第7話 水運びの列
ロイは、広場の端で倒れていた。
年は18か19。まだ少年の面影が残る若者だった。水桶を抱えたまま膝をつき、そのまま横へ崩れたらしい。桶からこぼれた水が、土の上に黒い染みを作っている。
周囲には、川へ水を汲みに行っていた若者たちが集まっていた。
近い。
近すぎる。
「全員、下がれ」
俺が言うと、何人かは反射的に一歩引いた。
だが、1人の若者がロイの肩を抱えようとする。
「触るな」
声が強くなった。
若者の手が止まる。
「でも、ロイが」
「助ける。だが、順番を間違えるな。触るなら、触る人間を1人に決める」
「そんなこと言ってる場合かよ」
「そういう場合だ」
若者は俺を睨んだ。
その気持ちは分かる。
友人が倒れているのに、触るなと言われれば腹が立つだろう。
だが、病は友情を区別しない。
ロイ、48時間以内の重症化率、41%。
接触者5人。
水運び列全体への拡大率、58%。
このまま全員がロイを支えれば、数字はさらに上がる。
セラが布で口元を覆い、ロイのそばに膝をついた。
「私が見ます。みんなは離れて」
「セラ、お前1人じゃ」
「1人ではありません」
セラは俺を見た。
「ユリウス、指示を」
その言葉で、若者たちの視線がこちらへ向く。
疑いと不満と期待が混じった視線だった。
重い。
だが、今は重さを測っている暇はない。
「ロイに直接触れるのは、セラだけだ。もう1人、布と水を運ぶ者を決める。ほかの者は桶に触らず、広場の西側へ移動しろ」
「桶はどうする」
「今、誰がどの桶を持ったか分かるか」
若者たちは顔を見合わせた。
誰も答えない。
当然だ。
水を運ぶときに、桶の持ち主まで記録している村などない。
だが、それが問題だった。
「分からないなら、全部分ける。ロイが触った可能性のある桶は使うな。煮沸する水を入れる桶と、汚れた桶を近づけるな」
「全部って、そんな桶は足りないぞ」
「足りないなら、水を運ぶ回数を減らす。代わりに大鍋を増やす」
「大鍋なんて、各家に1つあるかどうかだ」
「なら借りろ。壊れていない鍋なら、料理用でも染物用でもいい。ただし、煮沸用と汚れ物用を混ぜるな」
言いながら、俺は地面に枝で線を引いた。
広場を3つに分ける。
北、子供と老人。
東、発熱者。
西、水運びと物資置き場。
中央、井戸周辺は封鎖。
線を引くと、村人たちは少し理解しやすくなるらしい。
言葉だけでは動かなかった者たちが、地面の線を見て、ようやく足を動かし始めた。
目に見える境界は、数字より強い。
「この線から東は発熱者用。西は水と物資。北は子供と老人。中央には入るな。線を越える者は、理由を言ってから越えろ」
「いちいち言うのか」
「いちいち言う。言わずに越えると、誰が誰に触れたか分からなくなる」
村人の1人が、苦い顔で言った。
「まるで罪人扱いだな」
「病人扱いでも罪人扱いでもない。記録に残すためだ」
「記録して何になる」
「誰が危ないか、誰がまだ動けるか分かる」
「分かったところで、病が治るわけじゃない」
「治療できる人と水を、必要な場所へ先に届けられる」
村人は黙った。
納得したわけではない。
だが、動く理由にはなったらしい。
セラがロイの額を確かめる。
「熱が高いです。呼吸も速い。水を飲ませたいですが、吐き気があります」
「一度に飲ませるな。布を湿らせて口を拭く。少量ずつだ。胃が受け付けるか見る」
「はい」
セラの返事は早い。
だが、声に疲労が滲んでいる。
セラ、疲労による判断低下率、59%。
このままでは彼女も危ない。
「セラ、ロイを見たら休め」
「まだ無理です」
「無理かどうかではない。代わりを作ると言っただろう」
「でも」
「ニナは少し落ち着いた。ギルは寝ている。今倒れたら、誰も薬草を扱えない」
セラは言い返そうとして、やめた。
「……分かりました。ロイを運んだら、少しだけ座ります」
「少しではなく、1刻」
「長いです」
「短い」
「今は交渉している時間が」
「では半刻」
セラは目を丸くした。
「交渉するんですね」
「相手が倒れるよりはましだ」
彼女は疲れた顔で、それでも少し笑った。
「分かりました。半刻だけ」
その笑いを見て、周囲の村人たちの表情もほんの少し緩んだ。
たぶん、セラが笑うことには意味がある。
この村の人間は、彼女を疑っている。
それでも、彼女が崩れれば、自分たちも崩れるとどこかで分かっている。
俺では代わりにならない。
俺ができるのは、線を引くことだけだ。
人の動きに。
水の流れに。
病の広がりに。
そして、可能な限り、その線を交わらせないこと。
ロイを東の空き家へ運ぶことになった。
直接触れるのはセラと、ロイの兄だという男の2人だけにした。兄は布で口元を覆い、両手にも古い布を巻いた。
「これで本当に意味があるのか」
兄が聞いた。
「意味はある。完全ではないが」
「完全じゃないのか」
「完全な対策はない」
「……嫌なことを言うな」
「よく言われる」
兄は少しだけ笑った。
すぐに笑みは消えたが、それでも手は震えなくなった。
ロイを運び出すとき、リュカが道を先導した。
白い獣は発熱者の空き家へ向かう途中で2度立ち止まり、別の道を選んだ。
最初は理由が分からなかった。
だが、すぐに気づいた。
1つ目の道には、子供たちの納屋へ向かう通路がある。
2つ目の道には、煮沸済みの水を置く場所がある。
リュカは、病人の通る道と安全な場所が交わらないように避けている。
「……お前、本当に何なんだ」
リュカは振り返らない。
ただ、白い尾だけが揺れた。
当然だ、と言っているようにも見えた。
ロイを空き家へ寝かせたあと、俺は広場へ戻った。
すでに夜は深く、村人たちの顔には疲れが濃い。
それでも、地面に引いた線は守られていた。
線の外に置かれた汚れた桶。
線の内側に積まれた煮沸済みの水。
子供たちの納屋にはミアがいて、発熱者の空き家にはセラがいる。
村長は井戸のそばに立ち、近づこうとする者を黙って追い返していた。
ギルは熱で寝込んでいるが、目が覚めるたびに文句を言っているらしい。
文句を言えるなら、まだ悪くない。
俺は手帳に書いた。
発熱者、12人。
重症化リスク高、5人。
水運び接触者、6人。
隔離済み、4人。
追跡不能、2人。
救助成功率、41%。
水運び動線分離後、推定47%。
数字は少し上がった。
ほんの少しだ。
だが、その少しのために、村人たちは夜通し水を沸かしている。
俺は手帳を閉じた。
その時、背後から声がした。
「統計士さん」
振り返ると、ミアが立っていた。
ニナの母親ではない。子供たちを見ている若い母親の方だ。彼女の腕には、眠った子供が抱かれている。
「何かあったか」
「いえ。水を、ありがとうございました」
「俺は水を運んでいない」
「でも、分けろって言ったのはあなたでしょう」
「分けなければ危なかったからな」
「助かりました」
ミアは小さく頭を下げた。
礼を言われるようなことをした気がしなかった。
ただ、危険な線を引いただけだ。
線の向こうとこちらを分けただけだ。
「まだ助かったわけではない」
「分かっています」
ミアは子供の背中を撫でた。
「でも、さっきまで何をしていいか分からなかったんです。今は、少なくともこの子に何を飲ませればいいか分かる。それだけで、安心できます」
俺は返事ができなかった。
数字は人に安心を与えない。
そう思っていた。
だが、正しい順番が分かるだけで、人は少し落ち着けるのかもしれない。
ミアが去ったあと、リュカが足元へ戻ってきた。
白い毛は少し汚れていた。
「珍しく汚れているな」
リュカは不満そうに俺を見た。
「褒めている」
リュカはさらに不満そうな顔をした。
どうやら褒め方が悪かったらしい。
夜明け前、ようやく村全体の動きが落ち着いた。
水運びは3人ずつの組に分け、帰ってきたら決まった場所に桶を置く。煮沸する者は水運びには参加しない。看病する者は子供たちの納屋へ行かない。
単純な決まりだ。
しかし、単純な決まりほど、疲れた人間には必要だった。
俺は広場の端に座り、手帳の上に額を乗せそうになった。
眠気で数字の縁が滲む。
リーベル村、救助成功率、49%。
まだ半分には届かない。
だが、かなり近づいた。
それを見た瞬間、視界の端に別の数字が浮かんだ。
ユリウス・レイン、判断低下率、63%。
俺は固まった。
自分に関する数字は、見えないはずだった。
少なくとも、今まではそうだった。
死亡率ではない。
判断低下率。
それでも、自分自身の数字が浮かんだのは初めてだった。
「……何だ、今の」
数字はすぐに消えた。
見間違いかもしれない。
疲労のせいかもしれない。
そう考えようとした。
だが、リュカが俺の膝に前足を置いた。
薄い金色の目が、こちらを見上げている。
その目は、いつになく険しかった。
「大丈夫だ」
言った瞬間、リュカは俺から半歩離れた。
嘘をつくな。
そう言われた気がした。
俺は口を閉じた。
大丈夫ではない。
それでも、今は止まれない。
東の空き家から、セラの声が聞こえた。
「ユリウス! ロイの熱が上がっています!」
俺は立ち上がった。
膝が少し揺れた。
リュカが袖を噛む。
行くな、ではない。
無理をするな、でもない。
たぶん、倒れるな、だ。
「分かってる」
今度は、嘘ではなかった。
俺はリュカと一緒に、東の空き家へ向かった。
水の流れは分けた。
人の動きも分けた。
だが、病はまだ村の中にいる。
夜明けまでに、次の手を打たなければならなかった。




