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第4話 姫巫女の記憶


 河内へ入ってからの空は、鹿嶋の空とも、信濃の空とも違っていた。


 山に塞がれているわけではない。海が近いわけでもない。だが、どこか低かった。人の住む野と家と道が、長く積もって、その上に空が乗っているように見えた。


 鎌足は、まだ宗家の御屋に馴染めずにいた。呼ばれれば出る。言われれば座る。名を問われれば新しい名を答える。それで足りるあいだは、それで済ませた。


 御食子が鎌足を呼んだのは、河内へ入って幾日目かの夕刻であった。


 西日が長く差していた。板敷の端に、光が細く伸びている。御食子はその光の中に坐っていた。川瀬は少し後ろ、柱近くに控えていた。必要があればすぐ動けるように、そこにいる男の姿であった。


 鎌足は進み、坐し、頭を垂れた。


 顔を上げよ


 鎌足は顔を上げた。御食子の顔は逆光の中にあって、はっきりとは見えなかった。ただ、目だけは見えた。光の中にありながら、少しも和らいでいなかった。


 望月では、何を見た


 鎌足はすぐには答えなかった。


 馬を見ました


 それから


 兵を見ました


 それから


 鎌足は少し黙った。


 道が、ただの道ではないことを見ました


 御食子はうなずきもしなかった。ただ、低く言った。


 それでよい


 風が細く吹いた。板敷の向こうで、川瀬が音もなく体の向きを変えた気配がした。


 御食子は、板札を指でなぞりながら言った。


 今の朝を知ろうとするなら、今あるものだけを見ていては足りぬ


 鎌足は黙っていた。


 纏向まきむくを見よ


 鎌足は顔を上げた。


 箸墓はしはかも見よ


 なぜ、その二つを


 あれを見ずして、今の朝のことは分からぬ。姫巫女(ひめみこ)(おぼ)えだ。


 御食子はそこで少し目を細めた。


 姫巫女とは、誰でございます


 御食子はすぐには答えなかった。やがて、鎌足を見ぬまま言った。


 臣は、王に従った者どもだ


 鎌足は顔を上げた。


 葛城も、蘇我も、その類である。土地を持ち、人を持ち、その力を保ったまま王のもとへ来た。臣とは、そのような者どもだ


 では、連は


 連は違う


 御食子の声は低かった。


 連とは、王に連なった者どもだ。あとから従ったのではない。王のそばにあり、王の務めを分け持ち、王のまわりにあって国の形を立てた者どもだ。大伴、物部、そして中臣、その類である


 鎌足は黙った。


 わが家には、そのように伝わっておる。姫巫女の朝に仕え、つぎの姫巫女の朝にも仕え、そのあいだに纏向の地で、人を集め、道を通し、祀りを立て、王の居るところを定めた者どもがいた、と


 纏向を作った人々、でございますか


 作った、というより、あの地に朝の形を立てたのだ


 御食子は、今度ははっきり鎌足を見た。


 あれは、あとから見れば野である。されど、そのころには野ではなかった。人が集まり、人が集められ、道がそこへ向かうように引かれた地だ


 御食子は少し間を置いた。


 纏向という名も、ただの名ではない。牧を向く地ということだ、御間城大王みまきのおおきみがそう名付けたと、古くは言う者もある。


 牧を


 さよう。王が馬を持ち、兵を持ち、国を押さえるようになったのち、古い朝は後ろへ退いた。後ろへ退いたものを、後の世が見返して、呼び直す。そのような名であるのやもしれぬ

 御間城大王は、纏向の南に牧を作り、磯城しきに御屋を建てられた。そして姫巫女の御屋の地を纏向と名付けたと伝わる。


 では、箸墓は


 あれは墓である。だが、ただ葬るための墓ではない


 御食子の声が、少しだけ硬くなった。


 道ゆく者に見せるための墓だ。朝のはじめを忘れぬための墓だ。大きく築き、隠さず、道の傍らに置く。そうして、行き過ぎる者どもに見せつづける。姫巫女の朝は、祀りの朝であったと


 御食子の目は、もう鎌足ではなく、どこか遠くを見ていた。


 ここに一つの朝があったと、土そのもので言い張るための墓だ


 鎌足は黙っていた。だが今度は、ただ黙っているだけではなかった。頭の中では、望月の牧の馬、鹿嶋の庭の馬、まだ見ぬ纏向の野とが、どこかで一本の線に触れかけていた。


 姫巫女の朝は、(あかがね)の朝であったと古くは言う


 銅の


 祭器も、威のしるしも、まずは銅で足りた。されど、国を広げ、ひなを押さえ、道を延ばそうとすれば、それでは足りぬ


 どこが足りぬのでございます


 刃が足りぬ。鋤が足りぬ。地を押さえる力が足りぬ


 御食子は低く続けた。


 臣の家々が王に従ったのも、ただ頭を垂れたかったからではない。王の手にあるものを欲したからだ


 王の手にあるもの


 銅。のちには鉄。馬。農具。武具。海の向こうより来る物と、その物を運ぶ道だ


 鎌足は息をひそめた。


 半ばは物よ。半ばは、その物を配る手だ


 御食子はそう言って、板敷の上へ目を落とした。


 姫巫女の朝は、その道を知っておった。つぎの姫巫女の朝もまた、そうであった。されど御間城入彦の朝になると、それはさらに大きく変わる


 馬と鉄でございますか


 さよう


 鉄の刃は銅とは違う。より強き武具にもなり、より強き農具にもなる。地を開き、人を耕し、兵を立てる。馬と鉄とがそろうて、王は初めて国を強く握れる


 鉄は、この国だけでは足りませぬか


 足りぬ


 御食子は言い切った。


 少なくとも、そのころは足りぬ。銅は山より出ることもある。されど、鉄は海の向こうに頼らねばならぬ。ゆえに王は、半島へ渡る道、そこから来る物の道を押さえねばならなかった


 望月で、おぬしは馬を見た。されど、王は馬だけで立つのではない。その馬を飢えさせぬ道、その刃を鈍らせぬ鉄、その鉄を各地へ配る仕組み、それらを握って、初めて王となる


 そのとき、川瀬が板敷の後ろから初めて声を出した。


 道が切れれば、馬もただの獣に戻ります


 鎌足は少し驚いて振り向いた。川瀬はいつもの顔で、ただそこにいた。


 御食子は川瀬を見ずに言った。


 そのとおりだ


 鹿嶋も、その道につながるのでございますか


 つながる


 御食子は低く言った。


 鹿嶋は、あづまのかなめであるだけではない。王の手に入った鉄と馬とを、東へ配る端でもあった。ゆえに、あの地は重い


 鎌足は、そのことばを胸のうちで繰り返した。


 姫巫女の記憶とは、その前の朝を忘れぬことだ


 御食子は静かに言った。


 纏向へ行け。箸墓を見よ。土を見よ。道を見よ。あそこには、臣の世が深く入りこむ前の朝が、まだ埋まっておる


 鎌足は叩頭した。だが頭を下げながらも、胸のうちでは幾つものことばが鳴っていた。


 臣。

 連。

 姫巫女。

 王が馬を持つ前の朝。

 馬と鉄の朝。


 それらはまだ、ひとつのことにはなっていなかった。



   十


 纏向へ向かう道は、河内から見る道とは違っていた。


 人が通っている。だが、人のためだけにある道には見えなかった。どこかもっと古く、もっと大きなものが、先にそこを通ったようであった。道は村と村を結ぶより先に、何か一つの中心へ向かって引かれているように見えた。


 鎌足は馬を進めた。供は多くなかった。川瀬もいない。御食子がつけたのは、道案内と、口の堅い若い者が二人だけであった。


 纏向の野は、広かった。広いというより、ひらけていた。山裾から山裾へ、人が集まり、道が通り、何かが中央へ吸い寄せられていた痕が、まだ地に残っているように見えた。


 鎌足は立ち止まった。


 牧を向く地。


 御食子のことばが、胸のうちで鳴った。


 いま目の前にあるのは、ただの野である。だが、ただの野で終わった地ではない。ここには、後から見れば消えてしまうものが、長く残っているように思えた。人がここへ集められ、人がここから出てゆき、王の居るべきところが定められた、その気配である。


 御食子は、土を見よと言った。


 鎌足は馬を下り、しばらく地を見た。固く締まったところがある。ゆるく崩れたところがある。水の寄る低みがある。高みに立てば、遠くまで見えた。


 王の居るところを定めるとは、こういうことかと、鎌足は思った。


 さらに進むと、箸墓が見えた。


 大きかった。近づく前から見える。道の曲がりでも、木の間でも、なおそのかたちが目に入る。隠れているのではない。見せているのである。


 鎌足は、しばらく黙ってそれを見た。


 墓である。だが、ただ死者を覆うための墓ではない。


 道を行く者に、見よ、と言っている。


 ここに一つの朝があった。忘れるな。そう土が言っているようであった。


 風が墓の裾の草を伏せた。土は乾ききっておらず、薄く光を含んでいた。見上げるほど大きいくせに、ただ高いだけではない。そこに置かれている場所そのものが、道を通る者の目へ入るように選ばれているようであった。


 馬上にあるとき、鎌足は望月の牧を思い出した。あそこには王の馬がいた。人の意に従うよう調えられた馬であった。王の手足であり、兵の力であり、道を延ばすためのものであった。


 だが、王を王たらしめるのは馬だけではないと、鎌足は思った。御食子は鉄のことを言った。海の向こうから来る鉄、刃となり鋤となる鉄、その道を握ることが王の力になるのだと。


 箸墓は動かない。


 動かぬまま、道を行く者を見ている。


 鎌足はそこで初めて、御食子のことばの半ばほどを理解した。


 王が馬を持つ前の朝。


 それは、兵が少ないということではない。道が短いということでもない。王がいないということでもない。


 何を前へ立て、何をその背に置くかが、違っていたのであろう。


 姫巫女の朝が銅の朝であったのなら、御間城大王よりのちは、馬と鉄の朝であったのかもしれぬ。


 風が墓のまわりを渡った。草が鳴った。供の者たちは遠くに控え、誰もことばを発しなかった。


 鎌足は、箸墓を見上げた。


 姫巫女が誰であったのか、まだ分からぬ。つぎの姫巫女が誰であったのかも知らぬ。御間城大王が何を変えたのか、そのすべてもまだ見えてはいない。


 だが、一つだけ分かることがあった。


 今の朝は、前の朝の上に立っている。


 前の朝を忘れれば、今の朝もまた、どこかで形を失う。


 鎌足は長く息を吐いた。


 道は、墓の脇を通ってなお先へ延びていた。


 箸墓はその道を見ていた。過ぎゆく者を見ていた。これから来る者をも、すでに見ているようであった。

 

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