第5話 滞らせぬ手
十一
朝まだき、御屋の外の板敷には、まだ日が届いていなかった。
届いていないのに、人はすでに動いていた。
厩の方から馬の鼻息がし、庭の端では荷が解かれ、別の端では簡を持った男がふたり、何ごとか低く言い合っていた。声は立たぬ。だが、静かとも言えなかった。ものが滞らぬよう、人がそれぞれの場所で詰まりをほどいている、その気配があった。
鎌足は、まだ呼ばれてはいなかった。だが、板敷の脇に控えていた。御食子の御屋では、呼ばれる前にそこにいることもまた、一つの勤めのように思われはじめていた。
その朝、門のあたりで、少しだけ流れが滞った。
東国よりの荷が着いたのである。干し肉、乾かした魚、塩、それに革で包んだ細長いものがいくつかある。荷札はついていた。だが、その札に書かれた国の名と、持参した男の口にする名とが少し違っていた。
若い者が困っていた。
この札には久自とございます
男は言った。
口では久慈と申しております
持ってきた男は、日に灼け、ことばが少し東に寄っていた。違うことを言っているつもりはないらしかった。だが、札を見る者は、違いを違いのまま通すわけにはいかぬ顔をしていた。
その横では、半島より来た使いの供らしい者が、別の若い者に何か言っている。ことばが通じず、こちらもまた止まりかけていた。さらに厩では、夜のうちに入った馬の飼葉が、予定より半把少ないことが分かり、厩の者が奥へ知らせを上げるべきか迷っていた。
どれも小さいことに見えた。
だが小さいまま、三つとも同じ朝のうちに重なっていた。
そこへ川瀬が来た。
走って来たのではない。早くもない。遅くもない。ただ、最初からそこに来ることが決まっていた人のように、板敷の端から歩いてきた。
まず、荷の前に立った。
札を見た。持参の男の顔を見た。
久自でよい
若い者が顔を上げた。
よいのですか
よい。書いた手が違うだけだ。同じ荷だ。中身を改め、数を記せ
それだけで、その場はほどけた。
次に川瀬は、半島のことばで詰まっている方へ向いた。相手の言うことを二言三言聞き、短く答えた。だが、相手の男はすぐには安んじた顔をしなかった。鎌足には、そのことばの半ばほどが分かった。道のりのあいだに、一つ先の使いがすでに着いているはずなのに、名乗りが通っていない、そういう意味であった。
鎌足は少し迷ったのち、前へ出た。
おぬしらは百済よりか
男が顔を上げた。訛りは強かったが、ことばは通じた。男は早口で何か言い、懐から小さな札を出した。
川瀬が鎌足を見た。
何と言う
先に着いた使いの供だそうにございます。名を受ける者が違ったゆえ、ここで待てと申されていると
川瀬は札を受け取り、ひと目見た。
では待たせよ。ただし、門の内に置け。外へは返すな
若い者が頭を下げた。
厩の方では、なお飼葉のことで迷いが残っていた。
川瀬はそちらを見ただけで、厩の者が進み出た。
半把足りませぬ
どの馬だ
昨夜入った三頭にございます
では奥へ上げるな。東国の荷のうち、まだほどいていない乾草の束を先に回せ。帳にはあとでつけよ
帳に、でございますか
先に馬を飢えさせるな
厩の者は深く頭を下げ、すぐ走った。
川瀬はそのあとを見なかった。すでに別の方を見ていた。
鎌足は、その朝はじめて知った。
政というものは、御屋の奥で誰を立てるかを案じることだけではない。門のところで荷札の違いを通し、ことばの違いを通し、飼葉の足らぬことをその日のうちに埋めることでもあるのだと。
違いを違いのまま争わせず、
足りぬものを足りぬまま止めず、
人も馬も、行くべきところへ遅らせずに通してゆく。
それが崩れれば、御屋の奥のことばもまた、外で形にはならぬのかもしれなかった。
川瀬は、若い者に何か短く言い、別の簡を受け取って、そのまま庭の奥へ歩いていった。
その背を見ながら、鎌足は思った。
この人は、ただ命を運んでいるのではない。
命が途中で詰まらぬようにしているのだ。
そして、そういう手が、きっと一つや二つではないのだろう。
朝日がようやく板敷に届いたとき、さきほどまで少しずつ滞っていたものは、何ごともなかったように、またそれぞれの先へ流れていた。
御屋の内は、なお静かであった。
だが鎌足には、その静けさが、多くの手で辛うじて保たれているもののように思われた。




