第9話 厩戸のあと
十五
春が深くなるころ、小墾田宮の庭には、遅れて咲く花があった。
咲いている、と気づくのは、近くへ寄った者だけである。遠目には、ただ白く薄いものが枝の間に浮いているようにしか見えぬ。だが、そこへ立てば、風のたびに花弁がわずかに触れ合い、かすかな音を立てていることが知れた。
その日の夕刻、鎌足は御食子に呼ばれ、宮の奥へ近い小さな板敷の間に控えていた。
間には、すでに嶋大臣がいた。その後ろに蝦夷がいた。父のそばにあって、すでに人の応対を受ける顔つきである。鎌足も、その名と顔とは知っていた。さらにその後ろに、入鹿がいた。
若かった。若いが、若者らしい落ち着かなさがない。目だけが妙に静かであった。人の顔を見るというより、その人の立つ位置を見ているような目であった。
鎌足は、その若者を一度だけ見て、すぐに目を伏せた。目を合わせてはならぬ気がしたのである。
御食子は、大臣と向かい合っていた。
二人のあいだに簡がある。香がある。そして、ことばになる前の沈黙があった。
大臣が先に言った。
今年もまた、決めぬまま春が過ぎるな
御食子はすぐには答えなかった。
決めぬで過ぎるのではありませぬ
やがて言った。
決めぬことで過ぎておるのです
大臣は、小さく息を吐いた。
同じことよ
同じではありませぬ
決めかねておるのと、決めぬと定めておるのとでは、朝の保ち方が違います
大臣は黙った。黙ったまま、少し庭の方を見た。咲き残った花が、風にわずかに揺れた。
上宮皇子が薨ってより、もう一年あまりか
さようにございます
あの人がおれば、こうはなるまい
御食子は目を伏せた。
ならぬでしょう
上宮皇子の名は、宮の中でしばしば口にされた。だが、たいていは今の不足を言うときであった。誰がいない、何が欠けた、と言うかわりに、あの人がおれば、とだけ言う者もいた。
大臣が言った。
なれる人であった
大王に、である
しかも、ただなれるのではない。勝ってなれた人であった
鎌足は少しだけ顔を上げた。
丁未の折のことよ
大臣の声は、そこで少し変わった。今を語る声ではない。すでに過ぎた血と土の上を、なお踏んでいる人の声であった。
世の者どもは、あとから崇仏だの廃仏だのと、ことばをきれいにする
だが、あれはそのようなものではない
御食子が静かに言った。
前の大王が崩じたのち、朝そのものが割れたのでございます
さよう
大臣はうなずいた。
物部大連は、半島のことでも急ぎすぎた。兵で押せば道は開く、押し広げれば倭の手はもっと先まで届く、そのように見ておった。されど、道とは兵だけで支えられるものではない
御食子が言った。
物部は、無理を急ぎました
半島にも、朝の内にも
大臣は続けた。
そこへ前の大王が崩じた。王が空けば、皆がその空きを見る。大連はそれを押し切れると思うた。こちらもまた、退けば朝ごと取られると思うた
御食子は低く答えた。
わたくしも蘇我の旗の下におりました
まだ若く、勝てば朝は定まると思うておりました
大臣は御食子を見た。
おったな
おりました
鎌足は、二人が同じ戦を見ていたことに、はじめて強い実感を持った。
大臣は言った。
そして、あの戦で本当の中心であったのは、上宮皇子だ
鎌足は息を止めた。
飾りではない。祈るだけの人でもない。若かったが、前におられた。軍の気を支え、勝ちを引き寄せたのは、あの人であった
蝦夷が低く言った。
あの皇子は、自ら前へ出ずとも、人を従わせることのできた御方でした
大臣は首を振った。
違う。あの折は、前へ出ておった
前へ出て、しかもそのまま王にならなんだ
そこが、あの人の怖ろしいところよ
鎌足は、そのことばを胸のうちで繰り返した。
前へ出て、しかも王にならない。
御食子は静かに言った。
ならぬことを選ばれたのでしょう
勝って、そのまま御座へ上がれば、誰も逆らえぬ時であったかもしれませぬ。されど、それをなされなかった
大臣は長く息を吐いた。
若いころのわしは、取れる者が取るのが朝と思うておった。勝った者が決める。前へ出た者が、そのまま前に立つ。それが自然と思うておった
だが、あの人は違うた
御食子はうなずいた。
あの人は知っておられたのです。戦で朝を定めれば、つぎもまた戦で定めることになると
刃が一度通れば、人はつぎも刃で片をつけようと致します
鎌足には、そのことばがまっすぐ胸へ刺さった。
大臣は庭を見たまま言った。
あの折、もし厩戸がそのまま王になっておれば、朝は狭くなったやもしれぬ
上宮皇子を厩戸と呼ぶのは、もう馬子だけである。
さようにございます
御食子が受けた。
前へ立つ王が強すぎれば、諸氏族も諸皇子も、その王とどう向き合うかを先に量ります。されど、女の御座のもとでは、政がまず御座へ集まる。争う手どもが、一歩退いて並ばねばならぬ。姫巫女の朝とは、そのような朝であったと、わが家には伝わっております
大臣は、御食子を見た。
またその話か。姫巫女の朝のことを申す
申します
御食子は少しも退かなかった。
上宮皇子は、そのように考えておられたはずです。自ら即けば、御座は高くなる。されど朝は狭くなる。女帝を戴けば、御座は柔らかく見えて、しかも広く持てる。
泊瀬部大王のことのあと、強く思われたので、女帝を奉じたのでしょう。
大臣は、わずかにうなずいた。
あの人は、前へ出ぬことで前におった
そのとおりにございます
されど、子は違うか
御食子はすぐには答えなかった。
違うやもしれませぬ
山背皇子か
さようにございます
大臣は、少し首を傾けた。
母はわが娘。血は近い。筋も悪くない。上宮家の嫡たること、誰も疑うまい
疑いませぬ
では、何が悪い
悪いとは申しますまい
御食子は言った。
ただ、立てれば、そのまま前へ出る王になりましょう
父君は、前へ出ぬことで朝を保たれた。されど子を立てれば、まわりが上宮を前へ押し出しましょう。押し出された王は、望もうと望むまいと、前に立つほかなくなる
蝦夷が、低く言った。
父君の朝と、子の朝とは、同じ名でも違うやもしれぬ、か
御食子はうなずいた。
父君の朝ではございませぬ
上宮皇子は、自ら王にならぬことで、御座を広く使われた。されど山背皇子を立てれば、その御座の広さは失われるやもしれませぬ
そのとき、入鹿が初めて口を開いた。
ならば、皇子がおられること自体が、皆の目をそちらへ向けるのではありますまいか
間の空気が、わずかに変わった。
大臣が入鹿を見た。蝦夷もまた、子を見た。
御食子はすぐには答えなかった。やがて、低く言った。
量るだけなら、まだよい
入鹿は黙っていた。
人は、量りつづけているうちに、やがて除こうともする
入鹿の目が、ほんのわずかに動いた。それが驚きであるのか、納得であるのか、鎌足には分からなかった。
大臣がふいに言った。
そなたは、皇子を怖れておるな
御食子は、少しだけ目を上げた。
怖れております
珍しいな。そなたが人を怖れるとは
人を、ではありませぬ
御食子は静かに答えた。
人の背に立つものを怖れるのです
上宮の名。上宮の血。上宮の朝への期待。それらが、あの皇子を前へ押し出しましょう。あの皇子ご自身が静かな人であっても、まわりが静かにしてはおりますまい
蝦夷は、そこで父ではなく御食子を見た。入鹿は御食子ではなく、何もない板敷の先を見ていた。
大臣は長く息を吐いた。
田村は
田村皇子は、別の意味で前へ出るでしょう
どちらも、前へ出るか
さようにございます
では、なお決めぬほかないな
御食子は答えなかった。だがその沈黙は、同意のようであった。
風が吹いた。咲き残った花の白いものが、二、三枚、板敷の外へ落ちた。
大臣はそれを見たまま言った。
大君も老いた
さようにございます
いつまでも、このままではあるまい
あるまい
だが今は、まだこのままにしておくしかない
そのとおりにございます
しばらくして、大臣が立った。
厩戸は、戦に勝ってなお、戦のあとを見ておった
わしは、そのことを老いてようやく知る
御食子は、そのことばを受けても、すぐには何も言わなかった。
やがて言った。
あの方は、前へ出ぬことで、なお朝の前におられました
大臣は振り向かなかった。
だからこそ、いま失われたのだ
それだけ言って、間を出た。
蝦夷がそのあとに続いた。立ち去る前に一度だけ、御食子へ静かに一礼した。その礼には、敬いもあったが、距離もあった。
入鹿は最後に立った。礼は浅くはない。だが、どこか早かった。長くこの場に心を残してゆく人の礼ではなかった。
鎌足は、その若者の横顔を見た。何を思っているかは分からぬ。だが、上宮の家を惜しむ人の顔には見えなかった。
人が去ったあとの空気は、いつも少し軽くなる。だがその日は、軽くはならなかった。重いものが一つ抜けたあとに、なお重さだけが残っているようであった。
御食子はしばらく動かなかった。
鎌足は頭を垂れたまま、待っていた。
そなたは、山背皇子を、どう見た
鎌足は答えに迷った。
静かな御方にございます
先日もそう言っておったな。それだけか
まわりの者が、先に道をあけます
御食子は、かすかにうなずいた。
それだ
王とは、前へ出る人だけではない。まわりが前へ押し出してしまう人もまた、王になる
そしてそのような王は、ときに自ら望むよりも強く、前へ出される
鎌足は、そのことばの意味を、まだ半ばしか分からなかった。だが、山背皇子をすぐには立てぬ理由が、血筋や年齢や理屈だけではないことは分かった。
人そのもの。
その背に立つもの。
その人を前へ出そうとする周りの手。
王を立てるとは、それらをまとめて立てることなのだ。
御食子は、ようやく鎌足の方を見た。
見ておけ
鎌足は叩頭した。
上宮皇子が、なぜ御座に即かなかったか。なぜ女帝のもとで朝を運ばれたか。そのことを忘れるな
鎌足は、深く頭を下げた。
外では、夕闇がゆっくりと庭を覆っていた。花はまだいくらか枝に残っていたが、明日になればまた一つ二つ落ちるのであろう。
大王は老い、
大臣もまた老い、
上宮皇子はなく、
山背大兄王は静かに立っている。
蝦夷は父の後ろで次を量り、
入鹿は、まだ名にならぬ寒さを目の奥に持っていた。
そのどれもが、今はまだ崩れていない朝の中にあった。
だが鎌足には、何も崩れていないのではなく、崩れぬように抱え持たれているのだということが、前より少しだけ分かるようになっていた。




