彼はいますよ
短編「父はいますよ」の関連作ですが、未読でもお楽しみいただけると思います。
「お姉さんイカすねぇ。付き合ってる人、いる?」
よくある質問。
これくらいの年齢だと挨拶代わりに聞かれることも少なくない。
だから、いつも通りこう答える。
「いますよ」
ここはお気に入りの喫茶店。静かで温かくて、コーヒーの香りがただよっている。
アーガイル柄のニットを肩に掛け、セカンドバッグを小脇に抱えた、いかにも自分に自信がありますって感じの若者が正面の席の椅子の背に手を掛けた。風間トオルを意識したナウいキレカジ系ファッションは、石を投げれば当たるくらい街に溢れている。
「相席、いい?」
「ですから、彼がいます」
「つれないなぁ、相席くらいいいじゃない」
はっきり断ったはずなのに、アーガイルの若者は正面の椅子に腰を下ろそうとした。
そしてもちろん弾かれた。
――だからいるって言ったのに。
相方の機嫌がひどく悪くなるであろうことは目に見えていたので、私は残っていたコーヒーをくいと飲んだ。
「私はもう行きますので、こちらの席をどうぞ」
そう言って立ち上がり、伝票を手に取る。
アーガイルの男性は床に尻もちをついたまま、何が起こったのかよくわからない様子でぽかんと私を見上げていた。若者の座ろうとした椅子には先客がいて、その先客はたぶん少し腹を立てていたから、力いっぱい押しのけたのだろう。見えない手に押しのけられた若者からすれば、狐につままれたような気分というところだ。
「ごきげんよう」
後ろについてくる彼のごきげんの悪さを感じながら会計を済ませ、カランというドアベルの音とともに店の外に出た。
ほんの少しだけ長くドアを押さえておくのは、いつものこと。
彼がちゃんと私の隣に来た気配を確認してからドアを閉める。
「不愉快な奴だった」
ぼそり、低い声が耳元に落とされる。
「そう? 私は結構愉快だったけど」
彼に押しのけられたときの表情ときたら。
「どうせ相席を許したらポケベルの番号を教えろとか言い出したに違いない。ろくでもないやつだ」
「というよりも、あなたは流行の服装の人が嫌いなんでしょう? 自分が着られないから」
「着られないわけじゃないよ。着ることに意義を見出せないだけで」
人通りの少ない道を、ぼそぼそと話しながら歩く。
小声でも、彼の声は低くてとても素敵だ。不機嫌な時に余計に低くなることには、きっと彼自身も気付いていない。彼の声を聞いているだけで穏やかな気持ちになるから、声優になったらいいのにって時々思うけど、彼の容姿では少し難しいみたい。
「家に帰ろうか」
「出かけたいって言ったのはあなたなのに」
「たまには志乃が出かけたいだろうと思ったからさ」
「ありがとう。でも私は、あなたと気軽に話せる家の中の方が好きなの。だから家に帰るのには大賛成。温かいココアを飲もう」
「うん」
彼の手が、私の手をとる。
見えない手に引っ張られて私は足早に歩き出す。
急ぎ足だけど、私が転ばないように気遣ってくれているのが手から伝わってきて、心が温かくなる。
「あなたの手、いつも温かい」
「志乃の手はいつも冷たい」
街路樹からひらり落ちた葉が一枚、彼の頭に乗った。傍目には空中に浮いているように見えるその葉を、今日は払う気になれなくて、家に帰るまでずっとそのままにしておいた。葉っぱ一枚と、なぜか腕を前に突き出したまま歩く女性が一人。それが周囲から見た、私たち二人の姿。
家に着くと、おそろいのマグカップにココアを作った。湯気の立ち昇るそれを手にソファーへ向かう。
「はい、どうぞ」
彼のいるであろう方向にマグカップを差し出した。すぐにカップの重さが無くなって、私が手を離してもカップは宙に浮いたままになる。マグカップからまっすぐ立ち昇っていた湯気がふわりと散ったところを見ると、どうやら彼がココアを冷まそうとしているらしい。
「機嫌は直った?」
マグカップの位置から大体の距離を測り、ソファに腰かける。
ビンゴ。
彼の隣、ぴったりと寄り添って、でも、彼の上に乗り上げることのない、最適な位置に座ることができた。
透明の手が私に触れる。
触れられているのに見えないのは、今でもやっぱり不思議。
だけど彼はちゃんとそこにいて、温かくて、力強い。
私は目を閉じて手の感触を味わった。
「ねぇ、世界一のハンサムさん」
「そう言ってくれるのは志乃だけだ」
「みんな気づいてないだけでしょう」
「だいたい見えてもないからな」
クスクス。
「独り占めできるのは結構いい気分だけど」
「でも俺は志乃を独り占めできない。今日で何度目か。一緒にいるのに男に声を掛けられるなんて屈辱だよ」
目を閉じたまま手探りで彼の顔に触れ、鼻の先をきゅっとつまんだ。
「私は一度も他の人に靡いたことなんてないでしょう?」
「志乃は誠実な人だからね」
「それなのに心配なの?」
「心配なんじゃない、不甲斐ないんだ」
「何が?」
「言うまでもない。自分がシースルーなことだよ。志乃に声を掛ける男たちは、俺のことなんてアウトオブ眼中なんだから。あらゆる意味でね」
この傷つきやすい透明な人は、時折こうして子供のようなことを言い始める。
「でも私は、自分に声を掛けてくる男性たちなんて眼中に無いの。眼中にあるのはシースルーなあなただけ」
見えていない彼が「眼中にある」と言えるのかどうか、よくわからないけど。
言うまでもなく、これまで出会った中で彼はダントツで個性的。優しくて、穏やかで、時に情熱的で。彼と一緒に過ごしていて不快な思いをしたことは一度もない。
代わりに見えなくて不安な思いをしたことはあるけど、手を伸ばして触れられる距離にいれば大丈夫。
「奇特な人と出会えて嬉しいよ」
幾分機嫌を直したらしい彼の声に、笑みが混じる。その柔らかな声を聞きながら、私は出会った日のことを思い出していた。
あの日はすごく天気が良くて、お気に入りのハンドバッグを片手に駅までの道を歩いていた。角を曲がったところで誰かが勢いよくぶつかって来た。ドンっという衝撃と共に私は尻もちをついて転んでしまって、持っていたハンドバッグの中身が路上に散らばった。買ったばかりのルージュに、コンパクトに、ハンカチに、同僚に海外で買ってきてもらったセリーヌのお財布に。
「ご、ごめんなさい」
何が起こったのかよく理解できないまま、痛む頭を押さえて謝罪を口にする。ぶつかって来た人はチッという舌打ちと共にすぐに立ち去ってしまって、残された私はしばし呆然とした。
――ぶつかって来たのはあの人で、私じゃないのに。
尻もちをついてしまったのも、バッグの中身をぶちまけたのも恥ずかしくて、散らばったものを両手でかき集めてバッグに入れ、立ち上がって歩き出そうとした。だけどすぐに、足首に鋭い痛みを感じてよろけた。
「あっ」
とっさに目をつぶる。
地面に膝を打ちつけると思ったのに、柔らかい感触が私を受け止めた。
体温と、人の形。転びそうになった私を誰かが抱きとめてくれたのだとわかった。
ギュッと閉じていた目をゆっくりと開く。
「え?」
何も見えない。
大きく傾いだ私の体を支えているはずの人が、見えない。
だけど確かに、そこにいる。
再び目を閉じる。
私のお腹の辺りを支えてくれている腕は、力強くて、きっと筋肉質。腕の当たる角度からして、背は高いのだろう。
体勢を立て直し、私は目を閉じたままその腕にすがりついた。
「ありがとうございます」
「えっ」
「助けてくれて、ありがとう」
「俺のことが……見えるの?」
押し殺したような声が返ってきた。
だから私も、唇を動かさずに囁き返す。
「目を閉じていればね」
それが私たちの始まりだった。
懐かしく思いながら、さっき入れたばかりのココアを一口飲んでテーブルに置き、目を閉じる。
目を閉じていれば、何もかもが普通。目を閉じているから彼の姿は見えなくて、だけど彼は私の隣にいる。
「目で見えるものなんて、案外に少ないんだから」
母の口癖を、今度は私が口にする。
彼は何も言わない。ただ、私の肩に回された腕が賛同の意を表している。
「あなたが母と一緒に家に帰ってきたときは、本当に驚いた」
「俺もだよ」
「そうだよね」
初めて会ったあの日は、連絡先を交換することもなく、二言三言話して別れた。
道端でひとり呟いていると思われるのは嫌だったし、私の電話番号を書いたメモを彼に押し付けるわけにもいかなかった。紙切れがふわふわと空中を漂うことになってしまうからだ。
それでも、何とかして彼の連絡先を聞いておけばよかったと、後から何度も後悔した。
きっと自分の存在を隠して生きている彼が、足首を痛めて転びそうになっている私を支えるために、自らの秘密を危険にさらしてくれたのだ。その優しさは、久しぶりに私の心に穏やかな火を灯した。
「驚いたけど、でもね」
「運命だと思った?」
「うん。どうしてわかったの?」
「俺と同じだから」
「そっか」
照れくさくて、足の指をにぎにぎする。
彼と二度目に会ったのは、わたしの実家だった。
あれは寒い日だった。
仕事が普段よりずっと早く終わって家に帰ると、いつもは家にいる母がいなかった。心配でついそわそわして、狭い部屋の中を行ったり来たり。母が一人で出掛けることは滅多にないからだ。
玄関先から人の話し声が聞こえ、私は慌てて玄関に向かった。ちょうど母が引き戸を開けて入って来たところだった。
「ごめんなさいね、本当にありがとう」
「いいえ、とんでもない」
母が誰かにお礼を言う声がした。
それに答える、誰かの声も。
「お母さん……?」
「あら、志乃。驚いた、帰ってたの? こんなに早くに珍しい」
「どこへ行ってたの?」
「デパートへね。行きはタクシーで行ったんだけど、帰りは思い切って電車に乗ってみたの。そうしたら、乗り換えの駅で迷ってすっかり往生してしまって。こちらの方が声を掛けて下さらなかったら、本当にどうなっていたことか」
その人はたぶん、母を家まで送り届けたら黙って去ろうと思っていたのだろう。
ただ、母が彼の腕に掴まっていたから去れなかったのだ。
彼を見て、いや、彼が見えなくて、私の心臓が暴れ出す。あの人ではないか、そう思ったから。
「あの……もしかして、あの日の」
母の隣の空間に恐る恐る話しかけると、そこから静かな返事が返ってきた。
「……ええ」
その瞬間、心が躍りあがった。
奇妙な緊張は、彼が見えないからではなかった。彼から私が見えるせいだった。
しまった、化粧がもうかなり崩れてしまっている、とか。
今日の服装はまぁまぁお気に入りだから悪くないかもしれない、とか。
少しでもよく思われたくてパンクしそうになっている私に、母が声を掛ける。
「志乃、お知り合いだったの?」
「あ、うん。この間ね、道で人にぶつかっちゃって。立ち上がった時に足をひねって転びそうになったのを支えていただいたの」
「そうだったのね」
母は白い杖を靴入れに立てかけて手探りで框に座り、靴を脱ぐ。
「お礼にお茶でもいかがですか。母娘共々お世話になってしまったようですから」
母の盲いた目が彼の方向をとらえる。
彼が言いよどむ気配があった。
「……ご迷惑でなければ」
私に向けられた言葉だとわかったから、私は大きく首を横に振った。
「迷惑だなんて。母を助けて下さって本当にありがとうございました」
――目に見えるものなんて、案外に少ないんだから。
目の見えない母には、きっと最初から彼の優しさが見えていたのだ。
私が恋に落ちるのに時間はかからなかった。
いや、もうすでに落ちていたのだと思う。
その日以来、彼はときどき私と母の住む家に遊びに来てくれるようになった。
母を一人残して出かけるのが不安な私と、優しい彼がすっかりお気に入りの母と、他人の目がある外では好きに振舞えない彼。みんなにとって好都合だったから、私たちはいつも三人で楽しい時を過ごした。時折母の目を盗んで彼にキスをした。母の目が見えていたとしても、私と彼のキスが目撃されることはないのだから、母の目を盗む必要なんてなかったのだけど。
「俺が透明なことをあんなに自然に受け止めてくれたのは志乃だけだった」
「もちろん戸惑うこともたくさんあったけどね」
時折、大切な人が見えないという事実に打ちのめされもした。
ただ、その度に気付かされた。
母はもうずっとその世界を生きてきたのだ。
大切な人だけではない、すべてが見えない世界を。
彼の存在は、私の世界と母の世界の、不思議な架け橋になった。
母の世界を疑似体験した私は、母に対してそれまで以上に優しくなれた。
そしてまた、母に感じていた「見えること」への負い目を手放すことができた。
「週末に志乃のお母さんに会いに行こう」
「うん。どうしたの? 急に」
「会いたくなった」
「そう?」
「うん。報告したいことがあって」
「報告? 何を?」
肩に回されていた彼の腕が離れ、気配が遠ざかる。
彼の姿は見えない。
「どこ?」
私は立ち上がった。
離れると急に不安になる。
彼が私から離れることを望んだら、彼を見つけられる自信が無いのだ。
街中で彼を捜して立ち尽くす夢を、一体何度見たことだろう。
「ねぇ、どこにいるの?」
どくんどくんと、鼓動が早くなる。
「ここだよ」
寝室から声がした。そちらを向くと、彼のいる場所がわかった。
「え……」
わかったのは、彼が手に小さな物を持っていたから。
「それって……」
「たとえば、夜景の見えるレストランで隠し持っていた指輪を取り出すみたいな」
彼が言った。
「そんな風にできたらいいけど、『ベタ』は俺にはすごく難しいから」
「どうやって……指輪を?」
「顔に志乃の化粧品を塗って、手袋とマフラーとマスクとサングラスと帽子の完全防備で買いに行った」
「それはさぞかし……」
「怪しまれただろうって? お察しの通りだよ」
彼は少し退屈そうに笑った。
「もしかして、だから……」
「そう。だから、冬になるまで待たせてしまった。真夏にマフラーをして指輪を買いに行くわけにはいかないし、指輪くらいはきちんと用意したかったから」
彼はそう言いながら私の前に立った。
これは小箱の位置と彼の声の方向から察しただけだから、たぶんだけど。
「志乃。俺はこんなだけど、結婚してくれる?」
「断らないって、わかってるでしょう?」
「どうかな」
「あなたに慣れちゃったら、他の人なんて視界にうるさくて。邪魔だもの、きっと」
彼が低く笑った。
「それはそうだろうな」
「だから答えはYESだよ」
「よかった」
透明の指が、透明でない私の手を取る。
そして、透明ではない指輪をはめてくれる。
その光景はとても感動的だった。
指輪がひとりでにするすると動いて薬指の付け根に辿りつく。そして指輪は、まるで最初からそこに居たみたいな顔で居座った。
「お母さん、彼と結婚することになったよ」
次の週末、物言わぬ石の前に彼と並んでしゃがみ込んだ。たとえ傍から見たら女性が一人で手を合わせているのだとしても、そんなことはどうでもいいのだ。彼は確かに私の隣にいるのだから。
「お母さんは、あなたが透明だってことを最期まで知らなかったね」
しゃがんだ姿勢から立ち上がろうとして一瞬よろけた私の背中を、透明の手が支えてくれる。力強くて、温かい手。母を失ったとき、誰よりそばで支えてくれた。
「いや、知ってたよ」
「え?」
「志乃のお母さんは、知ってたよ」
「どういうこと?」
「一回だけ、『お揃いね』って言われたことがある」
「お揃い?」
「『あなたも見えない人で、わたしも見えない人だから』って」
母は見えない人だった。
彼も見えない人だ。
まるで違うのに、おんなじで。
「何だ、そっか」
世の中には、見えない人も見える人もいる。
違う意味で見えない人も、見える人も。
「でも、『目に見えるものなんて案外に少ないんだから』って」
「本当に、そうだよね」
愛情は目に見えない。目で見て計ることのできないそれは、時にひどく悩ましい。
だけど私には彼の姿も見えないから。見えないものでも信じられる。彼の愛情が見えないことを、私は当たり前に受け止められる。
だってほら。目を閉じたら、ちゃんと彼の姿がわかる。彼の愛情も。
目を閉じれば、あなたにも愛が。
見えていないだけで、ちゃんとそこに。
世の中には、見えない人も見える人もいる。
違う意味で見えない人も、見える人も。
それに、半分くらい見える人も。
それに気づくのは、娘を授かってからのこと。
志麻と名付けた娘は、たくましく半透明人間という運命を生きている。