第2話
ごく普通の街並みを、エリックとアリスの二人が歩いている。道中、アリスがエリックに質問を投げかけた。
「でもエリックさん、買い物に行くっていっても、お金はどうするの? 見たところそんなにお金を持っているようにも見えないし、かといってエリックさん、働いているようにも見えないからさ。どうするのかなって…。」
「フフフ、それなら心配ご無用。僕にはこいつがあるからね。」
エリックが財布から虹色のキャッシュカードを取り出した。
「何、このキャッシュカード? 凄い綺麗ね。」
アリスがエリックの持っているキャッシュカードをまじまじと見つめる。
「これは『レインボーカード』。これを持っていると、銀行で個人の所有残高に関わらず好きな金額だけお金を下ろせるのさ。」
「えー! そんなのズルいじゃない。」
アリスが至極当然な反応を示す。
「ただ、勿論それに対するハードルも凄まじく高くてね。通常のキャッシュカードでお金を下ろす時は、その暗証番号が四桁だろう?」
「え、えぇ…。」
「ところが、この『レインボーカード』は暗証番号が一万桁もあるんだ。しかも、全ての番号をミスする事なく一発で、十分以内に入力しなければ、お金を引き出す事が出来ないんだ。」
「えー! そんなの出来る訳ないじゃない。」
「ところが出来るのさ。」
そんな話をしている内に、二人は目的地の銀行へと到着した。入り口をくぐり、エリックが銀行員の一人に先程のキャッシュカードを見せると、銀行員は慌てた様子で支店内の奥へと向かい、誰かを呼びに行った。しばらくして、奥から支店長らしき男が現れ、二人は行内の奥へと案内された。支店長の男が突き当たりにある部屋のドアを開けると、室内にはATMが一台ぽつんと置かれていた。支店長は二人を室内へと促すと、軽くお辞儀をして、部屋を去っていった。
「それで? どうするの、一万桁?」
アリスが両手を腰に当てながら、溜め息混じりにエリックに尋ねる。
「フフフ、まぁ見ててごらん。」
エリックは不敵な笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。やがて、何やら呪文のようなものを唱え始め、両手を、球体を描くように動かし始めた。
「出でよ、暗証イカ!」
エリックが名を告げると、手の中からポンと音を立て、丁度、掌よりも少し大きいくらいのイカが現れた。
「ヘヘ、ダンナ。いつもすいやせんねぇ。」
暗証イカはとても卑屈な態度だった。
「あぁ、暗証イカ。いつものヤツを頼む。」
「ヘヘ、任せてくだせぇ。あらよっと。」
威勢の良い掛け声と共に暗証イカは、十本の足と腕を使って、物凄い速さで画面に映し出されていた数字番号を連打し始めた。一連の流れを横で見ていたアリスには、暗証イカが行なっている腕(と足)の動きが全く見えず、ただ唖然と、彼の取っている行動を見守るしかなかった。数分後、『入力が完了しました』という音声案内と共に、金銭の出し入れ口から紙幣が何枚か出てきた。
「九分四十二秒か。うん、まずまずだ。ほら、暗証イカ。報酬の海老の袋詰めだ。」
エリックが暗証イカに、海老がぎっしり入った袋を手渡した。暗証イカがそれを受け取る。
「ヘヘ、いつもすいやせんね、ダンナ。それでは、あっしはこれで。」
「うむ、またよろしく頼む。」
暗証イカは二、三度頭を下げ、来た時と同じようにポンと音を立ててあっという間にいなくなってしまった。一連の行動をアリスが呆然と見つめる。
「…さて。」
エリックが紙幣を取り出し、財布へと収めた。そして、まだ呆気に取られたままのアリスに向かってフリップボードとマジックペンを手渡してこう尋ねる。
「では、アリス。このボードに質問をどうぞ。」
アリスは頭を抱えながら、こう返答する。
「あー、待っててね。今まとめるから。」
やがて、しばらくしてアリスが質問を書いたフリップボードを、エリックへとつき立てる。アリスが書いた質問の内容は、次の通りだった。
①暗証イカって何?
②何で暗証イカは、一万桁を十分で打てるの?
③っていうか、あれだけの仕事をさせておいて報酬が海老の袋詰めって、アンタ何ソレ?
「はい! どうなの? エリックさん!」
「ふむ、当然の質問ばかりだ。ではまず順番に答えていこうか。まず①に関して。そもそも、このキャッシュカードが手に入った時に真っ先に思った事が、絶対に自分では入力出来ない、という事だった。なぜなら、人間の指先では明らかに入力時での効率が悪いからね。」
「うん。」
「そこで考えたのが、腕(と足)が十本あるイカに人間並みの知能と技能を与えて、暗証番号の入力を行なえば、腕(と足)の数が多い分、人間と比べて入力時の効率が十倍になり、一万桁の入力も可能になるのではないかという事だった。」
「…はぁ。」
「そこからはもう簡単だった。質問の内容が②に移るけど、海に行って適当なイカを一杯拝借して、彼に人間並みの知能と技能を与えた。それから十本の足一つひとつに押す数字の役割を決めて、後は十分以内に一万桁を打てるようにひたすら練習を繰り返したというだけの話だよ。」
エリックの話す方法論に、アリスは終始頭を抱えていた。
「はぁ…。話を聞いた所で、また新たな疑問点が湧いてきたよ。でも! それだけの仕事をさせておいて報酬が海老の袋詰めってのはカワイソ過ぎるよ!」
アリスが不満に満ちた表情で叫ぶ。
「そんな事はないさ。イカの世界で海老は、超贅沢品だからね。しかも彼は今育ち盛りのお子さん達を多数抱えていて、あの報酬としての海老の袋詰めは、奥さん共々、随分と喜んでくれているらしいよ。」
しれっと言い放つエリックに対して、アリスは言葉を失っていた。
「はぁ…。完全にこの人の一人勝ちだよ。まぁいいや。みんなが満足してるのなら。」
「さぁ、それじゃあ買い物に向かおうか。」
エリックがドアへ近付き、ドアノブを捻った時、窓口の方から何やら悲鳴が聞こえた。その声にアリスが反応を示す。
「な、何? 今の悲鳴?」
「どうやら、何かあったみたいだね。」
そうして二人は、悲鳴のあった窓口へと向かっていった。
二人が窓口のある店舗部分に戻ってみると、ATMの行列の途中で、男が背中から包丁を一突きに刺されて死んでいた。男の周りを大勢の人達が取り囲み、皆一様に不安な表情を覗かせている。
「どうしたんですか? 一体何があったんですか?」
エリックが、たまたま側にいた老人に話しかけた。
「何かよう分からんのだけど、ATMに並んでいた男が突然、後ろにいた人間から刺されたんだよ。そりゃもうブスリと。」
「その刺した人はどんな人でしたか?」
「さぁー。グレーの帽子に、黒いコート、おまけに黒のサングラスっちゅう、ごっつい格好しとったから、どんな人相だったかはほとんど分からんわ。」
「そうですか。」
老人から情報を取り入れ、エリックは再び死体に視線を送った。死体の近くでは店内の銀行員達が一般客を近づけないように規制線を張ったり、警察に連絡をしたりして、皆慌しく動いている。
「どう、エリックさん。何か分かったの?」
つい先程まで死体の近くで見物していたアリスが戻って来て、耳打ちするようにエリックに尋ねる。対するエリックも怪しまれない程度に小声で話す。
「いや、詳しい事はまだ何も。」
「そう。それで、これからどうするの?」
「うん、まぁ折角だからちょっと調査してみようかなって。」
「え、でも調査って言ってもあんなに人だかりが出来てるんだから、そんな簡単に近づけられないでしょ? エリックさん、警察でも探偵でも何でもないんだし。」
「うん、だから、一旦時間を止める。」
(時間を…? )とアリスが聞き返そうとしていた次の瞬間には、もう時が止まっていた。辺りは皆、一時停止しているかのように完全に静止しており、誰一人動いている者はいなかった。
「さぁ、アリス。早くこっちにおいで。」
呆気に取られているアリスを尻目にエリックはいつの間にか死体のすぐ側へと近付いていた。呼ばれたアリスが急いでエリックの側へと駆け寄る。
「ごらん、アリス。背中から心臓を一突きだ。この犯人は、彼を殺す事に対して随分と躊躇いが無かったようだ。」
エリックが死体に刺さっている包丁を指してアリスに語りかける。
「本当ね。でもエリックさん。確かに凶器としては、この包丁が一目瞭然な訳だけど、逆に言えば、凶器以外の犯人の手がかりになるような物が、これ以上何も無いんじゃない?」
「何を言ってるんだい、アリス? 何より大きな手がかりがここにあるじゃないか。」
「え? でもこの包丁だけじゃこれ以上何も分からないわよ。もっと、他の人からの情報を集めるとか、この包丁がどこで買われた物で、どんな人が買っていったとか、そういう細かな情報を調べていかないと…。」
「いや、もっとストレートに調べる方法がある。こんな風に。」
エリックがポケットから何やら黄緑色の粉が入ったカプセルを取り出し、それを包丁に降りかけた。すると、しばらくして包丁にぱっちりとした目と口が現れた。アリスがたまらず声を上げる。
「な、な、な、な、何なのエリックさん。これ? 何か包丁に目と口が生えたんだけど。」
「あぁ、これは『パーソナルパウダー』といって、喋られない植物や無機物に降りかける事によって、その対象物を喋らせる事の出来る粉なんだ。」
「へ、へぇー…。」
「さて、包丁君。喋ってくれるね。」
呼ばれた包丁は、少し俯きながらゆっくりと口を開いた。
「えぇ、ですが、話す前に一つだけ。私は女性です。なので包丁君ではなく包丁さんと呼んでください。」
(いや、そこは別にいいんじゃないかな。意外とプライドが高いのね。包丁さん。てゆーか、こんな能力があったら、この世の中に推理物なんてジャンル確立しなくなるわよね。殺人事件が起きたら、凶器にこの能力を使えばいいだけの話になるし。)と、アリスは心の中でツッコんだ。
「それでは話させて頂きます。確かに、私の持ち主様は、私の体を使って人を殺すという許されない事をしました。ですが、それも致し方のない事なのです。この男は死んで当然。それだけの事をしてきた男なのですから…。」
包丁さんが沈痛な面持ちになる。アリスは包丁さんのその表情に、ただならない事情を感じ取った。
「何か、深い事情がありそうですね。」
エリックのその言葉に、包丁さんがこくんと頷く。
「この男の名は、中川達也。二十九歳。去年まで私の持ち主様の旦那となっていた男でした。」
「え、っていう事は…。」
アリスがはっとした表情で声を上げる。
「そうです。この男を殺した犯人は、この男の元妻。旧姓、長谷川恵子。その人です。」
「なるほど。大分話が見えてきました。ならばおそらく、殺害の動機は怨恨といったところではないでしょうか。」
エリックが問い掛ける。
「はい。私の持ち主様とこの男は、十年前、大学のサークルで知り合いました。やがて大学を卒業し、地元企業に就職、しばらくして結婚と、傍から見ても充分に幸せな生活を過ごしていました。しかし、二年前にこの男の会社が倒産して、そこから全てが狂い始めたのです。男は酒に溺れ、毎晩のように私の持ち主様や三歳になる一人息子に、酷い暴力を振るいました。やがて、二人は離婚し、子供は私の持ち主様が引き取る事になりました。ようやくこれで全てが終わった。そう思った矢先、新たな悲劇が持ち主様を襲ったのです。」
「この男があなた達のもとへ、金をせびりにやってきた…ですか?」
エリックが仮説を述べる。包丁さんはその言葉に静かに頷く。
「えぇ、毎月三万。本来ならこの男が私の持ち主様達に養育費や生活費を払うのが道理であるにも関わらず、逆にこの男は、私達の所へ金を渡すよう要求してきました。」
二人は包丁さんの語る事実に沈黙している。
「男が職を失い、求職活動をしている間、持ち主様は常々申していました。『今はまだ辛い時期にいるだけ。諦めなければ必ず良い事がやってくるから。』と。それなのに、あの男はそれを裏切って…。」
怒りと悲しみに体を震わせ、言葉を詰まらせる包丁さん。二人は何も喋らない。
「お願いです。どうか、今回の出来事はあなた達二人の胸の内にだけ留めておいてもらえないでしょうか? これでもし持ち主様が捕まって刑務所行きなんて事になったら、それこそ持ち主様が可哀想です。」
包丁さんの問い掛けにアリスがエリックの顔を見つめる。見つめられたエリックは、ひどく無表情な顔をして、すっと静かに立ち上がった。
「いや、残念ながら包丁さん。私達は警察でも探偵でもない。ただの一般人だ。だから今後の捜査の方針がどうなるか。残念ながらそれはやはり警察次第だ。力になれなくて済まない。」
包丁さんに頭を下げるエリック。一方の包丁さんはひどく残念そうな表情をしていた。
「…そうですよね。無理を言ってごめんなさい。」
「あぁ、もうすぐパウダーの効果が切れる。じゃあ、また。」
エリックがその言葉を言い終えるのと同時に、今まで静止していた世界が再び動き始めた。
「こら! 君達! 勝手に入ってきちゃ困るよ。」
銀行員の一人がエリック達に声を掛け、死体から離れるように促す。
「それじゃあアリス。買い物に行こうか。」
出口へと歩き始めるエリック。呼ばれたアリスは驚いたような表情を浮かべる。
「え、えぇ。」
こうして、二人は銀行を後にしたのだった。