少年の目
「おばさん、」
レジを終えて客を送り出した直後を見計らったかのように声をかけられ、小谷絹子は振り返った。視線の先で、黒いブレザーの学生服をまとった少年が、両手に唐揚げが盛られた大皿を抱え、困ったように立ちすくんでいる。
「これ、揚がったから持っていけって、おじさんに言われたんやけど」
「あらあら、ありがとうね、なおちゃん」
勉強の途中で手伝えと言われて、わざわざ立ってくれたのだろう。全く、夫にはしばらく勉強に集中したいだろうから声をかけるなと言っておいたはずなのだが。
しかし、少年は複雑そうな表情を浮かべ、勉強を邪魔されたことではなく、全く別の不満を口にしたのだった。
「『なおちゃん』か。いい加減その呼び方、止めてくれんかな……? まるで僕、女の子みたいやん」
「なおちゃん」こと各務直方は小谷夫妻が営む総菜屋の近所にすんでいる高校生である。一般的な男子高校生の身長をさらに15センチほども下回る背丈に、育ち盛りにしては華奢な印象の強い体躯を、この県下屈指の名門公立高校の制服に包んでいる。
普通、名門と言えば私立の高校を想像するかもしれない。しかし都会と違い、このあたりの地域ではいまだ私立が公立の滑り止めにされる。そんな中、この高校の制服を身にまとうことを許されるというのは、高校生にとっても、その親にとっても、一種のステータスであった。
それはそれで、しっかりとした教育を受けてきているもの……と思われがちだが、いや、大半の学生はそうなのだが、残念なことに直方の場合はそうではない。
「こないだの模試の結果……もう二人には見せた? 全国の総合順位で、トップから10番以内に収まるなんて、凄いことなんやろ?」
控えめに絹子が問いかけると、直方は指示された場所へ唐揚げの大皿を置きながらため息をつき、諦めの多分に混ざった笑みを浮かべて見せた。
「そんな結果、あの人たちが興味持つ訳ないやん」
冷め切ったその言葉に、絹子も同じくため息をつき、そうやね、と小さくつぶやくしかない。直方は何でもなさそうな表情に戻って肩をすくめると、その後困ったように苦笑した。
直方の両親は直方のことを愛していない、と言うのが、直方の主張である。いわゆる、育児放棄というのが、直方の幼い頃からすでに起きていたという事だった。母親は母親であるという自覚がなく、今まで一度も直方の親らしいことをしたことがないらしい。その上父親は目が合う度に直方の顔が気に入らない、態度が気にくわないと手をあげるので、最近ではまともに顔を合わせないように工夫しているというのだから悲しい話だ。
だが、それだけではない、と絹子は確信している。
直方はうまく隠しているが、彼の背中にときおり、ミミズ腫れやひどいやけどの後が見えることがある。まともに治療しても痕になって残るに違いないと言うくらいひどいものだ。夫に強く止められはしたものの、二人きりならきっと問いつめていたに違いない。……誰がやったかなど、疑うべくもないのだが。
思えば、絹子が直方と知り合ったのもおそらくそういう状況がきっかけだったに違いない。家に帰ろうとせず、ランドセルを両手で抱えて商店街をさまよっていた直方に声をかけ、そのまま総菜屋の売れ残りの唐揚げを振る舞ったのが最初である。以来、小谷夫妻は直方を本当の息子のようにかわいがってきたし、直方もまた、二人になついてくれているという少なからぬ自負があった。小谷夫妻には子供がない。不妊治療を受ける事を望まなかったために、未だにどちらにその理由があるのかわからないが、それでももし子供がいたらと考えてしまうときはある。そのせいでここまで直方に感情移入することができるのだろう。しかし、だからこそ、絹子は心配でならないのだ。直方は賢い。成績の問題ではなく、一見関係ない情報や知識をつなげ、新たな情報や知識を得るだけでなく、それらの知識や情報をうまく利用するすべに長けている。その賢い直方がいつか、その賢さを悪用して、両親への怒りを募らせて何か大きな間違いを犯してしまうのではないかと。
いいや、と絹子はこっそりと頭を振った。本当の息子のようになついているこの子を疑うものではない。それに、そうならないように導いてやることができるとすれば、それはもう、自分たちしかいないはずなのだ。
絹子は背中越しに直方の肩をたたくと、振り返った直方の死角から揚げたての唐揚げを摘み、その口に放り込んでやった。突然の熱ところものさっくりとした触感に瞠目し直方が何か言い掛かるのを、その唇に人差し指を押し当てて黙らせる。困ったように眉を寄せ、それからゆっくり咀嚼を始めた直方に満足して指を放すと、呆れたような声で直方がとがめてきた。
「おばさん、これ売り物やろ。僕お金持ってないんやけど」
「そんなこと気にしんの。全国模試トップ10のお祝いにとっといて。好きやろ、うちの唐揚げ」
好きやけどさぁ、とつぶやくが、直方はそれ以上反論しない。全国模試上位のお祝いにしては安すぎるかもしれないが、直方もここで豪勢に祝ってもらうことなど望んではいないだろう。
直方は冷静を装いながらも、まんざらでもなさそうな顔をしている。直方が初めて食べたときから、この店の唐揚げを気に入ってくれているのを、絹子は嬉しく思っていた。もしこの子が大学に合格し、親元を公然と離れられる立場になったら、そのときはそれこそ豪勢に唐揚げパーティをしてやろう。絹子はそう思って、何気なく夕暮れ時の店の外を眺めた。
見慣れぬ者を発見したのは、そのときである。
黒いフードの男二人。いや、男かどうかもわからない。性別もよくわからない人影が二つ。うまく形容できないが、それがこの商店街にふさわしくないものであるということを何となく感じ取って、絹子は肩をふるわせた。何かとてつもなく、不吉なものを感じさせる気配二つ。
絹子は気味が悪くなり、ついで直方のことを心配した。自分は商店街から外へでることなどほとんどないが、直方は商店街の外にあるマンションの住人だ。その上直方の父親は悪い仕事をする人たちと関係があるという。直方の母親も夜を売る仕事をしているだけに、彼に何か悪いことが降りかからないか心配だ。
「……最近何かと物騒やからね、帰りは気をつけるんやよ」
いいながら、絹子は傍らの直方を見る……見て、そして絶句した。
直方の瞳はまっすぐに商店街の外を見つめている。しかしその色は、絹子が知っている直方のそれではなかった。冷たく、どこか凶暴で、そして感情のこもらない……まるで、爬虫類のような瞳。そして口元に刻まれているのは確かに、笑みだった。
絹子は息を止めて直方を観察しようと試みる。まるで見たこともないような、別人が乗り移ってしまったかのような恐ろしい表情をしたこの息子同然の少年が、何かの見間違いではないのかと、必死になった。
「……? おばさん、僕の顔になんかついとる?」
……が、振り返った直方の表情は、いつも通りの飄々としたものだ。ふと目をやれば、黒いフードの二人組もすでに、影も形もなくなっている。絹子は慌ててごまかした。
「ん? ううん、なおちゃんっていい男になったなぁって思っとったとこ」
えー、と照れたような、呆れたような声をあげて、直方は両手を腰にやる。
「そう思うんなら、せめてその『なおちゃん』って女の子みたいな呼び方、やめへん?」
僕一応16歳なんやけど、とうそぶく少年の肩を抑えるようにたたきながら、絹子は笑った。
「おばさんとしては親しみがあって好いと思うんやけどなぁ、だめ?」
「だめー」
絹子の手から逃れようとしながら、直方はかわいげのないことをいう。それでも、いつも通りの直方の姿に、絹子は自分に言い聞かせていた。あのときの直方のあの瞳は、何かの見間違いなのだと。
……しかし、その日の夜。
絹子の悪い予感は、表面上全く別の形で現実のものとなったのである。