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神子の奴隷  作者: くろぬこ
第6章 進撃の小人

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奴隷豹娘の任務(前編)

 

『あ! いけません。約束の時間に遅れてしまいます』

 

 早朝の鐘の音が耳に入り、お師匠様との待ち合わせの約束をしてたことを思い出す。

 長いこと故郷に帰ってなかったので、故郷のように美しく咲き乱れる満開の桜に、昨晩から見とれてしまっていた。

 お師匠様の別荘の屋根から飛び降りると、置いていた荷物袋を背負う。

 

『やっぱり桜は癒されますね。よいしょっと……む?』


 大きな荷物袋をいつものように背負うと、若干の違和感を感じた。


『また少しだけ重くなってますね』


 お師匠様が、中にある重鉄の量を増やしたのだろうか?

 息を整えると、前に1歩踏み出す。


 ……よし。

 走ったりしなければ、問題ない重さですね。

 この背負い袋は見た目以上に丈夫な作りなので、破ける心配はないのですが、自分と同世代の獣人であれば間違いなく持てない重さでしょうね。

 空き地と雑草が生え放題の荒れ地を横目にしながら、街の中心とは反対側のスラム街を目指す。

 

『しばらくあの桜が見えなくなると思うと、少し残念ですね』

 

 名残惜しく振り返り、お師匠様の別荘の庭に生えている桜を見つめる。


『クゥにさせようと思ってる次の修業は、少々時間が掛かりそうだ。もしかしたら、今までの中では一番長くなるかもしれん。たぶん、この桜が咲いてるのも見れなくなると思うから、よく見とくんだな』

 

 お師匠様に言われたことを思い出し、目に焼き付けておこうと思ったら、気づけば夜が明けていた。

 特に春月と夜桜の組み合わせは故郷の景色と重なり、今までの厳しい修業を忘れるくらいに心が癒されましたからね。

 

『そういえば、最近シズに手紙を送ってませんね』


 故郷の記憶を思い出したところで、長いこと顔を見てない幼馴染のことを思い出す。

 つい先日まで、紅豹の一族の住処にお世話になっていて、激戦に明け暮れてたからすっかり忘れていた。

 

『あの子も心配性なので、そろそろ手紙の1つでも送った方が良いかもしれませんね』


 前回、シズの誕生日会に出席できなくて、あちらではシズが騒いで大騒ぎになってたと、エンジェさんからは聞きましたよね。

 『毎年必ず顔を出してくれるのに、今日は来ないなんて。お姉様に何かあったのですわ!』と喚き散らしてたとか……。

 その時は、お師匠様に山賊の根城に放り込まれて、生き延びて帰って来る修業をさせられている真っ最中でしたから、どうしようもなかったのですが。

 

 探索者職業に転職していれば、もう少し楽に討伐できましたけど。

 多対一だと、今の私には流石に不利なので、闇に誘い込んで討伐するしかなかったですし。

 探索者職業には頼らず、獣人本来の力を発揮する鍛え方を、お師匠様から学んでる最中でしたから。

 私は幼い頃から隠密の能力は秀でていたみたいなので、忍び寄ればなんとかなりましたが、数が数でしたよね。

 

『私は生き延びて帰ってこいと言ったはずだが、壊滅・・させてこいとは言ってないぞ?』


 苦笑するお師匠様に言われて、ようやく自分の失敗に気づきましたが……。

 すっかり狩りに夢中になって、気付けば出口に向かうのではなく、根城の方へ本格的に攻略しに行ってましたからね。

 隠れるだけならあまりにも簡単なので、腕試しに近くを通った山賊を狩り始めたのが失敗でした。

 凶賊がいればすぐに引き返すつもりでしたが、運の良いことに若い山賊だけの集団だったのが、歯止めがきかなくなった原因でしょうね。

 

 お師匠様には褒められましたが、シズにはすごく怒られました。

 後で、2人だけで誕生日会をして、ご機嫌を直してもらいましたけど。


『そういえば、もうすぐシズの誕生日会でしたね。今回も出席するのを忘れたら、また怒られそうです』


 最近手紙も送ってないので、『お姉様が行方不明になった!』と騒ぎだすのが、容易に想像できてしまいます。

 悪ふざけでお師匠様が、『クゥと連絡が取れなくなった時は、修業で死んだ時だ』と脅かして、あの子は本気で信じ込んでしまってますから。

 お師匠様の修業で死に掛けることはあっても、本当に死んだ人は1人もいませんから、大丈夫だというのに……。


 物心がついたときから、私の傍にはお師匠様がいたので、他の人が悲鳴を上げるような修業でも、いつもの日常の1つとなってしまっている。

 姉弟子であるエンジェさんも、『お師匠様と長いこといると、いろいろ感覚が麻痺してしまうから困りものです』と苦笑してたから、もしかしたら私自身の感覚もいろいろ麻痺してるのかもしれない。

 多少の事では、物怖じしなくなりましたし。

 『山賊なんて、危ないですよ!』とシズに注意されても、私からすれば悪知恵が働くようになったゴブリン程度にしか見えないので、あまり怖くは無いのですが。


 お師匠様や母上に比べれば、山賊とゴブリンの差なんて大したことがない。

 私と同じ『武神の弟子』である母上との腕試しに比べれば、山賊なんて……。


 お師匠様との修業の合間に、時折見せる母上の顔を思い出す。

 目だけは青いが、それ以外の体毛には黒を持つ母上。


『久しぶり、クゥちゃん』

『あ、母上』

『お師匠様から聞いたわよ。また強くなったんですって?』

『はい、母上』


 母上が私の所に来るときは、必ず腕試しという名の真剣勝負をさせられる。

 苦無を使った忍体術で応戦するが、1度も勝ったことがない。

 得意の隠密で忍び寄って背後をとっても、近づけば必ず気取られてしまう。

 負けっぱなしだが、母上はいつも嬉しそうに笑っていた。


『でも、クゥちゃん。しばらく見ない間にまた強くなったわね。私も、今日はもう少しだけ本気出しちゃうわよ!』

『ッ!?』


 私が少しでも成長して母上の実力に追いついたと思ったら、すぐに母上も本気のレベルを上げる。

 エンジェさんには、『貴方達、親子を見てるとじゃれ合いと言うよりは、殺し合いにしか見えないわね』と言われてしまうが、これも昔から変わらない習慣なので何とも返答に困ってしまいます。

 底の見えぬ実力者である母上との腕試しは、確かに命懸けですからね。

 お師匠様と同じように、私が死ぬか死なないかの瀬戸際を見極めて、追い詰めて来る。

 しかし、一族の血がそうさせるのか、相手が強いと聞けばどうしても腕試しをしてみたくなる。

 

 シズのような王族を輩出するユキサクラ家や、貴族を守護するエンジェさんの一族であるシバサクラ家と比べても、ヤミサクラ家は異端と言われてしまうのはそこかもしれない。

 エンジェさんからも、『クエンを含めた紅豹の一族もそうですが、ヤミサクラ家は戦闘狂の一族ですからね』と言われたが、否定はできなかった。

 

 強い者と戦うことは、嫌いではない。

 むしろ喜んでしまう方だと自覚している。

 強い者を倒し、自分がまた1つ強くなったと感じる時の喜びは、何物にも代えがたい。

 忍び寄って倒す方が効率的なのだが、正面から戦えばこの者が相手の場合、自分はどこまで戦えるだろうかとはいつも考えてしまう。


 今の私の目標は、我が一族で最強とも言われる母上。

 でも、その母上でも勝てなかった相手がいる……。


 紅豹の一族の中でも、最強と言われる豹人、クエン。

 『武神に最も近い武術者』とも呼ばれ、代々我が一族の『武神の弟子』達が死守していた最強の座を、あけ渡してしまった存在。


 母上でも勝てないのなら仕方ないと、一族の者達は最強の座を奪還することを諦めている。

 だからといって、この状況をいつまでも指をくわえて見えてるわけにはいかない。

 他の者達がやらないのであれば、いつか必ず私がクエンを……。

 

『……?』


 何やら騒がしいですね。

 お師匠様と約束していた待ち合わせ場所であるスラム街に向かうと、大勢の人達が争い合う声が耳に入る。

 荷物を降ろし、崩れた建物の陰に隠れて、顔をこっそりと出して覗いてみる。


「オラオラー! 待ちやがれ、全員捕まえてやる!」

「獣人を見つけたら、ヴァルディア教会に売っちまえ! 高く売れるぞ!」

「おい! その話は、大きな声で言うじゃねぇ!」

「お、悪ぃ悪ぃ。ゴルァア! 大人しく捕まれ! おめぇら不法滞在者は、どっちみち奴隷商会へ行って奴隷行きだ!」


 しばらく様子を見ていると、逃げ惑うスラム街の人達と、それを追う迷宮騎士団らしき人達がいることが分かる。

 少数ではあるが抵抗している者達もいるが、完全武装した騎士達にはさすがにかなわず、力尽くで取り押さえられている。


 困りましたね。

 ここがお師匠様との待ち合わせ場所だったのですが……。

 

 なぜ迷宮騎士団が、血眼になって追いかけてるのかは分かりませんが、不法滞在者を取り締まってるのでしょうか?

 この様子だと、ここにいると私も捕まってしまいそうです。

 うーん……。

 それともこの迷宮騎士団から逃げきるのが、今回の修業なのでしょうか?

 気配を殺しながら、様子を見守り続ける。


「おい、網を持って来い! コイツは、普通に捕まえるのは無理だ!」


 突然に騎士達が、こちらへ慌てて走って来たので身を隠す。

 騎士達が通り過ぎた後、壁から再び顔を出して覗いてみる。

 ほう、これは……。


「このガキ、何てすばしっこいんだ!」

「あいあいあー! あいあいあー!」


 重い全身鎧に身を包んだ騎士が、身軽に走り回る狐人の子供を捕まえようとしている。

 中々に、すばしっこい動きをしてますね。


「あいあいあー!」

「ガッ!?」


 両手を広げて捕まえようとしたが、それを上に飛んでかわし、むしろ後頭部に飛び蹴りを食らわした。

 騎士が派手に地面へ転がる。

 あの様子ですと、一生捕まえれなさそうですね。


 奥をよく見れば、何人かの騎士が倒れている。

 恐らく頭を地面にぶつけて、気を失ったのだろう。

 無駄に重装備にしたのが、仇になったようですね。


「イテテ……。このクソガキが!」


 受け身の取り方が良かったのか、先程倒れた騎士が立ち上がる。

 何を言ってるのか分からないが、怒気のこもった様子から怒ってるのだろう。


「活きが良いから、生け捕りにして売ろうかと思ったけど、もうおめぇは駄目だ! ブッ殺してやる!」


 鞘から剣を抜き放った騎士が、狐人の子供に駆け寄る。

 その程度で殺そうと思うとは、最低の騎士ですね。

 狐人の子供に向かって、騎士が袈裟懸けに剣を振り下ろした。

 

「な!?」


 予想通りというか、狐人の子供には当たらなかったようで、素早く後ろに飛んでかわされる。

 足だけでなく手も地面に置きながら、まるで獣のように唸り声を出して威嚇する狐人の子供。


「ウーッ!」

「獣みたいな動きしやがって! 来いよ、叩き斬ってやる!」


 まずいですね。

 騎士の人は気づいてないみたいですが、狐人の子供からはその容姿に似合わぬような、強烈な殺気が放たれている。


 狐人の子供が、騎士に向かって駆け抜ける。

 周囲に人がいないことを確認して、私も駆け出した。

 狐人の突進に合わせて、騎士が剣を横薙ぎに振るおうとしたが、反応が遅すぎる。

 

「あいあいあぁああああ!」

「ぐあッ!」

 

 身軽に跳躍した子供が、空中で勢いの乗った蹴りを騎士の顔面に当てる。

 そのままの勢いで、騎士が後頭部を激しく地面にぶつけた。

 倒れた際に、後頭部を強打して気を失ったのか、騎士は仰向けになったまま身動きを取らなくなった。

 

 しかし、それで狐人の子供は満足しなかったのか、騎士に近づいて兜の辺りをまさぐっている。

 兜と鎧の間に隙間があることに気づいたのか、首元に爪を立てて止めを刺そうとする。


『そこまでです!』

「ッ!?」


 振り下ろそうとした腕を私が掴んでるのに気づいたのか、狐人の子供が呆然としたような表情でこちらを見上げる。

 しかし、すぐさま牙を剥き出しにして、こちらを威嚇し始めた。

 

「ウーッ!」

『確かに、貴方を剣で斬ろうとしたこの者にも非があります。しかし、迷宮騎士団の1人を殺したとなれば、不利になるのは貴方のほうですよ?』

「あいあいあー!」

 

 目の前を鋭く尖った爪が横切り、切られた数本の髪の毛先が宙に舞う。

 どうやら説得は無理そうだ。

 相手の殺意に当てられたせいで、怒りが収まらないとみえる。

 今度は邪魔しようとした私へ、襲いかかってきた。

 

 爪や牙を使い、目や喉を執拗に狙った実戦向きな攻撃に感心しながら、それを避け続ける。

 さて、どうしたものか……。

 

 このままこの子を放置しておくのは、いろいろと危険そうです。

 しかし、無手の子供相手に苦無を使うのも、流石にアレですよね。

 無意識のうちに握っていた苦無を懐にしまう。

 では、忍体術は封印して、闘牛術にしておきますか。


「ッ!?」

『ほう、避けましたか』


 こちらの懐に飛び込んだ所を狙って、胴に膝蹴りを入れようとしたのですが、上手く後方に避けましたね。

 獣のように両手を地面に置いて、離れた所から警戒するようにこちらを見ている。

 予想以上に、勘が鋭い子ですね。


『来なさい。少し相手をしてあげましょう』

「あいあいあー!」


 挑発するように右手で手招くと、馬鹿にされてると悟ったのか、勢いよく突進してきた。

 本当に獣みたいな子ですね。


 足腰がよく鍛えられてるのか、動きは中々に速い。

 ただ、人を相手にした戦い方ではないですね。

 型の決められた武術ではなく、本能のままに動き、相手を仕留める獣のような戦い方。

 時々口を大きく開け、喉元を噛みつこうとさえしている。


 ふむ。

 ならば……。

 

『やぁあ!』


 あえて大きく回し蹴りをすると、子供が軽々とその攻撃を避ける。

 わざと隙を作ったところで、誘われるように相手が懐に入ってくる。


「あいあいあぁああああ!」

『……ッ!』

 

 しかし、予想以上にその突きが早かった。

 次の瞬間、つい先日まで手合わせしていた、若い豹人と目の前の子供の戦闘が重なる。


「ッ!?」

『ごめんなさい。貴方が悪いわけではないのです』


 私の目を狙った相手の攻撃は空を切り、手を突きだしたまま動きの止まった狐人の子供から離れる。

 狐人の子供の後頭部に、思わず殺気を込めた強烈なひじ打ちを決めてしまった。


『はぁー。私も、まだまだ未熟ですね』


 優れた獣人である紅豹の一族と、つい同じ感覚で素人の子供と戦ってしまうとは。

 素人相手には使うことを禁じられた、『古き血』の力を一瞬使ってしまったことを反省しながら、呼吸を整える。

 こんな精神の未熟な身ではクエンを倒すどころか、天界守護者の道もまだまだとお……。


『おかしいですね。確かに、綺麗な一撃を決めたつもりですが』


 妙な感覚を覚え、地に倒れているはずの相手へ視線を向ける。

 素人相手にやり過ぎたかなと、自分でもちょっと引いてしまうくらいに、本気の一撃を当てたつもりです。

 しかし、後ろを振り返れば2本の足でしっかりと立ち、前かがみの状態で踏ん張ってる狐人の子供が目に入る。


『この感覚は、まさか……』


 突然の強烈な殺気と共に、一陣の風が私の前を通り過ぎた。

 咄嗟に避けたが、己の頬を鋭い痛みが走る。

 その後に、何かが頬を伝う感触がした。

 

 親指でそれを拭う。

 相手から視線を外さないようにして、それを舌で舐める。

 鉄の味が、口内に広がった。

 どうやら相手の爪が、頬の皮膚を裂いたようだ。


「ウーッ!」


 再び獣のように両手を地に置き、白い牙を剥き出しにして、こちらを威嚇する狐人の子供。

 先程まで金色だった左目が血のように紅く染まり、強烈な殺気を振りまきながら、私を睨みつける。


『驚きましたね。こんな所で、夜叉の血の覚醒者と出会うとは……』


 しかもこのような子供に、その力を扱えることが更に驚きですね。

 お師匠様の指示に従い、探索者職業にまだ転職してない今の身では、『夜叉の血』の覚醒者を相手するのには都合が悪そうだ。

 頬に伝う血を手で拭うと、相手を睨む。

 

『私も、少し(・・)本気を出させて頂きます』


 目を閉じる。

 息を整え、気を練り上げる。

 だがその隙を逃がすものかと、強烈な殺気が私に襲いかかる。


「ッ!?」

『驚きましたか?』


 恐らく喉元を爪で貫こうとしたはずだが、狐人の子供には先程と同じように、いきなり私が後ろに回り込んだように見えただろう。

 目をゆっくり開けると、視界に少し赤が混じったような光景が広がる。


『夜叉の血を使えるのは、貴方だけとは限らないのですよ?』


 他の人が今の私を見れば、狐人の子供と同じく、私の右目が血のように赤くなってるのに気づいただろう。

 片眼の『夜叉の血』相手なら、これで問題ないはずです。


「……ッ!?」

『少々荒っぽいやり方で申し訳ないですが。このまま確実に、締め落とさせて頂きます』


 後ろから片手を両腕の脇に差し込み拘束し、もう片方の腕で相手の首を締め上げる。

 これであれば、確実に相手を締め落とせるだろう。

 狐人の子供が、必死に後ろへ蹴りを入れたりして暴れているが、その程度で外せるほど弱い鍛え方をしてません。

 徐々に力を込めていくと、相手の力も徐々に緩んできて、大人しくなっていく。

 『夜叉の血』が覚醒したのには驚きましたが、これであれば今度こそ確実に……。


『え?』

 

 目の前の子供から、尋常でない殺気が放たれる。

 気付けば身体を浮遊感が包み、自分の身体が浮いていた。

 頭を上げれば、地面が私に迫っている。


 いや、違う。

 これは、視界が上下逆転している!

 なんという脚力。

 この子は、本当に狐人か?

 私ごとぶつかるつもりなのか、目の前に地面が迫っていたことに気づいて、思わず反射的に拘束を外す。


『フッ!』


 地面に両手をついて、衝突を免れるのを辛うじて防いだ。

 両手に若干の痛みが走ったが、それ以上にすぐ隣から放たれる殺気に身体が反応して、逆立ちした状態で闘牛術の蹴りを放つ。

 しかし、私の蹴りはむなしく空を切った。

 

 いや、正確には隣にいたはずの相手は、すでにいなくなっていた。

 片眼の『夜叉の血』を解放した私の蹴りを、それ以上の速さで避けた……まさか!

 その場から急いで離れ、最大限に警戒しながら相手の様子を伺う。


「カハッ! ガフッ! グゥゥゥ……ウーッ!」


 激しく咳き込むと、両手の鋭い爪を地面に突き立て、白い牙を剥き出しにしてこちらを威嚇する狐人の子供。

 相手の怒気が更に高まり、口から涎を垂らしながら、小さな体に似合わぬ凶悪な殺意を振りまく。

 まるで、大型の猛獣と対峙しているような……。

 金色だった右目に、少しずつ血のような紅色が混ざり出す。


『嘘……ですよね?』


 頬に汗が流れ落ち、思わず素の言葉が出てしまった。

 『夜叉の血』が……完全解放しようとしている。

 もしかしてこの子は、ただの素人ではなかったのか?

 

 この日初めて、私の中に恐怖の感情が生まれた。


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