第1話
この世界ではない、どこか別の世界の物語。
とある家の一室で、一人の男が大きなキャンバスに絵を描いている。彼の名は、エリック。作務衣のような紺色の服を身にまとい、ボサボサの金髪頭で一心不乱に絵を描いている。年は二十代前半だろうか、全体的に童顔な顔立ちのため、随分と若い印象を受ける。しばらくして、エリックが筆を止めた。
「…お腹が空いたな。」
エリックがそう呟くと、突然、隣の部屋に置いてあった冷蔵庫の扉が開いた。冷蔵庫の中に置いてあった、ラップに包まれた夕飯の残りの焼きそばが、独りでに皿ごと電子レンジの中に入っていった。タイマーが自動的に動き始め、これまた自動的にスイッチが始動し始めた。やがて、数分して、加熱が終わる頃、レンジの扉が開いた。レンジの扉が開いたかと思うと、中に入っていた焼きそばが、途中、フォークと水の入ったペットボトルも連れて、エリックのいる部屋へと飛んできた。やがて、それらはエリックの脇に置いてあった小さなテーブルへと置かれ、ホカホカに湯気の立った美味しそうな焼きそばを、エリックはフォークで装い、口元へと運んだ。
「…うん、美味い。」
それからしばらくの間、エリックは焼きそばを黙々と食べていた。数分後、焼きそばを全て食べ終え、再びエリックは絵を描き始めた。やがて、またしばらくして、エリックが筆を止めた。
「…青色が足りないな。」
今度はエリックの後ろにあった、百ほどはある碁盤上のマスのように仕切られた小物入れの一つが勢い良く開き、その中に入っていた青色の絵の具がひょっこりと顔を出し、先程と同じようにエリックの元へと独りでに運ばれていった。どうやら、この男には自身が思い描いたものを自動的に動かせる能力があるらしい。
「…うーん、もうちょっと赤みが欲しいな…。」
不満を漏らし、先程と同じように後ろの小物入れの一個を念じ開ける。小物入れがガサガサと音を立てた。
「あれ?」
エリックが不審に思い、再度小物入れを左右に揺らす。
「まいったな…。」
エリックがそう溜め息を漏らすと、棚の脇に書かれていた『①』というボタンを押した。
「ぎゃあああああ!!」
冷蔵庫のあった部屋とは別の部屋で、何やら女の子の悲鳴が聞こえた。やがて、向こうの部屋から誰かが飛んできた。
「もー! いい加減にしてよ、エリックさん! 何で私を呼ぶのにいちいち電流を流すのよ。口で呼べばいいじゃない! 口で!」
現れたのは、妖精だった。体長は約三十センチメートルほどで、四枚の透明な羽に、エメラルド色の服を着ていた。そして、何故か、首に、首輪のような物が付いていた。どうやら先程の電流は、丁度この首輪から流れ出たもののようだった。
「ははは。ごめんよ、アリス。ちょっと声が掠れててさ。呼べる自信が無かったんだ。」
怒りの矛先として向けられたエリックは、随分とあっけらかんとした様子で答えた。
「で? 用件は何なの?」
アリスが腕を組みながら、ひどく不機嫌な様子で尋ねる。
「あぁ、あそこの箱の中に、赤色の絵の具があるか見てきて欲しいんだ。」
エリックが後ろにある小物入れの一つを指した。確かに、小物入れまでの高さは三メートル程あり、容易には確認できるような場所ではなかった。
「あそこね。分かったわ。ちょっと見てくる。」
アリスが了解し、羽ばたいて箱へと向かい、箱の中を覗き込んだ。
「えぇ、確かに無いわよ、赤色の絵の具。」
「そっかぁ。分かった。ありがとう。アリス。」
エリックはがっくりとし、腰を下ろした。一方、アリスは小箱を棚に閉めて、エリックの元へと降りてきた。アリスが視線を目の前にある大きなキャンバスへと向ける。その大きさは壁一面を占め、優に縦横二、三メートルはあるかと言う大きさだった。その大きさに圧倒され、アリスが呆れた様な声を上げる。
「でも、ホント、エリックさんも飽きずによく描くわよね。一体、何なの? この絵?」
「あぁ、これかい? これは、『真実の絵』さ。」
「『真実の絵』?」
アリスがエリックの言葉を復唱する。
「あぁ、僕はこの絵に『世界の真実』を描き表したいんだ。」
「…ふぅーん。」
アリスが、あまり関心が無さそうな声を上げる。
「まぁ、この絵が完成したら、その首輪も外してあげるし、妖精界にも帰してあげるから。」
「ホント!?」
アリスが歓喜の声を上げる。
「それで? この絵はいつ頃完成する予定なの?」
「ざっと六十年後くらいかな。」
その瞬間、エリックは近くに置いてあった絵筆で思いっきり頭を叩かれた。
「冗談じゃないわよ! 長すぎるでしょ! 六十年って。どんだけチンタラこの絵を描くつもりなのよ?」
叩かれたエリックが、よろめきながらゆっくりと起き上がる。
「イタタタ。いや、違うんだよ。」
「何がよ。」
アリスが憤怒の表情で聞き返す。
「実は、この絵は『真実の絵』のほんの一部分で、本当は、この絵と同じ大きさの様々な絵を、何十枚と併せる事で、初めて『真実の絵』と名づけられた一枚の大きな絵が完成するという、壮大なビックプロジェクトになっているんだよ。」
「…で? それが完成するのが六十年後くらいと?」
「…はい、そうです。」
怒りのオーラが立ち込めるアリスに圧倒されながらも、エリックが頷く。すると、玄関から呼び鈴が聞こえた。
「あ、来客だ。はいはーい。」
エリックが立ち上がり、玄関へと歩き始めた。すると、突然、地面の底からエリックの体の周りを黄金色の光が包み始めた。エリックがその光に包まれると、今までボサボサだったエリックの髪がみるみるうちに独りでに整えられていった。そして、それと同時に、これまで着ていた衣服も、ボロボロの作業着から、黒いスーツに白いYシャツというフォーマルな衣装に変わっていった。玄関に辿り着く頃には、先程までの無作法な姿はどこにも無かった。
「はい。こんにちは。」
爽やかな笑顔と共に、エリックは玄関のドアを開けた。
「ホント、エリックさんって、何者なのかしら。」
先程までの一連の行動を後ろで見ていたアリスが、訝しげに呟いた。やがて、玄関にいたエリックが何やら一枚の封筒を持って、こちらへやって来た。
「はぁーっ。また、水道代の請求書だよ。さすがの私も水ばっかりはねぇ…。」
アリスがじっとエリックを見つめている。その様子にエリックが気付いた。
「どうしたんだい。アリス?」
呼ばれたアリスは、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「…別に。青海苔。歯に付いてるわよ。」
憮然とした態度でアリスがエリックに投げかける。言われたエリックが急いで鏡を覗いた。
「はっ! ホントだ。だからさっきの郵便の人、半笑いだったのか…。うわっ恥ずかしい…。」
エリックが洗面台に行き、歯を磨く。しばくして衣服を作業着の姿に戻した格好で、部屋へと戻り、再び絵を描き始めた。
「ホント、よくやるわよね。」
アリスがエリックのそんな様子に呆れながら呟く。それから、アリスは嵌め殺しとなっている窓の側へと、身を寄せ、窓の外の景色に目をやった。外では、実に晴れ晴れとした青空が辺り一面に広がり、お洒落な衣装を身にまとった少女達が、楽しそうに街中を歩いていた。そんな様子を見ていたアリスが、人知れず寂しげな表情を浮かべた。
「…とりあえずここまでにしておこうか。アリス!」
エリックが窓際にいるアリスに声を掛ける。しかし、アリスは気付かず、ただ只管に窓の外を眺めていた。
「…アリス?」
不安な表情でアリスに近寄ろうとした時、アリスが近付いて来るエリックに気付いた。
「…あ、あれ? エリックさん? 何? どうしたの?」
慌てふためきながら、しどろもどろの滑舌で答えるアリス。その目には若干の涙が滲んでいた。
「アリス…。」
「あ、いや、ちょっとここから窓の外を見てたら寂しくなっちゃってさ。あ、別に気にしなくていいのよ。どうせここから出られないんだし。あははは。」
無理に笑おうとするアリス。しかし、笑顔であっても心の奥底では泣いている事は誰の眼にも明らかだった。
「…よし!」
エリックが突然力強い声を上げる。
「アリス、今から一緒に買い物に行こうか。」
「…え?」
「ちょうど、赤色の絵の具を買いに行く所だったし、さすがに一週間もずっと家の中にいるのは健康に良くないからね。」
エリックの突然の提案に、アリスが驚きの表情を浮かべる。
「え…? でもいいの、エリックさん? …私を、外に出したくないんでしょ?」
「いや、出したくないというか、出すとマズいというか…。」
曖昧な表現でお茶を濁すエリック。その言い回しにアリスが疑問を抱く。
「出すとマズいって、何が?」
「はは、まぁいいじゃないか、そんな事よりもアリス。これを被ってくれないか。」
エリックが徐に、近くに置いてあったバケツを手に取り、その中に入った液体を、アリスに向かって真っ逆さまに被せ始めた。エリックの突然の行動にアリスが悲鳴を上げる。
「きゃあ! ちょ、何をするのよエリックさん! …って、あれ? 何だか体が透けてきた。」
バケツに入った液体を被せられたアリスの体がみるみる内に透けてきた。
「これは『イレイシング ウォーター』と言って、文字通りこの液体を塗ったものの姿を見えなくさせる事の出来る液体なんだ。」
「へぇー。わー凄いわね、これ。」
アリスが、透けた自分の体を不思議そうに鏡で見ている。
「その姿なら他の人達にも気付かれる事なく行動出来るからね。じゃあ、出発しようか。」
こうして、二人は街中へと出掛けていった。