そらのそこのくに せかいのおわり vol,10 < Chapter 05 >
西部で起こった異変が中央に報告されるまでに、そう長い時間はかからなかった。
騎士団本部――十七年後には『旧本部』と呼ばれることになる石造りの建物の中では、絶望的な声が上がっていた。
「どうするつもりだホーネット。闇堕ち相手に使えそうな武器はバンデットヴァイパーしかないが、現時点での宿主はピーコックではない。医者として断言するが、あの宿主の健康状態で長距離移動には耐えられんぞ」
そう言ったひげ面の男は医務長である。ギリシャ神族の長・ゼウスの『器』である彼は未来の記憶を保持している。この時代に飛ばされた理由もフォルトゥーナから直接聞かされていて、神の加護を受けていないホーネットへの説明係を任されていた。
医務長は強い顎鬚に手を当てて、うめき声にも似た声で話を続ける。
「ナイルから送られてきている現場の映像だが……もしも本当に『錬金分解水』であれば、無力化は不可能だ。なにせ、偶発的にできてしまった代物だからな。まだ錬金合成プロセスが解明されておらん。さあ、どんな手を打つ?」
医務長に視線を向けられたホーネットは、両手で顔を覆っている。
指の間からジトリと医務長を見て、絞り出すように答える。
「現時点ではこれ以上応援要員が出せない。十七年後に『神の器』か『憑代』になっている全員が未来の記憶を保持していても、現場までは距離がありすぎるか……」
目だけを動かしチラリと見たのは、デスクの上に置かれた家族写真である。そこに写っているのはホーネット夫妻のみ。血の繋がらない息子を家族に迎え入れるのは、もう少しだけ先の話である。
「……特務の連中は、まだ戦える年ではないからな……」
医務長も溜息を吐き、天井を見つめる。
「なにがオリンポスの長だ。これじゃあまるで、島流しにされた無力なオッサンじゃあないか」
それは自分の内にあるゼウスに向けて言った言葉だが、歯がゆい思いはホーネットも同じだった。
ここは十七年前の世界。このころの自分は特務部隊長として、自ら現場に出て戦っていた。まだ加齢による衰えも、膝や肩の故障もない。だから戦うことはできるのに、自分には『神や天使の加護』がないのだ。それさえあれば、闇堕ち相手でも戦力となれるのに――。
ホーネットはそう考えて、ふと、つじつまの合わないことに思い至った。
過去に飛ばされたのは『神の器』と『憑代』たち。ならば、自分はなぜ――?
「……いや、待てよ? 可能性をつなぐのだとしたら、俺も……?」
ハッとしたように顔を上げるホーネット。
医務長の口を借りて、ゼウスが問う。
「気付いたか? その『可能性』に」
「その……可能性、と呼べるものかは自信がないが……俺は『デカラビア』という名の神的存在を知っている。直接会ったことはないが、どこにいるかは報告を受けている。そしてその神的存在が、とんでもない『運命操作能力』を持つことも。この時代で『デカラビア』と俺が接触を持つことで、何かが変えられるのでは……?」
「そう思うのなら、心に思い浮かべて名を呼ぶがいい。ここからあの丘までならば、神にとっては目の前にいるのと変わらぬ距離だ。言霊を乗せて名を呼べば、彼女には届く」
「言霊とは?」
「言葉に込められた意味を心に強く思って発すれば、その声には力が宿る。それが言霊だ」
「なるほど。言葉の意味を……」
「彼女は、もとはデカ・アダミアと呼ばれた。アダムから十倍に殖やされた者という意味だ。女という生命体を作り上げるため、予備的実験として生み出された試作品のひとつ。個人を識別する名前は与えられていない」
「……名前の意味が、試作品……?」
ホーネットは思った。
実験だとか、試作品だとか、個人名ではないとか――そんな名前のまま呼ばれ続けるなんて酷すぎるだろうと。ニックネームか何かでもいいから、もっと素敵な名前で呼ぶことはできないのだろうかと。
しかし、現状で名前がそれしかないなら仕方がない。ホーネットは瞼を閉じ、祈るように手を合わせると、ためらいがちに呼びかけた。
「……デカラビア……? 聞こえていますか? あなたの力を、俺に貸していただきたい……」
ホーネットが名前を呼んだ時、心の中は名前のない彼女を思いやる気持ちでいっぱいだった。
その気持ちを感じ取ったのだろうか。ホーネットの耳に届いたデカラビアの声は、どこか嬉しそうな、軽やかで弾んだ調子に聞こえた。
「雀蜂族の戦士、私は軍神や武神ではない。だからあなたに戦の勝利を約束することはできない。私にできることは、ほんの少し運勢を上向かせることだけ。それでも良ければ力を貸そう」
「ありがとうございます。ですが……」
ホーネットは考えた。
一方的に助力を乞うのはフェアではないと。
「武人として、友軍とは対等な共助の約束を結ぶものです。力を貸していただける代わりに、俺はあなたに何を差し上げましょうか?」
この申し出にデカラビアは沈黙した。それはほんの数秒ではあったが、神的存在が何かを思案しているのだということが分かった。
「……では、名前をください。青龍が新しい名前をもらったように、私も、新しい名前が欲しい」
四神の一柱・青龍がサラとして生まれ変わったことを知っている。ということは、やはりデカラビアも十七年後の記憶を保持した状態でこの時代に飛ばされているのだ。
カチン、カチンと、なにかが少しずつ噛み合っていく。
耳ではなく心に響くその音を感じながら、ホーネットは慎重に言葉を選ぶ。
「その……神に差し上げられるような上等な名前というものが、すぐには浮かばないのですが……」
「本当に? 本当に、あなたの中には答えがありませんか?」
「……どういう意味でしょうか?」
「本当はもう浮かんでいるのでしょう? あなたにとって一番大切で、でも、絶対に呼ぶことはできない名前が……」
「……それで、いいのですか?」
「それがいいのです。あなたの気持ちがこもるほど、私はあなたに大きな加護を与えることができます」
「……ならば……」
ホーネットは呼吸を整えた。
それは十七年前のこの時代、まだ『本人』が使っていたはずの名前だ。
十七年後の世界で『ガルボナード・ゴヤ』と呼ばれている自分の息子の、恐らくは本名であろうと推定されている名前で――。
「……クリスティアン・ゴヤ。男性名で申し訳ないのですが……」
「お揃いですね」
「え?」
「クリストファー・ホーネット。あなたのニックネームはクリスでしょう? きっと『あの子』も、『このころ』はそう呼ばれていたでしょうね」
「ええ……あとからこの名前を知った時、運命を感じました。血は繋がっていなくとも、俺たちは確かに、同じ名前でつながった親子だと……」
「その愛の力を、今、一瞬だけ、私に貸してください。愛する息子の姿を思い浮かべ、その名を呼んでください。『あの子』が幸せに生きられる未来を守りたいと、そのために戦いたいと、強く願い、祈ってください。その願いと愛が、私を実体化させてくれます」
「実体化……ですか?」
「はい。あなたと共に在り、あなたと共に戦場に赴く者となりましょう」
「俺と、共に……ありがとうございます。これから、どうぞよろしくお願いします……クリスティアン」
この瞬間、ホーネットが思い浮かべていたのは息子と、息子を守護しているという天使ルシファーだった。ルシファーは普段はペットのクワガタムシのふりをしているが、息子を団長室に呼びつけた時には当たり前のように天使の姿に戻り、ソファーに腰を下ろしている。
引きずるほど丈の長い黒衣と、実体のない青い光の翼。頭上に戴く光の冠。漆黒の髪を指先でもてあそび、こちらの話が終わるまで退屈そうに待っている。
人を守護する神的存在とは、だいたいそのようなものなのだろう。
ホーネットのそんな認識は、デカラビアを笑わせるには十分すぎた。
「あなたは本当に最高ですね! 名ばかりでなく、私に天使の姿までくれるのですか?! フォルトゥーナ、感謝します! 今この時代に、私とこの戦士とを出会わせてくれたことを!」
カチン、という音が響いた。
その音がしたのは外、それもはるかに高い場所だった。ホーネットと医務長は窓辺に駆け寄り、空を見た。
巨大な歯車が、超高速で稼働し始めている。
運命の女神の歯車は虹色の鎖を巻き上げ、天頂に出現した光の門扉を引き上げていく。開かれた天の扉から舞い降りるのは、虹色の光の翼を手に入れた神的存在、『クリスティアン』である。
開け放たれた窓辺に近付き、天使はホーネットに手を差し伸べる。
「クリストファー・ホーネット! 勇ましき雀蜂の戦士よ! 参りましょう、私たちの戦場へ!」
その手を取ることに迷いはなかった。
たった今生まれたばかりの『光の天使』は、ホーネットを連れて天の扉へと舞い上がる。
「医務長! 俺が不在の間は……」
「適当に誤魔化しておくさ! 頑張れよ!」
「ああ! 頼んだぞ!」
弱きものを守ろうとする正義の心、家族への愛、仲間への友情と信頼、忠義の心、職責に対する忠実さ、施されることへの感謝、施しの心と思いやり――それらはどれか一つでも十分すぎるほど価値がある。しかしこの時、ホーネットにはそのすべてがあった。その思いが天に届き、デカラビアを下級な神的存在から大天使まで一足飛びに進化させたのだが――。
「……やれやれ。あのな、ゼウスさんよ。もういい加減、過去の栄光は忘れたらどうだね? ほぼ無名の神的存在だって、いい相手さえ見つければああなるんだからよぉ?」
ゼウスは医務長の隣に実体化し、不貞腐れた声で答える。
「馬鹿野郎が。最高神まで経験した神が、そうそう簡単に新装開店できるかよ」
「ハロエリスとセトはどうなんだね。あれもエジプトとかいう国の最高神だったんだろう?」
「あの国は王が変わるたびに最高神を取り換えていた。うちや大和とは重みが違う」
「ほー、そういうもんかい? なら、ちゃんと最高神やってる大和の神はスゴイっちゅうことかね?」
「いや……そうでもないと思うが……なにしろ、大和の神だからな……」
「?」
何か思うところがあるようだが、医務長には神の心を読むような特殊能力はない。ゼウスが何を危惧していたかを理解するのは、進行中の事態がすべて終わってからのこと。
そう、この時点で既に始まっていたのだ。大和の神の十八番、『お祭り騒ぎ』という名の常識破りが。
エリックとアスターから連絡を受けたとき、王立高校は午後の授業を終えた直後だった。本来ならば授業の後にはホームルームと部活動があるのだが、彼らは教員に許可をもらって談話室に移動していた。執事たちは学長のところに挨拶に行ったので、談話室の中は神とその器・憑代だけ。誰に遠慮する必要もなくなったグレナシンは、アスターからの事情説明にオカマ言葉全開でこう言った。
「んじゃ、今から行くわ! メチャクチャやばい増援引き連れていくから覚悟しときなさい! 前戯なしでぶっこんであげるわよ!」
そして通信を叩き切ると、ツクヨミと共に地球へのゲートを開く。それはほかの神が作る『自分一人用ゲート』ではない。大きさは縦2メートル、横1.5メートル、奥行き20センチほど。色は朱赤で、上部にはしめ縄飾りが取り付けられている。
これは誰がどう見ても『鳥居』だった。
高校の談話室に突如として出現した鳥居。その内側を覗けば、そこには当たり前のように地球の景色が見えている。それを見たアル=マハとベイカーは同時に言った。
「原宿か?」
「原宿だな!」
声のトーンに差はあれど、二人は確信をもって原宿と断言している。
そこに見えているのは駅前の景色だ。派手な服を着た若者でごった返す原宿駅を交差点側から見ていることになる。
「おい、セレン。こんなに人の多いところに出て大丈夫なのか?」
「地球を経由したほうが短時間で移動できるのは分かるが、もう少し人の少ないところは……」
「幻覚魔法で姿を消しながら行けば、普通に人込みの中に馴染めるわ。人の眼は気にしなくてダイジョーブ。問題は明治神宮に入れるかどうかよ。あの結界カッタイのよねー。近代強化型の付喪神だけでも連れていきたいんだけど、壊せるかしら……」
「付喪神?」
「明治神宮に祀られているのは明治天皇だろう?」
「ええ、そうよ。イザナギの子孫が祀られてるわ。だから力の弱い付喪神たちにとっては最高の住処なの。子供って、パパに似てる親戚のおじさんには無条件でなついちゃうでしょ? あんな感じでいっぱい集まってきてるのよ」
「ほー……付喪神と明治天皇とは、そういう関係……」
「その付喪神が、戦力として使えると? タケミカヅチから聞いた限りでは、付喪神はかなり低級で知能も低いと……」
「江戸時代まではね。明治以降の近代強化型の子たちはかなりのツワモノぞろいよ? でも一つ問題があってね?」
「なんだ?」
「さっき言っていた結界とやらか?」
「そう、ソレよ、ソレ。なんか一時期、明治神宮前の橋がコスプレの人たちの聖地になっちゃってたみたいでさー。妖怪が攻めてきたと勘違いした下級の付喪神たちが、みんなで力を合わせて、ものすごく厳重な結界張っちゃって……」
「お前、一応イザナギの分身だろ? 入れないのか?」
今のグレナシンの瞳は月光のような淡い光を放っている。これはツクヨミと一体化していることの証である。神と器が一つになった状態では、ほかの神からは『人間』でなく『神』と認識されるはずなのだが――。
「パパの留守中にチビッ子たちが出鱈目に増設した鍵なんて、ちゃんと使える代物だと思う? 付喪神の知能レベル、一番低い子は三歳児レベルなのよ?」
「ああ、うん、それは無理だな!」
「むしろ、結界を増設した本人たちも外に出られないのでは……?」
「ええ、そうなのよ。だからあの結界、ヘファイストスに焼き払ってもらいたいのよね。アタシやおタケぽんじゃあ力の波長がほぼ同じだから、攻撃しても効かないし……」
「わかった、やってみよう」
と、アル=マハは答えるのだが、その内にいるヘファイストスは無言のままである。
「……おい、こら。やるよな?」
ヘファイストスは答えない。
フンと一つ鼻を鳴らし、それ以上のリアクションはない。
「すまんな。うちのひねくれ者は乗り気じゃないようだが、俺がなんとかする」
「頼りにしてる。それじゃ行くわよ。ついてらっしゃい」
一行はグレナシンに続き、鳥居をくぐって地球へと渡った。
十七年前の東京は、とにかく空気が悪かった。
このころはまだ電気自動車が主流ではなかった時代だ。清浄な空気に慣れ切っていたアル=マハは、眉をひそめて呟いた。
「思い出補正とは恐ろしいな。すっかり忘れていたぞ……」
アル=マハが故郷を訪ねたのは特務部隊に昇進して数年が経過してからの話。この時点から十年近くも未来の出来事だ。そのころにはディーゼル車の規制や電気自動車への乗り換え政策も軌道に乗って、東京の大気汚染問題は大幅に改善していた。だからその時は思い出すこともなかった。空気が汚すぎて、同じクラスに八人も喘息持ちの子供がいたことを。
「……ヘファイストス、何か、俺に言うことはないか? 妙なモヤモヤ感があるんだが……?」
誘拐犯は答えない。が、非常に気まずいものを感じているのは間違いない。
アル=マハは首を横に振り、グレナシンに問う。
「どうだ? なんとかなりそうか?」
神宮前の橋の上で、グレナシンは腕組みしたままウロウロしている。心の声で中の付喪神たちと対話しているらしいのだが、その表情はさえない。
「……ダメだわ。やっぱり燃やすしかないみたい」
「と言っても、さすがに人目につくよな?」
「いまさらじゃない?」
「まあ、そうだな」
そう言いながら、アル=マハは何のためらいもなく《可鍛の豪焔》を放つ。これは鍛冶屋の神であるヘファイストスの最も基本的で、最も強力な技である。可鍛鋳鉄においては数十時間にわたって過熱を続ける必要がある。瞬間的に燃え上がるケルベロスの炎と違い、これは最長一か月も効果が続く超長時間持続魔法なのだ。
炎に包まれる神宮の杜。正確には燃えているのは森の木々ではなく、その外側にある『見えない壁』である。だが、ただの人間たちにそんなことは分からない。
あっという間に集まる消防、警察、救急車両。そして張られる規制線。一行はたまたま居合わせた観光客のふりをして、野次馬に紛れて結界が焼け落ちるのを待つ。
が、十分経ってもまだ燃えている。
「……おい、この結界、どんだけ頑丈なんだよ……」
「知らないわよ。付喪神たちだって、妖怪に攻め込まれないように必死だったんだから。文句はX JapanとLUNA SEAに言ってちょうだい!」
「えーと……ロックバンドだったか?」
ピンとこないアル=マハに、ベイカーはキラキラした目で言う。
「音源全部持ってます! 今度聴きます!? メンバーのソロ活動のほうもオススメですよ!」
「あ、ああ、今度な……」
ここでNOと言えないあたり、俺はやっぱり日本人かもしれない。
押しの強いネーディルランド人を前に、アル=マハは妙なことに納得していた。
じっと待つことさらに五分。火の勢いは弱まらない。必死に放水する東京消防庁の皆さんには申し訳ないが、これは神の火である。結界が焼け落ちるまで、絶対に消えることはないのだ。
しかし、状況には多少の変化が見られた。
「何をしている?」
背後からかけられた声に振り向くと、そこにはピンクの髪の天使がいた。
オオマシコという野鳥によく似た翼をもつこの天使は、月天使ザラキエルである。
「大和の神が、なぜ明治神宮に火を……?」
ここにいるのは十七年前の、まだ完全な力を使えたころのザラキエルだ。付喪神たちがデタラメに構築した結界を打ち破るのに、これほど頼もしい助っ人はいない。
グレナシンとアル=マハが事情を話すと、ザラキエルは渋い顔をした。
「……ヘファイストスの器と力を合わせろ、だと?」
仲が悪いのは百も承知で頼んでいるのだが、ザラキエルは首を縦に振らない。
見るに見かねたマルコが、ザラキエルの手を取って説得を試みる。
「ザラキエルさん! 今この時間軸では、貴方とアル=マハ隊長の間には『何の問題』も発生していません! それにアル=マハ隊長が求めているのは、結界内に閉じ込められてしまった神々の救出活動への助力です! 理由もなく人間からの『お願い』を断るのは、天使として『良くないこと』ではありませんか!?」
これが効いた。ザラキエルは「うっ」と答えに詰まり、それから渋々といった様子で剣を構えた。
「……『原初の闇』の力、その目にしかと焼き付けよ」
宇宙を剣の形の型に流し込んで固めたら、こんな剣になるのだろうか。
マルコは夜空の色に輝くザラキエルの剣に見惚れ、そして気付いた。この天使が『死の天使』と呼ばれるに至った理由を。
剣から噴き出す闇。しかし邪悪なものではない。
この世界が誕生した時からずっと存在している宇宙の一部、原初の闇・ダークマター。それは人間の眼には映らず、人の手では触れることの適わぬエネルギーである。
地上の神々が利用する『光のエネルギー』とは全く異なる暗黒物質による攻撃は、この世に存在するすべての物質と現象に影響を及ぼす。
ザラキエルが一刀のもとに断ち切ったのは付喪神の『デタラメ結界』だけではない。絶対に消せないはずの火、ヘファイストスの《可鍛の豪焔》までもが一瞬のうちに消滅してしまった。
強い。
というより、さすがは七大天使の一人というべきか。創造主から与えられた能力の性質や特性が、あまりにも特殊すぎる。
想像以上の鮮やかな手際に、マルコたちは開いた口も閉じ忘れ、阿呆のように立ち尽くす。
「……いつまでその顔で突っ立っている気だ? 開いたぞ。それと、一応、人間たちの活動とも辻褄を合わせておいた」
「え? 辻褄……あ! なるほど!」
一斉に巻き起こる歓声。野次馬たちが何に喜んでいるのかと言えば、消防ヘリの活躍である。
何の理由もなく突然火が消えたのでは現場の人間たちが困ることになる。ザラキエルは消防ヘリの放水とタイミングを合わせて剣を振るっていたのだ。
神や天使の姿が見えない人間たちにとっては、消防ヘリからの放水によって瞬間的に炎が見えなくなり、本当に消えたのかと息をのんだ数秒後、消火を確信して歓声を上げた流れだ。
ツクヨミはグレナシンの体から抜け出し、消防士たちの間を縫って参道の入り口へと走っていく。
鎮守の杜のほうからも、神主か巫女のような装束を纏った幼児が大勢駆けてくる。
そう、大勢だ。
多い。
あまりにも多すぎる。
十や二十ではない。少なく見積もっても百柱以上の付喪神が、ようやく会えたパパに殺到する。
そしてやや遅れて、もう少し体の大きい小学生くらいの付喪神が百柱ほど。
その後ろからさらに大きな中高生くらいの付喪神がぞろぞろと姿を見せ、そのまた後ろに大人の姿の付喪神が続き――。
「おい、セレン! 付喪神っていうのは、いったいどれくらいいるんだ!?」
「十七年前のこの時点でも、大和の神の総数は九百九十九万ファミリーを突破してたはずだけど……?」
「はあっ!?」
「人間がモノを大切に使うとね、ある種の『愛』とか『信仰心』みたいなものが発生すんのよ。よく職人が言うでしょ? 俺がこれを作れるのはこの道具のおかげだ、みたいなコト。そういうモノへの『信頼』とか『リスペクト』とかが一定の水準を超えると、どんなものでも平等に『付喪神』に進化できるの。使い込まれた年数は関係なくて、大切にされた経験が多ければほんの数年でも神格化できるようになってて……あ! ほら! あの消防ヘリ!」
「……え?」
ヘリコプターが光り輝いている。が、この光は人間には見えない。
消防隊員たちからの絶大な信頼と感謝、大勢の人間からの「よくやってくれた」「すごい」「格好いい!」などの歓声を受け、この場で神格化が決定してしまったようだ。
消防ヘリから一筋の光が差し込み、ザラキエルの前に消防ヘリ風デザインの着物を着た幼児が降り立つ。
その幼児は何のためらいもなくザラキエルに抱き着き、たどたどしい幼児言葉で感謝を述べる。
「おにいちゃん、あいがと!」
ザラキエルのおかげで神格化できたのだと伝えたいのだろう。ただ、感謝されることにも子供に抱き着かれることにも慣れていないザラキエルは、真っ赤になってあたふたしている。
グレナシンは呆然とするアル=マハの肩をつつき、面白そうに言う。
「ね? すぐ神格化・キャラクター化されちゃうのよ、この国」
「……そりゃあ神の数も増えるよな……」
それまで無言でついてきていたロドニー、キール、デニスも、ヘリコプターの神などという予想外の存在を前に、驚きを表明せずにはいられない。
「この分だと、本当にどうしようもねえ能力の神も出てくると思うぜ?」
「鉛筆キャップの神とかバターナイフの神とか出てこられても、戦力にはならないよな」
「せめてカッターナイフくらいの戦闘力は欲しいところですよね」
デニスの言葉に頷くオカメインコのような鳥は、いったい何の役に立つのだろう。
ホーちゃん、オーちゃんのリアクションに、ロドニーとキールは無言で視線を交錯させた。
そうこうしているうちに、ツクヨミと付喪神たちの話も終わったようだ。いつの間に出現したのか、消防と警察が張った規制線の内側には五台の大型観光バスと、十台の路線バスが停車していた。
いずれも年代物のバスで、人間たちには見えていない。バスの前に立つ運転手たちは、全員これらのバスの付喪神のようだ。それぞれのバス会社の制服を着て、ツクヨミに向けて敬礼している。
「さあみんな、乗りたまえ! 戦後日本の経済発展を支えた偉大なるバスたちだ! 彼らなら、私たち全員を一度に目的地に連れて行ってくれる!」
まさかの移動手段である。
もうどうにでもしてくれ、と言いたげなアル=マハの両手を、小学生くらいの付喪神たちがそっと握る。
「未鶴、大丈夫だよ。僕たちがついてるから」
「まだバス苦手?」
君は誰かと尋ねる必要もない。手をつないだ瞬間に、彼らの元の姿が見えた。
「……おまえらまで神格化するのか……!」
思い出補正とは本当に恐ろしい。友達と一緒に出掛ける遠足は楽しいもの――そんな事実誤認はいつから始まっていたのか。遠足とは、ゲロと頭痛のカーニバルだ。バス移動が苦手な自分の心の支えは、酔い止め薬とエチケット袋だったではないか。確かにあれは信仰心に近かったかもしれないが、しかしだからといって、今更小学生時代にお世話になった『酔い止め薬』と『エチケット袋』に心配される羽目になるとは。
付喪神たちは無邪気にアル=マハの手を引き、バスの中に連れ込んでいく。ほかの付喪神たちも、アル=マハ自身が忘れていたような何気ない出来事の記憶を思い起こさせていく。
なんの心の準備もない状態で、ガンガンこじ開けられていく記憶の扉。
熱くなる目頭を押さえていても、相手が神では何一つ隠せやしない。
「おかえり、未鶴!」
「ずっとこっちにいるの? また向こう行っちゃうの?」
「また遊ぼうよ! あ! 俺のこと覚えてる? 坂の上の公園のジャングルジムなんだけど……」
「逆上がり、できるようになった? せっかく練習してたのに、テストの前にいなくなっちゃったじゃん? ずっと気になってたんだよね」
「ヒロ君とユウ君、あの後ちゃんと仲直りできたんだよ。ケンちゃんもつかさ君もまだ近所に住んでるから、今度会いに行ってみなよ! みんな心配してたんだよ!」
内緒話も、友達同士の些細なケンカも、何もかもを知っている。子供たちを見守る公園や校庭の遊具相手には、自分が何者かを偽る術はない。
バスは神々を乗せて走り出す。
表参道のケヤキ並木を抜け、世界の境界を超えて魔法の世界、ネーディルランドへ。
それらのバスの中で、どさくさ紛れに一緒に押し込まれてしまったザラキエルは絶叫していた。
「信じられない! なぜこの状況で、君たちは……っ!」
誰が予約を入れたのか、ザラキエルが乗ったバスでは昭和歌謡が大音量で流れ、カラオケ大会が始まっていた。
戦後日本のバス旅行に車内カラオケは欠かせない。これはある種の儀式である。




