第3話 御座のまもり
七
河内へ入ったとき、鎌足は、空の低さより先に、人の多さを知った。
鹿嶋にも人はいる。市もある。渡来人も多い。だが、ここにいる人々は、ただ集まっているのではなかった。行き来し、待ち、名を告げ、簡を渡し、ことばを残して去ってゆく。誰もが何かの途中にあるようであった。
枚岡の御屋は、思ったより静かであった。静かであるのに、絶えず動いていた。庭を横切る者がいる。板敷の端でひざまずく者がいる。使いの馬が入り、また出る。声は高くない。だが、止まらない。
鎌足は川瀬に伴われて、その御屋へ上がった。
本宗家の君である御食子は、すでに人に囲まれていた。
鹿嶋の祖父のように、大きく坐して動かぬというふうではない。坐ってはいる。だが、その前へ来る者が次々と入れ替わる。御食子は、そのたびに簡を見、短く問い、短く答える。それで足りることは、それで済ませていた。
川瀬が進み出た。
鹿嶋より、鎌足さまをお連れ申しました。あわせて、鹿嶋より馬二十、望月より馬三十余、兵百四十、矢束、干し肉、革盾、受け渡しの札、滞りなく
御食子は川瀬を見た。うなずきもしなかった。
ご苦労
それだけであった。
ついで、鎌足を見た。
近う寄れ
鎌足は進んだ。叩頭した。
顔を上げよ
鎌足は顔を上げた。
御食子の顔は、思ったより老いて見えなかった。だが若くもない。目だけが妙に澄んでいた。人を見るというより、その者のうしろにあるものまで見ようとする目であった。
名は
鎌足にございます
御食子の目が、わずかに細くなった。
よい
それだけであった。
それだけであるのに、鎌足には、新しい名がここで初めて受け取られたように思えた。
川瀬
はい
馬と兵は、まず大王の御座の守りへ回せ。数は二手に分けよ。表のものは表へ、見せぬものは見せぬところへ置け。嶋大臣へも使いを回せ。ご心配されておる
かしこまりました
鎌足は思わず顔を上げた。
宗家のためではないのか。そう思ったが、口には出さなかった。
御食子は、もう別の簡を見ていた。だが、鎌足の胸のうちの動きを見たかのように、次のように言った。
望月で受けたものも合わせ、すべて御座の守りへ入れる。今はそれが先だ
上宮皇子が薨られて日が浅い。朝は静まって見えても、人の心までは静まらぬ
御食子は簡を置いた。
守るべきは、まず御座よ
鎌足は黙った。
自分が連れてきた馬も兵も、宗家のために積み上げられるのではない。まずは御座の守りへ入る。その意味は、鎌足にもわからないではない。
川瀬はそれ以上何も言わず、静かに下がった。だが鎌足は見た。下がる前に、川瀬の目が一度だけ庭の方へ向いた。そこには、どこへ回し、どこへ隠し、どこへ見せるか、まだ定まらねばならぬ馬と人と荷があった。
この人は、御食子がことばで裁くものを、外で形にするのだ。おそらく川瀬のようなものは一人ではないのだろう。
鎌足はそのことを、まだはっきりとは言えぬまま知った。
八
その夜、御屋の空気は昼よりさらに低くなった。
火は落としてある。人の足音だけがする。簡を持つ者、ことばを運ぶ者、ただ待つ者。鎌足は奥へ入れられなかったが、板敷の端に控えていた。呼ばれれば出るためである。
やがて、ひとりの使者が来た。供の者の気配だけで、軽い使いではないと知れた。
大臣家より
そう告げる声が、鎌足の耳にも入った。
しばらくして、御食子の声がした。低く、遠くへ届く声であった。
今は定めぬ方がよい
別の声は聞こえなかった。あるいは、わざと鎌足に届かぬようにしていたのかもしれない。
御食子の声だけが、また聞こえた。
御座を安んずることが先にございます
少し間があった。
喪はいまだ浅く、人心もまた定まらぬうちにございます
さらに沈黙があった。
いま山背皇子を推せば、田村皇子が黙ってはおりますまい
また間があった。
田村皇子へ傾ければ、ほかの皇子どももまた、みずからを量りはじめましょう
鎌足は息をひそめた。
日嗣。
そのことばは重かった。上宮皇子の死で空いたものを、誰で埋めるか。いや、埋めるのか、いまはまだ埋めぬのか。そのことが、この夜、御屋の奥で話されている。
御食子の声はさらに低くなった。
次を立てると申すことは、次を争わせるということでもございます
鎌足には、それがひどく怖ろしいことばに聞こえた。
やがて、もう一つ、切れ切れに届いた。
泊瀬部大王の折のようなことは、二度とあってはなりませぬ
鎌足は顔を上げた。
泊瀬部大王。
その名は知っていた。だが、その夜の御屋では、その名がただの昔話として響いてはいなかった。
御食子の声は続いた。
人は、ひとたび刃が通ると知れば、つぎも刃で片をつけようと致します
大王のまわりを厚くするのは、そのためにございます
別の声は、なお低く、鎌足にはほとんど聞こえなかった。ただ一語だけ、耳に残った。
東漢駒
その一語は、強く鎌足の胸に響いた。
やがて使者は去った。
しばらくして、御食子が鎌足を呼んだ。
聞こえたか
鎌足は叩頭した。
少し
それでよい
御食子は言った。
日嗣は、空いたからといって、すぐ立てればよいものではない。
鎌足は顔を上げなかった。
今は、御座を静める。そのために馬が要る。兵が要る。道が要る
大臣も、それを望まれるのでございますか
鎌足はそう問うた。
望む望まぬではない
御食子は言った。
いま崩せば、みな損なう
少し置いて、さらに続けた。
大臣も分かっておられる。ここで日嗣を定めれば、山背皇子も田村皇子も、ほかの皇子たちも、それぞれの背後で人が動く。ひとたび動けば、御座そのものが危うい
では、何もしないのでございますか
何もしないのではない
御食子の声は硬かった。
何も決めぬことで、朝を保つのだ
鎌足は黙った。
御食子は言った。
上宮皇子が薨られた今、もっとも危ういのは、次の日嗣を欠くことではない。みなが、次の日嗣を欲しがることだ
鎌足は、そのことばを深く覚えた。
欲しがる。
王位は空けば埋めるものだと、子ども心には思っていた。だがこの夜、御食子は、空いたままにしておくこともまた政であると告げていた。
鎌足よ。嶋大臣が、年端も行かぬ子が、鹿嶋より遠路大儀とのことだそうだ。
大臣は自分のことを知っている、そう知らされると、少しの戸惑いを覚えた。
板敷の外では、夜半になっても、川瀬の配下らしい足音が絶えなかった。兵をどこへ置くか、馬をどこへ回すか、見せる数と見せぬ数をどう分けるか。御屋の内で交わされることばとは別に、外でもまた政が動いていることを、鎌足は耳で知った。




