学園ハプニング 2
道満様が、きれいな床にこつこつと皮靴の音を響かせて歩く後ろをわたしはきょろきょろと視線を巡らせてついていく。ふと視線を覚えると、道満様は面白がるようにわたしのことを横目でちらちらと見ている。む。
「先ほどの、元気がいいことはいいが、無鉄砲だと、旦那の李介殿が見たら胃痛で倒れちまうぞ」
李介さんがはらはらと心配しすぎて、胃に穴が開いてしまったら……だめだ、それだけは絶対にだめである。大人しくしておかないと。けど、どうやって?
「ここでは夫婦っていうことは隠しておけ。ばらすとめんどくさいだろうからな。ほら、うち、仲が悪いんだよ」
なにが、とは言わない。だいたい察しはつく。朧月様が申したように三つ巴というのはこのことか。先ほどの喧嘩していたときのやりとりを考えると、なかなかに根が深そうだ。
「先の騒動で学びました。ここはなんというか、面倒なところだということは」
「あはははは、じゃろうな」
豪快に笑う道満様が足を止めた。振り返り、にこりと笑う。たどり着いた部屋の扉を――洋式を押し開けると、ぱっと世界が広がった。
「さて、ここがわしとお前さまの部屋じゃ。わしはお前さまを放す気はないぞ」
無能ということで、やっぱり学ばすのは取り消す、などという展開を少し、いや、ちょっぴり期待したわたしは、内心、舌打ちする。
まぁ、これはこれでわたしの目的に少しでも近づけるかもしれない。
赤絨毯の敷かれた部屋には洋風の背の低いソファと猫足のテーブルとハイカラだ。背の高い窓から差し込む日差しが心地よい。
「よい部屋だろう? 一応、これでも校長してるからな。お前さまのため机を用意したんだぞ」
窓際に真っ白い人型がてくてくと歩いて机と椅子を置く。なんとも便利なものだ。わたしはおそるおそるその椅子をひいて腰かける。その前に道満様が、同じく真っ白いのが運んだ椅子に腰かけた。
「では、はじめるか。時間が惜しい。陰陽道へ、ようそこ」
黄泉の国に死んだ妻を探しにきた男が、入口を見て恐れをなした気持ちが今ならよくわかる。魅力的だが、どこまでも深くて、危険な、そんな予感がしてわたしは息を吐いた。
「おんし、阿呆か」
「……面目ないです」
「しかし、なんぞ。不思議な気配はあるな」
わたしは道満様のお勉強にてんてこまいである。時間は限られているので、みっちり教えると言われてしょっぱなからよくわからない呪文やら言われて頭が破裂するかと思ってしまった。
わたしがまったくついていけてないことを道満様も理解したらしく、渋顔を作っている。
ここで、わたしは、恥を忍んで、文字が読めないことを暴露した。それに道満様が困惑したのはいうまでもない。
ああ、これでは黄泉の国に行く前に入口でこけている阿呆男のようである。むむ。妻への道のりの前に詰まっている。これでは深淵の世界へと行く前に諦めるしかないんじゃないのか?
仕方ないので基礎から教えてくれる、とおっしゃったのだが
「陰陽において、呪とはそれを捕えるものだ。それを掴んでしまえば容易く相手を捕えられる」
「はい」
「では、最も効率がよい呪についてお前さまはなんと思う?」
「……道満様」
「なんぞ」
わたしと道満様の視線が合う。これはあれだ。頓智。ちがう問答合戦か。
「いま、わたしは最も効率的で、はっきりと威力を発揮する呪を使いました」
面白がるように道満様が目を眇めて、顎を撫でる。
「名を呼ばれれば何者も捕えられる」
「……しかし、だ。捕えられないものもある。たとえば今この世に降臨した神は二つの名を持つ。一つは神としての名、もう一つは降臨後に名乗っている名だ。それには法則がないときている。問題はここからだ。通り名と神名を特定したところで神はどちらに重きをおく? もう一つの名に逃げられてしまえば捕えられん」
「習慣があります。神といえど、慣れを覚えます。それも人の世になじめば、なおのこと。だからよく呼ばれる名でしょう」
「しかし、それが神の名ではないとは不思議なことだと思わないか。あれはなにが本質と思う?」
わたしは少しだけ考えたあと
「法則はないと言いますが、たぶん、法則はあるんだと思います。たとえば、朧月様は月のような眼をしています。一言神は夜を好んだ神ですから、そして月は女の象徴です。あの神は女神とも言われていたのではないですか」
「では、他の神の名もそれに関するものか」
興味深そうにわたしに向き合い、言葉を投げてくる。多分、この人ならこんなことはすでに考え付いているだろうが。
「神話をひもとき、その色を読めば、その者の名の本性がわかるのではないでしょうか?」
「つまり、捕えられる、か?」
「いいえ。だって、本来の神は奉られたまま、その現実での信仰を集める場所は動いてないのでしたら捕えれるのではなく、形作るものでしかないのではないでしょうか」
「それでは我らはずっと目の前にある霞を手にしているばかりではないか」
「そもそも、神を手に入れる必要があるのでしょうか」
わたしの言葉に道満様が唇を吊り上げた。
「ではなにが必要だと思う」
「神ではなく、人がいればいいんですよ。そのほうが制御しやすい」
ぱーんと机が叩かれた。驚いてみると、道満様が子供のように机をばんばん叩いて、からからと笑っている。
ひときしり笑い終えたあと
「おいおい、それがお前さんの本性かい」
「ふぇ? え?」
「ドジだが夫に尽くす良い妻がそんなことを口にしちゃいかん、狐の尻尾が見えちまうぞ」
ああ、この男を少しばかり侮っていた。だったら
「けれど夫のためなら、どんな方でも騙してみせましょう。女とはそういう生き物でしょう?」
「ああいえばこういう……ああ、しかし、心地よい。うん、心地よい。最近のやつらは真面目過ぎてつまらんよ。それで、お前さま、どうやって言葉に呪をつけて広げ、神を捕えたのか教えてくれないか?」
「いきなりですね。わたしはとくに何もしておりません。ただお話をしただけです。それに技とは盗めと道満様、お聞きしませんでしたか?」
わたしの生意気さを楽しむように道満様は笑う。
このやりとりを心から楽しんでいるのだろう。
「これは一つ、やられたな。よしよし、わしはお前さんを見て技を盗もうじゃないか。そうだ、そろそろ式神の一匹もつけんとな」
「式神ですか?」
「陰陽は基本自分から前に出て戦うことはせん。いかに準備し待ち構え、用意したもので戦うかという頭の戦いだ。しかし、例外として式神がいる。己の分身、手足、それを使えばやれるべき幅も広がる。ということで、本日の宿題だ。自分の手足として動く式神を作るのは陰陽師としては普通だし、それができないとわりと無能なんじゃよ。だから、まずは式神だ、式神。それにわしは教えると言ったが、わりと感覚重視、もうお前さまになじんでもらうしかない」
懐から道満様が取り出したのは一枚の紙。目の前に差し出されたので見れば、赤い文字が踊っている。
「これは式神を作るための簡式の呪いを書いた紙だ。わし自らがしたためたものなので効果は抜群だ」
「はぁ。え、けど、それは道満様の式神では?」
「これはあくまで術の発動にかかる必要なもの、わかりやすくいえば準備をすべて整えた状態だが肝心の発動はしておらんということだ。それを発動させ、形作るのはお前さまのセンスと、まぁ、力だな」
つまり、わたしは必要な道具を与えられて、あとはどうにか自分でしろ、ということらしい。なんという放置的な学びなのだろうか?
「これでお前さんは式神を作り、使役する。よいな?」
むちゃくちゃを言われている気がするのはわたしの気のせいなのだろうか? それは本日から陰陽を習い始めたわたしのようなものができる技なのだろうか?
「出来る出来る、がんばれば、たぶん」
いま、たぶん、ってつけくわえましたね!
本日の勉強を終えて解放されたのはいいが、道満様はわたしに大切な式神のうんたらかんたらというものを何一つ教えてくれてないのだ。
なんという師だ。いや、先ほどの問答で自分の力で探せという旨を口にしたのはわたしだ。おのれ。
家に帰って教科書を読めばもしかしたら方法やら書いているのかしもれないが生憎とわたしは文字が読めない。絵はわかっても、それだけではなにもできないだろう。このまま無駄に時間をかけるのもいやなわたしは、ちょうど昼ということで学食へと向かった。
道満様曰く、ここの飯はうまいし、無料とのこと。むむ。李介さんもたまに食べるお味、ちゃんと知っておかないといけない。けど、お弁当だったら一緒に食べることができた? 前は李介さんお仕事中だからとおっしゃっていたけど、夫婦でお昼も一緒というのは楽しそうだと思ったが、すぐに道満様に夫婦であることは秘密と言われていたことを思い出した。
すごすごと食堂に行くと、その広さと人の多さにわたしはびっくりした。
三つの学科があって、そこの人々が昼になると一斉に集まるとしたら、これだけの人数となるのか。わたしは食べてみたいのだが、どういう方法で食べたらいいのかわからなくておろおろしてしまった。
おなかが鳴る。ううう。
「あっれ? あ、やっぱりやっぱり!」
明るい声がして振り返ると、あれは今朝の娘さんだ。そういえば今まで忘れていたがここで会おうと口にしていた気がする。
「アタシ、覚えてる? 紺! 来てくれたんだ。待っててよかったぁー!」
すいません、今の今まで、きれいさっぱり忘れておりました。
「ごはん食べる?」
「はい。……食事をしておこうと思ったんですが、どうしたらいいのかわからなくて」
「ああ、ここね。バイキング形式なんだー。おぼんあるでしょ、それをとって、列に並んで、好きなものとっていいの。一緒に食べよ? あ、うち、連れがいるんだけどもいい? 伊吹―」
紺様が、ひらひらと手をふって叫ぶ、その名にわたしは聞き覚えがある。伊吹、伊吹って、確か、と振り返るとあのときの伊吹だ。
わたしが、あ、と声をあげてあわてて口に手をあてる。伊吹が近づいてきてわたしのことを見下ろす。
「……届もの大丈夫だったのか」
「う、うん。大丈夫。伊吹、あのあと平気だった」
「見つかって怒られて、その日の訓練は手加減抜きでメタメタにされた」
気の毒だが、しれっとした顔で言われるとたいしたことなかったのだろうか?
「ん、なに知りあい? 知りあいなの? よし、まずはご飯食べようよ? 入口だと列の邪魔だし? 伊吹もいいでしょう? あれ、千ちゃんは?」
「あいつ、居残り。点数悪くて今絞られてる」
「あっちゃー。千ちゃん、座学苦手だもんねー」
紺様が興味津々に目を輝かせながらなれたように盆を持って、あれこれと口にする。なんとも素早い。そのあとに伊吹も続いて、お皿をとっていく。わたしも二人に習うが、肝心の食事をどうしていいのかわからずにおろおろする。後ろに人が待っていると焦る。
「何食べる?」
伊吹が声をかけてきたのにわたしは驚いた。
「えっと、えっと、これ?」
なんだ、この茶色とお米のあわせたやつ。
「カレーと?」
「……カレー……じゃあ、それに合うものって?」
「サラダ。あと卵いれるとうまい」
伊吹が教えてくれるのに、じゃあ、それでと口にすると、ひょいひょいとお盆のうえにのせられる。おお、すごい。いつの間にかお盆の上が豪華だ。
「デザートどうする? アタシのイチオシ、杏仁豆腐なんだけど」
「じゃあ、それも」
「伊吹、とってあげて」
紺様がそういうと伊吹が白いお皿を置いてくれた。ぷるぷるだ。お豆腐、これ? 物珍しいものに驚いていると、紺様が大勢のなかなのに目ざとく席を確保してくれたのにわたしたちは座ることができた。そのあと伊吹がお茶を持ってきてくれた。
「ここは自分でとってこなくちゃいけないから、おかわりは自分でとれよ」
「自分で?」
「あそこ」
伊吹が指さしたところは食堂の端っこで、薬缶とコップが無造作に置いてある。すべて自分たちでするのがここの食堂らしい。
「伊吹、優しいじゃん。まぁ、食べよう? 食べてから話そう。すごくおなかすいちゃった。いただきまーす」
わたしは慣れないカレーなるものを見つめて、さて、どう食べようかと思いながらお箸をとろうとして、伊吹が、ほら、と差しでしてくれたスプーンに目を向けた。
「ルゥとごはんを混ぜて食べる」
「ほぉ。混ぜる」
「え、なになに? もしかしてカレー、はじめて?」
「はじめてです」
「うっそー。どこの田舎から出てきたのよ。あ、べつにバカにしてるんじゃなくて、珍しくって」
紺様は素直に驚いて、悪いことを口にした様子で取り繕っているが、あきらかにわたしは彼らよりも無知だということはわかる。
わたしは言われたままルゥとお米を混ぜて、そっと口に入れる。とろりとしたルゥの舌触りの良さ、しかし、ぴりっと辛い。それにごはんがよくあう。もう一口食べるとごろごろと大きな野菜……ジャガイモは歯ごたえがあって甘い。おいしい。夢中で食べて、お水を飲んでいると、半分くらいのところで
「で、どういう知り合いか聞いてもいい?」
紺様が待ちきれないとばかりに問いかけてきたのでわたしは先日のことを話した。それに紺が噴出した。
「あのときの? アタシも伊吹にお芋頼んだの。こいつ、たまたま廊下通ってた藤嶺教官に見つかったのよね。ほら、校舎の木をよじ登ってはいろうとして、めっちゃ目の前だったんだって」
「朱雛に頼んだら木の上に降ろされたんだ」
「うん。うん。聞いてよ。そのあとの授業の藤嶺教官のすごかったわー。鬼みたいに怖くて、おっかないのはいつものことだけど、いつもの倍に怖くててね、伊吹、手足も出ないの、めっちゃくちゃはりきってたよね。アンタ、目ぇつけられてるけど、いつもよりなんかこわいっていうか、すごく力はいってた」
「……他人事だから笑ってるけど、俺は世界がまわったんだぞ」
「軽く空中飛んでたもんね、すごかったー。藤嶺教官って、梅桃教官のことも軽く投げちゃうらしいよ? 体格的には梅桃教官のほうががっしりしてるのに、すごくない? ほんと、女子でよかったと思うわ。だって、女子は空手じゃなくて、合気道だもん。教えてくれるのは佐野教官だし。アタシ、藤嶺教官に教えられるなんてなったら泣いて逃げるわ」
しみじみと紺様が口にする。はて、藤嶺教官? その苗字でわたしの知るのは李介さんだけが、李介さんはそんな鬼のようにおっかない人ではない。むしろ、いつも人に気を使ってお優しい、あの調子だと生徒たちにもいろいろとからかわれているのではないだろうかと心配になる。
うーん、ここには藤嶺という人が他にもいるのだろうか。怖いほうの藤嶺様に会わないようにしなくては。




