ。まずはひらがなを書けるようにならなくてはいけない。李介さんのもらってきた教科書にはひらがなの書き方と、その書き順が載っていた。李介さんが一文字、一文字の書き方を教えてくれ、手本をくれたのでわたしはそれを真似て書くのだが
「また手順を間違えましたね」
「う」
わたしはなんとも出来の悪い生徒で手順を間違えては赤ペンではねられる。書いてる所を見てないはずなのに、どうしてわかるんだろう?
「文字の形が微妙に違うのでわかります」
「うー」
そう言われてしまえば、そうなのかと納得してしまう。
なかなかに怖い李介先生はとても厳しい。書き方の手順を間違えると容赦なく赤ペンで直され、もう一回とされる。
正しい書き方をすると文字がきれいなのはわかるのだが、しかし。
「いやになりましたか?」
「え、いや、その」
李介さんが手をとめてわたしを見つめてくる。どうもわたしが不満そうな顔をしていたのが気になったらしい。
わたしの書き取り勉強を見るのはもっぱら寝る前の三十分前、李介さんが書斎にはいるときである。
李介さんが文机に向かい、わたしは横で文机を引き出す。これは折り畳み式で使わないときは足の部分を折って部屋の端っこに置けて邪魔にならない。それにちび妖怪たちが見つけた可愛らしい花柄の座布団をしいて李介さんのお仕事の後ろでわたしはせっせっと書き取りである。
まだ寒い時期なので、部屋の端では火鉢を焚いてじわじわとしたあたたかさが部屋のなかを満たす。
だいたい李介さんは持ち帰り仕事をされる。生徒の答案のペン入れだそうだが、その合間にわたしのことを見てくれるのだ。お忙しいこの人に比べたらわたしなんて、と思うのだ。そんな李介さんに気を遣わせてしまったわたしは妻失格である。ああもう!
「? 俺には言えませんか」
「ちがう、ちがうのですよ、そうでなくて」
「俺は、つい、人に厳しくしてしまうもので……厳しすぎましたか?」
「あ、あの、その……学校のあとわたしは帰ってからせっせっと書いたりするんですが、そのせいで家のことが疎かになってしまい」
わたしに真正面から向き合ってくれる李介さんに、とうとう白状した。
学校に通ってすでに三日が経過したが、わたしはてんてこまいである。
まず朝から忙しい。目覚めの時間は変わらないし、昨日の夜のうちに弁当の支度をしておくが、欠伸まじりに必死に二人分の弁当をいれる。
家から戻るが洗濯と掃除に手がまわらない。この三日、二つとも出来ていないのでは妻としていかがなものだ? 洗濯はなんとか片付けたが、それでも畳むともう夕飯になってしまい掃除ができなかったのだ。
「……無理はしなくてもいいんじゃないんですか?」
「無理、ですか」
「いろいろと新しいことをはじめているのでそれに必死に追いつこうとしているんでしょう? 書き取りは」
「だめです。書き取りはしないと」
でないと、なにもできない。
学校の勉強も、本も読めない。
「では、弁当をやめ」
「そ、そんなぁ、わたしの弁当はおいしくないですか?」
「そんなことは……そうですね。では、俺が当直の日はやめる、でどうですか?」
「李介さんが当直の日、ですか」
泊まりの仕事をいれまくっていた李介さんは上司と話、多少、当直の日を減らしたがやはり多い。今月はどうしようもないが来月から月二回にすると約束した。
当直は夜ごはんは学食が出るのでいらないのだ。
「遅出の日は、どうせ午後あたりから出勤のようなものですから、その日も弁当はいいですよ」
ちなみに遅出の日も月に二回の約束である。
「その日だけは学食にすればいい」
むむむ。
「掃除も毎日しなくても、週に最低三回、いえ、二回でも」
「いいんですか?」
「困らない程度ならいいですよ。これは手抜きではなくて、あなたが……大変なんでしょう? 俺が手伝ってもいい」
「だめです。お仕事でお忙しいのに」
「それはあなただって学業をしている。俺は……一人で暮らしていたときが長いので多少なら自分の事は出来ますから」
二人で睨み合いをして、わたしは肩から力が抜いた。
「では甘えます」
「はい。甘えてください。では、この「は」は書き直しで」
う。さすが李介さん、優しいのに締めるところは締めてくる。
わたしはすごすごと書き取りの直しをやりはじめた。
少しばかり軽くなった心の端っこにはもやもやとした不満とは違う、申し訳なさが転がっている。
いくら李介さんが許してくれても妻として、ちゃんとお仕えしないのは心苦しいわたしはとある秘策を編み出すことにした。
その秘策のためにも寝る前にわたしは台所に向かった。
「おまえたちいますかー?」
わたしの声にわらわらと出てくるちび妖怪たち。つぶらな目が金平糖をくれるのかと語り駆けてくる。
「これから金平糖は報酬制とします。いいですか? お前たち、働かざるもの喰うべからずといいます。お前たちはちゃんと働くのです」
えーとちび妖怪たちが不服の声をあげるが、掃除は週に三回に減らす。そのせいで家が埃臭くなっては忍びない。わたしが出来ないならかわりにちび妖怪たちに毎日家の垢を嘗めてもらったり、ちょっとでも埃を減らしてもらえばよいのだ。とはいえ出来ることに限りがある彼らにあまり期待していないが、それでも多少は違うはずだ。
「金平糖がほしくないのですか?」
ほしいーとちび妖怪たちの声が合う。そして彼らは顔を見合わせると、提案に応じると申した。
よし。
これで仕事が減ったと思った翌日である。
少しばかり気が軽くなって道満様の部屋に行くと、すでにいた道満様が奇妙なものを見る目でわたしのことを見てくる。何だろう、大変よくない予感がしているが、わたしはとりあえず歌穂の鳥かごに近づいた。
わたしのはじめてつくった式神である歌穂はまだ登録――政府による式神登録を行う必要があるそうだ。
霊式式神は登録する必要があるが、順番がまわってこないため個人所有をしてはいけないと言われてしまった。お役所仕事はどこでも遅いのが常である。学校そのものには登録は済んでいるので学校内で預かると口にしてくれた。
基本的に式神というものは学生が持つ場合、単式、霊式の違いはあれど学校に登録し、学校外では卒業までは許可なく使用禁止とされているそうだ。歌穂の場合は、学校預かりで、わたしが学校にいる間は一緒にいるようにしている。
預かると決まったその日のうちに鳥かごと小さな巣を用意してもらい、道満様のお部屋の日当たりのよい窓辺が歌穂の居場所になった。
わたしが来ると巣から出てきてちゅんちゅんと鳴きながらこけるのが習慣である。今日も大きくこけたのをわたしが両手に抱えて、肩にのせてあげた。
「おい、藤嶺よ。こんな紙を旭からもらってな」
「はい?」
と勉強がはじまる前に道満様が申される。出されたのが「藤嶺小日向さんを図書委員にしてください」と達筆な文字。――わたしと歌穂が読めないで困っていると近江様が現れて読んでくださった。
「あれが、人を指名したのははじめてだ。まぁすることはたいしてないだろう」
断る権利はわたしにないのだろうか?
「いや、まぁ、あの引きこもりがようやくちょっと下界とやりとりするっていうならなあ」
腕組みをして唸っている道満様は
「これも修行だ」
「な、なんと」
「週の金曜日は勉強免除してやるから、図書委員の仕事しろ」
「え、ええ、そんな適当でよいのですか」
「だって、お前さん、基礎がまったくできてねぇんだもん。教科書もあれだ、文字が難しいから読めないんだろう」
う。
「わしもいつも教えられるわけじゃないし、だからってちんたらしてもなぁ」
「申し訳ないです」
「おお、大いに申し訳ないと思え。俺も忙しいから、週に一回、お前さんを図書委員として働かせるっーので、旭が勉強みてくれるぞ」
これは体のいい厄介払いではないのか?
「旭が下界とやりとりする、お前は学べる、一石二鳥! お前さんも少し体を動かしたいんだろう? 本当は他の学生たちとまぜてやりたいんだが今のままだとトラブル起こしかねんしなぁ」
入学早々にやらかしてしまった身なので反論も出来ない。
どうも、陰陽科は選ばれたエリートが多いらしく、学生同士がぴりぴりしているかんじである。わたしが見た限りでは、憑神科と違い、生徒が仲良く食事をしているのは見たことがない。
学科によっても生徒の雰囲気にも差があるようだ。
「旭は引きこもりということをのぞけば優秀な陰陽師だ。ということで、基礎は習え、定期的にチェックしてやるから」
「は、はぁ」
「手があけばわしもお前さんをしっかりと教えてやるから安心しろ。基礎でわかんことはがっちり教えてやろう。さっさとお前さんの隠しているところもわしに出してもらわんとな」
にやにやと笑う道満様にわたしはうーんと唸ってしまった。
「では、今日は金曜日じゃ。旭のところに行ってこい」
拒否権は一切なく、週一で図書委員の仕事をせねばならなくなった。ちなみにわたしと近江様も一緒に指定されていたので、図書室に行くこととなった。
ことと次第を告げた道満様は風のように「仕事があるので行く」といって去って行った。本当にお忙しい人だ。
図書室まで来たのはいいが
「なにをしろというのか」
「そうですね」
ぴちぃと肩の歌穂も不安げに鳴く。
すると、ひらり、と天井から紙が落ちてきた。
「……チョコ菓子を購買より買ってきてほしいと」
「そんなこと、式神にさせればよいのでは?」
わたしの当然の疑問にたいしてまたしても紙が落ちてきた。
「式神で買い物に行かせると、購買のお婆さんがいい顔をしないそうです。そもそも、旭様は式神では単式しか作れないので、最近、購買のお婆さんは目が悪いので、文字が読めず、買えないことが多いそうです」
「ほぉ」
式神の単式というのはそれ専用の仕事をさせるもののことである。
道満様に習ったのだが、式神には術者が仕事をさせるための術を組み合わせただけの単式と、自然界にいる霊を捕まえての霊式が存在する。近江様はこの霊式に該当する。歌穂も。
この霊式は複雑なやりとりがある程度可能であるし、命令にたいして、状況に応じて自分である程度は判断することができる。
対して単式はその用事のみを行うものである。これは自分で判断できない。ゆえに術者がそばにいて指示をしなくてはいけない――一般的に出回っているのはこれをさらに簡単にしたものらしい。また軍用と言われた鬼もこれにあたる。
ちなみにこれは術者によって作れる、作れないがあるそうだ。
旭様は単式は作れるが、霊式はからっきしらしい。
そもそも人嫌いの引きこもりが、霊といえども心を通わせるのは無理な話だ。
わたしと近江様はチョコの買い出しから、式神が出来ない本の細かい補正などをせっせっと行うことになった。
「これが修行になる、のかな」
ちぃ。
歌穂も本を一生懸命つついている。仕事をしているのか、それとも戯れているのか微妙である。
「歌穂、つついちゃだめ」
「でち!」
「もう」
わたしが指でおなかをつつくと、歌穂が嬉しそうに小首を傾げている。可愛らしいのは正しいことだ。
なんやかんやで早く終わったのでわたしはせっかくなので紺ちゃんたち新聞部に顔を出そうと考えた。
実はいうと李介さんに部活の許可をもらい、翌日の昼に部員届を出したのだが……そのあと忙しくてまったく顔を出してない。
新聞部も六人集まり、本格的に活動をする……ことになったはずなのだが、台風のように日々が過ぎ去っていくのにかこつけて無精をしてしまった。
土曜日になったら紺ちゃんたちに会える。
今日は家に帰ると溜め込んでいた家事をやろうと思っていたが、久方ぶりに紺ちゃんに会えるかもと期待があった。部室に行くと扉が僅かに開いていたので不思議に思ってそっと開ければ机の上で紺ちゃんがへたれていた。その横には久しぶりの伊吹と千ちゃんもいる。
「紺ちゃん?」
「あーうー、小日向ちゃん? え、まじまじまじ? 小日向ちゃん!」
勢いよく紺ちゃんが立ち上がる。
「あ、あの、ひさしぶ、わぁ」
「小日向ちゃん、小日向ちゃん、小日向ちゃん、どーしよう。どーしよう」
「え、え、え」
久しぶりの再会を、少しばかり心苦しいと思っていたわたしはいきなり紺ちゃんに抱きつかれてびっくりしてしまった。
「顧問のね、先生が決まらないのぉ~」
「え?」
意味が分からないわたしはきょとんとした。
紺ちゃんが世界の終わりとばかりに叫ぶのを意味もわからず聞いていると、伊吹に
「そこ、座れよ」
促されて腰かける。
「うう、どうしよう、どうしよう。部活の顧問の先生が決まらないの」
「顧問?」
「そう。部活には顧問の先生がいるんだけど、うちのおにぃ、つまり、反町先生なんだけど、陸上部してるから無理っていうの!」
紺ちゃんが頭を掻きむしてヒステリーに叫ぶ。兄を頼りなしていたのに、アテが外れて追いつめられた紺ちゃんは大変機嫌が悪い。
「もう、おにいのアホ。ぼけ、くずめ! ばかーー!」
ひどい言われ様だ。
「えっと、その顧問いないといけないの?」
「じゃないと部活として認められないの。くぅ、困った。本当に困った! ねぇ、小日向ちゃん、知り合いとかいる?」
「先生に?」
「そうそう。名前だけ貸してくれる相手とか」
わたしが知る相手なんて李介さんと、道満様、それに旭様くらいだ。どの方にも部活の顧問になってほしいなどとおねだりしづらい。
「どうしよう~。部員が集まっても、このまま顧問決まらないと無理なんだよねぇ~」
「いつまでに顧問はいるんですか?」
「出来たら一週間以内、じゃないと、申請できなくなっちゃうんだよねぇ。二学期はじまっての一か月以内なのよぅ! もうすぐ二月終わっちゃうのにっ」
紺ちゃんが叫ぶ。それは由々しき事態である。せっかく部員として名前を書いたのに。




