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恋文メランコリック 6

 腐った水が滴るような気持ちのわるい笑みの音に、わたしの全身がぞわりと悪寒に震えた。

「――っ! 伊吹! 下がって!」

 ほぼ同時に、伊吹が気絶させたやくざたちが意識もなく起き上がる。その額に赤い印が輝く。

 五芒星。

 光輝き、男たちの体を光が包む。

 眩しさに目が眩んだ瞬間、現れたそれがなんなのか、わたしは一瞬理解に苦しんだ。鉄のような肉体を持つ二足歩行の大きな――

「戦闘用蜂ノ型、鬼です。どうしてここに」

 いつも感情を露わにしない近江様が、そのときだけは困惑を称えて呟く。

 鬼と言われれば、確かにそう見える。白い鉄だけ見れば、無機質的な甲冑の出来損ないのようだが、その頭の部分の鋭い角と片手に持つ巨大な棍棒。

 これが、鬼。

「強いのですか?」

「あれは警備などを行うために作られた、企業型ですが……本来の用途は戦争においての戦闘です。一般人が手にできるものではありません。学生が相手にするには多少不利かと……それも、これは人を贄として構成している……術の肝は人の命です。その命を絶たぬ限りは永遠と再生と攻撃を繰り返す帝都が戦争時に使った違法術です」

「違法術?」

「術の肝となる人の命を絶たねば停止できず、また、一度術が発動するとその姿は戻ることもない。人間を犠牲とした倫理面から術そのものが封じられたもののはずです」

「術そのものはわかりました。加勢したほうがよろしいということですね?」

 しかし、わたしなんぞに何が出来る? 下手に手を出したら伊吹を危険に晒しかねない。それは困る。それは嫌だ!

「……どうぞ後ろにお下がりください。道満様より、私用の戦闘許可は頂戴しておりませんが、ある程度の護身術は許可されています」

 言うな否や近江様が目にもとまらぬ速さで動いた。わたしが息を飲むよりも早く、片足が鬼の顔を打ち、弾き飛ばす。空中を舞い降りて、再び体を低くして突撃の姿勢に入る。

 鬼がぐらついたが、その肉体が大きすぎるせいか、はたまた重さのためか倒れることもない。すぐさまに片腕を伸ばして近江様を捕えようとする。が、それを素早く躱し、腕を伝ってさらに頭を狙って強力な蹴りを放つ。

「一か八か術の核を破ります。角を折ってください!」

「朱雛っ」

 伊吹が吼えた。

 それに応えるように鉄の――刀が伊吹のまわりに無数に広がる。まるで翼を広げた鉄の鳥のようだ。

 鬼の懐に入ると刀を白い鉄と鉄の、肉体の関節部分に突き刺し、足場として乗る。さらにもう一本、もう一本と、自分の周囲の刀を無造作にけれど的確に脆い部分を狙い、突刺し、上へと飛ぶ。

 けれど、首のところで最後の一本が尽きた。

「朱雛! もう一本!」

 ――応ッ!

 ひらひらと炎と落ちて、伊吹の手のなかに刀が生まれる。

 ほぼ同時に鬼の片腕が伊吹を捕えようとした。

 隙だらけのその肉体を捕えることは容易いことだが、それを邪魔したのは紅色の鳥だ。

 なんて美しい太陽だろう、と見惚れてしまった。

「させるかよっ!」

 伊吹の背中に現れると、鬼の片腕を払う。火花が弾け、砕け、唸る。力と力の摩擦の音。鬼の片腕が弾かれるとほぼ同時に力負けして鳥が――朱雛様が地面に叩きつけられる。めきっと地面にひびが入り、衝撃に耐えきれずに、口から血が飛ぶ。

「っ……伊吹っ! トドメをさせよっ」

 ひらりと、太陽を背に飛ぶ伊吹が大きく刀を振るう。

 逆光が、鬼の目を奪い、動きを封じた。

 刀が角を打つ。

 鉄と鉄のぶつかる音が響く。

 しかし、弱い。

 角を切るには力が足りない。ほとんどその一撃に賭けていた伊吹の顔に苦いものが走る。そのとき近江様の片足が、刀とは反対側を打ち、加勢をする。めきり、と鉄の砕ける音がする。角にひびがはいる。

「もう少し力をこめてください!」

「っ、おおおっ!」

 気迫の声とともに伊吹の腕が動いた。ぎりぎりと鉄がちぎれる。

 ぎり。と大きいな音とともに鬼の角が、双方からくわえられた力に耐え切れず、叩き折られた。

 ぴきぴきと砕ける音ともに、鬼が紙となって散る。足場をなくして地面にそのまま落下する伊吹を近江様が抱える。

 近江様に庇われ、転がる伊吹にわたしは駆け寄った。

 けれど、まだもう一体いる。

 地面に倒れた朱雛様が起き上がり、飛んだ。飛行というよりも、弾け飛んだ弾丸といってもいい。動きが遅いの鬼の懐に飛ぶと、口を開いて牙を出した。

「波ッ!」

 声に目に見えない波動が宿り、空気が震える。

 それは熱を――太陽が近づけば人が溶けてしまうように、まるで朱雛様が太陽であるかのように――熱風となって襲う。

 めきっと鬼の胸が凹む。

 悲鳴のような雄たけびをあげた鬼が、太い片腕を振り上げる。朱雛様は回避しようとしたが片翼に拳が掠めて、羽が散る。

「刺殺されろ」

 羽がいくつもの刃となって鬼の体を突刺した。ぐあああと悲鳴に近い声とめきめきと砕ける岩の音。

 鬼の首に、細い腕がまわる。近江様がまわりこんで、ぎゅっと締める。めきっと音がして崩れた。

「しまいだぁ!」

 獣が笑った。

 刀が鬼の首、喉、口を四方から突き刺した。

 そうして鬼は紙へとなり、消滅した。


「伊吹! 近江様!」

 叫びながら、鬼が現れたときに感じた、ぞくりと背中に視線を覚えたわたしは視線を巡らせる。

 誰かが何かを仕掛けた。

 これは全部誘導だ。

 なにを狙い、なにを成そうとしている?

 わたしが振り返った先には、怯えた表情の芳恵様が紙のような血の気のない顔で立ち尽くし、急に体を曲げた。

「うっ」

 芳恵様が口から血を吐いたのに、わたしはぎょっとした。

「伊吹! 家から芳恵様を離してっ!」

「わかったっ!」

 伊吹が芳恵様を抱えて家を出るのにわたしは周囲を見回した。どこだ。どこにある? この苛立ちを含むいやなものはどこに隠れている? 一体、誰が仕掛けてきた!

「陰陽の気配を感知しました、対応を……っ」

「近江様!」

 わたしが声を放つ前に近江様が家の玄関を開けて中に入ろうとして、動きを止めた。正確には黒いそれに捕まったのだ。

 玄関の端にうごめく、黒い、それが近江様の片足を捕え、もぞもぞと這いずる。

 とたんに近江様の体がタイルの床に倒されて震えあがる。完全に飲まれてしまう前にそれと近江様を離さないと!

 玄関をくぐったとたんにわたしの口に苦いものが溢れる。こほ。と口から零れ落ちるのは泥だ。血ではなく、黒く淀んだそれが止まらない。わたしはげぇと吐き出す。体のなかから腐っていく。腐らせようとしている。この家にいるものをすべて。これは呪いだ。他者を貶め、苦しめようとしている。はっきりとした悪意だ。

 はじめからやくざ者たちを暴れさせて気を逸らし、この悪意を完成させるつもりだったんだ。

 やられた!

 わたしのなかに激しい嫌悪が浮かぶ。

 こんなにも近くにいたのに、まるで気が付かない己の間抜けさが許せない。同時にここまで完璧な策を高じた相手に対する賞賛じみた激しい怒りを覚えた。

 わたしは必死に近江様の体をひきずって、玄関から外へて出した。半分以上、黒いそれに覆われて食われている。

 わたしは家を睨みつけた。

 この家のどこかに悪意の大本はある。

 この世界でいえば術なのだろうか。いくつもの不幸と憎悪と苦しみを集めたものを行為的に作り上げ、集中させて、一つの場所を歪め、穢している。これはそのうち家だけではとどまらず、周囲のすべてを食らっていくことだろう。

「伊吹、近江様をお願い」

「アンタ、どうするんだ」

「これを止めます」

「待てよ。どうにかできるのか」

 片手を取られて、真剣に見つめられる。

「朱雛もケガをしてるし、俺もこの有様だ。アンタ、どうにかできるのか」

「出来るわ」

 わたしは断言する。

 手段さえ選ぶ必要がないなら、どんなことだってできる。

 わたしの視線に伊吹が何か言いたげだったが、手を離してくれた。

「わかった。このままはやばいんだろう? だったらどうにかしてくれ」

「うん。ここで待ってて」

 わたしは玄関からなかへと入る。

 必ず見つけて見せる。


 しかし。玄関からなかに入るとすべてが黒く塗りつぶされて何も見えない空間が広がり、体が重く、立っていられない。息するのも苦しいほどだ。四つん這いの状態でわたしはすすむ。

「どこ、どこにある……この大本は」

 わたしは這いずりながら進む。片足をとられた。痛み。じわじわと広がり、転がる。それでも進む。今度はもう片方の足が食われる。苦しい。それでも進めば、今度は右腕が。這いずる、まだ、今度は左腕が。

 視界が奪われ、腐った匂いが立ち込めていく。ああと息を吐けば耐えられないほどの、苦しさが増していく。

 ああ、ほんとうに、まったくもって


 ――うっとおしい


 わたしは吐き捨てる。

 お前たち、全部、喰らってしまおうか。

 わたしは口を開いた。がり、っとそれを食べる。かえしてもらおうか。お前たちがわたしから奪ったもの。がり、がりがりがり。歯を動かし、舌で舐めて、それを食べていく。手足、目と、戻ってきたのにわたしは口元を拭った。それは小さな、手のひらサイズくらいまで縮んでいた。哀れな呻き声をあげ、大本へと帰ろうとしているのに続く。そのころには家を覆うそれ自体もほぼ消えかかっていた。わたしが食べてしまったのだから。本来はこんなことのできるものではなかったのだ。ただ、激しい憎悪、恨みの玉が集まり、暴走していたのだ。けれどそれは本来の弱さを、わたしに食われて思い出した。痛みや恐ろしを思い出してしまったのだ。

「……見つけた」

 わたしは、部屋の――客間の畳からうごめいているそれを見下ろす。畳を引きはがし、見れば、黒い靄のかかったなかに壺がある。

 わたしが取り出して、壺を開ければ、わっと、それが押し寄せてきた。


 すべて闇。


 ――呪わしい、呪わしい

 ああ声が聞こえてくる。不吉な、忌まわしい声だ。

 わたしは、そちらへと歩いた。

 ――のろわしい、のろわしい、のろわしい


「……お前さま、そんなことをしていたら、どこにもいけませんよ」

 わたしは、静かに声をかける。もう息絶えようとしているが、それでもそこに在って、留まっている。くるしいのね、かなしいのね、とても、とても。ひどいことをされたのね。

 手を伸ばすことに一瞬ためらったが、わたしは、それに触れる。ぐにゃりとした気持ちの悪いくらい、柔らかいこと。

 これは悪意によって潰された哀れないくつもの弱い魂たちだ。


 ゆるさない、ゆるさない。わたしの羽を切った。いたい、いたい、いたい、いたいたい。わたしの舌を切った。くるしい、くるしいくるしい、くるしいくしいるしいくるしい。そうして何度も握りつぶされた。おのれ、おのれ、おのれ。わたしの、おれの、いかりを、あたしのくるしみを、ぼくの、むねんを、ゆるさない――洪水のように流れてくる。それは小さな犬だったはずだ。尾を握られた痛みに悲鳴をあげて頭を打たれる。痛い、くるしいと逃げようとしても逃げられない。次に切り替わってねこだった。あたたかな陽気のなかで油断して檻のなかにつかまった。その上に熱湯がかかる。ああああああああああ、毛がただれておちていく、痛みと苦しみに吐き続ける。いっそ、いっそ、ころせ、ころせ。ああ、けれど、けれど、肉を削がれようと、においを失って、なにを恨めばいいのか、憎めばいいのかもわからなくなってしまった。けれどこんな理不尽さを、命の続くかぎりの激痛を、持て余して、だから――のろってやろう、のろってやろう

 わたしは水の上から浮き上がったように、はぁと息をする。

 これは、深すぎる。このまま叩き潰したほうがいい。けれどわたしは口ごもって、それをしなかった。かわりに紙を取り出す。

 道満様が作りだした力のある紙。これにわたしは歯で唇を切って、血を滴らせ、そっと接吻を落とす。

 わたしの血と、この力ある言葉をあげよう。

「おいで、くるしくて、つらいなら、おいで、なにもできないけど、機会をやろう。お前がどこかにいけるように」

 ずる、ずる、ずるっとそれが近づいてくる。

「おいで、おいで。そう、どこにもいけないお前たちに、手足をあげよう。おはなしをあげよう、そうね、ひとつ、いい話がある」

 わたしは手を伸ばすと、それに触れて頭を撫でる。

「お前の物語は、『舌きり雀』だよ」

 無数にあるそれが、ぐにゃりと歪んで茶色の鳥へと形を変えて鳴く。

 ――ぴぃ、……でち。

 わたしは両手で包み込んで、抱きしめた。

 救われたい、救われたい。どこにもいけないとまだ囁いている。そう。そうね。このままではいけないわ。だから。

 救われたいなら、自分で、自分を救うしかない。それだけ。それだけしかない。

 だからお前にお話をあげる。

 結末はお前が決めなさい。


「それ」

 わたしが両手に抱えて、家を出てくると伊吹が眉を寄せた。

「宿題、終わらせたの。可愛いでしょう?」

 両手を差し出して見せたそれは小さな雀だ。

 ぴぃ、ぴぃと鳴いて、小首を傾げる。

「名前は?」

「名前? そうか、名前がいるのよね。そうね歌うみたいに鳴くから……歌穂、歌穂っていうの」

 わたしの言葉にまた、歌穂がぴぃと鳴いた。


 大事にはしたくなかったが、周囲の人々の誰かが警察に連絡をいれたらしく制服警官たちが遅まきにやってきた。そのうえ、目覚めた近江様が学校にも連絡をいれました、というので一番近くを巡回していた方が来た――李介さんでありませんように、とだけわたしは祈ってしまった。こんなことしでかしたとばれたら李介さんが卒倒する。

 縮みあがるわたしにたいして隣にいる伊吹はしれっとした顔をしている。

「怖くないの?」

「怖い」

「顔に出てない」

「そうか、悪い」

 この調子だ。

 幸い朱雛様はたいした怪我ではなかったらしく、平然と立っているが

「俺チャン、疲れた」

 などというと赤い鳥になってしまった。それを見て、歌穂が不思議そうにぴゅいぴゅいと鳴いてすり寄っていく。歌穂を朱雛様は横目でちらりと見たあと、その体が縮み――なんと変化自在なのか! 片翼を開くと歌穂を懐に招いてくれた。ふわふわの毛のなかに歌穂は嬉しそうに埋まっている。

 あらまぁ。

 わたしは二羽を抱えて、苦笑いする。

 幸いなことに近江様も家に巣くうそれが消えて完全に復活していた。

「家の呪いが完全に消えていますね」

「そのようですね」

「術の解除をしたのですか?」

 わたしは曖昧に笑った。


 いくつもの車がやってきて屋敷を囲んだと思えば、見覚えのある制服が見えた。李介さんの仕事服を着た男が三人――一人は知っている。

 鼠騒動のときにやってきた遠盟様だ。

 その前を歩く男は李介さんと同じくらいの男性と、もう一人はなんとも若い。

「梅桃教官と科戸教官だ。あの人達、そこまで厳しくないからついてるな」

 ぽつりと耳に入ってくる伊吹の言葉にわたしは目をぱちくりさせる。

「そうなの?」

「うん。ただ、どっちも油断ならない」

 伊吹がそれだけいうとわたしのことを背中に庇ってくれた。

「おう、朝倉。学校さぼって、娘さん連れで悪事か? ……って、うおっ!」

 片手をあげて声をかけてきた無精ひげの男が近づいてくると、不意になにもないところなのに大きくこけた。

 まわりは、いつものこと、という顔だ。本人もさして気にすることはなくすぐに立ち上がる。

「いてて、くそ、またかぁ」

 この人はよく転ぶらしい。柔らかな、人好きするような笑顔だ。

 伊吹は背筋を少し伸ばした。

「お疲れ様です。梅桃教官。悪事はしてません」

「そうだな。学校さぼったのはいただけないが、いろいろとお手柄じゃないか。呪詛を見つけるなんてなかなかやるな」

「梅桃教官、そういうこというと生徒がつけあがりますよ」

 やや若い男が口をはさんだ。こちらはきっとりした制服姿に、なでつけた黒髪といい、伊達男という言葉がよく似合う。こちらも優し気な顔立ちをしているが、梅桃様がさっぱりとした笑顔なのにたいして、こちらの浮かべるのは色香が漂う。

「若いうちにしか出来ない悪行っていうのはあるだろう。科戸」

「そういうこと言うから、生徒に示しがつかないって、藤嶺先輩に怒られるんですよ」

 軽口をたたきあう二人に横目にわたしは自分のことを小石、小石と念じていた。出来れば見つからないでいたい。わたしはただの小石である。そのまま流れる川のせせらぎのように無視をして通り過ぎていただきたい。

「あれ、お前は、李介んところの」

 しかし。

 梅桃様が目を細めて呟き、顎を撫でて呟く。

 ぎくり、とわたしは震えた。これはどう考えてもばれている。李介さんにわたしのしてしまったことがばれてしまう!

 わたしははらはらした目で見つめる。

「んー、まぁ、報告はしとかなきゃならねぇしな。悪いりぃな」

 ぜんぜん悪いと思ってない笑顔で言われた。

 がっくりとわたしは肩を落とした。

「まぁまぁ、今回はお手柄なんだし。いいじゃねぇか。にしても、なにかねぇ、呪詛まで使って、この家がほしかったのか?」

「梅桃教官、科戸教官、この子たちはとりあえず残りの授業があるので私が送っていきますね? 陰陽班に呪詛の痕跡を追わせます。あ、近江さん、手伝ってくれる?」

「承知しました」

 聞きなれた声に顔をあげると、鼠騒動のときにいらっしゃった、遠盟――様。

 それに応えて近江様が奥にいる着物姿の者たちの元に向かっていく。

 遠盟様を見て、わたしの胸がまたざわめく。不思議な感覚に囚われて胸をおさえる。

 理由はわからないが油断ならない気がしてわたしは伊吹の服を掴んだ。伊吹が怪訝な顔をするが、それでもわたしの手を振りほどくようなことはしなかった。かわりに片方の手で、わたしの手を握ってくれた。

 遠盟様が用意したという車のドアを開けられ、なかに乗り込む。

 天井の低い車内を覆う天鵞絨のややかたいクッションのせいで、お尻の置き場に苦労してしまう。

 遠盟様が慣れたように車を運転する。道が舗装されてないところを走ると、がたがたと揺れるて体が大きく跳ねたりしたがしばらく我慢していると収まった。舗装された道まで出たようだ。

「そうだ、お聞きしたいのですが、あなた、僕のことは覚えておりますか?」

 ミラー越しに遠盟様が視線を向けられ、わたしは驚いた。

「えっと」

「以前お会いしましたよね?」

 探るように視線を向けられるのに下唇を噛む。どうしてか、落ち着かない。不安が胸を押しつぶしていく。

「……鼠騒動のことですか?」

 少しだけ彼が目を細める。落胆している、というのがその顔でありありとわかる。

「そうですか。いえ、少し、残念だなと思って」

「え?」

 ふっと笑みを深くされてわたしはぎくりとした。どこかでこの笑みを見たことがある。

 知っている。わたしは、知っている。

 この男のことをわたしは知っている!

 そう思ったとたんに背筋に走る嫌悪と吐き気に俯いた。どこで? いつ? わたしが忘れるなんてありえない。だって、だって。

「おい、平気か」

 よろけたわたしを伊吹が抱きとめ、声をかけてくる。わたしは震えて首を横に振った。

「いけませんね。車酔いでしょうか。もう学校につくので、そのまま保健室に行きましょうか?」

 遠い世界でのやりとりを聞いているようだ。

 ぐったりしたままのわたしは支えてくれている伊吹をぼんやりと見つめて、目を閉じる。

 果てのない闇の先に。小さな池を見つけた。なまぬるい闇を孕んだ沼に誰かが立っている。その人がふりかえる。

 ――ぼくの、かわいい――さん

 耳に広がる言葉にわたしの視界が歪んだ。

「っ!」

 声にならない声をあげて目を開ける。次から次へと落ちていく。よくわからない、けれど苦しいそれを吐き出さないと死んでしまう。

 これは叫び。これは想い。これは心。

 しょっぱいものが唇に触れる。いくつも、いくつも形となって零れていく。

 一体、いま、わたしはどこにいて、なにをしているのかもわからない。ふっと目を開けると、伊吹の顔がわたしのことを不安そうに見つめていた。

 鬼を見たときにだって歪まなかった顔が、今は恐怖しているように、見える。伊吹、そんな顔、しないで。

 わたしのことを両手で抱えて、壊れ物のように運んでくれている伊吹。ごめんなさい。わたし。

「もうすぐ保健室だ。……どうしたんだ。いきなり泣き出して、どこか痛いのか?」

「え? 泣いて、る? わたし、どうしてかしら? 止まらなくて、ひどく止まらなくて、これを止めたらわたし、死んでしまいそうで、だから、こぼしていて、ああ、これは涙というのね」

 懐かしい呼び名をわたしは聞いた気がした。けれどそれが沈んで、飲まれて、わからなくなっていく。

 ただ、苦しい。体が、心が、わたしが。

「……ごめんなさい」

 わたしの口から自然と、その言葉だけが漏れた。誰に、わたしは謝っているんだろう?

 わからない。わからないけれど、ごめんなさい。全部、わたしのせいだ。わたしのせい。だから、ごめんなさい。ごめんなさい……あなた。

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