恋文メランコリック 4
目の前に広がるそれを見てわたしはこくりと息を飲む。
伊吹が差し出してくれたスプーンを手にとって、すくいあげる。ぱらぱらとした黄色いお米。野菜をいれて焼かれたそれは塩胡椒の匂いがする。辛そうと思って口にいれると、さくさくとさっぱりして、おいしい。
「これ、なんていうんですか」
「炒飯。普通、腹減って倒れるとか」
わたしは夢中で炒飯をかけこむ。
食べているときはしゃべらないのが礼儀なのでわたしはひたすらに食べる。
図書室で倒れたわたしを伊吹が背負って、自分の家へと連れて来てくれた。近江様は学校に帰ると出れないというので門のところで別れた。
伊吹の家は学校から街のなかを歩いて、小道に入り、曲がりくねった道を進むと唐突に大きな建物が消えて、背の低い民家やお店が立ち並ぶ。あっちこっちの店から伊吹はおかえりなさいと声をかけられていた。妙に女性が多い―――愛想のない、無表情の伊吹は意外にもお年寄りには好かれるらしい。それらをあしらって伊吹が向かったのは人々が暮らす住まいのその離れた道にある石造りの階段を登りきると小さなお社があった。そこの横にある小さな平屋だ。玄関をくぐって居間には小さなベッドと勉強机があると教えてくれた。居間の奥には台所があるそうだ。
わたしは居間に置いていかれて、伊吹は十分と経たずに炒飯を持ってきてくれたのだ。
「おいしい、これ、おいしいです! ……うぐぅ」
「ほら、水」
差し出された水を一気に飲み干して、はぁと一息つく。
「しかし、びっくりしました。体が重くていうことをきかないの」
「俺のほうが驚いた」
平然とした顔で言われてわたしは小首を傾げる。
「普通、腹減って倒れるか」
「だって、そういうの知らないんですもん」
わたしは口にしてから、失敗した、と思った。普通は自分の限界を把握しているものなのだろう。しかし、今まで李介さんの世話とお家のことばかりしていたわたしは、ほぼ外のことを知らない。自分の体がどれくらい強いのか、弱いのか。
おなかがすくと力が出なくなるし、重くなる。倒れるのか。
「そっか。わりとお嬢様なんだな」
「おじょうさま?」
わたしは言葉を繰り返す。
「自分の限界とか知らないのは、あんまり体を動かさなくてよかったんだろう」
「うん。……たぶん」
家の仕事はこれでもちゃんと手を抜かずにしていた。李介さんに、きれいですね、と褒めてもらえたし、快適に過ごせるように心身尽くしてきたつもりだ。
「飢えも、苦しみも知らない。そういうのはお嬢様って言うんだ」
伊吹が自分の分の炒飯を食べ始める。わたしは自分の皿が空っぽなのに気が付いた。まだ食べたいとお皿を見るが炒飯が湧いてくることはない。
「食べすぎると今度は動けなくなるぞ」
「う、そうなの」
「試してみるか? ほら」
伊吹が半分、自分の炒飯をいれてくれたのでわたしは大人しく食べた。こんなおいしいものならいくらでも胃にはいりそうだ。それに動けなくなったら、またおぶってもらおう。
「もう抱えないからな」
わたしの心を読んだように釘をさされて、わたしはちぇと声を漏らす。
「そういえば、朱雛様は?」
「知らない」
「知らないの?」
「うん。あいつは俺と契約しているけど、あんまり関わってこようとしないんだ。呼べば来るし、力も貸してくれるけど」
「……普通の神様と人の関係ってそういうものなの?」
わたしは思わず聞き返した。
わたしの知る神様と人が李介さんと朧月様のせいで、どうもよくわからないのだが――神と人はなかなかに密接した付き合い方をしていると思ったのに。
「いや、俺は嫌われてる」
「嫌われてるの?」
「うん。用事がない限り呼ぶなって言われてるし、なにもないのに呼ぶとめっちゃくちゃそっぽ向かれる」
「あの、そういうのでいいの?」
神と人――契約を交わした関係というやつは。
「知らないが、普通は違うらしい。人と神の契約を交わしている者同士……つまり、憑神持ちは強く性質が似ていることが多いらしい」
「性質?」
伊吹が頷いた。
「魂とか霊核っていう、そいつの本質で、神が好むものがあると憑かれやすい。それ以外でもその神にとって好ましいものを持っていると契約を交わすんだって」
「好む?」
「紺のやつはもともと予言する家系で、母親は巫女なんだって、その占いや予言の性質を強く受け継いでるから、件が紺の前に現れて契約を交わしたって聞いた」
「千ちゃんは?」
「あの二匹は千の近くの神社のお稲荷なんだって。千はよくその神社に遊びにいってて、お供えに団子やってたから、いつの間にかいたってさ」
なんとなくだが、伊吹の説明でわたしはぼんやりと神と人の繋がりというものがわかった気がした。
「それで、人は神に一日いっぺん、奉仕をする。俺の場合は、朱雛は火を捧げろって言われた。蝋燭に火を灯していると、朱雛が勝手にとっていく」
「奉仕っていうのは神様に?」
「そう。千はおいなりだし、紺は占いをすることが奉仕だっていわれてる。奉仕はその神の霊格を固定することであり、その神の力を高めることだって聞いた。だから怠ると神は弱ったり、消滅したりする。奉仕することで信仰が増して、憑神持ちに加護が強くなるんだって」
そういうことか。物珍しいと思うが、ここまで合理的だとひどく納得できる。
「これ、ふつーにみんな知ってるぜ。アンタ、本当にお嬢さまなんだな」
なぬ。
「世間知らず」
「う、ううっ!」
わたしは思わず歯をむき出しにして唸っていた。
「それで、あの手紙」
「恋文のこと?」
莫迦にされたのでわたしは少しばかり不機嫌に言い返す。
「どうして恋文だっていうんだ。絵しか描いてないのに」
「だって、あれは、まごうことなき恋文だわ」
わたしが断言すると伊吹が理解できないという顔で、頭をがしがしとかいた。
「だから、わかるように言ってくれ」
「どうしてわからないの?」
「莫迦だから」
あっさりと伊吹は言い返す。
「俺はそういう回りくどいことに関しては莫迦だからわからない。けど、あんたは体のことがわからない、そういう莫迦だからだ」
伊吹の言葉にわたしは納得した。そうか、知らないことは丁寧に教えないと理解できない。
莫迦だからか。
「この絵、なにを描いてる?」
「ます?」
「一升ます。そのあとは?」
「……釜と犬」
「つなげてみて」
「一升ます、かま、いぬ……ん?」
伊吹は眉を寄せて、険しい顔を作る。なにかひっかかりを感じる、という顔だ。カンは悪くないようだ。
「いっしょう、かま、わん」
「一生構わん」
わたしの言葉に、そっか、と伊吹が漏らす。
「絵手紙っていうの。そうやって、文字を使わずに、絵で教えるの。言い方を変えるわ、文字を読まない人がこうやって教えあうの」
「……文字に書けないからか。戦争の時代だもんな」
伊吹が納得した顔をして呟く。
わたしは瞼の重さをかんじて、動きをとめた。おなかがいっぱいになると、また体が重くなってくる。
「ふ、はぁ」
口が大きくあいて、息が漏れる。
「おい、ちゃんと家に帰って」
伊吹の声がどんどん遠くに聞こえる、気がする。わたしは本当に自分の体について把握が疎かったようだ。思いっきり机に頭をぶつけた。痛い、けど、瞼が重すぎて眠ってしまった。
かみさま、あなたへの手がかり、ようやく見つけました。
ほめて、ください……かみ、さま
あなたは言葉を愛し、大切にする人。いくつもの言葉を重ねて、やりとりをすることが楽しくて。いくつも、いくつも言葉を重ねた。文にしたたるあなたの言葉、わたしの知らないことをいくつも零して、教えてくれた。わたしは無垢な子供のように目を輝かせて、ひとつ、また一つと積み上げていった。知らないことを、あなたが言葉で教えてくれた。
だから。
あなたの言葉が愛しい。
なのに。
あなたが深くかぶった帽子に表情を隠して、さようならと口にしたの。わたしたち、そうね、そろそろさようならをしなくちゃいけないのね。わたしは、お国のためにと、あなたを見送らなくちゃいけないのね。――けど、待っていていいですか。
源さま!
わたしは目を開けて、はっとした。
汚い天井が見えて、現実との見分けがつかなくて眉を寄せた。はぁと息を吐いて、胸のずきずきとした苦しみを味わった。これはわたしのものではない。夢を通して、彼女の気持ちがやってきたのか。
病でも、怪我でもない。
心が叫んでいる。ただ、ただ、愛しいと。その人のことが、好きなのだと、理屈も、思考もなにもかも放り投げて。ただただあの人が好きで、好きで、一緒にいたい、いかないで、けれど進むあなたこそが好きだと、矛盾を抱えて、言葉を失くす。
起き上がって、立ち上がろうとすると、もにゅとした柔らかくて、かたいものを踏んだ。あれ?
「くるしい」
伊吹がわたしの足元で呻いている。
「ごめん、ね?」
わたしが小首を傾げるが、伊吹はいつものように、その心の内が読めない顔をしている。つまりは、無表情だ。
昨日、わたしは空腹で倒れた挙句に食事を提供してくれた伊吹の家に泊まってしまったらしい。
むむ。疲れてよく覚えていないが、やらかしてしまったということだ。李介さんが当直の日でよかった。だって無断外泊だ。確実に怒られてしまうし、心配させてしまう。良い妻というものはこういうことをしないはずだ。わたしはだめな妻です。ごめんなさい。
しかし。夫婦というものは秘密があることが良い関係となる、らしい。
なので今回のやらかしたことについて、わたしは秘密にしておこうと決めた。決して自分の身可愛さではない。李介さんとの良い関係のためだ。言わなくていいことは言わないのが一番だ。
伊吹が用意してくれたふっくらとしたパン。かりかりに焼いたベーコン、半熟目玉焼き! 目玉焼きとベーコンをパンの上にのせて伊吹は食べている。わたしも真似をしてパンにのせる。外かりかり、中身はふんわりしている。卵の黄身の甘さと焼いたベーコンの歯みごたえの良く、美味しい。口のなかでいろんな味がぎゅうと集まっている。
「家とか平気なのか」
「……うん」
家にはちゃんとちび妖怪たちがいるから平気だろう。
「あのね、伊吹、夢を見たの」
「女の?」
わたしは頷く。
「辛い夢だった。好きな人が遠くにいく夢だった」
「俺は、男の夢だった。大切な人を置いていくっていう夢だった……手紙を、渡せていなかった」
珍しく、苦しそうに語る伊吹にわたしは眉を寄せた。
「くるしかった……あと、あんたに踏まれたせいで、ものすごく苦しかった」
「な、それは、悪気があったわけじゃ」
わたしが少し慌てるのに、伊吹の唇が弧を書いた。はじめて、といえるほど、はじめての笑みだ。
こんな顔も、出来るのか。
いたずらっ子みたいな、可愛いけど、男の子だと思わせる笑みだ。
「からかったわねっ!」
「仕返し。けど、どうする?」
「なにが」
「この手紙」
ひらり、と伊吹が手紙を手にとって眺める。
「相手に届けたいなら届けるしかないでしょう。それに、あの、こういうことってよくあるの?」
「なにが」
「こういうこと」
わたしが示す、こういうことと、というのは、夢にまで干渉されることを含まれている。
伊吹は少し考えたようにして首を横に振った。
「ないと思う」
「そう、じゃあ、やっぱり」
わたしは拳を握りしめて、胸にあてる。確かめないとなにもわからないけど、このままにしてはいられない。
「とにかく学校に行きましょう。近江様がなにか教えてくれるかも」
わたしは伊吹と家を出ると、横にあるさびれた神社を見上げる。
ここでは神様は世界に現れる存在で、神社やお寺にはなにもいない――形ばかりのものなのだろう。たいした手入れもされていないそこはひどく痛んでいて見るのも哀れだ。
伊吹は慣れたようにそちらへと歩いていくと、神社の前で手をあわせる。
「そんなことして、意味があるの?」
「ない」
はっきりと伊吹が言い切る。
「けど、習慣なんだ。なんでここにこんなものがあるのかも俺は知らない。なにも奉られてないと思う。けど、掃除して、きれいにしてる」
「……それでいいのよ。本当はそれでいいの」
わたしは懐かしいものを見る様に囁いて、小首を傾げて出来る限り優しく笑った。




