第7話 退きもせず
十三
春の雨が上がったあとの朝であった。
山背皇子の御屋の庭には、まだ湿りが残っていた。石のあいだに浅く水がたまり、薄い空をそのまま映している。風はなく、木の葉も動かなかった。動かぬものの中で、水面だけが、時おりどこからともなく細かく震えた。
皇子は、ひとりで経を読んでいた。
声には出さぬ。巻をひらき、目で追うだけである。だが、ただ読んでいるのではないことは、その手つきで分かった。急がない。飛ばさない。一字ごとに、心をそこへ置いてゆくような読み方であった。
父のいたころも、こんな朝があったことを、皇子は思い出していた。
あの人もまた、朝まだきの静かな時を好んだ。人のいない時刻に巻をひらき、香をたかせ、ことばの少ない顔で坐していた。子であった自分は、そのそばで、何がそこまで人を沈めるのかと思って見ていた。
いまなら、少し分かる。
人のことばの届かぬところへ、ようやく身を置けるからである。
皇子は巻を閉じた。
閉じても、すぐには立たなかった。
庭の湿りを見ていた。雨が去ったあと、草も石も、いったんは静まる。だが、その静けさは長く続かぬ。日が高くなれば、人が通り、声が立ち、土は乾き、何事もなかったように、また物事が動き出す。
いまの朝も、それに似ていると皇子は思った。
父が薨ってより一年あまり。
表向きには、何も起こっていない。
大王はなお御座にあり、
群臣は列し、
使いは行き来し、
誰も声高に次を口にしない。
だが、それは何もないのではない。
皆が、まだ崩さぬように支えているだけである。
皇子は、そのことを知っていた。知らぬふりはできぬ立場にあった。
上宮の家の子として生まれたときから、いずれ人がこちらを見ることは決まっていた。父が生きておられるあいだは、その視線はすべて父のところへ集まった。自分はその影のうちにいればよかった。
いまは違う。
誰も露骨には言わぬ。だが、言わぬまま、見る。
皇子が廊を渡れば、人は半歩退く。
ことばをかければ、相手は答えを慎む。
何も求めていないのに、何かを量る目だけが先に来る。
皇子は、それを重いと思った。
誇らしいとは思わなかった。
むしろ、父のいないところへ押し出されてゆくようであった。
父なら、どうされたであろう。
皇子は、何度そう思ったか知れなかった。
父は、勝つべき折には前へ出た。だが、勝ったのち、そのまま大王になろうとはしなかった。
子であったころには、その意味が分からなかった。なれるのに、なぜならぬのか。従う者が多く、立てようとする者もあるのに、なぜ一歩退くのか。
いまは、それも少し分かる。
前へ立つことと、前へ押し出されることとは違う。そして、一度刃で定まった朝は、つぎもまた刃を待つようになる。
父は、それを知っていたのだろう。
皇子は、自分の手を見た。
長く巻を持っていたせいで、指が少し冷えていた。
この手は、本来、政よりも巻を持つ方に向いているのではないかと、ふと思うことがある。
経をひらいているときだけ、心が静まる。
人の思惑から、少し離れられる。
朝まだきの冷えた板の上に坐し、香の細い煙を見ているときだけ、父の遺したものは、争いを鎮めるための知だけではなく、ことばにならぬ静けさでもあったのではないかと思える。
もし許されるなら、皇子はその静けさへ深く入りたかった。
寺に籠るということではない。
世を捨てるということでもない。
ただ、人を押しのけて前へ立つことなく、
父の遺した法を守り、
乱れた心を鎮める方へ、
身を置いていたかった。
だが、その願いは願いのままでは済まぬことも、皇子は知っていた。
自分が退けば、上宮の家も退く。
自分が退けば、それで朝が静まるのではない。かえって、人は別のところで量りはじめる。上宮の家を軽いものとして扱う者も出よう。父の残したものを、ただ昔のこととして片づける者も出よう。
それは望まなかった。
父の遺したものは、寺の柱や経巻だけではない。大王のもとで朝を広く保った、そのあり方そのものが遺されたものだと、皇子は思っていた。
そのあり方を、いま軽くしてはならぬ。
だから皇子は、自ら前へ出ようとはしない。だが、退ききることもしない。
そのようにして一年あまりが過ぎた。
そこへ、ひとりの近習が来て、廊の端で膝をついた。
皇子は顔を上げた。
言え
声は静かであった。
近習は、宮中よりの人の出入りを二つ三つ告げた。大臣家より使いがあったこと。中臣御食子が小墾田にて動いていること。田村皇子のもとへも、誰それが出入りしたこと。
皇子は、黙って聞いた。
どの名にも、顔色を変えなかった。
近習は言い終えてから、少し置いて、低く付け加えた。
上では、なお何も決めぬままにございます
皇子はすぐには答えなかった。
決めぬまま、か
はい
皇子は庭の水を見た。
決めぬ、というのは、怠ることではない。誰もが、いま決めれば割れると知っているから、決めぬのである。そのことは皇子にも分かっていた。
だが同時に、いつまでも決めずにいられるものでもないことも分かっていた。
大王は老いておられる。
御食子も嶋大臣も、それぞれに朝を支えている。だが、人が老いることは、支えが永遠ではないということである。
近習が、さらに低く言った。
君
何だ
人の目は、なおこちらにも集まっております
皇子は、ようやくその者を見た。
恐れとも、期待ともつかぬ顔であった。
皇子は、その顔に見覚えがあった。この一年、何度も見てきた顔である。何かを願っている。だが、その願いを自分の口では言いきれない者の顔であった。
皇子は言った。
集まる目は、集まらせておけ
近習は頭を下げた。
はい
されど、目の集まるところへ、こちらから歩み寄るな
近習は顔を上げなかった。
はい
皇子はしばらく沈黙したのち、さらに言った。
今は、御座がある
その御座の前で、誰かが急いで前へ出れば、朝はかえって狭くなる
近習は深く頭を下げた。
皇子は、そこでことばを切った。
本当は、もっと別のことも言いたかった。
前へ出ることが怖ろしいのではない。前へ出たとたん、自分の背に父の名が立ち、自分ひとりではないものになるのが怖ろしいのだ。
上宮の子として立てば、もはやただの一人ではいられぬ。
人は自分ではなく、そのうしろにあるものを見る。
それが、父の名であり、
家であり、
期待であり、
時には敵意にもなる。
だが、そこまでは言わなかった。
言えば、そのことば自体が、すでに何かを望んでいるように聞こえるからである。
皇子は立ち上がった。
廊へ出ると、雨上がりの空が少しだけ明るくなっていた。
御屋の者らが、その姿を見て、自然に立つ位置を変えた。誰も声をあげない。だが、皇子の通る道だけが、また先に空いてゆく。
皇子はその中を歩いた。
自分が望むと望まぬとにかかわらず、こうして道はできる。できてしまう。
皇子は、そのことを悲しいとも嬉しいとも思わなかった。
ただ、重かった。
父もまた、こういう重さの中を歩いておられたのかもしれぬと、そのとき初めて思った。
廊の端まで来たとき、遠くで寺の鐘が鳴った。
低く、長く、空気を押すような音であった。
皇子は足を止めた。
その音を聞いているあいだだけは、朝も、人の目も、名も、少し遠のいた。
だが、音はやがて尽きた。
尽きれば、また元の世が戻る。
皇子は静かに歩みを進めた。
いまはまだ、自ら前へは出ぬ。
されど、退きもしない。
父の遺したものを軽くせぬために。
今の大王の御座を狭くせぬために。
そして、いつか来るであろう時に、ただ人に押し出されるだけの者ではなくあるために。
皇子は、春の湿りの残る廊を、音もなく渡っていった。




