君ヲ想フ
「そういや、ハルト。お前今日職員室に呼び出し食らってたろ。ありゃ何だ?」
仏壇の埃を払いながら問いかけてきたそいつの一言に、俺は眉根を寄せる。
「むぅ、それを訊くか? ユージン」
「そりゃ、気になるさ。友達だし」
「そこ突かれると痛いな」
俺のささやかなる仕返しも、効いた様子はない。仕方なしに、俺は全体的に埃を被った部屋の片隅に置いた自分の鞄の元へ向かう。
昼間、学校で呼び出しを食らった。それは確かなことだ。教師から呼び出されていい気のする生徒など稀だろう。俺もその例に漏れず、そのときのことを思い出して渋面を浮かべた。
鞄をがさごそとやり、その原因を取り出す。
これだよ、と仏壇掃除の手を止めて待っていたそいつ──ユージンこと柊 友人に手渡す。友人は手元に目を落とし、しばらく見つめた末に、疑問符を浮かべた。
「現国のノート?」
「現国の担当、今年来たばっかの人でさ。自己紹介がてら、自分の名前の由来調べて来いって。宿題だったの。高校生にもなってんなもん知る気にもなれねーって」
「ま、確かに」
友人はほろ苦く笑う。少し、自分の名前の由来に思いを馳せたのだろう。[友達がたくさんできるように]と仏壇に置かれた写真で笑う彼の母がつけた名だ。
「で、橘 悠斗くんの由来はどんななの? あ、書かなかったから呼び出されたのか」
「書いたよ」
呼び出しの理由を安直に捉えた友人に返した声はややぶっきらぼうに響いた。
友人が目を丸くする。
「え? この流れは出さなかったんじゃ?」
「失礼な。これでも一応、宿題の提出だけはまめなんだからな」
例えば、保健室登校とかでも。
付け加えるのは、心の中でだけ。今は友人や俺の過去は関係ない。
と、俺が軽く暗くなりかけた気持ちを払っていると、現国のノートが手から抜き取られた。
「わ、おい」
「どれどれ」
友人が軽い調子で呟き、ノートを覗き込む。ぱらぱらとめくり、ページを止めて。思ったより長いな、と呟いた。
「なになに……[太古の日本に垂仁天皇という方がいたときのお話です]」
「うぉい! 音読すな」
「[垂仁天皇は]……」
「聞いちゃいない」
俺は深い溜め息を吐いて近場の壁に寄りかかった。
友人がつらつらと俺が書いた[名前の由来]を読み上げていく。
太古の日本に垂仁天皇という方がいたときのお話です。
垂仁天皇は常に芳しい匂いを放つ珍しい木の実があるという噂を聞きつけ、それを一目見てみたいと仰いました。
その実は[非時香菓]と呼ばれており、日本から遥か遠く常世の国──今で言うところのインドのあたりにあるとされていました。
垂仁天皇の命を受け、田道間守という人物が非時香菓を探すべく遣わされました。
田道間守は九年もの長い年月をかけて探し続け、ようやく見つけた非時香菓を手にして帰ってきます。
しかし、なんということでしょう。田道間守が帰ってきたときには既に垂仁天皇はお隠れになっておりました。
垂仁天皇の墓前で非時香菓を示した田道間守は悲しみに明け暮れ、そのままそこで十日間の絶食の末、息を引き取ったと言います。
そんな田道間守の姿を悼み、人々は田道間守の持ち帰った非時香菓の花を[たじまの花]と呼びました。[たじまの花]の発音が次第に変化していき、やがて現在に耳馴れた[橘]という名になったそうです。
このことから自分の名である[橘]はこの[田道間守]に由来するものと思われます。
「ってこれ苗字じゃん!」
俺にとっては少し既視感のある見事なツッコミを友人は入れてくれた。
苦笑いで応じる。
「先生にもそう言われた」
「だろうな」
まあ、普通に考えて[名前の由来を調べて来い]と言われて[苗字]の由来を調べてくるやつなんていないだろう。暗黙の了解というやつだ。
当然、俺だってその暗黙の了解くらいは知っている。つまり、確信犯なのだが。
「だってさ、[両親から一字ずつもらいました]なんて言えるかよ?」
「いいじゃんか。立派な由来だろう」
友人のその一言は嬉しかったが、肩を竦めた。
「その由来言ったら、十中八九、親の名前訊かれるだろ」
「あ……」
友人は察したらしい。
俺の両親は離婚している。父の浮気がきっかけだったか。当然別居、というか父が今生きているかどうかすら俺は知らない。
「……いない人の名前なんて、言いたかないよ」
俺の呟きに友人は神妙な面持ちで俯いた。
「でもお前……桜の名前はよく出すよな」
「な、それは」
ぎくりと固まった。
桜──友人の口にしたその名は、俺にとっても友人にとっても禁句に近いような名だった。けれど、友人の言うとおり、俺がよく口にしてしまう……好きな子の名だった。
桜 なのは。中学のときの同級生で、三年のときに自殺した女の子だ。
卓球が大好きで、とても下手な子だった。けれど挫けず、頑張っていて、いつも笑顔で、笑顔で、笑顔で……そう、思い出すのは、笑顔ばかりで、ああ、俺はあの子の笑顔が好きだったんだなぁ、としみじみ思う。
そんな笑顔に溢れた子が、何故死んでしまったのかといえば、真偽のほどは明らかではないが、当時の友人の一言のせいだろう。
卓球なんか好きじゃない。大嫌いだ。
友人は桜にそんな言葉を投げつけたらしい。卓球をこよなく愛した桜をこれほど傷つけられる言葉はないだろう。
それを聞いたとき俺は、友人を殴った。拳だったか平手だったかは覚えていない。とにかく、桜を傷つけた友人が許せなくて。あの頃は随分と短気だった。今が短気ではないとも言えないが。
同じ高校に進学して、一年のうちは色々嫌がらせをしたっけ。罪の意識から卓球をやめた友人にラケットを握らせようとしたり。まあ、自分は嫌がらせのつもりはなかったけれど、友人にはかなり辛い思いをさせただろう。
けれど、忘れられないから、忘れたくないから、[忘れるな]という自分の信念を友人にまで押し付けて……
「ただの、感傷だよ」
考えると、随分情けない。
自分の知らぬ間に逝ってしまったから、悲しかったのだ。友人に向けたのは、よくわからない嫉妬で。俺は、[忘れない]という自分で定めた信念が苦しくて堪らないだけ。自分で決めたことに縛られて苦しむなんて、本当に情けない。
これなら、垂仁天皇のために非時香菓を捧げ、殉死した田道間守の方がよっぽどいい。聖人にさえ思える。
「絶食十日か」
「おい」
呟くと、友人に睨まれた。
「人間、別に由来に沿って生きる必要なんてないんだからな?」
直接的な表現はしなかったが、友人は俺が考えたことを解し、たしなめた。
「ん。わかってるよ」
でもさ、友人。
無理だよ、俺と[橘]を切り離すことなんて。
知っているか? 橘の花言葉って、[追憶]なんだぜ?
追憶……それは過去を思うこと。
俺は忘れないと誓ってしまったんだ。ずっとずっと昔から、忘れないというのは俺の習慣で、矜持だ。
桜や友人や……過ぎ去っていった日々を忘れることはできない。思わないときなんてない。
「まあ、絶食はやめておくよ」
俺は仏壇を見やって苦く笑った。
「死んだら、思うこともできなくなるかもしれないし」
「……だな」
神妙な面持ちで友人は頷き、手にしたノートを閉じて掃除を再開した。
俺にとっては少し冷えた関係の両親の名前を繋いでできた名よりも、誰かを思い懸命にその命を遂げた人の名の方が誇りだった。