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第8話 親しまれる重さ

十四


 そのころ、山背皇子は、時おり小墾田宮を離れ、斑鳩の方へ近い御屋に戻ることがあった。


 長く留まるわけではない。朝の人であることに変わりはなく、呼ばれれば宮へ参じ、使いが来れば応じねばならぬ。だが、それでも、幾日かをあの地で過ごすとき、皇子の顔からは、宮の中にあるときとは別の静けさがあらわれた。


 御屋の南には、古い松があった。枝ぶりは低く、広く、庭へ影を落としている。春の終わりで、日はもう長かった。夕方に近い光が、その影を薄く引きのばしていた。


 皇子はその影の内に坐していた。


 僧を呼んでいたわけではない。巻をひらいていたわけでもない。ただ、庭の方を向いて坐しているだけであった。


 そこへ、嶋大臣が来た。


 供は少なかった。身分を誇る人のように多くを従えることを、この人は好まなかった。衣はよく整っていたが、ことさらに重々しくはない。年を重ねているが、老いたと見えない。顔にはやわらかさがあった。だが、それは政を知らぬ人のやわらかさではなかった。


 山背皇子は、その姿を見ると、少しだけ顔を明るくした。


 お早うございましたな


 嶋大臣は笑った。


 そなたが戻っておると聞いたゆえ、顔を見たくなった


 皇子は立たなかった。立たぬことが無礼にならぬ間柄であった。嶋大臣もまた、すぐ近くに坐した。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 それでよいのであろうと見える沈黙であった。


 庭の松に風が入り、枝の先だけがわずかに鳴った。


 嶋大臣が先に口を開いた。


 こちらへ戻ると、そなたの顔は少し違う


 違いますか


 違う


 嶋大臣は庭を見たまま言った。


 宮におるときは、人に見られておる顔をしておる。ここでは、まだ自分の顔をしておる


 皇子は少し笑った。


 それでは、宮におるわたくしは、偽りの顔にございますか


 偽りではあるまい


 嶋大臣は首を振った。


 ただ、人の目の中へ置かれた顔よ


 皇子は、そのことばを聞いて、しばらく黙っていた。


 やがて言った。


 目は、近ごろいよいよ多うございます


 そなたを見ぬ目の方が少なかろう


 ありがたいことではございませぬ


 ありがたがる者もあろうがな


 嶋大臣はそう言ってから、横目で皇子を見た。


 そなたは、昔からそうだ。人が寄れば、少し退く


 皇子は答えなかった。


 嶋大臣はさらに言った。


 父君には似ておる


 そのことばで、皇子の顔つきが少し変わった。


 父君もまた、前へ立てぬ人ではなかった。されど、自ら人を押しのけて前へ出ることを好まれなんだ


 皇子は低く言った。


 父は、よう知っておられました


 何を


 前へ立つことと、前へ立たされることとは、違うということを


 嶋大臣は、しばらく皇子を見ていた。


 よく見ておるな


 見てきたつもりにございます


 つもり、か


 嶋大臣は小さく笑った。


 そなたは、そのつもりということばを使うところも、父君に似ておる


 皇子はそこで初めて、はっきりと笑った。だが、その笑いも長くは続かなかった。


 嶋大臣は、ふと声を低くした。


 そなたは、このままでよいと思うておるか


 皇子は庭を見たまま答えた。


 このまま、とは


 決めぬままに、だ


 皇子はすぐには答えなかった。


 嶋大臣もまた、急がせはしなかった。


 ようやく皇子が言った。


 よいとは思いませぬ

 ならぬとも思います


 だが、いま決めれば、なお悪くなるとも思うております


 嶋大臣はうなずいた。


 そなたも、そこまでは見ておるか


 見ねばならぬ立場にございます


 その立場を、そなたは好いてはおらぬな


 皇子は少し伏し目になった。


 好くとか好かぬとか申す前に、そこへ置かれております


 それは、父君の子ゆえか


 さようにございます


 皇子はそこで少し間を置いた。


 そして、それだけでは済まぬようでございます


 嶋大臣は、その先を促さなかった。


 皇子は自ら続けた。


 父の名は、人を寄せます

 家の名も、人を寄せます

 人が寄れば、その人々は、こちらの心より先に、こちらの立つべきところを決めようと致します


 嶋大臣は低く言った。


 それを重いと思うか


 重うございます


 皇子は静かに答えた。


 だが、軽くしてはならぬとも思います


 その答えに、嶋大臣の目が少しだけやわらいだ。


 よい


 嶋大臣はそう言った。


 それを分かっておるなら、まだ大きくは踏み外すまい


 皇子は少し首を振った。


 分かっておるだけでは、朝は保てませぬ


 保てぬな

 だが、分からぬ者よりはよい


 嶋大臣は、そこでいったんことばを切った。


 やがて、少し別の調子で言った。


 そなたの母君も、近ごろは案じておられる


 皇子は顔を上げた。


 何を


 そなたの心が、政よりも寺の方へ深く入りすぎぬかと


 皇子は、しばらく黙っていた。


 そして、否みはしなかった。


 経をひらいておるときだけ、静まることがございます


 それは悪いことではあるまい


 悪くはございませぬ


 皇子は言った。


 だが、その静けさの方へ、いっそ身を置きたいと思うことはございます


 嶋大臣は、それを聞いても驚かなかった。


 父君もまた、似たことを思われたやもしれぬ


 皇子は松の影を見た。


 もし許されるなら、法のそばに深くいたいときがございます

 人を量るより、心を鎮める方へ

 争いを避け、ただ巻をひらいていたいときがございます


 嶋大臣は、そこで初めて、やや強く言った。


 されど、そなたはただの僧ではない


皇子は目を伏せた。


 分かっております


 分かっておるからこそ、苦しいのであろうな


 皇子は答えなかった。


 そのとき、庭の外より人の来る気配がした。


 近習が膝をつき、低く告げた。


 中臣の君が参られました。おそばに、あの鹿嶋より来た若き御子もおられます


 嶋大臣と皇子は、互いに一度だけ目を交わした。


 来られたか


 嶋大臣が言った。


 皇子はうなずいた。


 通せ


 しばらくして、御食子が入ってきた。その後ろに、鎌足が従っていた。


 鎌足は、山背皇子をこうして近くに見るのが初めてではなかったが、今日はこれまでと違って見えた。宮の廊で見るときの皇子は、静かで遠い。だがここにいる皇子は、それよりも少し人に近かった。


 嶋大臣がいるゆえであろうと、鎌足はすぐに思った。


 御食子は礼をした。山背皇子もまた礼を返した。


 かたじけない。おくつろぎのところを


 御食子が言うと、皇子は首を振った。


 くつろいでおるというほどではございませぬ


 嶋大臣が笑った。


 この人は、くつろいでおる時ほど、そうは申さぬ


 御食子の口元にも、ごくわずかな笑みが浮かんだ。


 それは、よいことにございます


 鎌足は、そのやり取りを見ていた。


 御食子は宮の中では、誰に対しても線を引いた物言いをする。だが今は、その線がいつもより柔らかい。皇子を軽んじていないどころか、深く敬っていることが、子どもの目にも分かった。


 嶋大臣が御食子へ言った。


 そなたも、少しはここで風に当たるがよい。小墾田の板敷ばかりでは、顔が硬くなる


 御食子は静かに答えた。


 硬くせねばならぬ時ゆえでございましょう


 それを、そなたは若いころから好みすぎる


 好んではおりませぬ


 御食子は言った。


 ただ、柔らかくしては保てぬものがございます


 皇子は、そのことばを聞いて、少し目を伏せた。その目伏せは、同意でもあり、疲れでもあるように見えた。


 嶋大臣は、その変化を見逃さなかったらしい。


 だからといって、みなを硬くしてはならぬ


 御食子は答えなかった。


 かわりに、皇子の方を見た。


 近ごろ、お変わりはございませぬか


 皇子は、少しだけ笑った。


 変わらぬように見えるのでございましょう


 見えるようにしておられます


 御食子はそう言った。


 皇子は黙った。


 その沈黙に、嶋大臣が割って入った。


 この人は、見えるようにもしておるし、見えぬようにもしておる

 難しい人だ


 鎌足は、そこで初めて、皇子がわずかに困ったような顔をするのを見た。


 やめてくだされ


 何を


 人を、よく見えすぎるように申されることを


 嶋大臣は声を立てずに笑った。


 それでは、あまり見えぬように申そうか。そなたは昔から、巻を持つ手の方が政に向く手より似合うておる


 皇子は、今度ははっきり困った顔になった。


 鎌足は、その顔を見て、思わず心が動いた。


 宮で遠くから見れば、ただ静かで隙のない皇子である。だが今ここにいる人は、ただ高いところにあるだけの人ではない。人に親しまれ、からかわれ、それでも崩れぬ人であった。


 御食子が、そこで初めて鎌足を見た。


 鎌足


 は


 こちらへ


 鎌足は進んだ。叩頭した。


 山背皇子は、その小さな少年をしばらく見ていた。


 この子が、鹿嶋よりの


 さようにございます


 御食子が答えた。


 皇子は、鎌足に向かって言った。


 鹿嶋は遠かろう


 遠うございました


 馬は疲れたか


 疲れました。されど、道が切れぬよう、人も馬も継がれておりました


 皇子の目が少し動いた。


 よい答えをする


 鎌足は頭を下げた。


 そのとき、嶋大臣がふと鎌足へ言った。


 そなたには、この人がどう見える


 あまりにも急な問いであった。


 鎌足は答えに詰まった。


 御食子は制さなかった。皇子も黙っていた。


 鎌足はようやく言った。


 静かな御方にございます


 それだけか


 嶋大臣が聞いた。


 鎌足は、さらにことばを探した。


 静かにございます。されど、ただ静かなのではなく、まわりの者が先に心を正すように思えます


 嶋大臣は笑みを消した。


 皇子もまた、少しだけ目を伏せた。


 御食子は何も言わなかった。


 だが鎌足には、その沈黙が重く感じられた。


 嶋大臣が、低く言った。


 それだ


 その一言で、この場にあるものが少し変わった。


 鎌足には、なぜそれほど重く響くのか、まだ分からなかった。だが、山背皇子がただ人に親しまれているだけではなく、親しまれるそのこと自体が、政の中では重みになるのだということを、子ども心にも感じた。


 御食子が静かに口を開いた。


 この御方は、立とうとして人の前に出るのではございませぬ

 されど、まわりが押し出してしまう


 嶋大臣は、皇子を見たまま言った。


 それを、この人ご自身がいちばん苦しんでおる


 皇子は、そこで初めて、少しだけ厳しい顔になった。


 苦しんでおる、とまで申しますまい


 嶋大臣は皇子の方を向いた。


 では、違うか


 皇子はすぐには答えなかった。


 庭に、風がひと筋通った。松の影がわずかに揺れた。


 やがて皇子が言った。


 望む望まぬで済むことであるなら、いかほどよいかと思います


 そのことばに、誰もすぐには続かなかった。


 嶋大臣の目から、笑いが消えていた。御食子は、なおいっそう静かになった。鎌足は、ただ頭を下げていた。


 皇子は続けた。


 退けばよいと申す者もありましょう

 立てばよいと申す者もありましょう


 されど、どちらも、わたくし一人の身のこととしては済みませぬ


 嶋大臣が、低く言った。


 父君の子ゆえか


 さようにございます


 御食子が、そのとき言った。


 ゆえにこそ、皆がこの御方を惜しみ、また怖れもするのでございます


 皇子は御食子を見た。


 怖れられておりますか


 人が怖れるのは、悪しきものばかりではございませぬ


 御食子は静かに答えた。


 よきもの、正しきもの、失えば大きく変わるものをも、人は怖れます


 嶋大臣が長く息を吐いた。


 それを、そなたは口に出して申すか


 申さねばならぬ折もございます


 御食子は言った。


 嶋大臣は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく言った。


 皆、同じものを見ておるのに、立てる手がない


 誰へ向かってとも知れぬことばであった。


 皇子は、そのことばを受けても、うなずかなかった。だが、ただの沈黙ではなかった。肯ずけば何かが動くと知って、あえて動かさぬ沈黙に見えた。


 ただ、庭の松を見た。


 松の影は、日がさらに傾いて、少しずつ長くなっていた。


 鎌足は、その場にいて、初めて知った。


 山背皇子を、誰も憎んではいない。

 むしろ、親しみ、惜しみ、敬っている。


 だがそれでも、あるいはそれだからこそ、軽々しく前へは出せない。


 朝とは、正しい者をそのまま立てれば済むものではないらしかった。


 嶋大臣が立ち上がった。


 今日は、長く居すぎたな


 皇子も立った。


 来てくださったこと、嬉しゅうございました


 わしもだ


 嶋大臣は、そこで一度だけ、皇子の肩へ手を置いた。


 その手つきには、政の人の手つきではなく、身内の情があった。


 鎌足は、その一瞬を忘れまいと思った。


 御食子もまた立ち上がった。


 お暇いたします


 皇子はうなずいた。


 御食子どの


 は


 朝を、頼みます


 御食子は、すぐには答えなかった。


 やがて深く礼をした。


 お言葉、重く受けます


 それは主従の答えではなく、同じ朝を別の位置で支える者としての答えに聞こえた。


 帰り道、鎌足は一度だけ振り返った。


 皇子は、まだ松の影の内に立っていた。誰も押していないように見える。だが、その人の立つところだけが、すでに人の目の集まる中心であった。


 鎌足は胸のうちで思った。


 この御方は、自ら前へ出ぬ。

 だが、立っているだけで、まわりがその人の前に道を作ってしまう。


 それは、強いということとも違う。

 ただ善いということとも違う。


 もっと重い何かであった。


 夕方の風が吹き、松の影をわずかに崩した。だが、影の中に立つ人の姿は、崩れなかった。



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