攻防するハニィ
目覚めてぼんやりしていて何が何だか理解できていない状態のわたしにカーテンから現れた白衣姿の男性養護教諭が、一時間も眠っていたよ、と声をかけてきた。
「落ち着いたようだし、帰宅しても問題ないだろう」
とのこと。
そもそもわたしが受ける授業は午前中だけなので、いつ帰っても構わないはずだ。
問題はわたしの作った式神の歌穂がどこに行ったのかと心配だ。どこにもいない。
「あの、わたしの雀は」
「ああ、近江様が外の仕事から帰宅後、連れていってしまったよ。こちらで預かるといっていたね」
近江様なら、ちゃんとしてくださるだろう。
養護教諭が念のためと、軽くわたしの目やら口のなかを見る。そのあと軽い過労のせいだと言われた。陰陽師には術を使うのに強靭な精神力がいるので、よくあることとのことだ。
わたしは世話をかけてしまったのに頭をさげて、ふらふらとした足取りで廊下へに向かう。このままのんびりしていて李介さんに連絡が行き、心配をかけてしまってはいけない。
が。
廊下を出たところで
「小日向さん」
李介さんの声に顔をあげた。
李介さんがいたのにわたしは拳を握りしめた。
まるっと一日会ってないだけで、さみしくて、さみしくてたまらなかったのだとわたしは自覚した。
「りすけさんっ」
「倒れたと聞きましたよ」
「はう」
連絡がいっている。
「ごめ、んなさい。わたし、李介さんに迷惑、かけましたか? 申し訳ない、ん」
頬を撫でられて、びっくりして顔をあげる。
李介さんの白い手袋をした指でほっぺをつままれ、むにむにとされる。
「大丈夫そうですね」
「……ほっぺた、むにむにして確認をとらないでください、李介さん」
「すいません、つまみやすいほっぺただったもので、つい。……家まで送ります」
ちょっと嬉しそうに笑っている。どうもわたしのほっぺたをむにむにとつまむことは李介さんの楽しみになってらっしゃるようだ。そんなにわたしのほっぺたはふっくらしているだろうか? むむ。
「送っていただけるのは嬉しいですが、お仕事はいいんですか?」
「休みをとります。幸い、午後からの授業は一つだけですから」
「だ、だめですよ。お仕事をしてください。わたしは、ちゃんと一人で帰れます。李介さんのお手を煩わせることはしませんよ。ほら、この通り、元気、元気です」
両腕をあげて力拳を作ってみるのだが、李介さんの咎める視線を一心に受けてわたしは焦ってしまった。
「……あなたと仕事、どっちをとれと言われたらあなたをとります。それとも俺はそんな薄情な男に見えますか?」
「う。あい、すいません。そんなことないです。はい」
叱られてしまったわたしが慌てて言い返すと、頭を撫でられた。また笑ってらっしゃる。たぶん、これはからかわれたのだ。意地悪だ。李介さん。
家に戻ると、静寂のなかにひょこんひょこんと心配したちび妖怪たちが現れた。家も心配していたらしく、なかにはいると震えるように風の音を響かせている。一日戻らないだけでここまで大騒動する者たちに若干のおかしさを感じた。
李介さんに肩を抱かれて歩いていると、近づいてきたちび妖怪たちが廊下にころころと転がっている。李介さん、歩くの早すぎて振り落とされている。
布団を敷かれて横にされてしまった。
「何か食べたいものはありますか? 買ってきます」
「病人ではないのですよ?」
わたしは笑ってしまった。
「いっぱい学校でも寝たんですよ」
じっと李介さんが見つめてくるのにわたしはすごすごとお布団に横になった。反論してはいけない気がする。
「食べたいもの……こう、がっつりしたものが食べたいですっ!」
「え、がっつり、ですか」
「はい。気合をいれたいです」
もう倒れないためにも気合と根性が欲しい。真剣な目で見つめると李介さんが目尻を綻ばせた。
わたしは手を伸ばして、李介さんの手を握りしめる。
「眠るまで、手を握っててくれませんか?」
「はい」
指を絡めて、しっかりと握られる。
どこにも行かないでほしい、わたしの胸の奥にふと、そんな願いが生まれた。おかしい。これはわたしの気持ちなのか、それとも、小日向のものなのか判断できない。
ただ、ただ胸の中に苦しさばかりが広がってくる。
目が覚めたわたしは、いい匂いがしたのにはてと疑問に思いながら襖を開けて居間に行くと、なんと、そこには李介さんが薄青色のエプロンをつけていらっしゃる! 台所に立ったときに椅子に吊るされたそれになんだろうと気になっていた。わたしが身に着けるには大きなそれは使えなくて放置していたのだが、李介さんがつけてらっしゃる!
「夕飯は出来てますよ」
「あ、あわ?」
わたしは驚いた声をあげた。
起きていつも食事をしている居間のテーブルに並ぶ皿。そこにはキツネ色に輝く大きな塊。これはなんだろうと見ていると、李介さんは慣れたように味噌汁とごはん、それに漬物を運んで来た。
「さ、食べましょうか」
「……お夕飯! わたし、わたし」
「慣れない学校に疲れたんでしょう? 昨日、俺は仕事で家をあけていました。本当に愚夫で申し訳ない。だからいいんですよ。今日ぐらい、一人のときは俺が作ることも多かったし」
「けど、けど、お仕事でお疲れの李介さんに」
わたしはなんという失敗を犯したのか。妻ともあろう者が疲れている夫に食事をつくっていただくなんて! あろうことか、いつもわたしが作るより幾分も美味しそうである。
負けている。妻としてわたし、いろいろと負けている。
「俺がしたかったからしたんですから、ね」
完璧な気遣いである。
わたしは促されてしぶしぶと箸をとる。
「これは、なんですか?」
「とんかつです。これからいろいろと大変でしょうから、一番気合のはいるものにしてみました。ちょうど肉を買っていてよかった。たれはここに、つけて食べてください」
「……いただきます」
手慣れた李介さんに甲斐甲斐しく世話をされてしまっている愚妻であるわたしはしおしおと促されてとんかつを食べる。完璧すぎるそのきつね色にかりかりの衣は食欲をそそる。さらにちゃんと一口サイズに切られている。ここまで手間暇かけられているともういっそ腹を見せて、参りましたと言いたい。問題は味だ。李介さんがじっとわたしの様子を見てらっしゃる。
さくっと口のなかで零れる衣の歯ごたえ。油が舌のうえで踊る。歯ごたえるのある肉は、噛みきりやすい。さらにたれの甘いようで酸っぱいような味わい。それに白ご飯をかけこむと、大変美味しい。
わたしが夢中で食べていると、李介さんも食べ始めた。
味噌汁の程よい辛さとお漬物はぽりぽりとした歯ごたえの良さ。
美味しい。大変美味しいのだが
「……ご、ごちそうさまです」
「肉、残ってますよ」
「おなかいっぱいです」
肉が三つも残ってしまった。うう。けど、いまは食べられない。満腹である。李介さんは、ぺろりと平らげている。
男性って、本当によく食べられるものだ。けぷっと苦しい息を吐いておなかを撫でる。おいしすぎて食べ過ぎた。
肉の柔らかく、甘いこと。
「じゃあ、残ったぶんは、明日……カツサンドにしましょうか。食パンも買ってあるので」
「カツサンドとはなんですか?」
「カツとキャベツにたれをいれて、パンではさめるんです」
なに、その美味しそうなもの。
想像するだけでよだれが出そうになるわたしを見て李介さんが手早く片付けをしてしまう。あ、あ、あ、それくらいわたしがするという前に素早く行ってしまう。
これぞ、愚妻の図である。
わたしははぁとため息をついて机に突っ伏した。おいしいごはんに疲れが合間なって眠気が再度襲ってきた。
うとうとしそうになるが、ここで寝てしまったらいけない、風呂を沸かそうと立ち上がると。
「風呂はもう沸いてますからね」
なんということか。
食後のお茶までもってきていただいてわたしはなにもできずに、しょんぼりしてしまう。
「すいません」
「俺が食べたいものを作っただけですから、いいんですよ。学校は楽しかったですか」
「うーん、思った以上に複雑でした」
お茶を嘗めながらわたしは答える。事前に教えてもらっていたが、それ以上に複雑な雰囲気があってわたしはてんてこまいだ。けれどそのぶん、面白い人たちにも出会えた。あ、そうだ。
お茶を静かに飲む李介さんに尋ねた。
「藤嶺教官って二人いるんですか?」
「は?」
「憑神科の子たちが言ってました。鬼のように怖くて、おっかない教官がいるって、同じ苗字だねって、絶対に関わっちゃだめだって」
「ぶっ……そ、それは、また」
苦しそうに噴き出す李介さんにわたしは小首を傾げて、伺い見る。
「そんなに怖い教官がいるんですか? 同じ苗字で」
「他になにか言ってました、その生徒たちは、藤嶺教官について」
「うーん、なんか授業のあと吹っ飛ばされたとかなんとか、本当に怖くてたまらんと、あ、千ちゃんは小テストのできが悪すぎておのこりをしたそうです」
「テストの点が悪いのは、大門ですね。……彼らの名前は覚えてますか?」
「はい。お友達になりました。宇佐見の紺ちゃんと、大門千里で千ちゃん、朝倉伊吹です」
「宇佐見、大門……朝倉ぁ」
つらつらと李介さんが確認するように苗字を口にするが、最後の伊吹のときだけ、妙に低くなってたのにわたしはきょとんとする。
わたしの視線に気が付いて李介さんが口元を緩めて笑いかけてくる。
「どうかしましたか」
「……わたし、なにか怒らせましたか? なんだか、その、怒ってます? やはり、妻として、なにもできないことが」
「え? ああ。いえ。あなたが思ったよりもはやく友人を作れたこと、よかったと思ってるんです」
なんとなく話題がはぐらかされてしまった気がする。
けど、こういう風に笑う李介さんは、たぶん、つっこんでほしくないのだろうとわたしのカンが告げているので、あえて何も言わないことにした。
「お風呂いただきますね」
李介さんが立ち上がるのに、ぽつんと残った湯飲みとわたし。
こういうときこそ、妻としてこう、なにかせねばなるまい。それに紺ちゃんが教えてくれた、おねだりを実践するのはこういうときではないのか? よし。いざ出陣!
そろりとお風呂場の硝子扉を押し開けると、逞しい背中が見えてわたしはつい見惚れてしまった。頭を洗ってらっしゃるらしく、無防備な背中の筋肉が見放題である。ああ、李介さんは本当に男らしい。
「……え、どうしたんですか」
寒さに小さく肌を震わせて振り返った李介さんがぎょっとした顔をする。
「あ、あの、お背中を流しにきました」
わたしはお風呂場にはいると、にこりと笑う。
紺ちゃんに教えてもらった難しいことをおねだりのときは――一緒にお風呂にはいって、背中を流す、ということだ。慎みがないと思ったが、紺ちゃんはわりとお父様にこれをしておねだりをしていると教えてくれた。
体をタオルで巻いておけば、お風呂場で恥ずかしいことなんて何一つない、とのことだ。
わたしと李介さんの場合は夫婦だ。恥じ入ることなんてなにもない。
ちゃんとタオルを体に巻いて、わたしの柔肌を見られてしまう恐れはない。
わたしがはいってきて硬直している李介さんを見つめる。
「あの、髪の毛、洗い流さないんですか」
「します、しますけど、待ってください、え、あ?」
「ああ、髪の毛、流すの手伝いましょうか?」
「待ってください。近づかないでください。タオル、タオル!」
李介さんが驚くほど慌てていらっしゃる。わたしは、別に李介さんの裸を見ても困ったりはしないのだけど。
急いで桶を頭からかぶった李介さんはタオルを腰に巻いて振り返る。
「いきなりどうしたんですか、背中を流すなんて今までそんなことしてないでしょ?」
「あの、ですね、紺ちゃんが、おねだりをするときはこうするのだと言ってました。一緒にお風呂にはいって、お背中流すと裸の付き合いでいろいろと本音をぶつけられるって」
「……宇佐見ぃ」
手で顔を覆って李介さんが低く吐き捨てる。そのあと、ゆるゆると顔をあげるとわたしのことを困った顔で見つめてくださる。
「おねだりって、なにかほしいものが?」
「ものではなく、お願い、です。あの、ちょっと寒いので、はやくお湯に体をつけたいです」
「あ……とにかく、体を洗って湯に浸りましょうか」
李介さんがそういうので、わたしとしてはしめたものである。ちょっと寒いが、ちゃんとお背中を流すということは出来そうだ。
「体を洗うのはお手伝いします」
「……お手柔らかにお願いします」
李介さんの背中はぜひとも流したいし、それ以外もお手伝いしようとわたしは企んでいるのだが、李介さんが前は自分で洗うと譲らずわたしはそれを眺めているしかできない。けちである。絶対に振り向かないからはやくあなたも体を洗ってください、と言われてしまうと寒さに負けたわたしは自分の体を洗うしかない。しかし、背中を流すチャンスは逃したりはしない。
さっさと自分の体を洗って、お湯が流してしまいながらも様子を伺い、ようやくお背中を流すときこそわたしの出番である。
「李介さん、お背中はわたしが流しますからね、洗いますからね」
「……わかりました。わかりました」
李介さんからタオルをもらい、しっかりと背中を押さえて両手でこする。逞しい筋肉はわたしがちょっと力をこめたところでびくともしない。なんとも男らしく、頼りがいがある。
「それで、おねだりってなんですか」
わたしがついうっかり李介さんの背中に見惚れていると、声がかかってきた。それでお背中流している本来の目的を思い出した。
「……部活、はいってもいいですか」
「部活?」
「はい。紺ちゃんに新聞部に誘われて……あの、基本は、授業がはやく終わる、土曜日だけ部員として働いてくれって」
「部活は別にいいですけが……大変じゃないですか」
「なにがですか?」
「家の事をして、学業をして、部活もして、では……倒れたりしないでくださいよ」
李介さんが首を動かしてわたしのことを気遣って見つめてくる。
「いろいろと刺激になります。それで、その、部活しても、いいですか?」
「俺は止めませんよ。楽しんでくれるなら大いに結構……ただ、心配なだけです。あなたががんばりすぎて倒れないかって」
「倒れたりはしませんよ。これでも体力はあるので、最終的には根性です。根性!」
「じゃあ、陰陽の勉強も根性でがんばってくださいね。道満師が、今日、変な顔をされてましたよ」
「う」
すでにわたしのだめ生徒ぷりが李介さんのお耳にはいっているとは。
「わたし、基礎とか、そういうの全然できてないって言われました。けど、そんなもの習ったことないんですもん、わかるはずがありません」
つい唇を尖らせて不満が口から洩れてしまう。陰陽の勉強は別にしたいと思ったわけではなく、半ば強制である。つまらんことこのうえない。けど、学校に行けたおかげで紺ちゃんたちに出会えたのは僥倖であった。
それに、このおかげでいろいろとやりやすくなった。
わたしは一瞬思考に沈みかけて、盥で湯を汲んで李介さんの背中を流す。
わたしは自分の髪の毛を洗いにかかると、李介さんがおかえしとばかりに頭を両手の指でごしごしと洗ってくださる。
「そういえば」
「なんですか?」
「髪の毛、短いですね」
「……前は長かったですか」
わたしは、ゆっくりと口を開いた。




