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RED EYE

RED EYE

作者: 志摩

 レッド・アイ

志摩



 真っ暗な闇の中、私はなぜかここにいた。

 またこの夢か。

 何度も見たこの夢には、いつも一人の少女がいる。

 白いセーラー服、おかっぱ頭。じっと私を見つめる眼が光っているのだ。

 真っ暗な闇の中で、その少女全体がぼんやりと光を宿している。

 その恐怖で私はいつも魘されるのだ。

『あの男は嘘吐きよ』

 眼の前のその子は口を開いていないのに、どうしてかそんな声が聞こえた。

『あなたは騙されているの』

 ぼんやりと、少女の背後に人影が見えた。それは彼の後ろ姿、そんな風に見えた。

 これは夢だ、夢なんだ。そう言い聞かせるが、どうにも気になってしまう。

『あの男は嘘吐きよ』

 少女が、私に向けて言っているのは明らかだった。

 少女の後ろの影がだんだんとはっきりした形になり、それはどうしても、彼の後ろ姿にしか見えなかった。

『別れなさい』

「あなたは何を言っているの?」

 問い返してみるが、返事はない。

 いきなり声をかけてきて、彼氏の悪口を言って。

『その男は最低の男よ』

「そんなこと信じる訳ないでしょう?」

 そこで私は眼を覚ました。

 全身にじっとりと、気分の悪い汗をかいていた。

 時刻は午前四時前。カーテンを開けて見た外の景色は、まだ夜明け前で薄暗い。

 頭がぼうっとしているが、後頭部が重く痛んでいて、再び眠ることはできなさそうだった。

 仕方なく起きて、日記を開いた。

 ボールペンを取り、先の夢について書く。もう習慣になりつつあった。



 ―― 十月 三十一日 金曜日、

 夢に少女が出てくるようになって五日目、辛そうな声で、低く呻いていた彼女が、ついに声をかけてきた。

 毎夜呻き声を聞かせ続け、私を呪い殺すのだろうか、そう思ってばかりいたのに。

 彼女が言ったのは『あの男』という台詞。

 そして、『嘘吐き』だと言う。

 あれはきっと、彼のことを示しているのだろう。

 あの後ろ姿は彼のものだ。

 そして『騙されている』と、一体どうしてこんなことが――



***


 馴染みの喫茶店に行くと、大学生の多い時間らしく、ひどく混雑していた。

 そういう自分も大学生なのだが、元気すぎる彼らのような存在にはどうも近づきがたい。

 ここにいても学校にいても、彼らと距離を置いてしか過ごすことができなかった。いわゆる合わない、ということだと気付いた時に、仲良くすることを諦めた。

 いつからだったか。高校生の時にはもう、周りと自分の違いを感じ、距離を置いてきた。

 カウンターを見ると、いそいそと料理をしている初老の男性が見えた。

「こんにちは、マスター。混んでますね」

「ああ、優子ちゃん。そうなんだよ。今日はバイトの子がいないから。大変で大変で」

 店内を見回し、見えた客は十五人ほどだろうか。一人で回すのはぎりぎりのラインだろう。

 私がいつも座っているカウンターの席には、見知らぬ女子大生が座っていた。そのせいかなんとも言えない寂しい感じがした。

 眼の前にいる唯一の知り合いも、忙しそうで話し相手にはなってくれなさそうである。

 一人暮らしの家に帰るのも、居心地の悪い大学にいるのも嫌でここへ来たというのに。ここでも私の居場所はないのか。

 マスターは私よりかなり年上だが、気が合うし話が合うし、話しているのがとても楽しい。様々な年齢のお客さんが通っていてそれでも仲良く話している。そんなここの雰囲気が好きで、よく来るようになった。

 今日もお話に来たというのに、他の常連さんもいない、マスターも話ができる状態じゃない。

 どうにかしてここにいるには。そう考えてみたら、答えはとても簡単だった。

「手伝いましょうか? 今日は暇なので、私でよければですが」

 メニューはほぼ頭に入っている。しかし問題は人と話すのが苦手なこと。

 勇気を出して口にはしてみたが、実際手伝うとなったらどうしよう。無理でしょうと、そう断られるのも怖い。役に立たないと言われているような気がして。

 しかし私の不安を余所に、マスターは笑った。

「本当? 助かります。よろしかったら手伝ってやってください」

 マスターはよっぽど困っていたのか、私でもいいから手伝いが欲しいようだった。私が必要とされたわけではないだろうに、手伝いが欲しいだけだろうに。それでも嬉しかった。

「カウンターの奥から、裏の控え室に行けます。そこに荷物を置いてください。多分エプロンが置いてあるのでそれを着て……」

 料理を作っているだけで精一杯、私と話している間にも、お客さんに呼ばれてしまう。

「ごめんね、先にあっちのテーブルの注文聞いてきて」

 そう言われ伝票を渡された。緊張する暇もなく、私は手伝うことになった。

 


「いやあ、ほんとに助かりました。今日はありがとう」

「いえ。こちらこそ、良い経験になりました」

 喫茶店は午後三時までなのに、ダラダラしたい大学生はなかなか帰ってくれなかった。

 遅い昼ご飯に来たお客さんもいたりして、結局閉店時間ぎりぎりまで私も忙しく働くことになった。

 お店を閉めてから、やっと一息吐くことができた。

 カウンター席にかけて休憩していると、マスターが紅茶を入れてくれた。

「お昼に来たんですよね? 遅くなりましたが、これから一緒にどうですか?」

「もちろん!」

 やっとマスターとゆっくりと話ができる。今日はこのために来たのに、目的を忘れるところだった。

「マスター、今日はお話に来たんです」

「おやおや。今はもう暇ですから、なんでも聞けますよ」

 マスターは笑顔で受け入れてくれた。親でも友人でもないよく分からないこの距離感が、私にはとても居心地が良かった。

「マスターは小説とかお好きでしたよね? こういうお話、好きそうだなと思って話すんですけど。あのですね、笑わないで聞いてくださいよ。私の知り合いのいる高校で、幽霊が出るらしいんですよ」

「え?」

 マスターは驚きつつも料理する手を止めない。

 その様子があまり興味を持っていないように感じられ、どうにか気を引きたくなる。私は躍起になって、一気に話を進めることにした。

「学校で出るっていうその幽霊、実はつい先日亡くなったはずのクラスメイトらしくて。呪いだなんだって噂が広まって、学校では大騒ぎになっちゃって」

 炒め作業をしていたマスターはやっと手を止めた。どうやら私の策にはまってくれたらしい。

「もうちょっと、ゆっくり話してくれませんか? 詳しく聞きたいですね」

 そう話を遮ったマスターは、急いで炒め物を終わらせ、私の隣に座った。


 ――ある時、彼の高校のクラスメイトが事故死した。

 思えばその頃から不思議な現象が起き始めていたそうです。

 誰かに呼ばれるのに、誰も呼んでいない。

 廊下に足音が響くのに誰もいない。

 誰もいないはずの教室に人影が見える。

 そんなことが起きていたそうです。

 最初は彼も面白がっていたそうなんですが、そのうちそれが死んだはずのクラスメイトだっていうことになって。でも誰もそう信じなかった。

 学校の怪談なんてどこにでも、いつの時代でもある話だから。

 でも、彼は見てしまったって。

 忘れ物を取りに行った放課後の教室。

 もう座る人はいなくなった、その席に座っている人影。

 誰かがふざけて座っていると思ったんだって。それで話しかけてみたら、振り返ったのは死んだはずのその子だった。

 驚いて忘れ物も取らずに帰ってきちゃって。

 それ以来彼の前にその子がよく現れるようになったって。

 

「その子は他の子の前にも現れるの?」

 マスターは興味津々に問うてきた。

 私は話すのに夢中になって、マスターは聞くのに夢中になって、飯を食べずに話していた。

「そうみたいですよ。何人も見てるようなので」

「何か伝えたいことでもあるのかな?」

「え?」

 そこまで考えたことはなかった。彼の言っている話を冗談くらいの感覚で聞いていたため、そこまで深く考えることもなかった。そもそも本当の話だと確認もしていない。

「何事もないならいいけど。その子は何か困ってないの?」

「別に困っている様子はなかったけど」

 彼も信じられない、そういう感じで話していたから。

「そうですか。また何かあったら教えてください。気になります」

「了解しました」

 それ以上持っている話はなかったため、この件について話すことはもうない。

 私たちはご飯を食べ、今日は疲れたという話をしてお別れした。


***


 眠るのが怖かった、昨日見た夢でも、また彼女が声をかけてきた。ずっと譫言のように声をかけてくる。

 涙を流しても、誰も信じてはくれない。話を聞いてくれる人なんていない。

 誰か助けて、あの少女から守って。

 少女がずっと言い続けるのだ、『彼は嘘吐きだと』。寝ても覚めても、頭の中にはその言葉が居座り続けた。

 私には彼しかいないのに、その彼を奪おうとする。

 私が彼を信じきれていないから、こんな夢を見るのだろか。

 ベッドでひとり、膝を抱えて震えているしかない。

『大丈夫』

 突然声が降ってきた。

 顔を上げ、辺りを見回しても何もない。

 ついに幻聴まで聞こえるようになったのか、そう項垂れた。

 日記に手を伸ばし、昨日のページを開く。



 ―― 十一月 三日 月曜日、

 夢に少女が出てくるようになって八日目。

 また出てきた彼女は同じ言葉を言う。

 眠らないようにしていたのに、いつの間にか夢を見ていたのだった。

 怖い、眠りたくない、何を伝えたいの、どうして欲しいの、どうしてあの子は私に――

 

 そこで終わっている。

 もう日記をつけるのはやめようか。両親に話してもおかしくなったと言われ、学校にも行けずに部屋で一人きり。

 ふっと風が吹き、日記を一枚めくった。

 窓は閉まっているはずなのに、もしかしてあの少女が現実に出てきたのではないか。そう思ってしまったら震えてきた。

 さらさらと、音が聞こえてくる。一体どこから、辺りを見ても変化はない。

 そっと後ずさった手に何かが触れ、小さな悲鳴を上げる。

 反射的に見てしまったその先には、日記帳があった。風でめくれた新しいページ、そこには『大丈夫、貴女を守ってあげましょう』私の筆跡ではない、誰かの言葉が書いてあった。


***


 その日はお昼の混雑を避け、夜になってからマスターに会いに行った。

「こんばんは」

 今日もいつもいるお客さんはいなくて、あまり見たことのない人ばかりだった。

「いらっしゃい優子ちゃん」

 カウンターのお客さんと話していたマスターが出迎えてくれた。

 入ってすぐの席にいた女の人が電話をしていたので、笑顔だけで挨拶した。

 空いている席が彼女の隣だったので、そっと座った。

 マスターがこっちへ来て、おしぼりを渡してくれる。

 隣の女性が一瞬。こっちを見ると顔を伏せた。

「ええ。他校の女の子なのね、詳しく調査するわ」

 気を使わせてしまったようで、そう言って切ってしまった。

 気分を悪くさせただろうか。少々居心地が悪く、居住まいを正す。しかしどうにもそわそわする。

「可愛い女の子ね。大学生?」

 女性が声をかけてきた。マスターに紹介しろと言わんばかりに問いかけた。

 ぐいっと顔を近づけ、笑顔を向けてきた。すごい美人さんで、話しかけられたこっちがドキドキしてしまう。瞳が赤い、吸いこまれそうな深い赤だった。

「ほらさっき話してた。幽霊の話を教えてくれた子だよ」

「なるほど」

 私がいないのに、私の話をしていたようだった。

 いや、私ではなく幽霊の話なのだが。

「酔ってない時に会いたかったわ」

「それほど酔ってもないでしょうに」

 笑っている様子がとても親しそうで羨ましい。どうにかその輪に入っていきたい。友人と呼べる人がいないと言っていい私には、年齢の近そうな女性と話せるのは貴重な機会だった。

「お酒、お強いんですか?」

 そう問うて様子を見てみる。すると女性は優しく笑ってくれた。

「嗜む程度です」

「彼女は水のように飲みますよ」

 頑張って作った笑顔で言った私の言葉は、返事をもらえたがマスターにすぐ追い払われた。あまりに食い気味だったので、すごく身を引いてしまった。

「そんなこと言わないの。ほらもう、怖がってるじゃない」

 どうやらお酒のせいと思ったらしい。私はあんまり飲めないので、怖いのは確かだが。

「今日はこの前の話の新情報でも、持ってきてくれたのかな?」

 気を遣ってくれたのか、マスターが話題を振ってくれる。

「いえ。なんだかあまり話してくれなくて。聞いて欲しくないようで」

 苦笑いを返し、心底申し訳ないと思う。

「あらあら、貴女も苦労してるのねえ」

 女の人が、私を見透かしたように嗤った。瞳が暗い、冷笑のような。

「そうですね、苦労……。ちょっと今日はマスターに相談があって」

 マスターの方を躊躇いがちに見上げると、優しく見守ってくれていた。しかし彼の口から溢れたのは、

「今日は雲母(きらら)さんがいますから、彼女に言ってみたら?」

そんな言葉だった。

「雲母さん?」

 初めて聞く名前だった。今日来ているお客さんの誰かだろうか。首を傾げていると溜息が聞こえた。

「あたしに振るの?」

 それはすぐ側からだったようで、隣の女性がそう言った。

「良いでしょう、なんにしても経験豊富なんですから」

 マスターがそう言うと、女性は声を高くして笑った。

 私の気持ちは置いていかれて、今日はこの女性に巻き込まれている気がする。

「では改めまして、雲母です。よろしくお願いします」

「優子です。よろしくお願いします」

 まじまじ見ると、お店で何度見かけたことのある女の人だった。長い白髪が印象的で、整った顔立ちのため誰もが惹きつけられるのだ。

「何なに? 私の顔を見つめてないでいいから、話してみなさいな」

 雲母さんは、そう言ってぐいっと顔を近づけてきた。顔を近づけて話すのが彼女の癖なのだろうか、そう思った。

 話さないという選択は許されないようだ。

 同世代の女性と話せるのは嬉しいのだが、私の悩みを聞いてもらうとなると、少々恥ずかしい。こんなことで悩んでいるなんて、そう馬鹿にされてしまいそうで。

 諦めて相談してみるしかないだろう。

「あのですね、私の彼氏のことなんですけど。最近悩み事があるようで、話をしていてもどこか上の空で。だんだん会ってくれなくなっていて」

「え、彼氏いたの?」

 話を雲母さんに投げたはずのマスターが、素早く突っ込んできた。

「いてもおかしくないでしょう。花の女子大生よ。こんな可愛い女の子に、彼氏の一人もいないほうがおかしいでしょ」

 雲母さんがそう言うが、マスターのその反応こそが正しい。

「だって優子ちゃん、いつも一人でいるタイプでしょう」

 分かっていても、マスターの一言が心に突き刺さり、この話をするのをやめようかと考えた。

 ここで話をしなければ、他に話をする人なんていないのに。そう思うと悲しくなってきて、また話す気力がなくなってくる。

 なんだか今日は本当に、いつになく調子が狂う。

 大学では人と話すのが嫌にで仕方ないが、ここにいる時は、話がしたくてしょうがないとばかりに話す気分になるのに。

 雲母さんという、いつもとは違う環境を作り出すこの人のせいだろうか。

「優子ちゃん、どうしたの? 話さないの?」

 雲母さんが輝いた瞳でこちらを見ていた。

「そうですね。彼氏は年下で、その出会いとかはちょっと置いておいて、さっきの話なんですけど」

「年下なの?」

 またもマスターが突っ込んできて、話が進んでいかない。

「良いじゃない年下、可愛いわよ」

 雲母さんもいちいちマスターに返事をするので、こっちの話がとまってしまう。

「で、なんだったっけ?」

 そのままの調子で話は脱線し続け、相談は全くと言っていいほど進まなかった。



 頭が痛い、どうして。

 眼を覚ますと、ベッドではなかった。そして自分の部屋でもない。

 起き上がり様子を見ると、ここはお店の中だった。ボックス席で横になっていたようだ。

「おはよう」

 声をかけられ振り向くと、カウンターに雲母さんがいた。

「昨日はごめんなさい、お店閉まってからも飲ませちゃって」

 そう言われても、記憶がないため言葉が出ない。喉がカラカラで、声を出そうとしてもかすれてしまった。

「お水です」

 マスターが持ってきてくれた。ありがたく受けとって飲んだ水は、今までに飲んだどんな水よりも美味しかった。ほっと息を吐き、壁にかかっている時計を見ると七時だった。

 何時まで飲んでいて、いつから記憶がないのか。状況が分からなさすぎて、逆に焦りもしなかった。

「昨日の彼氏の悩みって、彼氏の周りでおかしなことが起きてるって話よね」

 昨夜の私は、どこまで話したのだろう。彼氏が悩んでいるとしか、言った記憶がない。

「すいません、どこまで話したか覚えてなくて……」

 雲母さんはにやにやと思い出し笑いをしていた。マスターまでもくすくすと笑っていて、昨夜の私が何か恥ずかしいことをしたのだろうか。そんなどうしようもない焦りが私を襲った。

「彼氏が年下で、超可愛いって」

「自分に似て人と話すのが苦手なところが、守ってあげたくなるとも言ってましたね」

 他にも色々と言ったらしい。いわゆる惚気だろう、こんなにも恥ずかしい思いをしたのは初めてだった。

「まあそれはいいわよ。年頃の女の子にはありがちだし。それよりも彼氏の高校で起きているという怪現象について聞きたいわ」

 今までのふざけた顔とは違い、ひどく真面目な顔で聞かれた。

 そんな顔で問われてもそのことに答えることは躊躇われた。内緒という約束だったから。酔った私はつい話してしまったようだが。

「昨夜も言ったけど、私なら力になれるわ」

 彼女の瞳に見つめられると、どうしても逃げられない。そう思ってしまう。

 言ってはいけないことだと、頭では理解しているはずなのに。口が勝手に開いて言葉を紡いでいく。

「私が最初に聞いたのは、学校で不思議なことが起きるようになったという話でした。


 ――そもそものきっかけは、同級生が突然亡くなったことから始まります。

 学校では交通事故にあった生徒がいました。それが彼のクラスメイトで。仲の良い友人だったため、クラスの友人を何人か集め、葬儀に行きました。その時会った両親に聞かれたのが、学校で何かあったのか、うちの子はいじめられてたりしなかったか。そういう話だったらしいです。

 心当たりがなかったのでそう言うと、それ以上は何も言われなかったらしいですけど。

 それから噂されるようになったのが、その子は自殺したのではないかということ。クラスの子だけでなく、何人もの生徒が葬式で同じ質問をされたみたいです。

 どんな理由で、誰のせいで自殺したのか。そんな話ばかりがされるようになっていました。

 そんな時のことでした。

 死んだはずのその子が学校に出る、という不思議な話が広まりだしたのは。

 誰が見たのか分からない話でした。だから誰も信じようとはしなかった。

 彼も自分の眼で見るまでは。


「じゃああなたの彼氏さんが、死んだはずの友人を学校で見た。っていうことが始まりなわけか」

「ええ」

 雲母さんはなんだか腑に落ちない顔をしていた。

「その死んだ子って女の子?」

「いえ、そこまでは知りません」

「そっか。まあ貴女の彼氏さんに会ってみないことにはどうにも言えないわね」

 彼氏が何かに悩んでいて会ってくれないという趣旨の相談だったはずなのに、いつの間にか幽霊の相談になっていた。彼の悩みを解決すれば、自然と元のように戻れるという話だろうか。

 一体どうしてこうなったのだろう。雲母さんと会ってから調子が狂ってばかりだ。

「私が勝手に心配していることなので。幽霊のことで会ってくれと彼を呼び出すのは……その」

「それなら問題ないわ」

 楽しそうに私の手を取ると、なぜか口づけを落とす。

「え?」

「デートしててくれればいいわ。会えば充分だから」

 眩しいまでの見事な笑顔でそう言った。その自信はどこから来るのだろうか。なんだか逆に不安になってしまう。

 そもそも彼氏が会ってくれないという相談だったのを覚えていないのだろうか。

「――っ」

「雲母います?」

 その言葉を発しかけた寸前、戸が開いて男の人が入って来た。

 その人は私の側にいた雲母さんを見ると、鬼のような形相で近づいてきた。

「連絡もなく帰らないで! 朝になっても帰らないで! 俺は死ぬところだったよ!」

 女性の割に背が高い雲母さんよりも、だいぶ背が高い男の人だった。怒っていることもあり、迫力満点だった。

 雲母さんが首を傾けて、謝っていた。

「ごめんね、ちょっと新しい仕事が」

 そう言っている途中で、その男の人はいきなり雲母さんを抱きしめた。

 よっぽど心配だったのだろう。雲母さんの私生活は一体どうなっているのだ。関係ない私でさえ少々心配になった。

黒鉄(くろがね)、ごめんって。危なくなる前に帰るつもりだったって」

 雲母さんの弁解は聞こえているはずなのに、黒鉄と呼ばれた男の人の腕は緩むことはなかった。それほどまでにこの二人は強く結ばれているのかと思うと、なんだか羨ましく思った。

「黒鉄さん、とりあえず座りましょう。ケーキ持ってきますから」

 マスターがそう言い、紅茶とケーキを持ってきた。

 唇を結び、未だすねた様子ながらも、彼はマスターの提案を受け入れた。

 私がどうしようと様子を伺っていると、マスターがおいでと手招きしてくれた。おどおどしながらもカウンターへ行き、雲母さんの隣に座った。

「ごめんね優子ちゃん。あたしと黒鉄は、あんまり長い時間離れると死んじゃうのよ」

「え?」

 いきなり訳の分からないことを言われ、反応に困った。

 お互いが好き過ぎて、少しでも離れると死んでしまう。そんなちょっとおかしな思考の持ち主なのだろうか。

 雲母さんがどんな人間なのか、ますます分からなくなる。

 マスターの方へ視線を向け、助けを求めるが笑顔を返されてしまう。綺麗に流された。

「私たちの仕事は、霊とかの相談を聞くこと。解決すること。退治すること」

 頭に浮かんできたのは、嘘くさい霊媒師と言われる人の姿。一瞬で二人が信用できなくなる。

「お祓いってことですか?」

「違うわね。私たちは祓うことはできない。私はただ喰うのよ」

「くう?」

「喰べる、のよ。彼らを」

 開いた口が塞がらない、とはまさにこの状況だ。

「私たちは視えるし、話せるし、触れられるの」

 一体何を言っているのだ。相談に乗ってくれると言っていたのに、いきなりオカルト話になって。

「雲母さん、その辺にしないと。優子ちゃんがついてきてませんよ」

 私はマスターの方を向いたまま呆けた顔をしていたらしい。慌てて口を結ぶが、どうにもまた口が開いてしまう。

「そうね、ごめんなさい」

 謝られても、頭の中が整理されないまま。何をどう信じるべきなのか、全く分からなかった。

「とりあえず、ケーキ食い終わったから仕事行こう」

 ずっと黙っていた黒鉄さんがそう言って立ち上がった。ケーキのおかげか、機嫌はかなり良くなったらしい。

「そうね、今日は忙しいんだった」

 雲母さんも思い出したように立ち上がって、急いで出て行った。

 黒鉄さんがマスターにお礼を言って、私の方を見た。

「君。何か困ったことあったら、すぐ俺たちに言いなさい」

 なぜだかすごく心配そうな顔で見つめられ、そう言われた。

 黒鉄さんも雲母さんに引けを取らないほど、端整な顔をしていて驚いた。驚いて咄嗟に言葉が出なかった程だ。

「大丈夫ですよ。その子はもう雲母さんが面倒見てますから」

 マスターがそう言うと、黒鉄さんは笑った。

「そうか。あいつは放っておけない性質だからな」

 お店の外から大きなエンジンの音がして、黒鉄さんがマスターに手を振って出て行った。

「また来ますね」

 エンジンの音が遠ざかっていき、二人が去ったことが伝わってくる。

 なんだか嵐が過ぎ去ったような、不思議な感覚だった。

「良い人たちですから、安心してください」

 私はどんな顔をしていたのだろうか、マスターが彼らのフォローをしてきた。

「はあ、なんともよく分からないお二人ですね」

「そうですね、それでも腕は確かですよ」

 腕は確か、さっきの話のお仕事のことだろうか。幽霊退治のお仕事、幽霊を食べるお仕事。

 思考がまとまらず、考えることを脳が拒否している。駄目だ、まともに考えられない。

「マスターごめんなさい、とりあえず帰ります」

 マスターの反応を見る余裕もなく店を出た。


***


 その晩の夢は、今までのものから随分と変わったものだった。

 眠るのが怖くなかった。妙に温かくて、安心できる気分で眠りについた。

 重く、暗い雰囲気の夢であったことは確か。それでも目が覚めた時、不思議と気分の良い朝だった。

 私はベッドから跳ね起き、メモを取るように日記を付けた。



 ―― 十一月 五日 水曜日、

 夢に少女が出てくるようになって十日目、今日は彼女が出てこなかった。

 少女の代わりに出てきたのは銀髪、二本の角、黒い着物を着た鬼だった。闇に同化してしまいそうな着物、それでもその姿を認識できたのは、暗闇の中で異様なまでに輝く瞳、その赤が不気味に嗤っていたから。――

 

 そこまで書き、あの鬼の姿を思い浮かべた。

 不思議と恐怖は感じなかった。

 鬼とうものは恐ろしいもの、そういう印象がある。しかし私には鬼よりも、あの少女が恐ろしかった。そのせいだろうか。

 それにしてもどこかで見たことのあるような姿。夢だから、私自身が作り出したあの少女を倒す幻想なのかもしれないけれど。

 再び日記へ視線を戻すと、また誰かの文字が書かれていた。

 ――明晩、貴女の憂いは晴れるだろう。公園の広場にて、真実を見ることになる。覚悟して来ると良い――

 

 

***


 雲母さんから電話で呼ばれ、私は彼氏を連れて喫茶店に行くことになった。

 いつ連絡先を教えたのか一切記憶がないのだが、呼ばられたものは仕方がない。よく分からないままに、彼を呼んで店に向かった。ただご飯を一緒に食べて帰るだけ。それだけで充分らしかった。

 こんなことにはなったが、久々にデートだとうきうきしているのも事実。

 精一杯お洒落して向かったが、そこにいた彼は沈んだ顔をしていた。

 お店に入ってから一生懸命に話しかけるのに、相槌を打つくらいで会話にならない。

「正紀君、最近なんか暗いよ。大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 勇気を出して聞いたのに、俯きがちで話しかけても反応が薄い。

 せっかく二人でいるのに、寂しさと虚しさがこみ上げてきた。出会った頃はあんなにも優しかったのに、どうしようもなく幸せだった時間を思い出した。

 彼は石川正紀君で、私は菱川優子。病院に行った時に出会った。名前を呼ばれたと思って二人とも席を立ったが、名前を呼ばれたのは石川で、私じゃなかった。

 恥ずかしい失敗、最初はただそれだけだった。

 それから何度か病院で会うことがあり、話すようになって。彼も私と同じ、学校で馴染めないタイプの人間だと知った。

 それから親近感を覚え、今では付き合うまでになったのだ。

 注文するために開いたメニュー、そこに視線を落としたまま。

 何か話をしようと、話題を探してみたが見つからず、思い浮かんだのはあの幽霊の話。

「学校ではなんともないの? 幽霊が出るんだっておもしろがってた話、最近ではしなくなったね」

 聞かずとも話してくれるような態度だった彼は、いつの間にかこのことに関して話さなくなっていた。

 今日では余計に暗く落ちこんでしまい、そして憔悴していっているように思えた。

 学校で出るという霊が、彼に何らかの影響を与えている。そういうことなのだろうか。

「別になんでもないよ」

 ぼそっとそう言うと、それ以外は何も話してくれない。それがとても寂しく思えた。

 私たちが来るよりも先にカウンターに座っていた雲母さんと黒鉄さんの方へ視線を向けたが、こちらを見ている様子はない。

 一体何をどうやって幽霊を視ているのだろう。想像もつかないのでどうしようもない。

 そんなことを考えていると、どんどんと彼の顔色が悪くなっていった。具合でも悪くなっているかのように、眼に見えて顔色が悪い。

「正紀君?」

 問いかけても、心ここにあらずといった感じである。

「君、おかっぱの女の子に心当たりは?」

 いつの間にか雲母さんが側に来ていて、彼にそう問いかけた。

「え?」

 彼の顔は怯えを映していた。雲母さんに話しかけられた。それよりも、おかっぱの女の子に反応していたような。

 雲母さんもそれを悟ったのか、眼を細め彼を見つめた。

「あるようね、気を付けなさい。でないと貴方……」

 雲母さんはそれ以上は言わずに、そのまま意味深な笑顔を残し去っていった。食べかけのケーキに未練たらたらの黒鉄さんを連れて。

 正紀君はどうしてか震え出した。何かを口に出しているようだが、小さずぎて聞き取れない。

 私には様子が分からず、取るべき手段も分からない。少なくとも雲母さんは私より状況が分かっているようだが。

 正紀君は心配だが、私は雲母さんを追いかけることにした。マスターに彼を任せ、外へ出ると、駐車場の方へ歩いていく二人が見えた。追いかける私に気が付いたのか、二人は振り返った。

「雲母さん、あのっ」

 ずっと先にいる二人に届くように、大きな声を出した。

 そう思っていたら、いつの間にか二人は眼の前にいて、私の腕は黒鉄さんに掴まれていた。

「ちょっと待ってね」

 雲母さんにそう微笑みかけられた、その一瞬で雲母さんがまた遠くになる。眼の前にあった笑顔が、小さな後ろ姿になっていた。まるで瞬間移動をしているようだった。

 状況が分からず目を回していると、腕が引っ張られた。

「いいところさ、見ておきな」

 私を引きずるように連れて行き、黒鉄さんは駐車場に停まっていたバイクの陰に隠れた。さっきまで立っていたところにいる雲母さんは小さい。しかしそんなことを考えている暇はなかった。

「助けてください! 俺このままじゃ殺される!」

「え?」

 雲母さんの方へ走ってきた人影があった。叫びながら走ってきたのは正紀君だった。

 雲母さんはふっと不敵に笑み、彼を蔑んだ。

「貴方、自分が殺されそうになっている理由、本当は分かってるんでしょ?」

 雲母さんに見据えられ、固まって項垂れて。その様子は是と言っていた。

「分かってるよ。俺が、俺が……。あいつを捨てたのを怒ってるんだ」

 彼はそう言った。あいつを捨てた、そう言った。

「貴方はそう思っているのね」

 雲母さんはつまらなそうにそう言うと、彼の前から去ろうとする。私には訳が分からなかった、置いてきぼりだった。雲母さんは今回のことについて全てを知っているようだった。

「助けてくれるんじゃないのか!?」

 雲母さんは彼の悲痛な叫びを気にも留めず歩いて行く。

 私もそっちに行こうとするのに、身体が動かない。声を上げようとするのに、出てくれない。

「貴女は今、出て行っちゃ駄目だ」

 そう言って、隣にいる黒鉄さんが笑っていた。

 彼があんなにも苦しんでいるのに。話が違うではないか、一体どうして雲母さんは彼を助けてくれないのだ。

 逡巡している間にも、雲母さんは正紀君から遠のき、こちらへ歩いてくる。

 彼女は不敵な笑みを浮かべていた。それがどうにも腹に立つ。

 正紀君は置いて行かれたショックからか、ひどく狼狽していた。雲母さんの後ろ姿をじっと見つめていたが、いきなり走り出し、何処かへ行ってしまう。

 私の身体は未だ動かず、可哀想な彼を追いかけることもできない。

「まだその時じゃないのよ」

 正紀君がいなくなった方を振り返えった雲母さんが、そう言った気がした。



 黒鉄さんからの拘束が解け、私は急いでお店に戻ってきた。正紀君がいるかもしれないと思って。しかし彼の姿はなかった。

 マスターが言うには、私がいなくなってから突然、『殺される』と呟き、店を飛び出したらしい。

 私は雲母さんと黒鉄さんとテーブル席で向かい合って、彼女の言葉を待っていた。正紀君を探しに行きたいのに、話があるからと引き止められていた。

「どうして正紀君を助けてくれないんですか!」

 何も話してくれない雲母さんに、怒りをぶつけ怒鳴った。助けると、そう言っていたのに。

「今は何もするべきではないわ」

 ゆっくりと紅茶を飲んでいて、私ばかりが焦っていた。隣にいる黒鉄さんもニコニコしてケーキを食べていた。私のことなんて見えていないようだ。

「どういう事なんです!? ちゃんと説明してください!」

 ばんとテーブルに平手を打ち、抗議をしてみるが効果はない。もうこの人たちに頼っても無駄なのだろうか。

 そもそも頼ったのが間違いだったのでないだろうか。この店で偶然出会っただけの女性に。

 そう思えてきて黙り込むしかなかった。項垂れて、もう声を荒げる気にもならない。

 かちゃっとカップが置かれる音に呼ばれた気がして、顔を上げてみた。

 そこにはひどく怖い顔をした雲母さんがいた。

「貴女は彼の全てを知っているの?」

「え?」

「彼はね、()吐き(・・)なのよ」

 会ったばかりの雲母さんがどうしてそんなことを言うのだ。彼の何を知っていると言うのだ。

 そんな言葉が聞きたい訳じゃない。私は耳をふさぎ顔を背ける。

 頭に浮かぶ嫌な夢、それを拭うように言った。

「彼はそんな人じゃない!」

 叫ぶ私の肩にそっと手が乗った。恐るおそる顔を上げると、そこには雲母さんの顔があった。

「私はね、正紀君の後ろにいる女の子に聞いたのよ。彼女がまだこの世にいて、なぜ彼に憑いているのか」

 雲母さんは一息を吐き、私と瞳を合わせた。彼女の頑是ない瞳は嘘を言っているようには思えないが、その言葉を信じたくはなかった。

 頭に浮かびあがる少女の姿、そして彼の姿。

 正紀くんが私に嘘を吐く理由がない。

 彼に憑いているという女の子と話をしたというのか、一体いつ、どうやって。いきなり訳の分からない事を言い出す、インチキ二人組ではないか。話が見えず言葉も出ない。

「今日の出来事があって何も思わないわけ? 彼の様子は明らかにおかしかったでしょ」

 頭に響く警告音、それと合わせるように携帯が鳴った。CALLの文字が光っていて、彼の名が表示されている。

 不安に駆られ、見つめられている視線から逃れるようにその場を去った。



「そう、準備が出来たのね。ありがとう」

 電話を切り、溜息を吐いた。

 今回は思っていたよりも話が大きくて困った。

「雲母さん」

 マスターが心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫よ。見捨てたりしないわ。ちゃんと働いてくるわよ」

 それでもまだ、マスターの顔から不安の色は消えないようだった。

「勿論ウラはとってある。彼氏君は結構すごい男だよ」

 黒鉄がそう言った。

 どうして人間はこうして愛する人のことになると真実が見えなくなるのだろう。

 重い腰をあげ、店を出る。

「さあて、仕掛けは上々かしら?」



 だんだんと陽が暮れてきて、夜がもうすぐそこだった。ただ暗いだけなのに、どうしようもない恐怖が遅ってくる。それもこれも雲母さんに幽霊だなんだと脅されたせいだ。

 正紀君は挙動不審げにキョロキョロしながら歩いてきて、私の顔を見ると安心したように笑った。

「ごめん、優子さん。他に相談できる人いなくて」

 寂しそうにそう言った。

 一人でいたくない、怖いんだ。そう彼に呼び出され、彼の家の側に出向いた。いなくなったと思っていた彼は、家に帰っていたらしい。しかし家にもいられなくて出てきた。

 この子も私と同じで、学校に居場所がない。友人など、話せる人はいないのだ。

「大丈夫、私がついててあげるから」

 私は雲母さんのように見放すことはしない。救えるかは分からないが、怯える彼と一緒にいることはできる。

 視界の隅にちらつく影、おかっぱの少女。

 雲母さんとの会話で、彼の心配の原因もきっとあの少女なのだと確信した。

 私も彼もあの影に怯えている、そう思った。

 彼の頭を撫でていると、どこからか視線を感じた。

 顔を上げてみると、すぐ傍にあの少女がいた。

 いつの間にいたのだろう。息を飲み、声を出そうとしたが、それは叶わない。

 今日は不思議なことが多い。身体は動かなくなるし、声は出ないし。

 隣にいる正紀君は彼女に気付いている様子はない。どうやら見えていないらしい。

 これは夢なのだろうか。現実なはずがない。

 私に霊感なんてない。幽霊が見えるはずはない。

 では眼の前にいるこの少女は、一体なんなのだ。

 少女は正紀君の方を見た。つられて私も視線を向ける。

『聞いてみたらいい。一体何人の女と付き合っているのかと』

「えっ?」

 その一言に驚き、少女の方へ視線を戻す。しかし彼女はいない。

 彼女がいなくなって、どうやら声が出るようになったらしい。声が出ない間、どうやら息を止めていたようで、なんだか胸が苦しかった。

「優子さん?」

 正紀君が、不安げな瞳で見つめていた。

「今、女の子がそこに」

 その一言に、ひどく狼狽する。そんな彼を見て、私はどんどん不安になった。

 雲母さんといた時の正紀君の様子。考えないようにしていたのに、どうしても思考がそちらへ傾く。

 さっきの少女の言葉は嘘ではないかもしれない、そんな風に吹かれる。

 彼を信じていたいのに、それを許してくれない現実。

「正紀君、一体何人の女の子と付き合っているの?」

 私はその言葉を発していた。聞いた彼の表情は青くなっていく一方だった。

「さっきの女の子は誰? 貴方は何に怯えているの?」

 俯き顔を背けた彼は答えない。

「彼は貴女以外に、五人の女の子と付き合っていた。そのうちの一人が、さっき眼の前にいた少女」

 どこから現れたのか、いつの間にか雲母さんがいた。

「彼女のお腹には子供がいた。そんな彼女を、君の彼は切り捨てた。その子は俺の子じゃないだろう、お前が勝手に作った子供だろうって」

 それに続くように黒鉄さんも現れてそう言った。

「高校生が身籠る、そんな不安だけでも気が狂ってしまいそうな現実で、信じていた彼にまで捨てられた。彼女は絶望したんだよ、この世の全てに」

 彼が腕を横に振ると、おかっぱの少女が現れた。

 正紀君はその子の姿を見たとたん後ずさり、坐っていたベンチから転がり落ちた。

 今度は私だけでなく、彼にも見えたようだ。

『私のような子をこれ以上作ってはいけない。私は彼を恨みながら死んだ。そして、気が付いたらこうなっていた』

「幽霊になっていたの?」

 私の問いに少女は頷いた。

 子どもができる。これがもし高校生でなかったら、ちゃんとした大人で、愛し合う二人の間であったなら。きっと、こんなに苦しむことはなかった。

 頭の悪い私でも、もう分かってしまう。認めたくなくても、もう。

 現実は残酷で、私を守ってはくれない。

 彼は嘘なんて吐いていない。そんな小さな願いさえ、壊れていく。涙が流れた。

 私には彼しかいなかった。彼さえいればよかったのに。

 おかっぱのせいか、すごく幼く見える。まだまだ小さな彼女の背中には、背負うものが大きすぎた。高校生の妊娠、友達にも両親にも言えない。それなの父親になるはずの彼が、相談相手が、それを拒否した。

 彼女は一人になってしまった。

「こうなる前に、誰かに相談できれば。そうしたら、彼女もお腹の子も、死ぬことはなかったかもしれないのに」

 自分のことではないけれど、涙が流れた。自分も子どもも、二人ともに死ぬなんて。どれほどに辛い思いをしたのだろう。

「俺は聞いてない! あいつに子供がいたなんて!」

 取り乱す彼の様子はもう、見ていられなった。なんてみっともない、愚かな人間なのだろう。

「そのへんにしときなよ。男の言い訳ほど格好悪いもんはないぜ」

 黒鉄さんはそう嘲笑うと、誰かを呼ぶ仕草をする。出て来たのは四人の女の子。みんな違う制服を着ていた。

 女の子たちの表情は険悪なもので、怒りに満ちていた。

「格好悪いわね」

「いい加減にしてくれよ」

「もう全部分かったからさ」

「ええ、私たち終わりにしましょう」

 顔も髪型もさまざまな女の子たち。大人しそうな女の子に運動の得意そうな女の子、幼げな女の子にお嬢様のような女の子。色々なタイプの女の子が揃っているそんな感じだった。

 彼女たちは皆、正紀君の彼女……。

 隣に立つ彼の顔を見ようと、横を向くと突然悲鳴が聞こえた。

「鬼だ!」

 そう言って、彼は走り去ろうとする。しかし彼はいきなり倒れこみ、辺りは静かになる。

 彼の方へ行くと、どうやらただ眠っているようだった。

「彼と貴女たちを取り巻く邪気はもうない」

 声をかけられ見上げた先には、そう、私たちの眼の前には鬼がいた。

 長い二本の角、赤い瞳。雲母さんは月に照らされ、妖艶に輝いていた。

 着物を着てはいないが、夢に出てきた鬼、それが今現実にいた。

 どうやら驚いたのは、私と彼だけのようで、少女たちは全てを知っていたようだ。もしかしたら彼を懲らしめるためにこんな手段をとったのだろうか。

 もっと早くに気が付けば良かったのに。

 銀髪の美しい鬼、そっくりだったのに。

「もう、あの少女に魘されることはないわ」

「……そうですね」

 言う通り、真実が明らかになった。あの夢の意味も分かった。

 分かったけれど、どうにも後味が悪い。

 夢の中の少女、彼女は正しかった。

 騙されていたのは私の方、あの子は真実を伝えようとしていたのに。助けてくれようとしていたのに。

 ちゃんと話を聞いていなかったのは私だ。聞こうとしなかったのは私だ。

 あの夢は、私を苦しめていた夢は、私を救ってくれようとした彼女の叫びだった。

 見上げた先にいたおかっぱの女の子が、すうっと闇に消えていく。それは雲母さんの方へ吸い込まれていくようだった。

「雲母さん、私……」

「それは貴女の決めること、私に問うても答えはないわ」

 雲母さんはそう言い残し、歩き出す。その後を追うように、倒れたままの正紀君を担ぎ黒鉄さんも去っていく。


 彼女たちもそれぞれ帰っていった。

 最後まで彼を信じていた私を、騙されていた私を哀れという眼で見下ろしながら。

 皆いなくなった夜の公園、私は独り考える。どうするべきか、ただそれだけを。



「全く、悪い男よね」

「そうだなあ。女の子を自殺に追い込むとは、将来が心配だよ」

 男の言った台詞に、女は不機嫌になった。

「あなたにだけは言われたくないでしょうね」

「うわあ酷い。俺もお前にだけは言われたくないね」

 女の言葉に食ってかかって、男は唇を尖らせた。

 そんな男を軽くあしらうように手を振ると、そのまま頬杖をつく。

「優しく見守ってくれる人がいればいいのにね。恨まれて、ずっと纏わり憑かれてたんじゃたまんないわ」

「そうだなあ、ずっと一緒にいると疲れるなあ」

 男女はそうお互いを睨んだ。

「お二人は仲がよろしいから大丈夫でしょう」

 カウンター向こうのマスターが、やんわりと二人の仲裁に入った。

「それにしても、本当に出会った頃と変わりませんね」

 話題を逸らそうと、マスターは気を遣ったつもりだった。しかし二人は沈黙し、俯いた。話の逸らし方を間違えたようだった。

「私たちは人間であって人間ではないから」

 女が寂しそうに言った。

 男は一気にグラスを干し、席を立った。

「そろそろ行こうか」

「ええ、次の仕事は何かしらね」

 去り行く二人に、マスターは声をかけられずにいた。

 失礼なことをしたと、どう声をかけたらよいのか分からないようだった。

「マスターまた来るわね」

 女が気を利かせて言葉を放つ。そしてそっと戸を開けた。男が先に出て、女は手を振って店を出た。

 マスターは戸の締まり切る前に、そっと言った。

「いつまでも(・・・・・)お待ちしております」

 一瞬女が微笑んだような、風にそよぐ長い白髪がそう伝えた気がした。



 戸が閉まり、店には誰もいなくなる。

 深呼吸をして、己の失態を恥じた。まだまだ修行が足りない。

 反省しつつ、ゆっくりと片付けにかかる。

 二人とも大酒のみで、甘いものが大好きで。

 傍から見れば、ただの仲の良いカップルにしか見えない。

 しかし彼らの背負うものは大きく、闇が深い。


 ――前代のマスターに聞いた話だ。

 彼らは前代の主人の頃からずっと通っている。

 もしかしたらその前からずっと。

 

 人として生まれながら、鬼の力を宿し、その大きな力に耐えきれずにいた子どもがいた。

 

 鬼として生まれながら、力が弱く衰弱し、死を待つしかなかった子どもがいた。

 

 そんな二人が出会い、共に生きることを誓った。

 

 いつだったか、お酒に弱かったマスターが酔っぱらいながら話していた。

 彼らの悲しい運命なんだと、我々には分かることのできない闇があるのだ、そう言っていた。

 

 彼らはいつまでも変わらない姿でここへ来る。とても長い時間が、彼らを苦しめ続けているのだと。

 その悲しみは誰にも変われない。

 だからこそ、この店は続けよう。そんな彼らの苦しみを癒せるように。

 時が流れても、それがどれだけ長い時間でも。居場所があると思ってもらえるように。


 からんと、戸が開く音がした。

 考え事をしていたため、咄嗟にいらっしゃいませの言葉が出ない。顔を上げた先にいたのは、清々しい笑顔をした優子だった。いつものカウンター席に座ると、何か話したそうにうずうずしていた。

 笑顔を向けてやると、喜んで口を開く。

「私、ちゃんと人付き合いすることにしたんです」

「どうしたの? いきなり」

 そう聞き返すと、彼女は目を伏せ、胸に手を当てた。

「気が付いたんです。今回のことがあって、ちゃんと話さないと駄目なんだなって。一人で逃げてないで、立ち向かわなきゃいけないんだなって。心底思いました」

 今までの彼女からは一皮剥けた、元気に溢れた言葉だった。

 なんだか良いことがあったらしい、そう伺えた。

「頑張ってください」

 前に一歩踏み出した彼女に、お祝いの意を込めて。そう言って紅茶を出した。

「どうぞ、サービスですから」

 優子はありがとうと微笑み、カウンターの隣の席を見つめた。

「雲母さんにも、お礼言わなくちゃ」

「大丈夫ですよ」

 即答し、洗っていたグラスを持ち上げた。

「さっきまで彼女来てましたよ。すぐに会えます」

 赤い瞳を輝かせて笑う、彼女の姿が浮かんだ。






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