奴隷狼娘の咆哮
「お前の言う親父殿ってのはな。不義を働いて、貴族の身分をとっくに剥奪されてんだよ。子供なんていねぇし、その剣を盗んだら、娘を語るなんて誰でもできるんだよ!」
「そ、そんな……嘘であります。父殿が、盗みをする訳が無いであります!」
思わず私は、目の前の机に両手を叩きつける。
迷宮騎士団にあらぬ疑いをかけられ、尋問のような形で質問をされた上に、亡くなった父殿の形見として持ち歩いていた装飾剣を証拠として差し出すと、盗人として疑われたことに驚いてしまう。
父殿に教えてもらったことのない不義や身分の剥奪という言葉、自分の予想してなかったことが次々と起こり、頭が混乱して考えがまとまらなくなる。
平民の母殿と結婚するために、貴族から平民に降格してもらうように家長へ願い出たという話は聞いていたが、剥奪という話は聞いていない。
もしかして、父殿が迷宮騎士団に入団することを勧めなかったのには、私に言えない理由があったから?
「父殿の話と、違うであります……。父殿は、嘘をついてたでありますか?」
「ああ、嘘も大嘘。おおよそ、お前の親父はスラム街の出身で、貴族様が持ち歩いてた物を街で盗んだってところだな。それを自分の娘に渡して、貴族の娘とさせるとかひどい親父だな」
「父殿を……馬鹿にするなでありますッ!」
私は己の中で爆発した怒りの感情そのままに、目の前の騎士を全力で殴ってしまった。
素手で鎧ごと殴ったことにより自分の血に染まった拳と気を失って崩れ落ちた騎士を見て、ようやく自分がした愚かな行いに気付いた時には、既に遅かった。
「被告人、アカネ。迷宮騎士団への暴行容疑と詐欺容疑、及び、貴族の貴重品を強盗した容疑により……」
裁判長と呼ばれる人の口から、いわれの無い罪を付け加えられた罪状が語られる。
「……よって本裁判所はこれを認め、被告人を有罪に処す。被告人には、平民の階級剥奪と奴隷への階級降格を言い渡す」
何度も父殿が語ってくれた話を皆に説明したが、結局は自分の話に耳を傾けてくれる人はおらず、スラム街出身の盗人と決めつけられ、奴隷という身分に落とされてしまった。
人のいない山奥で両親と静かに暮らしてたから、国民ギルドのギルドカードを持って無かったので、身分を証明することもできなかった。
奴隷になった際に、父殿から預かった装飾剣もお金も盗んだ物として、全て取り上げられてしまった。
父殿の語る迷宮騎士団に憧れて、迷宮騎士団に入団としようとして声を掛けた結果がこれです、父殿。
これが、父殿が語っていた誇り高い迷宮騎士団の姿なのでしょうか……。
「ほら、嘘つき女。飯の時間だぞ。スラム街出身の癖に、貴族の娘とか何様なんだお前」
奴隷商人に引き渡されるまでと牢屋に入れられ、囚人となった私の前に差し出された残飯かと思うようなひどい御飯に、思わず顔をしかめてしまう。
しかしそれ以上に、自分の軽率な行動なせいで尊敬する父殿の名に泥を塗るような行為をしてしまった自分に、悔しい想いが募って悔し涙で視界が歪む。
初めのうちは、残飯のような食事に手をつける気も起きず、ひたすら拒絶をした。
絶食生活がしばらく続くと、さすがに空腹を覚え始めて、差し出された食事に手をつけそうになる。
しかし、これを食べれば、私は父殿の嘘を認めてしまうことになる。
空腹以上に、父殿の名を傷つけることに自分の心と体が拒絶の意思を示す。
奴隷商人に引き渡されてからも、食事を拒絶し続けた。
もう何日過ぎたか分からない頃に、ついに限界がきて食事に手を出してしまった。
「はむ、んぐ……!? ウォエエエエエ!」
飲み込んだ食事は、胃まで届く事はなかった。
意地で貫き通してたものがいつの間にか身体にまで染み渡り、ついには食べても吐き出すようになっていた。
父殿は、嘘をついていない!
食べたい自分と父殿の嘘を認めたくない自分に、板挟みの状態になってしまう。
何日も何日も、そんなひどい生活が続いた。
自分は戦奴隷か労働奴隷として売られる予定だったらしいが、もともと痩せていた私を見た者達は、私を買おうとはしなかった。
おそらく、食事を食べると吐くという話も雇い主達が買おうとしない理由の1つになったのだろう。
まともな食事を取り続けなかったために、意識も朦朧としてきだした。
もはや自分は死ぬのだろうかと思い出した頃、いつものように誰かに連れられるままフラフラと移動する。
ふいに鼻が反応する。
「スンスン……!?」
甘い匂い。
この匂いには覚えがある。
メリョン。
甘くて美味しい、私の大好きだった果物。
しかもこれは、父殿が買ってくれた安物のメリョンの匂いでは無い。
高級料理店の前を通った時に嗅いだ、貴族達が食べるような高級メリョンの匂いだ。
「えっと、もし、俺の所に雇われる場合の希望とか、条件とかある?」
意識がいきなり覚醒し、目の前の景色がはっきりとしてくる。
本能的に自分は叫んでいた。
「奴隷飯以外のご飯を食べさせて欲しいでありますッ!」
奴隷として扱わなければ良い。
この空腹を満たせれるのなら何でも良い。
それをさせてくれる人なら、誰でも雇われて良いと心の底から思って叫んでいた。
「い、戦奴隷として雇いたいんだけど、迷宮に潜るのは問題ないかな?」
「おいしいご飯が食べれるなら、何でもヤリマスッ!」
私の目の前に現れた貴族の子供を、思わず睨んでしまう。
この人が、私に美味しい御飯を与えてくれる人なのか?
その後の記憶ははっきりと覚えていない。
気付けば弁当箱を大切そうに抱きしめていた。
どこかの広場のような所に場所を移すと食べるように言われた。
弁当の1口を、恐る恐る口の中に入れる。
食べ物が喉を通り、さらにその奥へと移動する。
「……!? はむ、んぐ! おいしいであります! おいしいであります! ご飯がすごく、おいしいであります!」
食べれた。
ご飯が食べれた!
囚人飯では無かったからか?
奴隷飯では無かったからか?
自分の意思が、ようやく自分に食事をすることを許してくれた。
気付けば涙が零れていた。
生きていける。
私はまだ生きていける!
「……俺の名はハヤト=サクラザカ。家名があるからと言って貴族というわけではない。まあ、ちょっと訳ありな人間なんだけど、その辺に関しては他人に聞かれたくないので、改めて別の機会に話す。とりあえずはハヤト。もしくは……」
食事に夢中になっている間、ハヤト殿と名乗る人の話が耳に入る。
ハヤト殿は家名があるのに貴族では無いと言う。
何か事情があるみたいだ。
だが、今の私には関係ない話だ。
あ! もう食べきってしまった……。
少し物足りなさを感じながら、弁当の底を舐め終えるとハヤト殿の話に耳を傾ける。
どうやらハヤト殿は、迷宮に潜りたいようだ。
アイネス殿に聞いたら、実はハヤト殿は18歳だと言われて驚いた。
てっきり子供かと思っていたが、実は成人のようだ。
成人の男性と言うには妙に体が細いし、顔も年の割には幼く見える。
貴族なのに魔物のいる危険な迷宮に潜って、探索者生活で生活費を稼がないといけない理由はよく分からないが、私に食べれる食事を与えてくれた人なのだから、恩は返さないといけない。
とりあえず迷宮に潜るための装備を買って貰ったが、長い間まともな食事も運動もしてなかったためか、なかなか身体が思い通りに動いてくれない。
皆は私の身体を気遣ってくれたので、迷宮探索は比較的のんびりしたものだった。
良い人達だ。
そう思った。
牛人のアズーラ殿は、迷宮に潜るといつも「めんどくせぇ」と文句を言いながらも、私の顔色をさりげなく伺って「坊ちゃん、だるい。休もうぜぇー」と適当な理由を言っては、休憩を取るようにいつも気を遣ってくれる。
未成年なのにお酒好きで言葉遣いは悪いが、根は良い牛人のようだ。
狐人のエルレイナ殿は、何を考えているのかさっぱり分からない。
私が唯一の力仕事として与えられたラウネの葉を刈る時に、いつも隣で待ち構えている。
地面からラウネが顔を出すとすぐに掴んで持ち上げて、いきなり齧り出す。
それを私が見ていると「あいあいあー!」と奇声をあげてアクゥア殿の所に走っていく。
私に食べられると思ったのだろうか……。
さすがにラウネは、空腹になった私でもいらない。
猫人のアクゥア殿は、ヴァルディア語では無い言葉を喋るので、何を話しているのかは分からない。
でも、いつもハヤト殿と仲の良さげな様子で会話をしている。
それを見ている時のエルレイナ殿は、いつも不機嫌そうな顔をしているが……。
悪戯好きな子供を見るように、エルレイナ殿を甲斐甲斐しく面倒みたり見守っている様子から、悪い猫人では無いのは分かる。
エルレイナ殿が、唯一素直にアクゥア殿の言うことを聞くのも分かる気がする。
アクゥア殿は、とにかく強い。
自分も父殿に剣術や魔物との戦い方を習っていたが、アクゥア殿は常に遥か先をいっていた。
全てにおいて、今の私には勝てる気がしない。
でも、不思議と悔しさは無い。
アクゥア殿は、実は猫人では無いのではないかという話をアズーラ殿とよくする。
アズーラ殿は、アクゥア殿は虎人ではないかと言うが、私は違う気がする。
たしかにあの力強さは目に付くが、それと同時にあの足の速さが私は気になっている。
実はアクゥア殿は、豹人ではないかと私は思っているが、アクゥア殿とは会話ができないので思ってるだけにしている。
兎人のアイネス殿は、今まで食べた事の無いような美味しいご飯を毎日与えてくれる。
城で侍女の仕事をしていたと聞いたが、料理を食べて素直に納得した。
兎肉を使った夕食を初めて食べた時の衝撃は、今でも忘れられない。
このパーティーの中で一番不思議な人が、私の雇い主でもあるハヤト殿だ。
貴族であるはずなのに、奴隷の意見を素直に聞く。
むしろ子供の私達に、気を遣ってるくらいだ。
平民の子供でも、毒に犯されていたら迷うことなく治療をする。
腰が低いと言うか、器が広いと言うか、とにかく不思議な人だ。
父殿の話では、戦奴隷になると悪い人に当たった場合は、捨て駒のように使われることもあると聞いていた。
過去に罪を犯した奴隷なので人のように扱われず、ご主人様が食事をまともにくれない場合もあるとも聞いた。
本当は良くないことだが、影ではそのような行為が行なわれてると父殿は言っていた。
でも、ハヤト殿の所では奴隷と言うよりは、父殿と生活していた頃のように、皆が家族のように接してくれた。
元侍女のアイネス殿が生活の面倒をみてくれて、毎日美味しい御飯も食べれる。
奴隷なのに、アズーラ殿は当たり前のように酒を要求している。
迷宮探索もいきなり大変な所に連れて行かれるのではなく、アイネス殿の指示のもと皆のレベルに合わせて安全な所まで潜る毎日。
戦奴隷の生活は自分が想像していた以上に、とても良い生活を送れていた。
平民が入れないお風呂にも毎日入れて、貴族が使う石鹸を使って身体を洗うこともできる。
もしかしたら、平民以上に贅沢な生活をしているのかもしれない。
実は、既に自分は空腹で死んでいて、天国にいるのかと勘違いしてしまうくらいだ。
素直に、ハヤト殿に雇われて良かったと思った。
こんな日々が、いつまでも続けば良いのに……。
「ガァアアアア!」
狼の咆哮?
狼? 黒い、狼……黒い狼?
魔狼!?
……アイネス殿が!
自分が見ているのが夢だと気付いた瞬間に、目の前の光景が歪んで視界が真っ白になる。
* * *
「アイネス殿ッ!」
私は慌てて飛び起きる。
「アカネが起きたぞ!」
「アカネ、大丈夫か?」
アズーラ殿の声とハヤト殿の心配する声がすぐ近くでする。
アイネス殿は……良かった、無事のようだ。
両手でメイスを握り締めたアイネス殿が、腰を抜かしたように地べたに座り込んでいる。
私達を守るように、魔狼の前に立つアクゥア殿とエルレイナ殿。
「グルルルル」
『首を斬り落とすつもりで斬ったのですが、予想以上に反射神経が良いですね』
シミターを下段に構え、悠然と立つアクゥア殿。
私より小さな身体なのに、牛人のアズーラ殿以上に頼りになる背中がそこにあった。
アクゥア殿の持つ剣先からは、赤い血が滴り落ちている。
私の倍以上の身体を持つ魔狼が、離れた所から警戒するようにアクゥア殿を睨んでいる。
右目にはいつの間にか縦に斬り傷ができており、床に滴り落ちる程の出血をしている。
おそらく私が気絶している間に、アクゥア殿が斬り裂いたのだろう。
『私が以前見た魔狼とは、少し違うようですね。身体もひとまわり大きいですし、あれ程の強烈な咆哮も初めて見ました。もしかして、この魔狼は……』
「ウーッ!」
エルレイナ殿が白い牙を剥き出しにして、激しく唸り声をあげて威嚇をする。
『レイナ、今の貴方ではこの魔狼には勝てません。この状況で、今の貴方にもっとも相応しい選択をしなさい。それが出来ないのなら、下がりなさい!』
いつもの穏やかな雰囲気とは真逆の雰囲気を持つアクゥア殿。
ヴァルディア語では無いので、アクゥア殿が何を話しているのかは私には分からないが、エルレイナ殿を激しく叱咤するような言葉に、エルレイナ殿の身体が跳ねる。
すると何故かシミターを鞘に収めるエルレイナ殿。
ラウネが沢山入った背負い袋とシミターが入った鞘を地面に放り投げると、エルレイナ殿が腰に収めていたサバイバルナイフを抜く。
『そうです。アレは今の貴方が、好奇心を優先して勝てる相手ではありません。皆さんと協力して、勝てる方法を選びましたね。さすがレイナです。ハヤト様、アカネさんに伝えて欲しいことがあります』
魔狼から視線を外さずに、アクゥア殿がハヤト殿と何やら会話をしている。
ハヤト殿からアクゥア殿の話を聞かされ、私は魔狼を警戒しながらアクゥア殿の傍に歩み寄る。
『私1人でも、勝つことは可能だと思います。ですが、それではこのパーティーの為にはなりません。アカネさんの代わりに、私がアイネスさんをお守りします。アカネさん、レイナと一緒に魔狼をお願いできますか?』
「……分かったであります」
ハヤト殿に通訳してもらった内容を聞き、私は1つ頷く。
「アカネ、無理だったら無理と言っても良いのよ? ここで引いても、誰も責めはしないわ。アクゥアは、大丈夫だって言うけど……」
アイネス殿がハヤト殿に支えられながら立ち上がり、不安そうな表情で私を見る。
「決めるのはアカネだ。おめぇじゃねぇよ」
「そんなことは分かってます!」
「アカネ、いけるか?」
ハヤト殿が心配そうに自分を見るが、私はもう決めていた。
「やらして欲しいであります」
自分のシミターを探そうとするが、魔狼に飛ばされた時にどこかへシミターを放り投げてしまったようだ。
すぐに見つからない私に、アクゥア殿が魔狼から視線を外さないように移動しながら、床に落ちていたエルレイナ殿のシミターを拾って私に渡す。
『アカネさんは、これを使って下さい』
「分かったであります。エルレイナ殿、お借りするであります」
鞘からシミターを抜いて構える。
魔狼は未だにアクゥア殿を警戒しているのか、唸り声をあげながらも動く気配が無い。
これから先、この様な魔物はいくらでも現れる。
中級者迷宮に挑戦することになるなら、尚更この程度の魔物には勝てるようにならないといけない。
これ程に大きな狼は、過去に出会った事が無い。
怖くないといえば嘘になるが、それ以上に私は自分の願いを叶える為に、この魔物を自分の手で倒したい!
一度、大きく深呼吸をする。
「うさぎにく」
アクゥア殿の口から、私の不意を突く様にヴァルディア語が出てきて、思わず振り返る。
『帰ったら、アイネスさんの兎肉を沢山食べさせて貰いましょう。頑張って下さいね』
アクゥア殿に微笑まれながら言われたことをハヤト殿に通訳してもらい、私は大きく頷いた。
「アカネ、無事に帰ってきなさい。アカネがいなくては、料理の張り合いが無くなりますからね」
不安な表情をしながらも、アイネス殿が私を見送ってくれる。
「……行って来るであります。アクゥア殿、お願いするであります!」
『アクゥア、頼む』
『はい。では、始めます』
アクゥア殿の作戦通りに行動をできるように、私は身構える。
『レイナ。貴方の役割は、分かってますね? レイナ、行きなさい!』
『はい、お姉様!』
エルレイナ殿が動かないように掴んでいた腕を、アクゥア殿が放した。
アクゥア殿に警戒していた魔狼へ、いきなりエルレイナ殿が突撃する。
残った左目を狙うように、右側面に回り込むように駆け抜けるエルレイナ殿。
魔狼がエルレイナ殿に意識が向かった一瞬をつき、私はアクゥア殿の指示通り、常にエルレイナ殿と反対側の位置になるように行動を開始する。
右目を無くしたことで、魔狼の死角となるであろう左側面へ私は全力で走り抜ける。
エルレイナ殿の素早い動きへの反応で、死角へ入った私への反応が遅くなったのか、すぐに気付かれることなく魔狼の後方付近に回り込むことが出来た。
初めから狙っていた所で立ち止まると、足を踏み込みシミターを構える。
「あいあいあー!」
気合いの籠った一振りが放たれる。
エルレイナ殿が魔狼の目を狙ってナイフを振り抜いた。
それを後方に飛ぶのではなく、目を守るように頭を下げて避けた魔狼。
運が良い。
この幸運を逃がすわけにはいかない!
シミターを両手で強く握り締め、アクゥア殿に教えてもらった事を思い出し、横薙ぎに力の限りシミターを振るう。
「……ッ!」
予想通り腕に、強烈な負荷がかかる。
だが、アクゥア殿ができるのなら私にもできるはずだ。
父殿の話が本当なら、誇り高い狼人の血が自分に流れているのなら、私にもできるはず!
歯を食いしばり、握ったシミターに妙な感触と金属音が聞こえた瞬間、私はシミターを振り抜いた。
力を入れ過ぎたためか、勢い余って派手に転んでしまった。
しかし、すぐさま起き上がってシミターを構える。
気付けば私の持っていたシミターの先が無くなっていた。
正確には折れている。
エルレイナ殿に無茶な使い方をされて、止めの私の一振りでついに折れてしまったのだろうか?
魔狼は……。
「ガァアアア!?」
右後ろ足を無くした魔狼が、泡を吹きながら赤く染まった床の上を激しく転がっている。
大量に後ろ足から血を流し、激痛に悶えるように床を激しく前足で引っ掻き回して、大暴れしている。
アクゥア殿に言われた『まずは深手を与える』ために私がしたのは、その素早い動きを封じ込める為に足を奪う事。
左後ろ足には、折れた剣の先が肉に食い込んだままになっている。
どうやら骨を断ち切る前に、剣が折れてしまったようだ。
とりあえずは、魔狼に深手を負わすことには成功したようだ。
「あいあいあー!」
あるべき物を突然に無くした魔狼が、立ち上がろうとするがすぐに膝を床についた。
エルレイナ殿が再び目を狙って魔狼に近づくが、すぐさま何かに反応したようにエルレイナ殿が後方へ飛び退く。
まずい。アレをする気だ。
魔狼がエルレイナ殿に向かって、再び咆哮をしようと身構えている。
私は耳を伏せ、大きく息を吸い込むと、あえて魔狼に向かって全力で走る。
「……ッ!」
激昂した魔狼が大きく口を開け、怒りにまかせて放った強烈な咆哮が、耳を塞いでも鼓膜が裂けそうになるくらいの大きさで、迷宮神殿内に響き渡る。
その咆哮による威圧に、本能的に屈しそうになりながらも歯を食いしばって跳ねのける。
狼人を舐めるな、魔狼!
「「ガァアアアアア!」」
魔狼の咆哮を相殺するように、自らも咆哮を放つ。
シミターを逆手に持ち直すと更に加速するように地を蹴り、魔狼の死角である背後から勢いよく飛び上がる。
咆哮をすることによって動きが止まってる一瞬を狙い、私は両手で握りしめたシミターを力強く振り下ろした。
骨を貫く感触が、指に伝わる。
折れたシミターが、魔狼の脳天を深々と貫通した。
「……」
迷宮神殿内が静かになる。
しばらくして、魔狼の頭が力を失ったように床に落ちた。
「……勝ったであります」
この大物を、私が倒したのか?
がむしゃらにやった為に気付かなかったが、色んな感情が自分の中に溢れて身体が震えだす。
いつも以上に激しく動いた為か、急なひどい疲れを覚えて、私はそのまま床に崩れ落ちた。
「アカネ! アカネ! あいあいあー!」
『お見事です。アカネさん』
「大丈夫か、アカネ?」
「……大丈夫であります」
床の上に、大の字になって寝転ぶ。
達成感とひどい疲労で、ぼぉーっと天井を見上げていた私の顔を皆が集まって覗きこむ。
『私はアカネさんに、深手を負わして欲しいと言いましたが、まさかいきなり後ろ足を斬り飛ばすとは思いませんでした。てっきり、無難に胴を斬るかと思ってたのですが……よく骨のある後ろ足を斬れましたね。すごいです』
『火事場の馬鹿力ってやつかね?』
「エルレイナ殿、ありがとうであります。エルレイナ殿が隙を作ってくれたので、魔狼を倒せたであります」
私がそう言うと、エルレイナ殿が白い歯を見せるように笑みを浮かべる。
「アカネ! アカネ! あいあいあー!」
おそらく褒めてくれてるのだろう。
嬉しそうな顔のエルレイナ殿が、手の平で私を何度も叩く。
「痛いであります。エルレイナ殿……」
手を上げようとした時、自分の腕が目に入る。
痩せ細った、情けない己の腕を私は見つめる。
皆には、本当のことを言った方が良いのだろうか?
自分は元貴族の娘で、ファルシリアン家の血を継ぐ狼人だと……。
でも、あの騎士達みたいに、自分が嘘をついてると思われてしまう可能性もある。
何となくだが、ハヤト殿なら私の言葉を無条件に信じてくれるような気もするが……。
「アカネがそう言うなら、そうなんだろうな」
疑うことなく、そんな言葉をかけてくれるような気がする。
だからだろうか?
ハヤト殿から与えてくれた食事は、私の誇りを傷つけることなく食べることができたのは……。
だからこそ、ハヤト殿は裏切りたくない。
何も証明するものが無い今の私には、何を言っても皆を困らせるような結果を与え、父の名に泥をかけ続けるだけだ。
迷宮騎士団で話した時のような事は、二度と起こしたくない。
ならば、証明すれば良い。
私は拳を握り締める。
本当に私がファルシリアン家の血をひいてるのなら、いずれその結果が出るはずだ。
その時に、『豪腕』の2つ名を持つファルシリアン家の娘であることが、証明できれば良い。
父殿からは聖騎士の道はとても難しく、険しい道だと聞いている。
誇り高き優秀な血と、才能を持つ者にしかなることができないと。
でも、尊敬する父殿と同じ聖騎士になることができれば、もしかしたら……。
「アカネ? あいあいあ?」
エルレイナ殿が心配そうな表情で私を見つめる。
「大丈夫であります。ちょっと、疲れたであります。少し寝るであります」
「お疲れ様です、アカネ。寝てて良いですよ。後で運びますから。アズーラ、魔狼の報酬金を得るためには、どの部位を持って帰れば良いのですか?」
「あん? あー、忘れた。そのまま担いで帰るか?」
皆が魔狼のことで話し合いを始めたので、私は目を閉じる。
この人達なら、安心して身を任せられる。
今日は少し激しく動き過ぎた。
今は、身体を休めよう……。
* * *
「お嬢様には、申し訳ないことをしたでありますよ」
「何度も言うように、お前が悪いんじゃない。責められるのは俺だ。婚約者がいながら、他の女性を好きになっちまった俺が悪い。不義と言われても仕方ないさ。しかも、貴族の俺が平民の女を選んだんだ、こうなることは初めから分かってたさ」
これは……また夢?
もう会えないと思っていた見覚えのある顔が目に映り、思わず笑みが零れる。
「あぶー、あぶー」
父殿に声をかけようとするが、声が……この声は私の?
「可愛いであります」
「目は見事にお前と同じ青だな。耳と尻尾もお前に似てきたな」
上から声がしたので見上げると、青い瞳と髪を持つ若い狼人が目に入る。
青い髪を後ろで団子状に固めた綺麗な女性が、優しげな笑みを浮かべる。
この人はもしかして、父殿が言ってた母殿?
この夢は、私が赤子の時の記憶?
そんな小さな時の記憶があるものかと慌てて周りを見渡すが、母殿と思わしき人に抱かれた身体は思うように動かなかった。
声を出そうにも「あぶー、あぶー」と赤子の声しか出せない。
「アカネはきっと、アドル殿と同じ立派な聖騎士になるでありますよ。何て言ったって、ファルシリアン家の強い血を引き継いでるのでありますから!」
「勘弁してくれ。女で聖騎士を目指すとか、お嬢じゃあるまいし……アカネには普通の暮らしをしてもらうさ。俺の過去に縛られるのだけは、アカネには望みたく無いしな……」
肘から先の無くなった左腕を擦りながら、自分が知ってる頃より若い父殿が悲しそうな顔をする。
金の瞳と金色の体毛を持ち、『豪隻腕』の2つ名を持っていたという逞しい体つきの父殿。
いつも自分と一緒にいた時には見た事の無い、弱々しげな雰囲気の父殿に思わず驚いてしまう。
「カネリアと同じ、巫女じゃ駄目なのか?」
「むー、力自慢な巫女は、私だけで充分でありますよ」
「クックックッ、確かに。俺のとこにいた馬鹿な部下が、お前の巫女服の裾をめくって、鎧ごと殴り飛ばされたって聞いた時の話は、未だに忘れられないな。お嬢がしきりに、お前を迷宮騎士団に勧誘しようとしてたのが、今は懐かしいよ。まったく、戦士職になればお嬢より力があるっていうのに、それを断るとかもったいない話だな」
「私の仕事は、巫女であります。人手が足りないと言われたから、巫女としてアドル殿の所に、お手伝いに行ったでありますよ」
口を尖らせて不満そうな表情をする母殿に、父殿が苦笑いを浮かべる。
「確かに、教会の巫女以上に、お前は巫女の仕事をしているさ。この前も、旅の途中で会った奴隷の子供に、怪我を無料で治すとか。普通はありえねぇよ。奴隷のご主人様が、すごい驚いてたぞ」
「治せる力があるのに、治さないのはおかしいであります。お金は無いと言われたら、無理に貰えないでありますよ」
「お布施を取るのが好きな教会の連中が聞いたら、卒倒しそうな話だな。おかげで今日も、家は貧乏な訳だが」
「申し訳ないであります……」
狼耳を垂れさせて、母殿がうな垂れる。
お金の無い人でも無償で治療をするとか、ハヤト殿みたいだなと思った。
「別にかまわねぇよ。そんな所を含めて、お前について行こうと思ったわけだしな。さて、狩りに行ってくるよ。お腹を空かしたうちの姫君達のために、食料をとってこないとな」
「いってらっしゃいであります!」
家を出る父殿を、私を抱いて見送る母殿。
父殿が語っていた話と同じ光景を目の前にして、自然と笑みが零れる。
おぼろげな記憶の中でしか存在しなかった母殿が、顔を上げれば今は目の前にいる。
何となく会話のやりとりからして、もしかしたら父殿は母殿と同じ巫女の道を、私に歩ませたかったのかもしれない。
勉学よりも剣術の方がおもしろいと言う私に、いつも苦笑いを浮かべていた父殿の顔を思い出す。
でも、申し訳ないであります、父殿。
やっぱり私は、父殿と同じ聖騎士の道を歩みたいです。
母殿の言葉を借りれば、守るべき力があるのに、守るべき人を守らないのはおかしいです。
迷宮騎士団の道は諦めましたが、聖騎士の道は諦めてないです。
今はハヤト殿の所で世話になってますが、いずれは父殿と同じ立派な聖騎士を……。
「……で、ありましゅ!」
「あ、あ、アドル殿! アカネが、言葉を喋ったであります!」
偶然か「目指すであります!」と強く思ったことが、赤子の口からでてしまった。
それに驚いた母殿が、もの凄い勢いで私を抱いたまま父殿を追いかける。
たぶん、この後すぐに「生涯あの時程、肝が冷えた事が無い」と父殿が遠い目で語っていた、母殿が盛大に坂を転がり落ちる光景が繰り広げられるのだろう。
しばらくすると母殿の絶叫と共に、予想通り目に移る光景が回転し始める。
よくこの時の自分は無傷だったなあと思いながらも、夢が終わるまで私は母殿の温もりを感じながら、幸せな時間を過ごした。




