蛇の目
直方はうそをつかない。
そのことを、小谷夫妻は知っていた。うそを言うよりも口を閉ざす、直方はそういう性格だ。だいたい、直方が冗談でも言わなかったことを口にしたのだ、嘘を疑う必要がどこにあるのか。
そう思い当たった瞬間、絹子はただ泣くことしかできなくなってしまった。隣では、怒ったような表情を浮かべたままの夫が直方ではなく、後ろのにいる高濱に詰め寄っている。
「どういうことや。あんたは知っとったんか」
高濱は直接その詰問には答えず、直方の肩をたたいてとがめるように問いかけた。
「直方、そのことは二人を徒に悲しませるだけだから伏せたままにしておこうと、昨日話し合ったばかりだっただろう」
直方はその言葉に、小谷夫妻を見つめたままうなずく。しかしすぐに反論した。
「でも、そんなん裏切りやんか。僕はこの二人に本当によくしてもらった。本当の僕は、この二人にこんなによくしてもらう資格なんてなかったのに、それを当然のように受け取って、その気持ちを踏みにじって、返しもせずにいるなんて出来ん。やっぱり納得できへんよ」
その言葉に、高濱は黙り込んだ。直方は自分からその手を引きはがしてふりほどき、改めて小谷夫妻に、絹子に向き直る。
「おばさん、葬式の時のこと覚えとる?
本当の僕は、人殺しです。
しかも、よくしてもらったおじさんとおばさんの、この店の奥で、勉強させてもらいながら、本当はずっと、本当にずっと前から、両親を殺すことだけを考えて計画を練っとった、そんな最低の奴です。
……嫌いやって、あんたなんか嫌いやって、言ってください」
「……なお、ちゃん」
絹子は応えられなかった。確かに言われた。本当の自分が、絹子の思うような子供でなかったら、そうしたらちゃんと嫌ってくれと。しかしそれでいいのか。
直方の両親が殺されて当然の人間だとは、絹子は思わない。もしも本当に直方が両親を殺したのだとしたら、直方のしたことは間違いだ。その気持ちをずっと隠してきた直方には、本当は腹も立っている。そしてあの、両親が殺されたあの日、事件に関係しているのだろう黒ずくめの人影を見て笑っていた直方の瞳も、本物であり、直方自身は本当の自分がそちらなのだと、そういいたいのだろう。だから嫌ってくださいと、そういっているのだろう。
けれど本当に、それでいいのか。
「おじさんも……お願い、嫌いやって、言ってください」
応えられない絹子にじれて、直方は佳久の方を見上げる。まるで懇願するようなその瞳を見て、怒ったような顔を崩さずにいた夫は怒った顔のまま溜息をつくと、緩やかに手を持ち上げた。
佳久は持ち上げた手を拳の形に固めると、それを黙って目の前の直方の脳天に落とした。
「いっ……!」
思わず直方は頭を抱え、後ろにいる高濱は目をみはる。おそらく絹子の表情も同じだろう。夫が直方に手をあげる瞬間など、絹子でさえ初めて見た。
「こういう殴られ方はしたことないやろ」
それだけ言うなり、押し戻されたタッパーを、佳久は直方の胸にしっかりと抱かせる。直方が驚いて顔を上げた。
「人から好意でもらったもんを、無碍に突っ返すほど失礼なことはないんやぞ。とくに絹子は、どれだけおまえがこれを着るのを楽しみにしとったとおもっとる」
言いながら、今度は絹子の手からパーカーの入った袋を奪い取り、それをタッパーの上にしっかりと乗せる。直方は泣きそうな顔で頭を振りながら、それをもう一度佳久に返そうとする。
「おじさん、だから僕は、これを受け取る資格なんかないんやって」
「資格? そんなん、誰が決めたんや。俺はそうはおもっとらん。絹子も同じやろ。勝手に決められたことの方がよっぽど失礼や」
「そう……やわ」
絹子はそこでようやく、声を出すことが出来た。鼻声になりながら、涙を袖で拭い、ようやく直方の顔をしっかり見返す。
「今の言葉聞いて、なおちゃんがおばさんたちが嫌うような嫌な子やと思う方が間違っとるやない。やったことは間違っとっても、本当のなおちゃんは、おばさんらの知っとるなおちゃんは、一本筋の通った、いい子やない」
「そんな……」
反論しようとして口を開いた直方の瞳から、大粒の涙がこぼれた。うつむいて、絞り出すように小さな声で、叫ぶ。
「嫌ってって、嫌ってくれって、言ったやないっ……! なんで……僕、本当に二人のこと、本当にっ……!」
言葉が続かずしゃくりあげる少年の肩を、高濱が抱く。それから、ひどく神妙な表情で小さく頭を下げた。
「……更正を終えても、この子がこの町へ戻ってくることは難しいと思います。ただ……ただ、ありがとうございます」
佳久はほとんど初めて、高濱に向かって一礼を返す。絹子は泣きじゃくる直方の顔をのぞき込み、ちょっとごめんね、と囁いて、その手から一度パーカーの入った袋を手に取った。直方が顔を上げるのを確認して、その袋の封を切り、中からプレゼントを取り出す。
絹子が用意したのは、春物のパーカーを一着。制服のしたに何か着ると言うことが出来ず、いつも寒い思いをしていた彼が、これからしばらく寒さをしのげるようにと思ったのだ。色は髪の色にも制服の黒にも合うように、淡い空色。直方が好きな色とは少し違うが、それでも絹子は直方に似合うに違いないと確信していた。
なおちゃん、と呼びかけると、絹子はそれを直方の肩に当てる。サイズは完璧だ。デザインも大丈夫。
「着てみ?」
きょとんとしている直方の手から、高濱が素早く唐揚げのタッパーを奪い取る。それから直方にブレザーを脱ぐように促した。
言われるままにブレザーを高濱に預け、直方は受け取ったパーカーを頭から被る。絹子の見立て通り、それは直方によく似合っているように思った。少し大きめのブレザーを上から羽織っても問題はなさそうだ。顔を上げた直方に、絹子はぱちぱちと拍手を送った。
「うん、男前があがったわ。これで、新しい場所へ行っても寒ないやんね?」
ようやく顔を上げたというのに、直方はまたうつむいてしまう。しゃくりあげながら何度もうなずくその頭を、絹子は静かになでた。
「どこへ行っても、元気でやるんやよ」
「うん……」
「俺たちはここにずっとおるからな。唐揚げ食いたくなったら、また気にせず来るんやぞ」
「……うん」
絹子も佳久も、泣きながらうなずく直方の髪を、ずっとなで続けていた。
アタッシュケースを下げた小柄な男が商店街を歩く。
黒いコートと黒のジャケットに包まれた胴体の上には、灰色の髪を短くカットした頭が乗っている。彼は革靴を鳴らしながら歩き、周囲を見渡した。いかにも目的のない、のんびりとした足取りだ。
クライアントとの契約をまとめた帰り道、ホテルへ帰る道すがら、男は車や電車を用いず徒歩を選択した。ぼんやりと道草をしながらの帰途は、彼を思いもよらぬ懐かしい場所へ導いていた。
両親を殺害し、少年院へ収監されて7年。
彼、各務直方は「父」のつてで海外の高校を卒業後、正式に高濱家の養子に入り、各務の名を捨てた。もう直方を苦しめる両親の幻影は現れない。そして直方は、髙濱の家で出会った兄二人、姉一人と、卒業後探偵事務所を立ち上げた。今のところ、それは彼らの居場所として正常に機能している。
今日はその探偵事務所に来た依頼のクライアントと打ち合わせをした帰りだった。本来は所長を務める長兄が出向く予定だったが、スケジュールが合わせられず、代わりに直方が来ることになったのだ。
直方は歩みを止めないまま、周囲をゆっくりと見渡した。この町は直方が生まれた町でもある。少し見ないうちに様変わりした故郷の中に変わらない部分を見つけるたび、彼は目を細めていた。
駅前の変貌ぶりは凄まじかったが、一歩道を外れて商店街に入ると、そこはもう昔のままだ。対して自分はどうだろう。ただの怯えた子供が、今やストライプのワイシャツに黒いジャケットをそれなりに着こなせるようになった。その代わり、あの時は押し殺していた性悪な性格が顔に出るようになったようにも思う。髪の色も瞳の色も相変わらずの灰色だが、今の自分を、かつての「各務直方」だとわかる人などいるのだろうか。そこまで思考が到った時だった。
「……なおちゃん? 貴方もしかして、なおちゃんやないの!?」
「なにっ……? 本当や、おいなお!」
……突然の、声。これまで7年間、聞きたくとも聞けなかった、忘れなければと思いながらも忘れられなかった声。思わず立ち止まって顔を上げる。そして、直方は驚いた。
……何てことだ。無意識に歩きながら、自分は嘗て世話になったあの総菜屋に足を向けていたらしい。
「無意識って怖いなぁ……」
言いながら、久しぶりに邪気のない笑みが口元に広がる。その笑みは自分の無意識だけではなく、様変わりした自分を見抜いた二人の恩人への感謝も含んでいた。
……じゃあ、僕も少しの間、「各務直方」に戻ろうか。
直方はアタッシュケースを持たない右手を振って、久しぶりに好物の唐揚げの香りに向かって歩き出した。
「ただいま、おじさん、おばさん!」
<了>