男の目
「なおちゃん!」
近所の葬儀会館で行われる予定の通夜式は、死者の人数に似合わず、ひどく閑散としていた。
「……おじさん、おばさん。来てくれたんやね」
二つ並んだ遺影の前で、ぼんやりと立ちすくんでいた小さな背中が振り返り、うつろに笑う。愛されていなかったとはいえ、肉親を喪った直方の疲れ切った表情に、二人はそれ以上の言葉も継げず立ちすくむしかなかった。
あの日、鞄を片手に家路へつく直方を見送った後、近所で大きな騒ぎが起きた。丁度直方が家に帰り着いた後くらいの時間帯だ。警察のパトカー、救急車がやってきて、制服警官が野次馬の整理を始めるのを見た絹子と夫の佳久は、直方の身に何か起きたのではないかと心配になった。しかし、肝心の直方に連絡を取ろうにも、彼は携帯電話を持っていない。自宅の電話は直方につないではもらえないだろうし……などと考えていたら、翌朝の新聞に直方の両親が殺害されたという記事が載ったのだった。
第一発見者は、彼らの息子、つまり直方だ。学校から帰宅したところで、二人が血を流して倒れているところを発見したということだった。あの日あのまま家に帰って、そして発見したという事なのだろう。その日は朝からニュース番組で、犯人の目星もつかない不可思議な殺人事件が起きた現場として、直方の住むマンションが報道され、コメンテーターの無責任な憶測が飛び交っていた。
ニュースでは、直方の両親が直方に対して行っていた虐待の数々も無遠慮に報道された。流石に被害者家族にして虐待の犠牲者、事件の第一発見者の上に未成年という直方の立場から、彼への直接インタビューははばかられたものの、直方がよく通っていたというふれこみで連日マスコミが押し寄せ、小谷夫妻の総菜屋は客以外の人間でごった返した。そんな中、当の直方は警察の捜査に協力せねばならず、心の安まらない日々が続いていたのだろう。絹子も何度も電話をかけたが、結局繋がることはなかった。
その直方が店へ顔を出したのは、事件から5日が経った今日の昼間のことだった。流石に学校へは行っていないのだろうが、いつも通り黒のブレザーに黒のタイをつけた姿で、疲れ切った表情を浮かべたまま。
「……今夜、二人のお通夜やるから。誰もこーへんやろし、おじさんおばさん、来てくれる……?」
ようやく、司法解剖から遺体が帰ってきたのだろう。直方ではどうしようもない葬儀の云々は、自治体と遠縁の親戚を名乗る男性が取りはからってくれるという事だった。必ず行くとうなずくと、直方はほっとした表情を浮かべ、しばらくここでゆっくりしていけと薦める二人に力なく首を振って、そのままふらふらと帰って行った。
そして、その日の夕方。
駆け寄った二人を見た直方は、すん、と小さく鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「二人とも、お宗旨わからんのやって。近くにあるお寺さんが来てくれて、お経上げてくれるって」
あきれるよねぇ、といつも通り毒づく声にも力がない。それでもいつも通り振る舞おうとする直方の頭を、絹子は強く抱き込んだ。
「ばか! 強がらんでいいの!」
「……強がってへんよ。僕せいせいしとるんやから。本当に……せいせいしとるんやから」
言いながら、直方の手が絹子の袖を強くつかむ。二人を上から抱きしめた佳久が、直方を窘めるように強くささやいた。
「そんなこと、こういう席で言うもんやないぞ」
ごめんなさい、と素直にうなずいた直方は、するりと二人の腕から逃れる。3人を見ていた斎場の係員が、控えめに問いかけてきた。
「あの、ご親族の方でしたら」
「違います。この人たちはただの参列者です」
その言葉を遮ったのは直方である。きっぱりと、しかも冷たささえ感じさせるような訛のない言葉でそう言いきると、直方はブレザーをなおして係員を見返した。
「あの人たちの親族は僕以外いません。あの遠縁だという男の人以外は、僕だけです」
「し、失礼しました。通夜式の準備が……」
「わかりました。僕も行きます」
まるで、小谷夫妻を少しでも各務家の親族に関わらせまいとしているかのような言い方だった。それじゃあ、と声をかけて係員について行こうとする直方を呼び止め、絹子は問いかけた。
「お通夜って、いろいろ大変でしょう? お手伝いできるならするけど、なんかできることある?」
しかし、直方は静かに頭を振ってみせる。きもちはうれしいけど、と控えめに言いおいてから、きっぱりと続けた。
「来てもらっただけでも十分すぎるのに、これ以上おじさんとおばさんに迷惑掛けれんよ。式が始まるまで、その辺におって。手持ちぶさたで逆に困るかもしれんけど」
言うなり、きびすを返してそのまま歩み去っていこうとする。直方の背中をもう一度呼び止めようとして、絹子は佳久に肩をつかまれ、止められた。
「スタッフもおるし、やってくれるんやろう。
……にしても、俺たちが思っとるよりも遙かに、なおは大人になってっとるな」
夫の言葉に、絹子は釈然としないまま、そうやろか、と呟くしかなかった。
通夜式の席に参列したのは、驚くほど少ない人数だった。もともと直方の高校がこのあたりから電車で30分程もかかる場所にあるせいで、彼の同級生は参列できなかったのだ。葬儀に参列する者はいるだろうが、それも大した数にはなるまい。何せ事件が事件である。犯人の目星も、そもそも凶器が何であるのかさえもわかっていないような事件だ。このあたりを殺人鬼が徘徊している可能性も捨てきれない。
そのため、情報を聞きつけた近所の数名と、遠縁だという男性……灰色の髪に灰色の瞳で、直方と似たような雰囲気を持っていたからすぐにわかった……が一人。後は普通のスーツに喪章をつけた……あれは警官だろうか。その程度の人数しかない、寂しい通夜式であった。
「……まるで、なおちゃんのお父さんとお母さんが誰からも慕われとらんかったみたいに見えてまうやない……」
「事実、そうだったんやろ」
帰り道、とぼとぼと肩を落として歩く絹子に、ボソリと佳久が応じる。年齢柄、葬儀も通夜も経験はあるが、それでもここまで寂しいものは始めてみる。家族葬でもここまで寂しくなることはあるまい。
通夜の席で出される食事はなかった。一晩斎場に留まるべき者が一人だけだったせいだろう。その代わりに全員分の巻きずしが振る舞われ、小谷夫妻も直方の手からその寿司が押しつけられた。
二人とも、特に絹子は、一人この斎場に残るのだろう直方が心配で、せめて一晩一緒にいようかと申し出たのだが、返ってきたのはやはり、やんわりとした、しかし頑なな固辞である。
「本当に、おじさんとおばさんの気持ちは嬉しいんやけど。けどね、僕、おじさんとおばさんの総菜屋さんは、明日もちゃんと営業してほしいよ。もしどっちか一方でもここに残ったら、それが出来んくなるでしょう?」
「……本当に、頑固で強引な性格やわ。なおちゃんの性格、誰に似たんやろ」
ため息混じりにそう言いながら、隣を歩く夫を見る。絹子はそのとき、ほんの少し前に夫が立ち止まり、目の前を凝視しているのに気がついた。
「あなた?」
振り返り、問いかける。しかしその直後、絹子は夫が立ち止まった理由を、背後から掛けられた声で悟った。
「小谷ご夫妻ですね」
その声には聞き覚えがあった。喪主代理として挨拶をした、直方の母方の遠縁を名乗る男である。訛がないその声は不思議なトーンで、紋切り型の挨拶をしているはずなのにどこか違和感を感じるその感覚が、絹子の耳によく残っていた。振り返り、そこに覚えのある、というか、直方によく似た灰色の髪と灰色の瞳、そしてきっちりとした礼服に身を包んだ男をみとめる。しかし、どうして彼がこんなところにいるのか。絹子は怪訝に感じながらも頭を下げた。
「これは……どうも」
「本日は通夜式へのご弔問、心から感謝いたします」
男も絹子に応えるように深く頭を下げる。だが絹子はどことなく、その態度に不審なものを感じた。もっと言うならば、どこか芝居じみた……どこか慇懃無礼な気配、とでもいうのだろうか。
それについては、夫の佳久の方がさらに強く感じていたのだろう、露骨に不機嫌な表情をして、ボソリと応じた。
「……別にあんたの為に参列したんやない。なおのためや」
「あなた!」
思わずとがめるように、絹子は声を荒げる。しかし、男の方は口元の笑みを崩さないまま、ほほえんで続けた。
「きけば、お二方は直方の面倒をよく見てくださっていたのだとか。直方がここまで成長したのは、お二方のおかげです。そちらに関しても感謝を」
それこそいらんお世話や、と、すぐさままた佳久が応じる。
「遠縁かなんかしらんが、あの子が大変なときになんもせんで」
「あなた、それは……」
「お前はだまっとけ。あの子がどんだけ苦しんどったか、あんたにはわからんやろ」
佳久はいらだちも露わに男にくってかかる。とがめはしたものの、絹子としても佳久と同じ気分だった。直方には味方がなかった。マンションの狭い一室で、逃げるすべすらなく痛めつけられた少年の気持ちを癒すために、絹子たちはただ勉強の場所を与え、そばにいてやるくらいしかできなかった。だが、親類であるならば。特に母方の親類であるならば、もっとほかに何か出来たはずなのだ。
男は少しだけ驚いた顔をしていたが、やがてため息をつき、再び笑みの仮面をかぶると、信じ難いことを口にした。
「……ええ、ですから、そのことも含めて感謝を。
私が息子にしてやれなかったことを、代わりにやってくださっていたようですので」
一瞬、絹子の思考は停止した。
今、彼は何をいった?
……直方を、息子と?
「ばかなことを言うな!」
すぐに声を荒げたのはやはり佳久だ。いらだちと言うよりも怒りを声に乗せて、まっすぐに男にぶつける。しかし、周囲の人間が驚いて振り返るのに気づいて声を抑えながら、それでも佳久は続けた。
「なおの父親は死んどるやろが。今日の通夜で直方の母親の隣に飾られとった遺影と遺体が他人だとでもいうんか!」
「血の繋がりを以て【親子】と定義するのならば、そうですね、彼は赤の他人です」
おまえ、とうなって、佳久は男につかみかかろうとする。寡黙な夫の珍しく激昂した姿に、絹子は慌ててその袖を引いた。
「あなた、落ち着いて!」
「お前はこれで落ち着いていられるんか!」
夫の怒りに言葉を詰まらせそうになる。彼の言葉はもっともで、絹子もとうてい納得できるような状況ではなかった。それでもここで騒ぎを起こしてはならない。
「納得できんけど! けど、これはなおちゃんの問題でもあるやないの。毎日のようにマスコミが来とるの、あなたも知っとるでしょう!」
その一言で、佳久の振り上げられた手から力が抜けた。そう、ここで騒ぎを起こして「直方と血の繋がった父親が実は生きている」などという噂がまたマスコミに報道されたら。そうなったら、こんどこそ直方の平穏は脅かされることになる。
おもしろくなさそうに腕をおろした佳久に、男は慇懃無礼な態度で一礼して見せた。それを見た佳久がそっぽを向くのを見て、仕方なしに絹子が男に向き直る。
「本当……なんですか、貴方がなおちゃん、いえ、直方君のお父様だというのは」
ええ、という軽い肯定を受けて、絹子は本格的に天を仰ぎたくなった。いったい、どれだけ直方を苦しめれば気が済むのだろう、この世の中は。
「……証拠は。あるんか」
不機嫌そのものの声で、佳久がうなる。男は肩をすくめ、人をくったような返答をした。
「灰色の瞳に灰色の髪。どちらの親からも受け継いでいるはずのない直方のこの特徴を、私が持っている。……それだけで答えにはなりませんか」
「そんなもん、染めれば終わりやろが」
吐き捨てられた佳久の言葉に、確かに、と呟くと、男はさらに言葉を継いだ。
「ご存じでしたか。殺害された男の血液型はO。女の血液型はAO。直方の血液型はAB。……決して生まれるはずのない血液型です」
絹子は佳久とその事実を突きつけられて黙り込んだ。直方の両親の血液型については知らなかったが、直方の血液型は知っていた。今の男の言葉が本当ならば、直方の父親として報道されている男は、直方の父親ではないと言うことになる。
そもそも、直方の両親を名乗る男女は本来入籍はしておらず、直方の母親は母子家庭を装って生活保護を受けていたらしい。今回殺された男が、間違いなく直方の父親だという証拠はない……いや、それどころか、「父親でない」可能性の方が遥かに高い。
男はさらに畳みかけてきた。
「ちなみに、私の血液型はAB。殺害された男と私、どちらがより直方の父親として違和感がないか、おわかりでしょう?」
違和感がないどころか、それでは疑いようがないではないか。
絹子は佳久と顔を見合わせ、そして静かにため息をつくしかなかった。